―― IX ――

 自分はこの世に存在しなければならない人間に違いない。

 何故ならあの時、自分だけが生かされたからだ。

 他の誰かじゃなく、神様は意外にも自分を生かした。

 いっそのこと、殺してくれた方が楽だった。

 世界とは残酷で、醜い。不平等で、最低だ。

 だけど、それ以上に、ありえないほど綺麗だった。壊したいほど綺麗だった。

 自分は既に、この世界を恨む事でしか生きられなくなってしまった。

 だから、その道を選んだ。


 自ら進んで、この世界で踊ることを。


 それが、その恨みを軽減させる方法だった。

 世界の中心で乱舞する。たったそれだけで、気持ちが楽になったような気がした。

 つまり、世界は俺を中心に回っているのだ、と。

 だけど、気づいた。

 楽になった気がしただけで、本当は踊れば踊るほど胸を苦しく、締めつけられていく。

 世界の中心だと考える度に自分が薄れていくような感覚に陥る。

 それでも――――中心で乱舞することしかできない。





 ◇


 翌々日


 昨日は放課後まで待っていても、結局、古井は学校には来なかった。

 真の知る限り、古井が学校を休んだのはこの日が初めてだった。

 小学校から一度も学校を休んでいないような、そんな雰囲気を醸し出してはいるが、皆勤に対してそこまでの執着はなさそうである。

 馬鹿は風邪を引かないというが、古井の場合はどうも例外らしく、風邪でも拗らせたのだろう。

 今日は来ているのか気になりながらも、いつもどおり電車で登校する。だが、曇天の中で目の前に佇む校舎を見るのと同時に、今日という日は、いつもどおりではなくなった。

 彼の頭の中は、考えが入り混じって鬩ぎ合い、ぐちゃぐちゃな状態になっている。彼はかなりの混乱状態に陥っていた。

「どうなって……なんだよ……これ!?」

 それは誰の目にも映ることはない、真だけが見る事のできる黒、黒、黒、黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒――――。

 校舎のどこを見ても、黒で覆われている。

 闇を連想させる真っ黒が、校舎全体を侵食していたのだ。

 その黒は全て、文字であることに真は気付く。

 つまり、校舎を覆う黒全てが、前兆だった。

 前兆は書いた文字が浮き上がること以外、彼はまだ見たことがない。

 だが、校舎を覆い尽くすほどの文字を果たして、一人で書けるのだろうか。

 この大量の文字は、複数人の手で書かれた文字で、複数人が一度に前兆を露わにしているかもしれないということなのだろうか。

 どうも、納得がいかなかった。それは彼の中に存在する何かが、引っかかっているから。

 異常でしかない今の校舎に何の疑問も持つことなく、普通に入っていく生徒たち。

 狂っているのは生徒たちではなく、真だった。

 校門の前で足を踏み入れることなく、突っ立っている彼の姿が、他の人からすれば、異常だった。

 このまま突っ立っていても、状況は何も変わらず、問題は解決しない。

 そう思って、足を一歩、門の中へと踏み入れた瞬間、


『ギロリッ』


 嫌な音が聞こえた。

 それは空耳や幻聴ではない。確かに彼の目の前にある、闇から生じた音だった。

 一歩足を踏み入れた状態で動きを止めた彼は、恐る恐る校舎を見上げる。

 そこには尚も校舎を包み込むように闇が存在していたのだが、さっきまでとは違って、闇のみではなくなっていた。

 まるでそれが生きていると暗示するかのように、お前を見張っているとでも言うかのように――闇に紛れて、無数の目玉が存在していた。

 その光景は恐怖でしかなく、一瞬、後ろへと退きそうになったのだが、踏み止まる。

 そして、次の瞬間にこの前兆が前者――襲い掛かるものだと身をもって知る事となる。

 闇は無数の腕のようなものを彼に向けて、一直線に伸ばしてきた。

 避けなければどうなるのかは試してみないと分からない。だが、避けなければ真の身に何かが起こるという確信はあった。

 それを避ける為に、すぐさま止まっていた足を動かして前へと進んだ。

 彼は直感的に理解していた。後ろに逃げたところで、“黒”は襲い掛かるの止めない事を。そして、それを止める為にはその元凶を見つける他ないと言う事を。

 重たい鞄の中から文庫本を三冊だけ取り出して鞄を放り投げる。それも咄嗟の判断だった。

 真はあのエレベーターの向こうの世界でしか文字を出す能力を使った事がない。

 その為、能力を現実世界で使えるか分からないが、彼はことあるごとに見てきたのだ。エレベーターの向こうの世界で起こる出来事の前兆が、現実世界で文字が浮かび上がると言う光景を。

 教室まで全力疾走するその姿は、他の生徒たちにとっては異様な姿に映っただろうが、そんな事を気にしている余裕など今の彼には無かった。

 嫌な予感が彼の頭の中を過ぎる。それは前から懸念していた事態だ。

 古井新の自己中心を演じているその状況が何かのきっかけによって暴発してしまう事態。彼の頭の中で引っかかっていたのは、まさしくそれだった。

 彼がこの状況と古井を結びつけたのは、古井が昨日休んだということ。

 ただの偶然であってくれればいいと思った。だからこそ、彼の足は自然と自らの教室へと向かっていた。

 いつも通っている道中のはずなのに、いつもよりも長く感じる。

 自分のクラスの教室に辿り着くのと同時に、その扉を勢い良く開いた。肩で息をしている状態で、廊下から中を確認する。

 教室にいたクラスメイトの全視線が自分に向けられたが、それは逆にここにいる全員の顔を確認する上では好都合だった。

 古井新の姿はない。他に校舎を包み込むほどの前兆を出していそうな人物は、この教室にはいなかった。

 そう。古井とは限らないのだから、今学校にいる全員を確認しなければならない。それが大変な作業である事は分かっていたが、やるしかない。

 彼にずっと立ち止まっている余裕など与えるつもりはないようで、黒い無数の手は校舎の中まで彼を追いかけてきたのか、すぐ後ろにまで迫っていた。

 一番上の階から探していった方が、“黒”から逃げる分には下りるだけなので、都合が良いと判断した彼は、すぐに階段を駆け上がって五階まで行く。

 ちょうどそこで、会いたかった人物と鉢合わせになる。

「――――!?」

 思わずその存在を見つけて、目を見開くと、その人物は口を開いた。

「やあ、真っち! 昨日は……気分がちょっと良くなくて、休んじゃったよ」

 ぎこちなく笑ってみせる、古井新。

 その足元には黒い文字が、砂のように積もって、虫のように蠢いていた。

 それは、古井が学校を覆い尽くすほどの文字、前兆を露わにした人物であると、知らせているようだった。

 窓から射し込む朝日が、古井の右側を照らし、足元の影をより一層、際立たせている。

「なんで文庫本持って、そんなに息あがってんのー? 真っち、面白いんだけど?」

 声を上げて笑い出す古井の姿を見て、少しだけ安心した。しかし、そんな古井が今まさに前兆を出しているのだ。今はそう思って、対応する他ない。

「こんなとこで何してんだ?」

「ナニって……特にナニもしてないけど?」

 古井の言うとおり、彼は何もせずにただ突っ立っていた。

 今の状況で、古井が何もしていないというのは、確かにおかしかった。

 真の見た校舎を多い尽くすほどの黒は、文字を書く事で自分の心を文字を通して、現実世界に露にしたもののはずなのだが、その男子生徒は、今現在文字など書いている様子はない。

 また、校舎を侵食するほどの大量の文字を一日で書けるはずもない。

 そして、一番の問題はもし、前兆を露わにしているのが古井ならば、真を襲った“黒”が今現在の古井の心を現したモノだという事だった。

「何か……悩んでることでもあるんじゃない?」

 そう尋ねかけると、古井の笑顔が一瞬の内に固まった。しかし、それも数秒のことで古井は、真剣な表情をして話し始める。

「藤沼事件って知ってる?」

「……飛行機が山に突っ込んだ事件のことだろ?」

 知らないはずがない。日本を震撼させた重大事件だ。その事件と今の状況には、何の関連も見出せない。

「そう。その事件は首相の名前からとられてるのは知ってるよね? 首相がその民間の飛行機に乗ってた。そして、ハイジャックされて山に突っ込んだんだ。じゃあ、なんで首相は民間の飛行機なんかに乗ってたんだ?」

 その質問の答えを知っていた真は、古井が何を言いたいのか分からないまま、答える。

「首相の専用機に爆弾が仕掛けられてあったから……」

「そうだ。全てはテロ組織の計画通りだったってわけ。でも、なんで乗客の殆どが死ななければならなかった?」

 それは真も知らなかった。

 何も答えられずに、ただ黙っている事しかできなかった。

「警察と政府は隠してる事実がある。あの時、乗客の殆どが死ななければならなかったのは、あのクソみたいな首相のせいだ!」

 古井は真のことを睨みつける。怒りの感情が剥き出しになり、それと呼応するかのように、彼の周りに黒い文字が集まり始める。

「あいつが……あいつが……! 認めないから……!」

 古井は自らの顔を俯けた。その後も口がパクパクと動いたが、その声は小さすぎて真の耳には届かなかった。

「その事件と……お前の自己中心的な性格は関係してるのか?」

 古井は顔を上げて、目を見開いた。

 彼の周りの文字も驚いたかのように動きを止めてみせる。

 これで、古井が話をしてくれれば、解決できるかもしれないと思っていた。

 その望みを消し去ったのは、真に向けられる古井の鋭い眼差し。

 古井は大声で怒鳴り散らした。

「お前に何が分かる――――!?」

 その瞬間、真は自らの首に圧迫感を感じで、右手を首元に伸ばす。

 触れると同時に、首を絞めるの正体が文字であることに気付いた。

 首に巻きつく無数の文字が、彼の首を段々と圧迫していく。

 それを引き剥がそうと、懸命に力を入れるが、外すことができない。左手が三冊の文庫本で塞がっていることも起因しているだろう。

「落ち着け……古井……」

「落ち着け? 落ち着いてるよ? オレっちは」

 そうは言うものの、その眼は目の前の男を睨みつけている。

 苦しすぎて左手の文庫本を落としそうになった時、真の目の前に“黒”が映りこむ。

 その“黒”は数字、英語、漢字などで構成されており、印字された文字のようだった。

 そこで真は初めて、彼の操ってるそれが、教科書の文字だと言う事に気が付く。

 だが、今はそんな事を気にしている場合ではない。

 今まさに、その文字に殺されかけている。

(このままじゃ……!)

 現実世界で試した事はないが、やるしかない。

 三冊の内の二冊の文庫本を地面に落とし、残った一冊の本のページで、抵抗するのをやめた右手の指を切る。

 垂れる血を本のページに塗りつけると、一気に百ページほどを両手で破いた。

 破られた紙から溢れ出す黒い粒子が、彼の首に纏わりついた文字と肌との間に割って入った。

 すぐさま自ら出した文字を右手に集め、刀を形成すると、首元から離れた文字を斬り裂いた。

 激しく咳き込みながら、地面に崩れ落ちて四つん這いの状態になる。

 苦しい表情を浮かべているが、安堵していた。

 本の文字を操る彼の能力が、エレベーターの向こうの世界だけではなく、現実世界でも使える事が証明されたから。

 古井新には、何も見えていないようで、独りでに苦しそうに咳き込む真を、首を傾げながら見る。

 何も見えていない。それは今までの前兆を露わにしてきた人物と変わらない。

 決定的に違うのは、自分の書いた文字ではないものが前兆として現れているということ。

「……ナニふざけてるの、真っち? オレっちは真剣なんだよ……」

 怒りは収まっていないようで、古井は尚も真を睨みつける。

 その感情を表しているかのような動きを見せている大量の文字は、真の目の前で収束し始め、真はそれを目視しながらも、床に落ちた文庫本二冊を手に取って、後ろに退くしかなかった。

 大量の黒い粒子がどんどん集まっていき、一つの形を成していく。

 その姿を目の当たりにして、真の口は知らぬうちにポカンと開いていた。

 見上げるほど縦に大きくは無いが、横は廊下を破壊してしまうのではないかと思うくらいの大きさのものが創り上げられる。

 真の目の前に存在する黒い文字の粒子たちは、強大な姿となっていた。


『グガァァァァァァアアアアア!!!』


 大きな口が開かれ、真の鼓膜を刺激する轟音を発するそれは、黒龍。

 その声は廊下の窓全てを粉々に飛散させるには十分過ぎるほどの轟音だった。

 現実世界にも影響を及ぼすほどのただの文字で構成された龍。

 古井は窓が割れていることにも気づいていないようで、ただ真に対して行き場のない怒りを向けていた。

 そんな古井の姿を真も見ている余裕などなく、黒龍の出した轟音と窓が割れた事により我を取り戻し、文庫本のページに血を塗って、文庫本三冊の全ページを一気に破り捨てた。

 虫のように蠢く文字羅列は宙を舞い、真の握る刀の刀身を増大させ、残りの文字は籠手のように彼の両腕を覆う。

 古井の目には黒龍、黒い刀、ともに見えていない。

 そのため、真の行動はただ、本に血を塗って破っただけに見えている。

 “黒”は真の首を絞める事ができた。黒龍も現実的に影響を与える事ができ、それは先の声で窓が割れた事からも、確かだ。だから、ここで抑えなければ、他の生徒にまで危険が及ぶ。

 静寂がその場の空気を包む。その静寂を壊すように古井は叫んだ。

「オレっちはさあ……周りからは、ふざけてるように見えるのかもしんないけどさあ……いつだって真剣なんだよ――――!!」

 古井のその叫びに呼応するように黒龍の鉤爪が真へと襲い掛かった。

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