―― X ――

 黒い鉤爪が襲いかかろうとしたその瞬間、真は声を聞いた。


『俺は……踊るしかない』


 黒龍の動きに呼応して振るう黒い刃を、一瞬止めそうになった。

 文字で創られた刃と文字で創られた鉤爪が激しく接すると同時に、真の体は後方に吹き飛ばされ、廊下の壁に激しく背中を打ちつけた。

 足の踏ん張りが効かなくなった。足元に文字を回すことをすっかり忘れていたのだ。

 痛みで手に力が入らなくなり、黒い文字でできた刃を床に落としてしまう。

 黒龍が二撃目を与えようと、彼の方にゆっくりと近づいてくる。

 背中に凄い衝撃を受けたのはこれで二回目だが、すぐに立ち上がれるほど彼の体は丈夫ではない。

 振り下ろされる黒龍の鉤爪が真の体を貫こうとしたその時、誰かの怒鳴り声が校舎五階の廊下全体に鳴り響いた。

「ここで何してるんだ、お前ら!!」

 その声が聞こえてきたのは黒龍の向こう側で、真には誰が来たのか見えなかったが、そんな怒鳴り声を上げるのは教師しかいない。教師の怒号に、古井は我に返ったのか、真の目の前にいた黒龍はバラバラの文字になって姿を消した。

「おい、山下! お前大丈夫か!?」

 窓ガラスが割れた音で、この場に駆けつけた教師が、真の元によって来る。

 学園祭の準備の時に、よく話した教師だった。

 心配するような尋ねかけに首を縦に振りながら、教師の手は借りずに自力で立ち上がる。

「大丈夫……です」

「……何があったんだ?」

 状況の説明を求められるが、本当の事を言う訳にはいかない。

「急に……勝手に……窓が割れて、驚きすぎて壁に激突しちゃいました」

「勝手に窓が割れた……?」

 疑いの眼差しを真に向ける教師は後ろを向いて、古井の方にも視線を送る。

 すると、古井も首を縦に振って真の説明を肯定した。

 それから警察が来る大きな事態となり、学校は臨時休校。この件に関係のない生徒たちは帰路につき、真と古井は当事者として警察にくどく話を聞かれる事となった。

 二人は勝手に窓が割れたという同じ証言しかせず、それは古井にとっては本当の事だった。

 不審な点を挙げるとすれば、五階に何の目的もなく二人がいたことと、大量の本のページが破られた状態で廊下に散らばって、存在していたこと。真っ白だったはずの破られたページは、文字が印刷された状態に戻っていた。

 破られた大量の紙と今回の窓の割れたことの関連性を疑う警察だった。

 真が、自分が破いて捨てたことを認め、疑いの目は真に向けられることとなる。

 校内に捨てた鞄の中身と持ち物を徹底的に調べ上げられるが、何も出てこない。

 関連性はないと判断され、別々に捜査が進んでいた。

 爆発による衝撃で窓ガラスが割れたとも考えられる為、校内を隈なく探したが、爆発物は出てこなかった。

「本当に窓が勝手に割れる事なんてあるんでしょうか?」

 破られたページをじっと見つめる人物が、警部に尋ねかける。

「さあな。爆発じゃないとすれば、共振とかの現象であれば、勝手に割れたように見えたりもするだろう。けが人も、少年一人が指を怪我したくらいだから、そこまで深く考える事件ではないな」

 警部は自らの主観で語ったことなので、警部補にとってはどうでもいいものだった。

「そうですか……この破られた本との関係もない、と」

「そういうことだ。帰って、次の捜査の資料まとめるぞ、藤内とうち警部補」

 警部のその言葉に従って、藤内と呼ばれた男は、校舎五階を後にする。

 藤内警部補の頭の中に残る、一枚だけ血の付いた本のページ。

 それは指を怪我した少年の血が付着したもの。

 白と黒の一面に残された赤が、彼の頭の中から離れずに、付着していた。


 ◇


 勝手に窓が割れたと言う事が認められ、窓ガラスを弁償せずに済んだ二人だったが、代わりに警察が帰った後の窓ガラスの破片の掃除をさせられていた。

 警察から色々と事情を聞かれて、質問される度に頭を働かせていたので、疲れていた。

 普通は教師が後片付けをしてくれそうなものだが、色々と理由をつけられて二人だけでやる破目になった。

 教師以外の生徒は、休校となった為に、その二人以外全員帰宅しており、静まり返った校舎の五階で淡々と箒で窓ガラスをかき集める。

 大体、窓ガラスを一箇所に集め終わると、ガラスのない窓から夕日で染まる橙色の空を眺めながら手を止めて、考えに耽り始めてしまった。

 今日起きた、教科書から浮き出たであろう文字と、それによって構成された黒龍。

 それは、彼の頭の中を満たすのに十分な、奇怪な出来事だった。

 自分で書いてない文字を前兆として露にする。

 それは真と同じ能力のようで違う。何故なら、古井の場合は教科書に自分の血など付けていないからだ。

 ならば、あれは前兆ではなかったのか。エレベーターの向こう側の世界へは行けない、ということか。

 もう少し深く考えようとしたところで、彼の頭は何か硬い物で軽く叩かれる。後ろを向くと古井の姿があり、自らの箒で叩いてきたようだった。

「なーに、サボってる……? オレっち早く帰りたいんだけど……」

 眉をひそめている友人は、午前中とは打って変わって、いつも通りの古井新に戻っていた。

 そんな彼に、真もいつものように接するよう心掛ける。

 「ごめんごめん」と言って、集めた窓ガラスを塵取りで集め、バケツの中に放り込んでいく。

 廊下の隅に溜まったガラスを掃除していると、今度は古井の方が手を止めて、その顔を俯けていた。

「早く帰りたいんじゃないの?」

「……今日のことは忘れて。オレっちもちょっとストレス溜まってたんだ」

 ぼそりと消え入りそうな声で呟く古井は、その姿さえも消えてしまいそうな感じに、真の目には映った。

 いつも通りの古井に戻っているように見えたが、違った。

 このままでは本当に消えてしまうんじゃないかと思うと、頷かずにはいられない。

「分かった……」

 頷いた数分後に先生が姿を現し、二人は無事に学校から出た。いつもならば、駅まで一緒に帰ったりもする二人だったが、自然と校門で別れてそれぞれの帰路に着いた。

 警察に隅々までとことん調べ上げられた鞄を肩にかけて、いつものように歩くが、その足取りは重い。

 あれだけの前兆ならば、エレベーターの向こう側も強力なものに違いない。だからと言って、逃げるわけにはいかない。だが、今までのと異なる点が多々あるので、前兆ではない可能性もある。

 重い足取りで喫茶店も通り過ぎて、駅へと近づいたその時、一人の男に名前を呼ばれた。

「山下真くん」

 後ろから聞こえたその声に振り返ると、黒いスーツに青のネクタイ、サングラスを掛けた、金髪の男が立っていた。

 鼻が高く、外国人のようだが、ぎこちない日本語ではない。

 男が異様な空気を放っていたのは、残暑が続いている気候の中、そんな恰好をしているからであった。

 ビジネスマンであれば、違和感はないが、男はそれというより、ヤクザや暴力団の団員と言われた方がしっくりくる。

 何よりも異様なのは、男を知らないのに、自分の名前を知っているということ。

 制服に名札は付いていない為、名前を割り出すような情報は身に付けていない。

「……誰ですか? なんで俺の名前知ってるんですか……?」

 そのような風貌をした知らない人物に、声を掛けられれば、誰だって警戒する。

 男もそれを分かっているようで、サングラスを外して、胸ポケットに入れながら、真に対して一礼する。

「これは失礼した。私は、君のお母さんと知り合いだった。だから、君の名前も、顔も知っていたんだ。そんなに警戒しなくてもいい。とは言っても初対面だし、そう言う訳にもいかないかな?」

 母親の知り合いだったという男は、にこりと微笑んでみせる。

「私の事は、如月きさらぎとでも呼んでくれ。本名ではないが、日本語で気に入っている言葉の一つだ」

 今は二月とは程遠い気候に加えて、外国人にしか見えない男を日本語で呼ぶのも、なんだかしっくりこない。

「それで……どうかしたんですか、如月さん?」

「そうだね。君とは少し突っ込んだ、濃い内容を話したいと思っているんだ。驚かずに聞いて欲しいんだが、私は――――君の有する能力を知っている」

 驚かずに聞いて欲しいと言われたが、驚かずにはいられなかった。

「どういう……」

 その先の言葉が出ないほど、動揺してしまっている自分がいる。

 男の言う能力というのは、普通の人が持っている、速く走れることや絵を描くのが上手いことなどを指しているのか、それとも――――。

「君の“文字”についての能力を知っている、と言ったんだ。分かるだろう? 君なら」

 文字についての能力などと言われても、普通の人ならば、意味が分からないだろうが、真には分かる。

「言葉も出ないくらい驚いてるようだね。まあ無理もない。その能力を使える人は、今では貴重になってしまった。立ち話もなんだから、場所を移さないかい?」

 返答に困った。

 自分の能力を知る人物に初めて出会ったからだ。

 それに、この後にはエレベーターの向こう側での戦闘が待ち構えている。

「すみません。早く帰りたいんです」

 首を横に振る真に「無理もない」と言った如月。

「電車で帰るのかい? だったら、タクシーで君の家まで送ろう。その車内で話せば問題ないかな?」

 そこまでしてくれるというだから、断るわけにもいかず、如月が止めたタクシーの後部座席に乗り込む。その隣に如月が座った。

 真が目的地を言うと、すぐにタクシーは進み始め、如月の話が始まった。

「君のような能力を私たちは“文字化け”と呼んでいる。その文字化けの能力者を君以外にも、私は何人か知っているんだけど……」

「……俺以外にも?」

 自分だけだと思っていた。

「まあ、珍しい能力だからね。そう思い込んでいても無理はない。私の知っている『何人か』と言うのも、片手の指の数にも満たないよ。それよりも、知っている文字化けの能力者と、君とでは決定的に違う事がある」

 男の言う、決定的に違う事が気になったが、男は話を脱線させた。

「文字は何の為に創られたのか。君はどう思う?」

 文字は人と人とが会話する為のもの。意思を伝える為のもの。言葉を伝えるもの。

 挙げていけばキリがない。

 しかし、如月の口からは思いもしなかった言葉が飛び出した。

「文字は人を傷つける為の武器だ。言葉は、言の刃。私たちは言葉で人の心を傷つける。そして、君たち、文字化けの能力者は文字で、人の体でさえ傷つけることができる。その両方を文字化けの能力で、行なえる人物がいるとすれば?」

 人の心も体も、文字化けの能力で傷つけられる人物。

 頭の中に浮かぶのは、エレベーターの向こう側の世界で戦う自分の姿。

 真が他の能力者と違う所。

 それが普通だと思っていたのに、急に違うと言われても、すぐには受け入れられない。

「是非とも欲しい能力だ。それがあれば――――」

 悪い人には見えなかった如月だったが、先の「文字は武器だ」という発言を聞いた途端に、如月の纏っている雰囲気が重くなる。

「――――世界を壊せる」

 その言葉で、真は理解した。

 如月は、自分の能力を欲し、それを使って、世界を壊そうとしているということに。

 この男とタクシーに乗るべきではなかった。

「止めてください!」

「おっと。そういうわけにもいかない。私はきっちりと君を送り届けるつもりなんだ。人の好意はちゃんと受け取るべきではないかい?」

 タクシーは止まらない。真の言葉は聞こえたはずだが、反応しない。

 これは普通のタクシーではなく、如月の息の掛かった、専用の乗り物だった。

「好意……これが……?」

「ああ。私には君を利用しようなんて気は全くない。君が、自ら望むようになるんだ。世界を壊したい、と。どうだい? 思った事はないかい? 全部壊れてしまえばいい、と」

 思い当たる節がないわけではなかったが、世界を壊したいなどと、思った事はない。

 それから、タクシーを降りるまで如月とは何も会話をしなかった。

「ここら辺が君の家か」

 まじまじと周りを見回す如月は、真がタクシーを降りると、一言。

「古井君によろしく」

 そう言って、タクシーに乗った。

 マンションに向かう真には目も止めずに走り去るタクシー。

「どうですかね?」

 タクシーの運転手が、如月に問いかける。

「まあ、いいんじゃないかな。闇はあるよ。それをもっと濃くしていけばいい。“母親”のような失敗はしないさ」


 ◇


 如月の最後の言った言葉はどういう意図があったのか。

 これから、古井の心に入ることを知っているような物言いだった。

 そして、如月は多分、古井と接触もしている。

 何を話したかは分からないが、古井は如月に何かを吹き込まれたに違いない。

 真は深呼吸をしながら、マンションのエントランスの自動ドアを鍵で開け、ロビーに入る。

 今までにないような前兆。

 それは今まで以上に彼の不安を掻き立て、今まで以上にエレベーターを使わずに階段を上りたくさせる。

 知り合いが一人もいないクラスの中心に立たされ、一斉に視線を向けられているような緊張感に襲われる。

 それがどこから来るものなのかは分からないが、自分の中から湧き出ているのだけは確かだった。

 郵便受けを見るのも忘れて、エレベーターの扉の前に立った。

 上矢印の扉の横に設置されたボタンを押す気にはなれない。

 唾を呑みこんで、そのボタンを押そうとした瞬間、五階を表示していたデジタル版の数字が動き出した。

 それと呼応して、エレベーターが段々と下りてくる音がする。

 誰かが五階から下りてきたのだろうと思って、扉の前から一歩下がって、一階までたどり着くのを待つ。

 デジタル表示が二から一という数字に変わる。

 エレベーターの扉が開く。誰かが出てくるだろうと思っていたが、そこに人は存在しなかった。

 背筋に悪寒が走り、目を見開く。

 エレベーターが独りでに動き出したのは、彼を中へといざなっているかのように思えた。

 もう一度、ごくりと唾を呑みこみ、汗の滲む右手を握り締める。

 そして、直方体の箱の中に入った瞬間に、唯一の逃げ道のドアは無残にも閉められる。

 数字を刻んでいくデジタル表示。

 その数字は大きくなる一方で止まる事を知らない。

 マンションの最上階である七階を越えて、その数字はすぐに二桁に到達した。

「……嘘……だろ……?」

 真がそう声を上げたのも無理はない。

 二桁に突入した数字は二十にまで迫り、二十から五つ数字が上がったところで静止した。

 二十五。

 真は見た事のない数字を目の前にして、先ほどの如月との出来事などすっかり忘れていた。

 鞄から取り出すのは五冊の文庫本。しかし、それだけでは不十分だと感じた真はもう二冊携えて、ドアが開くのを待った。

 エレベーターのドアが開く。

 向こう側の世界はいつも通り、部屋が広がっているものだと思っていたが、今回は違った。

 その光景を見て、彼は自分が外に出てしまったのかと思った。

「森……? いや、山?」

 木々が広がる壮大な自然の景色。だが、この前のようにゲームの世界のような綺麗な景色ではなかった。その木々は所々黒ずみと化しており、木々の隙間から溢れ出す黒い煙は彼を咳き込ませる。

「燃えてる……」

 それでもエレベーターの中に留まってる訳にはいかず、彼がエレベーターの外に出るのと同時に、エレベーターのドアが閉まった。

 周りの景色に見とれているだけでは、“黒”が襲い掛かってきても対応ができない。

 七冊の文庫本のうちの六冊を地面に置いて、手持ちの一冊の本のページに自らの血を付けて全てのページを破り捨てた。

 大量の黒い文字が宙に漂うと、その一部が彼の右手に黒い刀を作り出し、余った文字は自らの周りに漂わせたまま、二冊目の本に手を伸ばした。

 そして、彼は残りの六冊の本の全ての文字を空中に漂わせた。

 そうしておけば、黒い刀を大きくしようと思えばすぐにできるし、攻撃されそうになった時にも盾になる。

 どこからでもかかって来いと言わんばかりに刀を構える真。

 その挑発に応じるかのように、“それ”は真の前に姿を現した。

 黒い煙が段々と、真のいる所にまで迫ってくる。

 最初は、真もそれがただの黒い煙だと思っていた。だが、すぐに気づく。その黒い煙が辿って来た道の木々たちがその黒い煙に触れた瞬間に激しい炎を上げた後に黒い墨となってボロボロに崩れ落ちていくことに。

 一層、文字でできた刀を強く握り締めるのと同時に、目の前に迫る黒い煙を間合いに入った瞬間、斬った。

 しかし、その黒い煙の勢いは止まらず、彼の周りの文字で身体を守る前に、黒い煙に身体全体が包まれてしまう。


 彼の腹部に激痛が走った。


 口から血を吐き出すと、黒い煙は一斉に真の身体から離れた。

「――――!?」

 自分の身に何が起きたのか分からずに、膝を着く。

 顔を俯けた時に気付いた。

 自らの腹部にぽっかりと丸いCD位の大きさの穴が空いていた。

「あ――――」

 声を上げる暇もなく、身体が斜面を滑るように倒れこんだ。

 溢れ出す血が止まらず、まともに息もできない。

 彼は咄嗟に理解した。

 これが――――








「――――死」

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