―― V ――
浮かび上がる黒い文字羅列。
それがシャープペンの芯と同様に黒鉛で創り上げられているのかは定かではない。だが、それは真にしか見えないものだと言う事から、黒鉛のような現実に存在する物質でできているのではないのだろう。
そんな非現実的な黒は宙を漂い、何かの形を成すでもなく、ただ漂う。
『お前のせいだ』
それは宙を漂い続ける黒から発せられた言葉。
『お前のせいで私は唯一の居場所をなくした…………お前のせいだ!!』
漂うだけだった黒が次の瞬間、十ほどの数に分裂する。そして、真はこの前兆が人を襲う方であるのを感じ取った。
すぐさま、地面を蹴って部室を出た彼を見て、高比良明乃も驚いただろう。
廊下を走る彼の後ろからは何も追いかけて来ない。しかし、彼は走る事をやめない。
(俺のせいで居場所をなくした……)
その意味は考えずとも分かる。だから彼は走りながら、ある人物を急いで探しているのだ。
ある人物と言うのは豊川夏恵。
学園祭と言う事で一般の人々も大勢いる中で彼女一人を見つけ出すのは無理なのかもしれない。
探すしか手が無いというわけではないが、もう一つの手はあくまでも最終手段。
肩で息をする彼は膝に手を着いて、息を整える。その間も周りを見回しながら彼女の姿を探すがいない。
息が整ってきた為、再度、走って探そうとしたその時、目の前に天使は現れる。
校舎の外にある出店の立ち並んだ道。そこには大勢の来校者と、この高校の生徒たちがいる。
そして、彼にはその中の一人が輝いているように見えた。
「豊川!」
その声は雑踏と雑音にかき消される。
走って彼女の元へと向かうと、彼女は彼の様子にびっくりしたような表情を浮かべた。
「……!? どうしたの? そんなに急いで……」
「ちょっと、頼みたい事があるんだけど……」
両手を合わせる彼の唐突な言動に、豊川夏恵は訝しげな表情に変化させる。
「今日、高比良を豊川の家に泊めてもらう事ってできないかな……?」
その名前の人物を一瞬で思い浮かべられない彼女は顎に手を当てて数秒後に口を開く。
「高比良さんって同じクラスの美術部の? でも、なんでそんな急に?」
理由を述べた方が良いのだろうが、人の事を簡単に話しても良いのだろうかとも考える真の目に豊川が映る。
彼女は、信頼の置ける人物である事は間違いない。なら、話しても問題は無いと思った。
「……場所移してもいいかな?」
真の言葉に従って、周りにいた女子生徒と別れ、一緒に人気の少ない校舎の最上階に行く。
彼女の弟、腕の傷、金についての話。そして、真自身がとった行動の話をすると彼女も分かってくれたのか、泊めてくれる事を了承した。あとは高比良の意思を聞くだけだ。
「それにしても……普通、初対面の人に最低とか最悪とか言っちゃう? 頭おかしいんじゃないの!?」
呆れるように言い放つその言葉を、ご尤も、と受け入れながらも、彼は後悔はしていなかった。
そんな彼の眼を見て、豊川は眉間にしわを寄せる。
「まさか、明日本当に美術部の部室で待つつもりなの? それこそ何されるか分かったもんじゃないんだから、行くのやめなよ!」
心配の色が表情と声から分かる。
だが、自分の身が心配だからと言って、高比良をほうっておくわけにはいかない。
「行くよ。たとえ、相手が一人で来ようと何人で来ようと関係ない。俺は明日、絶対行く」
そう言い切って階段を下り始める彼の背中を、心配そうな眼差しで見つめる。
彼女の為。それは本当なのだろうが、それよりも豊川が気がかりだったのは――――。
真の背中が見えなくなってすぐに階段を駆け下りて、彼を追う。
彼を追って辿り着いたのは三階。
そのまま二人は美術部の部室へと入る。
部室には様々な絵が飾られており、豊川がそれを興味深そうに見回している内に真は高比良の方へと近づいて、豊川の家に泊めてもらえる事を伝える。
豊川の家がダメだった場合の最終手段と言うのは自分の家、つまりは倉崎の家に泊める事だった。それを回避できたので、豊川の姿が真の中では天使に見えたのである。
だが、豊川の家に泊まるか自分の家に帰るかは彼女次第。
回答を待っていた真だったが、彼女は真の横を通り過ぎて、後ろにいる豊川の前に立った。
「お……お世話になります……」
ペコリと頭を下げる彼女に「いいって!」と言いながら微笑んで、頭を上げるように促す。
豊川の性格ならば、高比良とすぐに打ち解けられると思って、彼は美術部の部室を出た。
学校指定の鞄は小さいのと大きいのとがある。
今日、彼が持ってきているのは小さな鞄の方で、その中には読み終わった本が二冊ほど入っている。しかも、一冊は先日、一件で二十ページほど破ったものであった。
いつもなら、小さい鞄には四冊くらい持ってきているのだが、今日はその半分の二冊。それは真の気の緩みから齎された冊数。一度も失敗していない事からの驕り。
階段を下りていって、沢山の人々がいる校門を通り過ぎて、駅へと向かう為に大通りを歩く。
その途中にある喫茶店は学園祭の影響もあってか、いつもより人が入っていた。その中には土曜日であるにもかかわらず、いつも見る白髪交じりの男性の姿もあった。
だからと言って、立ち止まる事無く駅へと辿り着く。
その後、電車に揺られて、茶色のマンションが見えるまで、そう時間は掛からなかった。
いつもよりも荷物が軽いのが主な理由だと言える。
鞄の中から鍵を取り出して、エントランスの自動ドアを開け、エレベーターの上向しかないボタンを押した。
五階にあったエレベーターが下りてくる間に自らの号室のポストから新聞を取り出して、鞄の中に突っ込む。
エレベーターの元へと戻ると、そこには真の事を待っていたかのようにドアの開かれた状態だった。
彼が乗り込むのと同時にドアは閉まり、行き先の階数のボタンを押していないのにも拘らず、勝手に動き始める。
数字は段々と大きくなっていき、マンションの最上階である七階を通り過ぎた。
そして、先日の一件で止まった九と言う数字を刻み、その後、数字は二桁に突入する。
十。
その数字は、彼が今までに見た中での最大。
そこで止まるかに思われたエレベーターはもう一つ上の数字でその動きを止める。
一度も踏み入った事の無い十一と言う数字は、ドアの向こうで待ち受けている、敵とも呼べる存在の強さ。
小さな鞄から文庫本を二冊取り出した真は、ごくりと唾を呑み込む。
開かれるドアから何が出てくるのか、分からない。開いた瞬間に攻撃される可能性もある。
身構える彼に呼応するかのように、エレベーターのドアは開かれた。
目の前に広がる光景は、今まで見てきた中で一番酷いものだった。
彼女の心そのものである、五十四畳ほどの前よりも広い部屋は、既に半壊状態。家具も家電も床も、何もかもが破壊された状態だった。つまりは、彼女の心はもうボロボロな状態にある。
だが、いつも部屋の中で異様な雰囲気を放っている“黒”は、目の前に存在しない。
ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れると、その瞬間にエレベーターのドアが閉まる。
恐る恐る足を動かして、フローリングに散らばった壊れた家具や食器を踏まないように進んでいく。
一向に敵と呼べる存在は見えない。その時だった。
壁の破片のようなものが上から落下してきて、彼の真横に落ちた。
十メートルほどはある天井の方に目を向けると、そこには全長十メートル、横は一メートル以上はあるのではないかと言うくらい大きな黒い大蛇が存在していた。
真っ黒な天井だと思って、その存在に気が付かなかったのだ。
避けたら彼女の心は傷つく。だが、黒い文字で構成される刀を作っている時間は無い。
自分の身の大事さに前に跳んで、蟒蛇を避けると、すぐさま後ろを振り返る。
轟音と共に地面に顔を突っ込ませ、体を叩きつけた大蛇は動かず、一瞬、それは死んだんじゃないかとも思った。
だが、そんな事を思っている間に本の中の文字で刀を作っておくべきだったのだ。
蟒蛇はすぐさま、顔を此方へと向け、鋭い眼で睨む。
『お前のせいで全てが壊れた』
破壊された地面で、舌を出し入れしている大きな蛇の言葉が聞こえる。
『我慢してきたものが無に帰した』
黒い鱗に身を包んだそれは口を大きく開けて、黒い牙を剥き出しにする。
『――殺してやる』
瞬間、蛇は蛇行する事無く、真へと牙を以ってして襲い掛かる。
それを避ける為に横に跳んだ真の動きにはついていけなかったようで、牙はさっきまで真のいた地面に突き刺さった。
(……くそ! これ以上、傷つけるわけには――――)
そう思った時、蛇は地面に突き刺さった牙をコンパスの軸のようにして自らの体を回転させる。
目の前に迫る黒い柱のように太いもの。
それは真を壁まで吹っ飛ばすには十分すぎるほどの勢いがあり、それは現実となって彼を襲う。
壁に叩きつけられ、地面に壁の破片が落ちていく。自らも彼女の心を壊す結果となってしまった。
真は地面に座り込んだ。
部屋に散らばった破片によって、右の手の甲が切れ、血が溢れ出す。
背中が壁に激突した衝撃と痛みで、真の体は思うように動かない。
瞼も重く、一度気絶したのではないかというほど、意識がはっきりとしない。
左手を閉じたり開いたりして、その動作を確認する。
右手の甲は血に染まっていた。
それでも、右手はしっかりと文庫本二冊を握っていた。
血を付けずとも、既に本には右手から垂れた血が染み込んでいる。
真は、既に二十ページが破かれている文庫本のページを五十ほど一気に破り捨てた。
破れたページから目の前に溢れ出す黒い文字は、空中で虫のように蠢く。
「まだ……」
そう呟くと、同じ文庫本に右手の血を塗り付けて、また五十ページ、また五十ページと破っていく。
三百ページあった文庫本の全てのページが破り捨てられ、真の目の前には大量の文字が浮かんでいた。
巨大なホースのような蟒蛇と目が合う。すると黒い蛇は、また、蛇行することなく、放たれた弓矢のように鋭く、速く、彼の元に迫る。
表紙だけの文庫本を捨て、もう一冊の文庫本も地面に置いて、立ち上がる。
腹部の前で手を組む。そのまま胸のあたりまで動かすと同時に、両手を離した。
それは、まるで神に祈るかのような行動だったが、そんな意味合いでしたものではなかった。
両手を離した瞬間、散り散りになっていた文字が彼の両手に向けて収束し始める。
蛇の牙が真に襲い掛かる直前に、両手の中に創り上げたのは、刀の二倍以上の大きさの刀身を持ち合わせた、黒い剣だった。
黒い牙と黒い剣が接触する。
目の前には蟒蛇、背後には壁が迫りくる。
真の力が負けた時点で、押しつぶされるのは必至。
勢いよく、その身を投げた黒い蛇の力に、彼が勝てるはずもない。
それも彼は承知していた。
だから、文庫本一冊を犠牲にして大量の文字を操った。
その文字全てが黒い剣を形成したわけではない。彼の両腕は真っ黒な文字で覆われ、その足元も文字で覆われていた。
足元の文字は真の体を支え、両腕の文字は力で蟒蛇を後方に吹っ飛ばした。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をする真は剣の切っ先を地面に向けて、大蛇を睨む。
先ほどの衝撃で、黒い牙は粉々になって空中に飛散した。
地面に横たわった黒い蛇に一太刀を浴びせて、早く終わらせようと足を一歩、踏み出した。その時、背中に激痛が走り、次に踏み出そうとした足を止める。
痛みで顔を歪めながら一歩一歩、足を踏み出していく最中、右手の甲からは文字の隙間を縫って、血が垂れ落ちる。
一太刀を浴びせる前に起き上がった大蛇は黒い舌を出し入れしながら、彼の方を見た。
「……来いよ。真っ二つにしてやる……!」
両手で持った剣の切っ先を天井に向ける。
わざと蟒蛇を誘うような言葉を投げかけた。
背中の痛みは、段々と存在感を増してきている。早く終わらせなければ、痛みで体が動かせないようになるだろう。その前に倒さなければ――――。
蟒蛇は、それしかできないのかと言いたいくらい、先ほどと同じように、彼を食わんばかりの大きな口を開け、銃弾のように真っ直ぐ彼の方に跳んだ。
真の前に構えられた刃に自ら突っ込む。
「くっ……!」
背中の痛みに必死に耐えながら、剣を構える。その間、蛇は真っ二つに切り裂かれ、頭から尾まで二枚に下された。
蛇の体内から溢れ出た血のような黒い液体が真を汚し、蛇を斬った衝撃から来る背中の痛みで顔を歪める。
「終わった……?」
エレベーターの扉を確認するべく、後ろを振り返ろうとしたその瞬間、背中にこれまで経験した事の無いような痛みが襲い掛かる。
立っていられないほどの痛みは真に膝を着かせ、そのまま耐えられずに彼はうつ伏せに倒れこんだ。
「こいつ……!」
背中の方に目を向けると、そこには明らかに小さくなった、さっきの半分くらいの黒い蛇が噛み付いていた。
真は黒い右手でその蛇の頭を掴んで、自らの体から引き剥がす。
握った衝撃で潰れてしまった蛇はそのまま空中に飛散して、消えると思っていた。
だが、違った。
消えない蛇は分裂を繰り返す。
蛇蛇蛇蛇蛇蛇蛇蛇蛇蛇蛇蛇蛇蛇蛇蛇蛇蛇黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒黒――――。
『……――やる……んでやる呑んでやる呑んでやる呑んでやる呑んでやる呑んでやる――』
耳に鳴り響く、その言葉の数と同じ数だけ蛇が分裂していく。
そして、その言葉通り、真を呑み込んでいくかのように体に絡みつき、彼の視界を黒一色に染めていく。
背中の痛みが段々と退いていく。
黒い蛇に生気を吸われるように、瞼が重くなっていく。
既に両手に纏わりついていた文字は消え失せ、黒い剣も姿を消していた。
彼の意識と視界は、完全に闇に呑まれてしまった。
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