比較堪忍―be worse―

―― III ――

 翌日の放課後の事である。

 真の鞄には大量の文庫本。

 残暑は彼の水筒の中身をすぐさま空にし、今の彼の喉はケッペンの気候区分で言うところのBW気候であった。つまりは乾燥状態。

 足取りは段々と重くなっていき、今にも止まりそうな状態だった。そんな彼の目に学校から駅に行く途中にある喫茶店が入る。

 それがオアシスに見えた彼は、即座に喫茶店の中へと入った。

 入るのは初めてではない為、特段戸惑う事も無く席に着いて、思いダンベルのような鞄を隣に置き、飲み物を注文する。

 店内は木で作られたものが多く存在し、真の座っている椅子も目の前の机も木製だ。

 彼の後ろには大通りの様子を見れる窓があるのだが、夕方になると日差しが直に当たるため、今は簾によって大通りの風景は見られない。

 運ばれてきたのはグラスに入った炭酸ジュースで、経費削減の為とは口が裂けても言えない量の氷がグラスの中の五割ほどを占めている。

 でも、冷たいものを求める彼にとっては好都合。同時に机の上に置かれたストローをグラスの中に突っ込んだ。

 ストローを通して、冷たいジュースが口の中に溜まり、それを飲む事で喉を潤す。

 死にそうだった表情が一瞬にして生き返る。

 一息吐いたところで辺りを見回す彼の目は、コーヒーカップを片手にしていた男性に目が留まった。

(あの人……いつもこの喫茶店にいる……)

 真から見て右斜めにいる男性は、眼鏡を掛けた白髪交じりの五十歳後半くらいの年齢で、優しそうな眼をしている。

 簾の掛かっていない日の当たる席から大通りを見ている男性は、真が喫茶店の前を通った時に何度も見かけていた。

 真の視線に気付いたのか、男性は彼の方を向いて、にこりと微笑んで見せる。

 それにつられた真は、自らの頭を下げてしまう。

(あれ? なんで、頭下げちゃったんだろ……反射?)

 知らない人に頭を下げたという行為から、少々の恥ずかしさが湧き出てきて、頭を掻いてしまう。

 それもすぐにおさまって、ストローを口に銜えて吸ったのだがグラスの中には氷だけが存在していた。

 物足りなさを感じて、グラスを手に持ってそのまま口元へと持っていき、氷を口に含む。

(……何か忘れてるような……?)

 頭の中に引っ掛かりを覚えて、口に含んでいた氷を噛み砕いた。

 その行動で引っ掛かりが解消されるわけでもなく、頭を悩ませたまま重い鞄を持ってレジへと向かう。

 会計を済ませた後に喫茶店を出て、また駅へと歩き始めたその時、後ろから声を掛けられる。

「あっ! 真!」

 振り返るとそこには、必死に、頭に角の生えた鬼の形相をしようとしているのだができていない彼の幼馴染の女子生徒、豊川夏恵がいた。

「帰ったと思ったらこんなところで……昨日もいつの間にか帰ってたし……」

 頭の中の引っ掛かりが放課後の学園祭の話し合いだと分かったが、今分かったところでもう遅い。

「ごめん……! 忘れてた……でも、今日の昼休みとかにでも言ってくれれば良かったのに……」

 痛いところを突かれたような表情をする彼女を見て、此方の方が優勢だと思ったが、それも一瞬のうちに消える。何故なら、放課後に残っていなかったと言う事実は不変だからだ。

「どっちにしても来てないでしょ! 明日は書類も出さないといけないんだからちゃんと来てよ!」

 踵を返して駅の方へと向かい始める彼女の背中を追って、真も歩み始める。

 歩幅の大きい彼女の横を歩くには重い鞄を持っている分、相当の体力を消費しなければならない。

 それでも彼女の隣を表情を窺う為に歩いた。

「怒ってる……?」

「怒ってる!」

 そのまま彼女は歩くペースを速めていき、真はそのペースにはついていけず、二人の距離は十メートル以上にもなった。

 追いつくことを諦めた彼は、歩くペースを落とす。

 来週の土曜日と日曜日。二学期の行事予定の中で最も盛大なイベントである学園祭が、彼らの通う高校では開催されることとなっている。

 各クラス一つ、出店を許可されてはいるが、内容や仕入先など細かい事を決めた書類を提出しなければならず、それが承諾されなければ出店はできない。食品を扱う場合は、衛生指導もあったりする。

 それに加えて、出店が許可される中心は二、三年生で、それが真のやる気を少々削いでいるのかもしれない。

 出店についての話し合いや書類を書くのが各クラスに二人ずついる学園祭の実行委員の仕事である。

 出店が決まった後も二人を中心に活動していかなければならず、それが彼のやる気を大幅に削いでいた。

 駅へと辿り着いて、プラットホームにまで至ると電車を待っている豊川の姿が見えて、真は彼女とは距離を置いて電車を待つ。

 電車が来たところで乗り込んで、揺られること数十分。

 あと一駅で目的地に着くというところで豊川の姿はすぐ隣にまで来ていた。

「……そう言えば、この前の質問は何だったの?」

「この前って……?」

 質問の意味はわかっていたが、敢えて尋ねた。そして、話を逸らすために必死に話題を考え始める。

「失恋の経験があるのか聞いてきた事に決まってるでしょー? なんであんな質問してきたのよ」

 視線を電車から見える町並みの風景に向けるが、彼女は自らの顔を近づけて、答えを促してくる。

 しかし、そんな圧力で口を割るほど彼の精神は柔ではなく、未だに他の話題を考えていた。

(“あの事”を豊川に知られるわけにいかない……まあ、言ったとしても信じてくれないだろうけど……)

 早く次の駅に着かないかと電車を急かしたいが、そんな事は運転手でも無い限りできるわけもなく、段々と詰め寄ってくる。

 彼の願いが神様に通じたのか、電車は速度を段々と落としつつあった。

「あのーえっと……それは、若気の至りと言う奴で……」

「理由になってなーい! 諦めて白状しなさいよ」

 電車に揺られ続けていた二人であったが、その数秒後には電車のスピードは時速五キロ未満になっており、真は心中で喜ぶ。

 そして、完全に電車が停止して、ドアが開くのと同時に彼は、電車の外へと駆け出した。

 咄嗟に彼の鞄を掴もうとした豊川の右手も空を掴み、追いかけようにも彼の背中は既に小さかった。

「逃げられたか……」

 そんな彼女から逃げる真は、階段を一気に駆け下りる。だが、重い鞄を持っている為、その速さは長い間持続する事は無く、駅の外に出た時には肩で息をしながらゆっくりと歩みを進めていた。

 まだ夏の暑さを引き摺っている九月初めの気温であるから、その額からは汗が滲み出してきており、自らの手を団扇代わりに扇ぐが暑さが治まる事は無い。

 喫茶店に立ち寄ったのだが、彼の喉はもう乾燥状態で、早く家に着かないかと思っているうちに茶色いマンションは目に入り、その下に辿り着く。

 難なくロビーの中へと入り、エレベーターの前で立ち止まる。

 上へと向かうボタンを押すと、既に一階にあったエレベーターのドアはすぐに開いら。同時に、彼の中の緊張感は一瞬にして高まった。

 その中へと入る真はこの前の様に鞄を置く事無く、マンションの最上階である「七」というボタンを押した。

 静かにドアが閉まる。等加速度運動の後、等速運動をするエレベーターは、デジタル数字を一から順に刻んでいき、そして――――エレベーターは七階でその動きを止めた。

 安堵の息を吐く真は、逃げるようにエレベーターから出る。

 前兆が無かったのだから何も無いと、頭で分かってはいるもののやはり、デジタル数字が九以上を表示するのではないかと考えてしまう。

 それは未だにこの非日常に慣れていない事を示しており、慣れてしまった時には自分が人間ではなくなるような気がしてならない。

 しかし、彼はもう既に非日常になれつつあった。

 このままではいけないと気を引き締める為に両頬を両手で叩き、自分の家のドアを開ける。

 家の中に伯父の姿は無いが、いつもの事なので特段気に留める事も無く、いつもどおりの行動を開始する。

 晩御飯を冷蔵庫の中にあるもので作って食べて、お風呂に入って勉強する。

 するとそこに、真の伯父である倉崎博則がいつもの仏頂面で帰って来た。

「ただいま。ご飯は……もう食ったみたいだな」

「おかえり。自分で作って食べたよ」

 そう言って、リビングで伯父を迎えた真は、リビング横の自室に戻ろうとする。しかし、伯父はそんな彼を引き止めた。

「真。中間考査終わってから、週末に行かせたいとこがある……」

「……どこ?」

 その尋ねかけに伯父は、答えるか答えまいか迷った末に答えるという選択をする。核心部分は伏せたまま。

「俺の知り合いのとこだ」

 倉崎は、自分でも無理やりだと思いながらも、これで良いと自分に言い聞かせた。

(誰のとこか知れば、真は――――)

 腑に落ちない表情をした真は、踵を返して、自分の部屋へと入っていった。


 ◇


 翌日


 今日の放課後、学園祭の出店の書類を提出して、明日の回答を待つだけ。今週の学校は明日までで、来週からは午前中授業で午後から学園祭の準備。

 二日前、木曜日からは終日、学園祭の準備である。だが、出店のしないクラスはする仕事が無ければ、午後からは帰っても良い。

 つまり、出店の案が通らなければ、午前中だけで帰れる為、真のクラスの大半は落ちる事を願っていた。その中に勿論、真も含まれる。

 そして、学園祭の当日も何もする事が無く、出店のしないクラスは午後からは帰ってもいいのだが、それまでの午前中は“暇”という言葉で満たされる。

 午後までずっといるよりは暇の方が良いと考えている真の目の前では、一人の男子生徒がニコニコしながら、自分の方を見ていた。

 今は昼休み。

 弁当を机の上に置くと、そこには既に誰かの弁当箱が一つ置かれており、もう一度前を向くと、自己中心男は尚も、ニコニコと笑顔を絶賛振りまいていた。

「今考えてる事を口に出してもいいかなー?」

 そう言われると真の中の断れない精神が突かれる。それに耐えながら、弁当箱を開く。

「よくない。黙って弁当食べろ」

「酷いなぁー……けど、そんな事言っちゃって本当はオレっちの話が聞きたくてしょうがないんだろー? ツンデレなんだねー、真っちは」

 目の前の男を黙らせる薬が欲しいと心中で神様にお願いしながら、弁当に手をつけ始める。

 尚も目障りな男は「ニコニコ」というよりもむしろ、変態染みた「ニヤリ」という表情をしながら、言葉を紡ぐ。

「オレっちが学園祭でナンパしたらさぁー、やばい事になると思うんよー」

「ふーん……どうやばい事になるのかはもう説明しなくていいから、さっさと弁当を――」

 聞きたくもない、予想のついている説明を回避する為に発した言葉を遮るように、男は無理やりにでも説明し出した。

「オレっちって世界の中心なわけだからさぁー、オレっちのナンパを断る女性なんてこの世にはいない。むしろ、あるとしたらオレっちが断る方だよねー。それで、思うんよ。オレっちがナンパした女性は全員、断らないわけだから、オレっちのハーレムが出来上がってしまうんじゃないかって」

「……それが嫌なら声を掛ける女性を一人に絞ればいいと思うよ」

 これにて解決と、白いご飯に化粧をするようにふりかけをかけながら、化学の先生の言っていた「ふりかけからは放射線が出てる」という事実を思い出して、食べる気を削がれる。だが、空腹はそれを許しはしない。

 箸でご飯を口に持っていき、ふりかけの美味しさに感服しながら、ハーレム願望の強い男の言葉を話半分に聞く。

「おいおい。オレっちはハーレムが良くないって言ってるわけじゃない、むしろ良い! そう。オレっちは自分だけのハーレムが欲しい! だから、学園祭でナンパして、オレっちだけのハーレムを作るんだー!」

 一人で叫んでいる彼の事を不憫な眼差しで見たのは、真だけでは無いだろう。むしろ、真よりももっと周りのクラスメイトたちの方が、哀れみなどを籠めた不憫な眼差しを向けていた。

「……頑張ってください」

 おかずとご飯が半分ずつほど残った弁当の前で手のしわとしわを合わせて、放課後課外の前に食べようと片付け始める。

 真は自分が無関係だと思っていたのだが、目の前の変態男はポツリと呟く。

「なに言ってんの? 真っちもオレっちと一緒にナンパするに決まってるよ!」

 「ニヤリ」というより、もはや「フッ」と嘲笑うような表情に見えてきた真は今、言葉を失っていた。

「あれー? もしかして嬉しすぎて言葉を失っちゃったりしてるの! どんだけ、ハーレム作りたいんだよ、真っちは!」

 笑いながら自分の肩を叩く男の言動にはついていけない。

「……俺はナンパなんてしないから」

「またまたー。ツンデレだねー、真っち!」

(こいつ……自己中心が前よりパワーアップしてない……? それに俺の反論を全てツンデレで済ませる気!?)

 危機感を覚え始める真に対して、自己中心男は満足気に彼の机の上にある自分の弁当を食べ始めた。

 こいつの近くにはいたくないと思うと、行きたくは無かったが、トイレに足を進めざるを得なかった。


 ◇


 放課後


 七時限目の後のHRを終えて、完全に帰る気分だった真を残酷な現実は破壊する。

 今日の昼休みには古井新のポジションになっていた彼の前の席に、豊川夏恵は座って、彼の机の上に書類を置いた。

「早く仕上げて、提出しないとね!」

 シャープペンシルを握って、書類に走らせる彼女の書いている姿を見るか、彼女の言った事に対して頷く。ただ、それだけの行動で十分ほどの時間を費やす。

 いてもいなくても同じなんじゃないかと思い始めたその時、書類を書き終えたようで筆箱にシャープペンシルを片付け、席を立ち上がって何も言わずに帰る準備までし始める。

(俺も帰る準備を……)

 と思って、机の中のものを鞄の中に押し込めていた時、帰る準備の整った彼女は、目の前にさっき書き終えたばかりの書類を突きつける。

(そう言えば、今日提出とかなんとか……)

 その情報から予想される事は決まっている。

「出して来いって言いたいの……?」

「うん。三階の特別教室のどこかに封筒があるから、そこに入れといて!」

 そう告げると、逃げるように教室から出て行った。

 今教室にいるのは残って勉強をしている四人と真。

 三階まで重たい鞄を持って上がるのは至難の業だと考えた彼は仕方なく、書類だけを片手に持って教室を出た。

 三階まで上って、特別教室の並ぶ廊下を徘徊していると、自分と同じように徘徊している女子生徒を見つけた。

 誰なのだろうと眼を凝らして見て、やっと真は自分と同じクラスの女子生徒であることを思い出す。

(えっと、たしか……高比良たかひらさん……?)

 うろ覚えなほど彼女の存在感は薄かった。

 控えめなツインテールに黒縁眼鏡を掛けた、授業中にも昼休みにも誰かと話している姿は見たことが無く、大人しい。廻とは正反対とも言える性格の彼女に封筒の場所を知らないかどうか聞こうと近寄る。

「あのー……学園祭の出店の書類の提出する封筒とか、どこにあるか分かったりする……?」

 ビクッと何か怖いものでも現れたような反応をする彼女は、震える手でちゃんと封筒の場所を示すと、すぐにその場から颯爽と立ち去った。

 お礼を言う前に立ち去ってしまった彼女の背中はこの廊下にはもうなく、示された茶封筒にその書類を入れた。

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