―― II ――

「――廻!」

 ポニーテールの女子生徒を呼び止めた後、二人にしか聞こえないくらいの小さな声で告げる。

「ちょっと、来て欲しいんだけど……いい?」

 訝しげな表情で真を見つめる彼女は、「なに?」と言いながら、真が向かう場所へとついていく。

 彼らが辿り着いた場所は、二人以外の誰もいない屋上であった。

 緑色に塗られたフェンスは夏休みに新しく変えたばかりで、黒く酸化している部分はどこにも見当たらない。

 五階建ての校舎からの景色はその殆どが、道路やビルなどで溢れている。

 そんな景色に目を配る事無く、真は目の前のクラスメイトを見ながら、慎重に質問する。

「いつもと様子がおかしいような気がしたんだけど……何かあった?」

 自分で図星と言っているかのような、分かりやすい動揺した表情を見せ、顔を俯ける。沈黙がその場を包み込み、グラウンドの部活生の声のみがこの場を支配する。

 そして、その沈黙を破るように廻の足が一歩、また一歩と真の方へと近づいていき、十センチほどの距離まで迫ったところで、彼女の両手は真の背中へと回される。

 ――廻は真に抱きついた。

 予想だにしなかった彼女の行動に驚きながら、自らの顔を赤らめる。彼女はそんな彼の胸に顔を埋めながら呟く。

「……好き」

 その一言が本心なのか否か分からない。その為、真は迷う。

 両手を彼女の背中に回すべきなのか、彼女を突き放すべきなのか。

 答えは先の“異様な声”にあった。


『私を愛して……』


 その言葉が頭の中で響いた瞬間、廻を突き放す。

(違う! ……廻は本当に俺の事が好きなわけじゃない! 彼女はただ、誰かに好かれていたいだけで、それは俺じゃなくても……誰でもいいんだ……)

 廻の本心に気付く。だが、それだけでは悩みではなく彼女の願いなだけで、それでは前兆など現れない。

(だから――



 ――そんな自分が好きにはなれない)



「どうして……?」

 今にも泣き出しそうな顔をする彼女を前に、かける言葉が何も思いつかない自分に怒りを抱く。

 自らの拳を握り締める行動は、その感情の現れであった。

 ただし、目の前のポニーテールの女子生徒から目を逸らす事だけはしなかった。目を逸らした時点で、突き放した行動と共に彼女を否定する事となってしまう、と思ったから。

 すると、その瞬間、真の横を一人の少女が走り去っていく。その目に涙を浮かばせながら。

 それを止める事もできず、屋上に一人残される。

 結局は、避けたい事態――“あちら側”からの接触に頼る事しかできない。そんな自分が惨めで、無力で、腹が立つ。

 彼女の走り去った方を向き、足を進める。いつまでも突っ立っているわけにはいかない。

 そのまま屋上を後にした真が教室へと戻ると、教室にいたのは一人の不機嫌な表情をした女子生徒のみで、誠意を見せるために、彼はすぐさま自らの頭を下げた。

 それから一時間ほど学園祭の話し合いをしたのだが、うまく進むはずもない。廻の事しか頭に無い真は、話を全然聞いておらず、ぼうっとしていた彼の額に豊川のデコピンが襲い掛かる。

「痛ッ……! なに!?」

「何って……学園祭の話し合い、真剣にしてよ。全然、進んでない!」

 目の前で頬を膨らませている彼女を見て、今の自分が彼女に多大な迷惑をかけていることに気付いた。結果、真は席を立った。

 彼女は突然の行動に驚くと同時に、彼に頭を下げられ、もっと驚く。

「ごめん。今日はもう帰らせて……明日はちゃんとするから!」

 そう言って大きな鞄を提げて、教室を出て行った彼は、何事も断る事ができない性格。のはずなのだが、彼は自ら断って、教室を後にした。

 幼馴染の成長に少々感動しながらも、遅れてきた上に一方的に言って帰ってしまった事に対して、笑顔のまま拳を握り締めた。

「明日はちゃんと……ねぇ……」



 学校を出て駅へと向かい、電車に揺られながら真は、先ほどの廻との事を頭の中で繰り返す。

 電車を降り、自宅に向かって歩く。

 その間、普段であれば通学用鞄に沢山詰め込まれた本のせいで、「重い」という感情が目で見て分かるような険悪な表情をしているのだが、今日はそんな表情をしてはいない。

 とても申し訳なさそうに、誰かに謝りに行く時のような、そんな表情をしていた。

 今の彼にとって、鞄よりも自らの足の方が重たく感じているのかもしれない。

 茶色いマンションを目にするのと同時に重い鞄の中から鍵を取り出し、そのマンションの下へと辿り着く。

 自分の家であるマンションのエントランスへと足を進め、その鍵の持つ部分をインターホンの傍にある、丸いセンサーのところへと翳すと、ロビーへの扉が開かれた。

 “自分の家”と言うのは少し、語弊があるかもしれない。このマンションは伯父である倉崎の家であって、彼の家ではなく、彼の本当の家はもう存在していなかった。

 ロビーの入ったすぐ右横にある郵便受け。自分の号室の郵便受けを見て、新聞やらチラシやらを取る。今度は荷物がいっぱいで苦しい表情を浮かべながら、エレベーターの元へ行き、上矢印のボタンを押す。刹那にボタンは発光した。

 向かわなければならない階数は七であり、もしエレベーターではなくて階段を使えば死ぬ思いをする事になる。そんな事は真自身も十分に理解していた。

 しかし、彼の中には、「エレベーターを使わずに死ぬ思いをする方がまだ、“マシ”なのではないだろうか?」という考えもあったりするのである。

 その理由わけは紛れも無く、真の目の前に存在するエレベーターにあった。そして、その理由を知るには予め知っておかなければならない事が一つある。





 ――このマンションは七階建てである。





 今の真には階段を使う考えなど毛頭も無く、ただ早くエレベーターが降りてくるのを望んでいた。

(俺が屋上に誘わなければ……廻は……)

 責任。

 それを心に留めておく事は正しいのだが、真は分かっていない。責任だけで人と接すると、地雷を踏む事になると言う事を。

 降りてきたエレベーターのドアが開かれるのと同時に、重い鞄を肩から提げたまま、それに乗り込む。

 ドアはゆっくりと閉まり、音も無く上がり始める。

 その中で肩から提げていた鞄を床に下ろし、手に持っていた新聞紙やチラシやらをその中に無理やり押し込んだ。

 色々と物が入っている鞄の中から器用にもう既に読み終えている文庫本を二冊取り出す。一冊は三百ページ前後の小説。もう一冊は五百ページ前後の小説である。

 それらを携えた真は深呼吸をして、真剣な眼差しでエレベーターのドアを見つめた。

(今回は……何階だ……?)

 真の家が存在する七階――このマンションの最上階を刻んだ数字が次の瞬間に、マンションの最上階を通り過ぎている“八”と言う数字を示してみせた。

 そして、数字は八から九へと変わり、エレベーターは未曾有の九階でその動きを止める。

「九階……」

 その数字を目の前にした時、真の緊張は一瞬にして頂点にまで高まった。何故なら、以前の二回の失恋の際にはエレベーターは“八階”でその動きを止めたからである。





 エレベーターの階数は――“敵”とも呼べる存在の強さを表していた。





 開かれるドアに誘われるように真は、二冊の文庫本と共にエレベーターから出る。瞬間、エレベーターのドアは固く閉ざされ、その空間に閉じ込められる形となった。



 彼の目の前には、全てがピンク色の世界が広がっていた。



 畳二十四畳分くらいの広い部屋には様々な家具が置いてある。テレビ、ソファ、食器棚、クッション、冷蔵庫など、日常生活に欠かせないものばかりだ。それらも全て、ピンク一色に染まっている。

 しかし、そんなピンク色の世界にもイレギュラーが存在していた。その空間に一つだけ、ピンクとは異なる色を放って、彼の視線を釘付けにしている。

 その異色の物体は、真の事を待ち構えていたようにエレベーターの目の前、つまりは彼の目前に存在し、その形は日常生活に必要な現実的なものではなく、ある図形を成していた。

 立体的なハートの形。

 それは黒よりももっと濃い、闇と表現した方が良い色に染まっている。

『フラれたの……だから、慰めて……』

 図形は言葉を発する。

 この光景と言葉は、以前の二回の失恋を“処理した”時と同じである。だがしかし、その時はそのまま、慰めるだけで“戦わず”に済んだのだが――

『だから……――愛して!』

 ――今度ばかりはそうはいかないようであった。

 瞬間、立体的なハートの形をしていた黒い物体は、円錐へと形を変貌させ、その鋭い頂点の部分を空間に存在する唯一の人間に向けて、銃弾のような速度で襲い掛かる。

 咄嗟に右へとその身を投げ出して避けられた事から、本当の速度は銃弾よりも速くない。

 目標を失った黒い円錐は、急に止まる事もできずにピンク色の部屋の壁に突き刺さった。

 ボロボロと崩れ落ちていく壁の破片は、ピンク色の床に当たった瞬間に、その色を黒に変化させる。

 先ほどの攻撃、彼自身は無傷で済んだのだが、この空間においてはそれではいけなかった。

(駄目だ……避けたら、“廻の心”を傷つける!)

 そう。このピンク色の部屋は今日、学校で前兆を起こした、失恋した女子生徒――廻くるりの心の中そのものであり、その為、壁を傷つけてしまえば、彼女の心を傷つける結果になってしまう。

「やっぱり今回のは……戦うしか方法は無いみたいだ……」

 持っていた本を脇に挟んで両手を自由にして、諦めの表情をしている自分の顔を両手で叩き、引き締める。

 その後、文庫本を左手にとって、本のページを開き、本の紙の端に右手の人差し指を接する。

 このまま勢い良く、紙の端に沿って人差し指を動かせば、指を切りかねないのだが、真はわざとその行動をする。

 つまり、紙を刃物代わりに指先を切った。

「痛ッ……」

 指は知覚神経が敏感である為、他の部分を紙で切るよりも数段痛い。

 そんな人差し指の先端から紅い血液が溢れ出す。その様子を確認するとすぐさま、開いていた本のページに人差し指の血を塗りつけた。

 その後、本の血の付いたページを含む二十ページほどを破く。

 刹那、破かれた本のページから沢山の、小さな黒い虫のような粒子が宙に溢れ出した。


 その粒子は、破られたページに黒いインクで印刷された全ての――――“文字”だった。


 真の手から落ちる、破かれた文庫本のページには一切の黒い文字が無く、彼の血液のみが付着していた。

 そして、宙に溢れる文字は一つに収束し、破かれたページの在った真の右手の上で刀の形を成す。

 左手に本、右手に文字で形成された刀を携え、ピンク色の世界に存在するイレギュラーにその黒い刀の切っ先を向ける。

 黒い円錐は未だに壁に突き刺さったままの状態であったが、刀を構えた瞬間に壁から鋭い頂点の部分を抜き出し、真の方へとそれを向ける。すると、黒い円錐は頂点から四つに割れ、そこから無数に黒い触手のようなものが伸び、一斉に彼の方に襲い掛かった。

 驚きはしたが、冷静に対応する。

 まずは一歩身を退いて、近づいてくる触手との距離をとる。

 一斉に近づいているように見えて、そのスピードはバラバラだ。

 その差を利用して、触手が間合いに入った瞬間に、一つ一つを処理していけばいい。

 刀で斬られた触手の数々は、ピンク色の地面に落ちるのと同時に、黒からピンクへと色を変化させる。

 ただのハートマークだが少しは知能があるようで、元の円錐の形に戻って、触手での攻撃をやめた。

 今度は何を仕掛けてくるのか。気を抜かずに、文字で作られた刀を構える。

 先ほどの、円錐の形のまま、ただ突っ込むだけの攻撃の方が有効だと判断したようで、それは高速道路を走る車くらいのスピードで、移動する。

 イノシシの突進のような攻撃では、また避けられてしまうと考えてか、彼に真っ直ぐに突っ込んでくることはせずに、部屋中を動き回る。

 目で追うことはできるが、体を向けることはできない。

 背後を狙われれば一溜りもない状況の中、黒い物体はそこを攻めてくる。

 背中目掛けて飛んでくる黒い円錐に対して、真は正面を向いたまま動かない。

 対応できないから諦めた様子に見えた彼の手には、黒い文字で形作られた刀が、握られていなかった。

 消えた文字。

 その事に気が付かぬまま、黒い物体は真を攻撃する。手ごたえはない。

 真の体を貫く前に、鋭い頂点は、真の背中に盾のように広がった黒い文字に阻まれる。

 自由に形を変えられるのは、黒い物体の方だけではない。文字も同じだった。

 尚も力尽くで貫こうとする黒い図形。

 「ギリギリ」と、黒同士が接し合って音を立てる。

 振り返る真も、それに耐えるのに必死な様子だった。

『愛してるわ! アイシテル。アイシテルノヨ』

 円錐の形を成していた黒い物体が、その声を発した途端に粉々に砕け散った。

 倒したわけではない。自ら、その身を粉々に砕いたのだ。

 真っ黒な霧を防ぐこともできず、真に襲い掛かる。

 すると、彼の中に何かが流れ込んできた。


 ◆


 気付いた時には、風景は一変していた。全てがピンク色だった景色は、目の前になく、代わりに大きな緑色の長方形が目に入る。それはまさしく、黒板であった。

 次に目に映ったのは、ポニーテールの女子の後姿。同時に真は、自分の体が透けていることに気が付く。

 黒板の上にある時計を見ると、時刻は十一時。

 黒板の左の日付を見ると、三日前だった。

 授業中であるにも拘らず、立っている自分を気にする素振りは誰にもない。

 つまりは、客観的に廻の記憶を見ている。あの黒と接触したことによって、こんな状況になったのだろう。

 足は動かず、後ろを振り返ることもできない。

 自然と目の前のポニーテールの女子生徒の後ろ姿に目がいき、そこで気付く。

 彼女の視線は、授業をしている先生や黒板ではなく、右斜め前の席にいる男子生徒へと向けられていた。

 男子生徒の名は普久原ふくはらとおる。全てが平均的で普通の生徒であった。そう。それは誰に聞いても、普通の人と返ってくるような平均的な生徒。

 そんな彼の事に見蕩れている彼女の様子から、真は、廻の好きな男子生徒が彼であることを確信する。

(今日こそは告白!)

 そんな声が真の頭に鳴り響き、すぐに彼女の心の声だと察した。

 そう決心しながら授業も聞かずに彼の事を見つめ続けていた彼女だったが、周りの目を気にしたのか、すぐに黒板の方へと視線を向ける。

 ノートへと何かを書き込んだ一瞬、ドキッとしたが何も起こる事は無く、場面は放課後に飛ぶ。

 場所は学校の昇降口であろう。

 一様に並んだ靴箱の端で彼女は、誰かに見られないように隠れながら、立っている。

 彼女の心臓の鼓動が段々と早くなっていくのと同時に、一人の男子生徒が昇降口に現れる。

 帰り道で彼が一人になるところを狙って、告白する為に待った彼女。

 靴を履いて彼女の横を通り過ぎる彼。その後ろ姿を見つめるだけで、追いかける事はしない。そして、彼が彼女の存在に気付く事もない。

 本日の告白は失敗に終わった。

(……明日! 明日は絶対!)

 そう心に誓うのだが、昨日も同じ事を心に誓っていた事を思い出して、しょんぼりと肩を落とす。

 あと一歩の最大の勇気を振り絞れない自分を情けなく思い、溜息を吐きながら昇降口を出て、帰路につく。

 電車に乗って揺られること三駅。

 そこから歩いて二十分のところにある一軒家が彼女の家。

 家に帰り着いて、自分の部屋に入った瞬間、制服のままベッドにダイブする。少しは頭がスッキリするかと思い、試した事だったが、水の中にダイブしたわけではないので、スッキリする事は無かった。

(ダメだ……繰り返してばっか……)

 ベッドの上の枕に自分の顔を埋める。

 そこへ彼女の母親がノックもせずに部屋のドアを開けて、ずかずかと足を踏み入れてきた。

「何帰って早々寝転がってるの! 汚いから早く制服脱いで、手を洗いなさい! ホントに世話が焼ける子なんだから……」

 ぶつぶつと愚痴を零しながら、部屋を後にする母親の言葉に溜息を吐きながら、言われたとおりの事をする。

 それから、彼女はずっとリビングのテレビの前で勉強もせずに笑っているか、携帯電話を弄っていた。しかし、そんな彼女の姿を見ていた母親が黙っているはずもなく、こっ酷く叱りつけるのだった。

「中間テストもすぐあるでしょ! 勉強は! あんたは一学期の成績が……――――」

 耳を塞ぎたいくらいのご尤もな言葉は、最初の部分だけで十分で、その先は彼女の耳に届いてはいない。

(分かってる……そんな事ぐらい分かってるもん……!)

 リビングを離れて自分の部屋へと戻り、勢い良くドアを閉める。そして、自分の背中をドアに預けながらゆっくりと降下していき、尻餅を着く。

(でも、分かってるけど……したくない……したくない!)

 俯けた顔を彼女の腕が覆った。

 翌日。

 彼女はいつもどおり学校に通う。

 「今日こそは!」と決心しながら電車を降りて、一歩一歩足を踏み出していく。

 学校に着いた彼女は、周りの席にいる女子生徒たちと他愛も無い会話をする中、その目はチラチラと斜め前の男子生徒の方へと向けられていた。

「くるりー? どこ見てんのー?」

 そう問いかけた瞬間に慌てふためく友人の姿に微笑んでみせる女子生徒。自分が考えていた事について気付かれている様子は無く、安堵の息を吐いてみせる。

 場面は飛んで放課後。

 彼女は昨日と同様に靴箱の端で好きな人を待ち望んでいた。

 胸をドキドキさせながら、普久原が一人で靴箱に向かってくる光景を思い浮かべる。しかし、彼女が目にしたものは普久原と一緒に帰るであろう女子生徒の姿だった。

 その女子生徒は彼の友達なのかもしれない。

 そう自分に言い聞かせようとしたのだが、次の瞬間にそれは破壊される。

 女子生徒は彼の手を握って、昇降口の外へと連れ出して、眼中に無いことを見せつけるように廻の横を通り過ぎた。

 眼に熱いものが迫るが、必死にそれを抑え込む。

(ダメ……! こんなところで泣いちゃ……)

 そう自分に言い聞かせながら帰路に着いた彼女の背中はとても小さかった。

(あの子が彼女とは……でも、手を繋いで……どうして……私を…………?)

 色々な思考が頭を巡る。

 いつも通っているはずの帰り道が、いつもより長く感じられる。

 家に帰るとすぐに自分の部屋のベッドへと飛び込んで、枕を自分の顔へと引き寄せる。

 眼から溢れ出る雫がその枕を濡らしていく。

 だが、彼女の中にもまだ希望はあった。

 あの女子生徒が本当に普久原と付き合っているという証拠は無い。

 もう一度、明日確かめようと涙を拭って、目元が赤い顔を上げた。

 場面は翌日の放課後。

 橙色の空の一部が青へと染まっていく時間帯。

 人が疎らな昇降口で一人、今にも泣き出しそうな表情で一人の少女が一人の男子が来るのを待つ。

 そう。一人だけで現れてくれる事を望んでいた。

 期待はあっさりと裏切られる。

 昨日の女子生徒の顔は覚えていなかったが、そんな事は今の彼女にとってはどうでもよく、彼と手を繋いで彼女の横を通り過ぎたことが問題だった。

 その時、シャボン玉が割れるような音を真は聞いた。


 ◆


(俺に告白したのは……自分を必要としてくれる人が必要だったのか……? それなら、誰でも良かったってこと……?)

 そう考えた瞬間に目の前の光景はピンクに戻る。だが、目の前には黒が映っていた。

 真っ黒い霧が晴れて、盾となっていた文字は、いつの間にか真の手に戻って、刀の形となっている。

 黒い霧はまた収束し、今度は人の形となって、目の前に出現する。

 彼女の記憶を見せられて、頭が混乱している中、それを一時的に吹き飛ばすかのように、首を横に振る。

「誰でもなんて……そんなはず無い……それにまだ、無理だって決め付けるには早過ぎる」

 微笑む真のその表情を目にした黒い人は彼の傍から離れて、よろよろと後ろへと下がっていった。

『ア……ァ……』

 自らの頭を抱える黒い人間。その両腕は突然、重力に逆らうのを止めて、ぶらんと宙を漂う。

 次の瞬間、それは右拳を振りかぶりながら、地面を勢い良く蹴りだして、真に迫った。

 真も、黒い刀の切っ先を上に向けながら、足を進める。

 二人の距離が数十センチと迫った時、彼に黒い右拳が振るわれた。

 その黒い右拳を紙一重で左に避け、同時に刀をその腹に向けて振るう。

 横一線に斬られた腹から溢れ出す黒い液体。それは落ちるとピンク色の床と同化する。 

『あるああしあああてああいああっあっいっあっ!?』

 黒い人が壊れた蓄音機のように言葉を発し始めた時、真は後ろに数歩下がった。すると、彼の目の前で黒は、ドロドロとピンク色の地面に解け始め、空気中に蒸発していく。

 黒いものが跡形も無く、蒸発し終えると何事も無かったかのようにエレベーターの扉が開かれた。

 手に握っていた黒い刀は消え去り、ページの破れた文庫本だけが寂しく地面に残っている。

 それを手にとって、無言のまま彼は、エレベーターの中へと入っていった。


 真の対峙した黒い物体の正体は不明であり、それが心の一部なのかどうかも分からない。しかし、その黒い物体にも感情や記憶が存在している。

 真が慰めたり、文字の刀で刺したりする事によって、黒い物体は欠如していた優しさを取り戻したかのように穏やかになり、最終的に消え失せる。

 真の文字を操る能力は、彼の血を塗る事で発動する。

 彼の母親も同じ能力の持ち主あったが、決定的な二人の違いはその血を塗る対象が本なのか自分で書いた文字なのかだった。

 能力を発動する対象の字は楷書で無ければならず、真の母親の字は楷書ように綺麗だったのだが、真はその才能を受け継ぐことができなかった為、本の文字を扱うしか方法は無い。

 能力によって宙に浮き出た文字は、真の思い通りに形を変える事ができるのだった。


 ◇


 翌日


 真はいつものように電車に乗って学校に通い、いつものように真面目に授業を受ける。

 昼休みになっても、彼の行動は同じ。

 まだ読み終えていない昨日も読んでいた本を手にして、読んでいた。残るはあと数ページ。物語もエピローグを紡ぎ始める。

 そんな彼の席に小さな影が近寄ってきて、読書を妨げるように本と眼の間に手を置いた。

 視線を前に向けると、そこには笑っているポニーテールの女子生徒がいた。

「……昨日言ってた事は忘れてね! あたし、あんたの事あんまり好きじゃないし!」

 一方的にそう言って、机から離れていく彼女は、何かスッキリしたような表情をしていた。

(でも、あんまり好きじゃないって……そんなにストレートに言わなくても……)

 苦笑いする真だったが、心中では嬉しかった。

 放課後。

 彼が肩から提げた重い鞄を苦しい表情で持って、帰っている途中、目の前には昼休みのポニーテールの女子生徒がおり、その隣には同じクラスの平均的で普通な男子生徒がいた。

 二人は楽しそうに会話しながら目の前を歩いている。

 その姿を見て、真がにこりと微笑んだその時、真と男子生徒は目が合った。

 普通の男子生徒は、笑顔とは少し違う笑みを浮かべて見せる。

 首を傾げる彼の頭を、後ろから来た人物が軽く叩いた。

「ヨっす! 真っち! 元気してたー?」

 毎日、教室で顔を合わせているにもかかわらず、古井新はあたかも久々に会ったような言葉を吐き出す。

「ちょっとそんな顔しないでおくれよー……――」

 そんな彼と話をしながら、真は駅に辿り着くのだった。

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