―― IV ――
学園祭まであと五日
週末を挟んで、週の明けた月曜日。その朝のHRで告げられたのは、出店の許可が下りなかったという残念な結果だった。だが、残念そうにしているのはそれを告げている先生くらいのもので、クラスの大半の生徒たちが喜びの声を発する。
それは出店をしないクラスは、今日から午前中の授業を受けるだけで帰宅できるからであった。しかし、「全員」ではなく「大半」と表現したのにはちゃんとした理由がある。
学園祭の実行委員の二人は色々と手伝う事があるらしく、早くは帰れないと言うのだ。
真はがっくりと肩を落とし、豊川も同様にがっかりな表情を浮かべる。
溜息混じりに黒板の方を向いた瞬間に、HRの終わりで一時限目の始まりのチャイムが鳴り響く。
それから、午前中の授業である数学と世界史と理科総合の三教科を終えて、クラスの皆が帰っていく中、二人は教室に残って担任の先生の指示を仰ぐ。
「運ぶものがあるらしいから、体育館に行ってきなさい。終わったら帰っていいよ。それと、そこにいる先生の言う事に従ってキビキビ行動だな。そうしないと俺が怒られちゃうから」
笑う先生の姿を見て苦笑する二人は、鞄を教室に置いて、体育館へと向かった。
その道中、真はある事を懸念していたのだが、それは見事に的中する。
「この前の質問なんだけど……」
聞こえていないふりをする、隣を歩く男子生徒に彼女は、申し訳なさそうな表情を向ける。
「そんなに話したくないんだったら、もう聞かない。この前も逃げること無いのに……」
その言葉を聞いて胸を撫で下ろす真は、「ごめん」と謝り、二人は体育館に足を踏み入れた。
体育館はバスケットコートを二面作れるくらいの広さで、体育館を使う部活は何個かあり、ローテーションで使用できる日が決まっている。
使用できない日は近くの市民体育館に行ったり、他の高校に行って合同練習をしている部活もあるようだ。
しかし、今日からの一週間、体育館はどの部活も使用できないらしかった。
それは二人の見ている光景からも明白だ。
目の前には去年の学園祭で使われたであろう小道具などが無造作に並べられており、今まさに種類別に整理しているところであった。
作業しているのは出店をしない部活動生で、それだけでも人数は充分足りると言うのに何故、自分たちも手伝わなければならないのか疑問に思うが、口には出さない。
先生の指示は予想通り、今部活動生が行っている小道具の種類別の整理。
これを何時間やらなければならないだろうと思うほどの多い量で、床を傷つけない為に敷かれた青いシートが見えないくらいまで、物が溢れている。
そんな中で小道具は順調に整理されていき、また、出店するクラスの人が取りに来たりもするため、数も少しずつではあるが減ってきている。
いつも重い鞄を持って通学をしている真にとって、然程の重労働ではない事をしている時、彼の前に一人の少女が現れる。
それは先週、豊川から預かった書類を封筒に入れるべく、三階へと赴いた時に、その階にいた同じクラスの女子生徒であった。
彼女は誰にも怪しく見られないようにするためなのか、そっと体育館の中に入り、何かを探している。
そんな様子の彼女にゆっくりと近づいて、真は質問を投げかけてみる。
「何探してるの……?」
彼が近づいてきている事に気づきもしなかった彼女は、突然声を掛けられて、慌てふためき、それが治まっても目を合わせる事も口を開く事も無い。
やはり、自分は嫌われているのかと思い始めたところで、辛うじて聞こえるような小さな声で告げる。
「キャ、キャンバス……ボード……です……」
初めて聞く単語を告げられて、首を傾げる真の様子を見て、どうやって伝えればいいのか考える彼女は、その間も挙動不審だ。
「……絵を描く…………大きなボード……です」
その言葉を聞いて、初めてキャンバスボードが画材の一種である事を知る。そして、先ほど白い大きなボードを運んだ覚えがあり、運んだ場所に走った。
彼女の言っていたそれは一辺が二メートルはある白いボードで、一人で彼女の元へと運んでくるだけでもきつい。
「ありがとう……ございます……」
ペコリと頭を下げると、白いボードを身長一五○センチほどの華奢な体で運ぼうとする。だがそれも無理な話で、彼女は一人で持つ事すらもできない。
「一緒に運ぼうか……?」
その言葉を受けて数十秒経ってから、頷いて見せ、もう一度頭を下げた。
決して、サボる為に抜け出すわけではない事を豊川に話して、真は挙動不審な少女と一緒にキャンバスボードを運ぶ。
床に敷き詰められた物を踏まないように体育館を出るのも至難の技であり、やっとの事で出たところで尋ねかける。
「どこに運ぶ?」
「……三階です」
彼女にしては答えるのが早く、二階にある体育館横の階段を上がって、三階に向かう。
そして、彼女が立ち止まった場所は美術部の部室の前だった。
予想はできていた為、驚きはしなかったもののその部室の様子を見て気になることが一つ存在している。
「他の部員の人は?」
尋ねた瞬間に扉を横にスライドさせると、部屋の中からの絵の具のにおいが彼の鼻を刺激する。
そして、中に入ろうとしていた彼女の足が一瞬だけ止まった。
「……私だけ……です……」
顔を俯けてそう言うと、足は動き出して、白いボードを部室の壁に立て掛けたところで彼の仕事は終了する。だが、体育館に戻ってもさっきまで行っていた小道具の整理をするだけなので、部室の中を見て回る。
彼女はその間ずっと恥ずかしそうに顔を赤らめていた。
入った時からにおっていた絵の具のにおいも、鼻が慣れてきたせいか段々と気にならなくなっていく。
部室に置かれていたのは運んできたキャンバスボードより一回りくらい小さいそれに描かれた絵で、その殆どが抽象画だった。
描いた時の彼女の感情を投影したような絵の数々は、明るい色のものもあれば、暗い色のもので描かれたものもある。
そして、その中に一つだけ、抽象画では無いものが存在していた。
真がそれをじっと見つめた時、彼女は少し慌てた様子を見せるが、彼の眼はその絵に釘付けだった。
描かれているのは少女でその目から流れ落ちているのは涙。
だが、その絵もちゃんとした少女や涙の形を成していないので、広義では抽象画と言ってもいいのかもしれない。
一通り見終わった彼が彼女の方へと目を向けると、何の作業もする事無く、部室の端っこに突っ立っており、目を向けられた瞬間に慌てる様子を見せる。
「ごめん。俺のせいで作業ができなかったね」
そう言って、すぐに部室を退散して体育館に行ったが、整理はもう終わっていた。
◇
学園祭まであと三日
昨日は、一昨日の体育館にある小道具の整理も終わって特段する事も無かったので、すぐに帰る事ができたが、担任の先生曰く、今日は昨日のように早く帰る事はできないらしい。
明日からの終日準備の際に使う小道具を運ぶのに人員が要るというのだ。
憂鬱な気分で午前中の授業を過ごし、放課後、一昨日と同様に体育館へと向かう。
そこでは指示を出すだけの先生が何人かいて、その指示を聞きながら、小道具を分配していく。
そして、偶然にも真はある小道具を美術部に持っていくのを指示された。だが、それは本当に偶然であったのか、必然であったのか。
ある小道具と言うのは、一昨日運んだものよりも二回りくらい小さなキャンバスボードが数枚と去年使われて余ったような絵の具だった。
それらを持って階段を上り、三階の美術部の部室の前で立ち止まる。
ノックをして、返事を待つが一分ほど経っても返ってこず、いないのかと思い始めたときにドアがスライドされる。
現れたのはいつもどおり目を合わせずにもじもじとしている女子生徒。
何故、一分経っても返事が返ってこなかったのか、彼女の顔を見たら一目瞭然だった。
「絵の具……付いてるけど……?」
しかし、真はそう質問してから返事が返ってこなかった理由に気付き、彼女は顔を赤らめて俯ける。
「あの……これ! 美術部に届けてくれって」
話題を変えるように、キャンパスボードの上に絵の具を乗せて彼女に渡した。
それを申し訳なさそうに受け取ると、蚊が飛ぶ音くらいの小さな声で呟く。
「ありが……とう」
特に話すことも無い為、帰ろうとしたその瞬間、彼の目に彼女の左腕が映る。
半袖から覗かせている包帯。一昨日の時には付けていなかった。
「腕。怪我したの?」
その質問を聞いた途端にもじもじする事すらもやめて、停止する。それは彼の目に焼きつくほどの何かを訴えているようだった。
「……何でも、ないです……」
そう言うと彼女はドアを閉めた。
三階の廊下に突っ立っている真の後ろを学園祭の準備をする人々が通り過ぎる。
自分だけがどこかに取り残されたようなそんな感じがした。
◇
学園祭まであと一日
朝のHRは全校生徒と共に外で行われる。それは各教室が指定されたクラスの出店の場所として使われているからであった。
その為、真は一昨日のあの時からずっと彼女の姿を見てはいない。
考えすぎなのかもしれない。だが、包帯の事に触れた瞬間の彼女の様子が頭から離れない。
学園祭の責任者の先生曰く、今日は昨日と同様に部活動生で手が足りるので帰ってもいいらしいが、真は、一度美術部を見に行ってから帰ろうと決心した。
先生によって解散の言葉が告げられた時、彼のクラスの部活動をしていない生徒は、一斉に校門に向かっていた。
だが、真は校舎を目指して足を進め、中へと入ってすぐ横にある階段を上がる。
その時、彼の目の前にその姿は映った。一昨日と同じように左腕に包帯を巻いた黒縁眼鏡を掛けた
頭に浮かんだ単語はいじめ。
だが、その様子をクラスでは見たことが無い。陰で行われている可能性もあるので、それだけでは、いじめではない決定的な証拠にはならない。
いじめであれば、必ず前兆は現れるだろう。その前に片付ける事ができるのならば、片付けたいが何かを言って、彼女を刺激するのは得策ではない。
どうすればいいのか。
あと一段上がれば三階というところで彼は足を止めて、美術部の部室に行く彼女の背中を見つめる。
何もしない方がいいのかもしれない。
踵を返す真は、一段一段ゆっくりと階段を下りていった。
その時、彼の足が止まる。
(違う……彼女は一人で準備しないといけない……だから、それを――)
彼女を手伝う為にまた、階段を上り始め、美術部の部室の前に辿り着くと、ノックする。
一分ほどの時間が経過してから、彼女はドアをスライドさせて顔を覗かせる。
何の為に来たのか聞きたそうに少しだけ首を傾げると共に目を逸らす。
「あの……部員が一人って言うから、その……手伝おうかなって……」
心中では目の前にいる同じクラスの男子生徒のことを不審に思っているのだろうか。だが、彼女はいつもどおりの挙動不審で、次の瞬間には顔を赤らめる。
そして、小さな声で告げる。
「あ……ありがとうございます……」
◇
学園祭 一日目
九月も半ばに入り、中間考査が近づいてきている事に不安を感じる時期なのだが、古井新は毛ほども気にしていないようで、授業の間の十分休みには真にナンパについての話ばかりしていた。
今日の朝の学園祭の開会式の時にもナンパの話をし続けていたのだが、今の彼の耳にそれが届く事はなく、もはや一人だけでしゃべっているようにしか見えない。
そして、学園祭が開始された今、古井は宣言どおり、あらゆる女性をナンパしていた。
「おっ、お嬢さん可愛いねー。オレっちとメルアド交換しない? あれ? もうさっきしたって? ごめんごめん。オレっち色々な人に……――――」
と笑いながら言葉を紡いでいく彼の隣で、強制的に連れまわされている真は呆れるように何度も溜息を吐いている。
だが、そんな事をしても彼の行為は止まる事を知らず、逃げようかと足を踏み出そうとした時、真の心を読んでいるかのように半袖の制服がナンパ男の手によって掴まれる。
「どこ行こうとしてんの、真っちぃー?」
悪魔のような微笑みを顔に浮かべる男子生徒に引っ張られて、出店の立ち並んだ道の人混みの中を進んでいった時、足に何かが引っかかって、こけてしまった。
「痛ッ……」と言葉を発しながらこけた原因を探るべく、後ろを向くとそこには車椅子の少女がいた。
「ちょっと、どこ見て歩いてんのよ! 気をつけなさいよねっ!」
「フンッ!」とそっぽを向く少女は中学二、三年生くらいの年齢に見え、髪は肩口に届くか届かないかくらいの長さで、車椅子に乗っている見た目とは逆に、虚弱ではなさそうだった。
真は立ち上がりながら、その少女の態度を見て「ツンデレ?」と思ったが、口に出す事はなく、
「……ごめん」
と謝って、古井を追いかけようと振り向く。すると、目の前にその男は存在しており、少しだけ驚く。
「ふーん……真っちのタイプってあーゆーの……わざとこけてまで声掛けたかったんだねー」
にやにやと笑みを浮かべながら言葉を紡ぐその顔にドロップキックでも浴びせたいと思うが、行動に移そうとする前に古井によって袖を引っ張られて車椅子の方へと駆け寄った。
「やあやあ、お嬢さん。先ほどはこいつがとんだご無礼を致しまして」
紳士的な態度で近寄ってくる男に車椅子の少女は警戒心からか、自らの両手で車椅子を後ろに下げて、キザな男を見るような目で睨む。
「何よ、あんた……」
ムスッとした表情で、自分の車椅子とぶつかってこけた男の連れて来た人物を、足元から髪の毛の先まで眺めた少女は一言。
「気持ち悪いから、あっち行きなさいよ!」
そのまま車椅子の車輪を両手で回しながら、二人の横を過ぎ去っていった。
古井は少女を無理に追いかけることはせず、ただ、呆然と立ち尽くすばかりである。
その表情を窺おうと顔を覗き込んだ真だったが、すぐに彼は顔を横に向けて、見せないようにする。
「か、悲しくなんてないさ……うん。全然……全然悲しく無いよ。相手はまだ幼い、オレっちの魅力が分からない中学生だ」
(相当こたえてる……)
気持ち悪いと言われた古井の心中を察するが、そんな事があっても学ばないハーレム願望の強い男は、ナンパを再開する。
そんな彼を呆れた眼差しで見ながら、真は隙を狙って、彼の元から離れる。
気付かれていない事に安堵の息を吐きながら、古井のいないであろう校舎の中に入る。
校舎の中の出店を色々と回る最中も古井がいないか、細心の注意を払う。
そんな時に自然と足が向いていたのは、三階の美術部の部室であった。
昨日の準備を手伝った時には布が掛かっていて、見せてもらえなかった、二人で運んだ大きなキャンバスボードに、この短期間でどんな絵が描かれているのか見てみたいというのも理由の一つだが、大きな理由は彼女に包帯の事を聞いた瞬間の彼女の様子が異様だったからだ。
三階に辿り着いて、廊下を歩いていると、ドアの開いている美術部の部室が見えた。
部室の前の廊下に置かれた看板を配置したのは真で、描いているのは勿論、この学校で唯一の美術部部員である高比良明乃だ。
そっと、美術部の部室を覗いてみると、ぽつんと一人だけ角の端っこに机と椅子を置いて座っている女子生徒が目に入る。
その女子生徒以外に人はいないようで、真は少し残念に思った。
部室の中へと入ったら、彼女はわざわざ立ち上がって頭を下げた。
それに呼応して真も頭を下げてから尋ねかける。
「誰か見に来た?」
首を横に振る彼女に「そっか」と呟き、部室を眺める。
部室に飾られた彼女の描いた数々の絵は、彼が配置したものだ。そして、その中に一つだけ巨大なキャンバスボードがあった。
それは未だに布がかけられており、見ることができない。
「これはまだ公開しないの?」
後ろを振り返って尋ねると、彼女は小走りで近寄ってきて、布の被さった絵に背を向けて立つ。
「……最初に……山下くんに……見てもらいたくて……」
もじもじとしながらも、右手で布を握る。
その手が布を取ろうとしたその瞬間、部室に誰かが入ってきて、口を開く。
「よお、姉ちゃん。見に来てやっ…………なに? もしかして、お取り込み中だった?」
彼女が見ている後方を振り向くと、そこには真と同じくらいの身長の男子が立っていた。
真の後ろにいる女子生徒の事を姉と呼んだ事から、ジーパンを穿いて、Tシャツに薄い上着を羽織って、ネクタイのようなものをした男子は彼女の弟なのだろう。
そして、もう一度、彼女の方を向くと彼女は何かに怯える様子だった。
「すみませんが、ちょっと話があるので席を外していただけませんか? すぐに終わりますから」
丁寧な口調と相手に不快感を与えない笑みでそう頼まれては、真も部室を出ようとせざるを得ない。
真が一歩、足を踏み出そうとした時、彼の捲くっていた制服の袖が後ろの人物によって掴まれる。
今、彼の後ろにいるのは一人だけだ。
振り向くと、彼女は顔を俯けて、その体はごくわずかではあったが震えていた。
(怯えてる……誰に……?)
答えはこの部室に存在していた。
「部室出たところにいるから……何かあったら、すぐに部室に入れるようにしておくから、心配しないで!」
弟には聞こえないほどの小さな声で彼女の耳元でそう言うと、袖を掴んでいた手が解けた。
顔を俯けている彼女の小さな姿を見ながら足を進め、彼女の弟の横を通り過ぎた後には彼を睨みつけながら、部室を出た。
彼女の描いた絵が飾られている部室で二人っきりになった姉弟。
「ところでさぁ、金貸してくんない?」
「……いくら……?」
目を合わせる事無く、彼女は弟に尋ねかけると、にやりと笑みを浮かべて彼は答える。
「一万八百二十一円」
「……そんなお金……」
自分のスカートを震える両手で握り締める彼女は一度も弟の顔を見ようとはしない。
彼女は自分の財布の中に一万円を入れている。そして、小銭は彼の言ったとおりの八百二十一円しかなく、彼女自身も小銭が何円あるのか完全に把握していなかったのに、目の前の弟はそれを知っていた。
彼女の背筋に悪寒が走る。
「あるだろ? 財布の中にちょうど。てか、そんな挙動不審な態度とる前に早く貸してくれよ」
「いつも……お金貸してる……し、今入ってるお金は……画材を……――」
その先の言葉を紡ごうとした瞬間に弟の足が一歩、前に踏み出される。すると、彼女は口を閉ざした。
また一歩踏み出すと、彼女は顔を俯けて体を震わせる。
「そんな怖がること無いだろ? 姉弟なんだから」
そう言いながらゆっくりと彼女へと近づき、包帯の巻かれた左腕を右手で掴む。
「なんだよ。わざとらしく包帯なんて巻いちゃってさ。長袖の制服来てくりゃ隠せるのによほど誰かに気にかけて欲しいんだな」
「……違う……よ……」
彼女の左腕を握る強さが増す。それは自分の言い分を否定されたから。
「……俺より、成績も、運動も、絵の上手さだって劣ってるくせに。一つ年上の姉だからって俺を見下しやがって。
父さんも出来損ないのお前が高校に通う金を出す事も嫌だろうさ。だから、代わりにお前の持ってる金を俺が貰ってやるって言ってんだ!」
「やめて……」
今にも泣きそうな彼女の左腕を今にも折ってしまいそうな強さで握り締める。
「いっそ、この腕折って分からせた方が早いか――!?」
声を荒げて彼女の腕を折ろうとした瞬間に、弟の右腕が誰かによって掴まれた。
その誰かは、弟の後ろから彼女の手を握った右腕を掴んでいた。
「姉弟げんかにしては度が過ぎてると思うんだけど……?」
いつの間にか部室の中に入ってきていた山下真は、口を開くと、弟の手を彼女の腕から放す。
「これは俺たちの問題なんです。部外者が話に入って来ないでくれますか?」
真の手を振り払う弟。その笑みを浮かべた顔を見る。
「そうやって表面上は良い人を演じて、その演じたストレスを彼女を使って発散してる。そんなところかな……」
溜息を吐きながら、彼女を庇うように背を向けて立ち、弟と正面から向き合う。
目に映るのは尚も笑みを浮かべている弟の姿。
「彼女の左腕の包帯……これって君が関係してる?」
尋ねかけに弟は無言のままだった。つまり、否定はしないということ。
そして、後ろにいた高比良が真の制服をギュッと握り締める。
その瞬間に真の怒りは最高潮に達した。
「……お前は――――最低な人間だよ」
目の前の見知らぬ男の口から漏れたその言葉に彼女の弟は、眉をひそめる。
「良く知りもしない人にその言い草はないんじゃないですか? あなたには良識と言うものが無いんですね」
真の一言で動揺する事はなかったものの、怒りを露にしている弟は、真を睨みつける。だが、そんな威圧だけで引くほど、彼は臆病ではなかった。
「そのとおり。お前の全部を知ったわけでも無いし、俺は良識が無いのかもしれない。だけど、俺が今知った限りじゃ、俺が会ってきた人間の中で一番最悪な人間だって事は分かった」
その瞬間、彼女の弟は左手で真の胸倉に掴みかかる。身長が同じくらいだった為、持ち上げられる事はない。
そして、空いた右手を握り締めて振り上げようとした時、携帯電話の着信音が鳴り響いた。
胸倉を掴んでいた手を放すと、ポケットの中に手を入れて、鳴り続ける自らの携帯電話を取り出して開く。
その画面に映し出された名前を見た弟は、一度視線を目の前の良識のない男に戻す。
「少し用事ができましたので、明日もこの時間帯に此処に来てもらえませんか? 色々と話したいこともありますからね」
鋭い眼光を向けながらそう言うと、携帯電話を耳に付けて部室を出て行った。
残された真は、後ろを振り返って彼女の様子を確認する。
怯えているような様子はなくなって、いつもどおりの挙動不審。
安堵の息を吐こうとした真は、吐く直前でそれを呑み込む。何故なら、終わったわけではなくこれから始まるかもしれないから。
「……ありがとう……」
そう言うと彼女は真の横を通り過ぎて、部室の端にある机に戻った。
彼の目の前にある布の掛けられた一枚の大きな絵。もう彼女は見せてはくれないのだろうかと彼女の方を向く。すると、察したのか一言。
「ごめんなさい……」
そう言って、机の上にあるシャープペンを手に取った。
緊張が一瞬のうちに最高潮に達する。
彼女がシャープペンで何かを書き始めた。その刹那――――
――――前兆は姿を現した。
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