―― VI ――
少女はいつも我慢していた。
何でも、自分の方が弟よりも一つ歳が上だからと、弟のわがままを我慢していた。
「おねえちゃんのがいーい!」
弟は少女の手に持っていたアイスクリームを指差した。
彼女の手にあるチョコレートのソフトクリームはまだ食べ始めたばかりで、弟の手には一口だけ齧ったチョコモナカがある。
少女はモナカよりもソフトクリームが良かった。それに、弟は自分からモナカの方が良いと、モナカを選んだ。だが、彼女は弟に微笑んで、チョコのソフトクリームを渡した。
「いいよ!」
そう言って手渡されたソフトクリームをおいしそうに食べる弟を見て、少女も満足する。そして、手元に残ったモナカを少しずつ食べた。
本当はソフトクリームを食べたかった。
これは彼女が小学校四年生の時のこと。
歯車が狂い始めたのはどこなのだろう。
記憶の海を潜って、辿り着いたのは中学二年生。
彼女は美術部に入って、弟はサッカー部に入った。
授業が終わった放課後、校舎の二階にある、絵の具のにおいが微かに漂った美術室で絵を描くこと。それが彼女の日課。
恥ずかしがり屋で、人見知りで、無口な彼女は二年生になると、それが周知されている為か、話しかけられる事は部内でも稀にしかなかい。
完全に孤立していた。
それでも、彼女には絵があった。
一年生の頃には入賞し、賞に向けて今年も沢山の絵を描き続けた。抽象絵画ではなく、具象絵画を。
そして、弟の誕生日が近づきつつある事を思い出し、弟にプレゼントする為の絵を描こうと決めた。
風景画。
美しい自然の風景を描こうと、美術室で一人筆を手に取る。
画像を探し、自分の頭の中でアレンジしたものを下書き無しで書いていく。彼女は、真っ白な紙に命を吹き込む天使のようだった。
数日経って、弟の十三歳の誕生日の日となった。
平日だったので、いつもどおりサッカー部の練習を終えた、七時過ぎごろの帰宅。父親は彼より少し前に家に帰ってきていた。
弟の誕生日の為に用意されたご馳走は、彼が帰ってきてから、四人全員が揃うと、すぐに食べ始め、一時間もせずに机の上にあった食べ物は無くなった。
母親が笑顔で冷蔵庫の中から誕生日のケーキを取り出すと同時に、彼女は自分の部屋に戻って、弟の誕生日プレゼントを取りに行く。
自分が描いた絵を携えて、家族のいるリビングへと向かい、誕生日ケーキが机の上に置かれている横で、彼女は弟にプレゼントを渡した。
笑みを浮かべて喜んでくれた弟を見て、彼女の顔も自然と綻んだ。
だが、そんな時間も束の間の事だった。
数日後、次に彼女が弟にあげた絵を見たとき、それはぐしゃぐしゃにされ、破られた、酷い状態だった。
いや、それには語弊があるかもしれない。
彼女は見たのではない。見せられたのだ。
「ごめん、姉ちゃん……ボロボロになっちゃった」
弟は申し訳なさそうな顔で、それを渡してきた。自らが描いたボロボロになった絵。
「……大丈夫。また、描いてあげるから」
取り繕った笑顔でそう言った。だが、気付いていたのだ。
自然とこんなにもボロボロになるはずが無い。誰か、もしくは――。
彼女はそれ以上、考える事をやめた。弟を信じていたのだ。
だが、信じてもう一度、絵を描いた結果――
「ごめん、姉ちゃん……描いてくれた絵、失くしちゃったみたいだ」
――前と同じ顔で弟はそう告げた。
その時もまだ、彼への疑いは薄いものでしかなく、それが濃くなっていったのは彼女の身の周りのものがなくなり始めた時。
最初は消しゴムやストラップなどの小物ばかりだったのだが、段々と大きなものになっていき、そして、明日提出の宿題までなくなってしまう。
(どうしよう……明日提出なのに……)
懸命に自分の部屋の中を探すが見つからない。
昨日の夜やり終えて、机の上に置いておいた筈なのに無い。
必死に探す彼女の背後でクスクスと誰かの笑い声が聞こえ、振り返ってみると、そこには一人の少年が立っていた。少年、彼女の弟。
笑みを浮かべながら此方の方を見る弟の手には、明日提出の問題集がある。
「姉ちゃんが探してるのって、これじゃない?」
その問題集を向けてくる弟。
彼女はそれを手に取ろうとするのだが、その瞬間に弟は手を引っ込めた。
どういう意図があってこんな事をしているのか、掴めない。ただ、揶揄しているだけなのかもしれない。
「……返して……」
「なに? その俺が取ったみたいな言い方……まさか、俺のこと疑ってんの?」
疑うも何も机の上に置いてあったはずのものが弟の手にあれば、誰だってその人が盗ったと思うはずだ。
質問に対して、何も応えない彼女の態度に腹が立ったのか、弟は彼女に詰め寄っていき、そのまま彼女を部屋の隅にまで追いやる。
「――けんなよ……」
小さすぎて聞こえ難かった言葉。
聞き返そうとする前に弟は、口を開く。
「――……これ以上、俺の視界に入んな」
そう言って、問題集を押し付けると弟は彼女の部屋から出て行き、自分の部屋へと戻ってそのドアを勢い良く閉めた。
弟に対して、自分は何かいけない事をしてしまったのか。分からない。
考えれば考えるほど分からなくなっていく。
それから、物が無くなる事は途絶えた。その代わりに弟との会話は無くなった。
月日は過ぎていき、彼女は中学三年生になり、弟は二年生になった。いや、中学三年生ではなく、受験生と言うべきか。
受験生と言う言葉通り、彼女は勉学に励んだ。そして無事に第一志望の高校に受かり、その高校に通い始めた四月。
弟は受験生で、部活と勉強の両方を頑張っていた。
成績は彼女よりも優秀で、その学区で一番の進学校を目指している。
自分よりも優秀な弟は羨ましく思い、誇りにも思える。だが、中学二年のあの時から、弟とは全くと言っていいほど会話はしていない。
最後に言われたあの言葉が、彼女と弟との間に距離を作り出した。
その距離は一生、縮まる事は無いのだろうかと思っていたとき、弟の方から話しかけて来た。
「姉ちゃん。また、絵描いてよ」
彼女は戸惑いながらも頷く。心中ではとても嬉しかった。
入った美術部は自分しか部員がおらず寂しいもので、そんな事も忘れて弟の為の絵を描く事を始める。
そして、描きあがった具象絵画を弟に渡す。
彼はにっこりと嬉しそうに笑った。それは幼い頃に見た弟の笑顔にそっくりだった。
だが、次の瞬間その笑顔は不気味な笑みに変わる。
「ホントに描いてくると思わなかったよ……」
ぼそりと呟くその言葉は、嘲笑が含まれている。
その時、彼女は初めて嵌められた事に気がついた。
「馬鹿じゃないの? こんな絵貰って、誰かが喜ぶとでも思ってんの?」
弟はそう言って、自分の部屋に戻って何かを手にし、また彼女の前に戻ってくる。
弟が手にしているものは彼女の絵とハサミ。
次の瞬間、ハサミを逆手に持って、彼女の絵に何度も何度も突き刺した。その顔に笑みを浮かべながら。
「誰も喜ばねえよ。こんな絵貰っても! こんな絵見ても!」
傷つけられていく自分の絵を、そのまま黙ってみている事など彼女にはできず、自分の身を顧みる事無く、弟の持つ絵に覆い被さるように抱きついた。
弟の手から離れた絵は床に座った彼女によって抱き締められており、弟はそれを蔑むような眼で見る。
「やめて……」
顔を俯けたまま、涙を溢れさせながらか細い声で呟く。
その声は勿論、弟の耳にも届いており、弟はそのまま自分の部屋へと戻っていった。
自分の何がいけないのか。まだ分からない。
それが彼女の行動を制限させた。
弟の気分を害さないように極力、彼の視界に入らないようにし、彼女の絵も段々と変化していった。
それからだった。弟からの暴力が始まったのは。
◇
彼女の記憶が流れ込んできた。
ゆっくりと眼を開けるが、無数の蛇によって景色は真っ暗。
絡みつくような黒い蛇は、彼女の、正体の掴めない不安を表しているのだろうか。
弟が生み出した不安が彼女の心を壊す。
彼女自身に非はない。それが――――自分と重なった。
真は暗闇の中をもがき始める。彼女を助ける為に。不安をかき消す為に。
必死に黒い蛇を掻き分けて、視界を確保しようとする。
『呑んでやる呑んでやる呑んでやる――』
その言葉と共に掻き分けても掻き分けても、終わらない黒い蛇の塊。
一瞬だけ目の前が黒一色ではなくなった時、彼の目が捉えたのは、地面に置かれた一冊の文庫本だった。
それがあれば、この状況を打破できるかもしれない。いや、打破しなければならない。
文庫本までの距離を、黒い蛇が絡みつく中、
痛みに顔を歪めながら立ち上がる。
絡みつく黒を払いながら、一歩、また一歩と足を踏み出す。
体は悲鳴を上げている。だが、止まらない。止まってしまえば、もう動けない。
文庫本のある位置に辿り着いた時、それを取ろうとしゃがみこむ。すると、途端に足は、その機能を果たさなくなり、彼は膝を着いた。
重心が前の方へと引き摺られ、両手を着いて四つん這いの状態になる。
目の前の本に手を伸ばそうとした瞬間、蛇が一斉に視界を覆いつくした。
『呑む呑む呑む呑む――――』
黒は、文字を使って攻撃することが分かっている。
だが既に真の手は、しっかりと文庫本を握りしめていた。
大量の蛇が絡みついて邪魔をされながらも、右手の血を五百ページの文庫本に付着させる。
無造作に破られたページから溢れ出す文字。
五百ページ全てを破る頃には、彼の体全体は黒い文字で覆われていた。
絡みつく事のできなくなった黒い蛇が、体から離れていく。
四つん這いの状態も耐えられなくなった彼が、うつ伏せに倒れ込むのと同時に、文字は彼の背中の上で集まり、球体を形成した。
無数の黒い蛇も一点に集まって、元の
『お前は何もわかっていない』
その声は、蟒蛇のものだ。長い舌を出し入れしながら、細い目で睨み付ける。
『お前はこれからもそうやって、生きていくことしかできない』
蟒蛇が彼に語り掛ける。
目の前の黒は、彼女に絡みついている不安。そのはずだ。
その仮説が本当に正しいものなのか、彼の前に存在するものが、疑問符を生じさせている。
蛇の顔を見ていると、目の前の景色が少しだけ歪んだ。考えている時間ももうなさそうだ。
立つことさえできない。だが、文字は操ることができる。
球体の形を成した文字を操って、蟒蛇を倒さなければならないが、切ったとしても分裂するだけ。
蟒蛇は自らの体を普段、蛇と聞いて思い浮かべるのサイズに分裂させたが、それ以上小さくは分裂しなかった。
それはできなかったのか。それとも、しなかったのか。
『助けた気になっているだけの自己満足』
再度、口を開く蟒蛇。その言葉の通り、自己満足なのかもしれない。
蟒蛇を倒したとしても、彼女の問題が全て解決したとは言えない。
あの弟がいる限り、彼女の心はこの空間のように破壊されたままだろう。
『お前は何も救えない。救った気になって、自分を慰めたい。救われたいのは自分の方』
その言葉は心の奥深くにまで突き刺さる。
「……何を……言ってる?」
人を救って、救われたいのは自分の方だと黒は言った。
心の中を抉り取られたような気分がする。そう。まるで自分の心の中を覗き込まれたような――。
「俺の心の中を見たのか……?」
蛇は答えない。それが現実の蛇の姿だと言わんばかりに、舌を出し入れしながら見つめるだけ。
「俺の記憶を見たのか……!?」
責め立てるような声色で質問するが、答えない。
「答えろよ!」
真が声を荒げると共に、蟒蛇は大きな口を開けて襲い掛かる。
うつ伏せの状態の彼が、それを避けることは不可能。
攻撃される前に倒すしか方法はなかった。
文字で創られた黒い球体が、蟒蛇の口に吸い込まれていく。
真の狙い通りだった。
呑み込まれた球体を膨張させ、無数の文字で、蟒蛇を内部から破壊していく。
耐えられなくなった蟒蛇の身体は破裂し、飛散した。
そして、畳み掛けるように文字が黒い物体を切り刻み、分裂させる間もなく、焼失させた。
『お前……の記憶は……一人……――――』
彼の目の前に落ちてきた一匹の蛇が、言葉を発する。
途切れ途切れで、内容は把握できないまま、その蛇も粉々に砕け散った。
黒いそれは全て、消失し、役目を終えた文字も消え失せる。
ボロボロの部屋に残されたのは、表紙だけの二冊の文庫本と、うつ伏せに倒れた少年。
少年の目には、蛇が自ら消え失せたように見えた。
うつ伏せに倒れた彼の意識は、この部屋から出る前に消え去った。
閉まっていたエレベーターのドアが、独りでに開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます