恋路崩壊―disappointed love―
―― I ――
「……――こと! 真! ちゃんと聞いてるのか!」
目を瞑って闇の中へと意識を引き込まれそうになっていた真は目の前に座っていた人物の声によって、現実世界に引き戻される。そして、目の前にいる、母親の兄、つまりは
伯父の顔は髭を点々と生やして目つきの悪く、第一印象はとても怖いのだが、本当は優しい五十代のおじさんだった。
七階建てのマンションの七階に伯父と一緒に暮らす真。
3LDKの一室は二人で住むには広すぎる空間なのだが、伯父の仕事の関係上、書類や本を置く場所が必要な為、実質、1LDKと言っても過言ではなかった。
二人は今、机を挟んで向かい合っており、真の後ろにはベランダが。伯父の後ろにはキッチンがあり、真の部屋は彼の右に位置している。
キッチンを使っているのは殆どが真で、と言うか伯父がキッチンに立っている姿など一度も見たことが無い。
「今、お前寝ようとしてただろ! こっちは真剣に話してんだぞ!」
眉間にしわを寄せる伯父。
「ごめん。あまりにもおじさんの話が長いから、ちょっと寝てた。それで、何の話だったっけ?」
真剣に甥の事を考えて話をしていた倉崎だったのだが、その一言によってさっきまでの姿勢を根こそぎどこかへと持っていかれてしまう。しかし、今までにしていた話を投げやりにするにはいかず、もう一度、話をし始める。
「だから! 文系と理系、どっちにするのかって話だ!」
十月の初め。夏の暑さは治まって、秋の寒さをちらつかせるこの時期。
真の高校ではつい最近、二学期の中間考査が終わったばかりである。
そして、担任の先生から配られた重要なプリント、今まさに机上にあるプリントは中間考査の成績表ではない。
そのプリントには『理系』と『文系』の文字と、文系ならば選択しなければならない『世界史』と『日本史』の文字が印刷されており、それは明日までに提出しなければならなかった。
通常、再生紙を活用しがちな真の高校でもこのプリントだけは本当に重要なようで、再生紙ではなかった。
「これで人生が決まるって言っても過言じゃないんだぞ!」
「分かってるよ。だから、こうして顔を突き合わせて真剣に話しているんでしょ?」
真剣な眼差しを自分に向ける伯父を、安心させるように「にこり」と微笑んでみせる。
(それにしても、疲れてるのかな……? おじさんの話の途中で寝そうになるなんて……)
そう思いながら、ここ最近の行動を振り返ってみると、納得せざるを得ない。
心中で溜息を吐きながら疲れている体に鞭打って、目下に存在するプリントを凝視する。頭を悩ませている原因は、このプリントも同じだ。
分かりきっているのは英語ができないこと。
「おじさんはどっちが良いと思う?」
「自分の将来決めるモンなんだからな。俺が口出していい話じゃない」
多分、寝ていた時に色々と話してくれてたんだろう。だが、生憎その言葉を聞いていなかった為、伯父からの助言が一切無い中で、自分だけで決断しなければならない事を改めて認識する。
そして、三分間ほど考え抜いた結果、
「理系にするよ」
その道を選んだ。しかし、そんな真に対して倉崎はもう一度、確認する。
「本当に理系でいいのかぁ?」
「ちょっと……さっきと言ってることが違うんだけど? 口出さないって言ったじゃないか」
「断じて、口出ししてるわけじゃないぞ。確認してんだ。理系は大学の学部が仕事に直結するからな。それにお前、数学良かったか?」
疑うように尋ねかける伯父は、夏休み前に返ってきた模試の結果を知らないらしい。
「俺、こう見えても国語と同じくらいに数学ができるんだよ。それをおじさんが知らないだけでね」
「そ、そうだったのか……」
倉崎は一緒に住んでいる甥の事も知らない自分を情けなく思ったのか、何も言い返せず、そっと机の上に置いていたボールペンを右手に取った。
少し酷い事を言ってしまったと真は思う。
「なら、理系で書いていいんだな?」
「うん」
しっかりと頷いてみせる甥の姿を見ながら、ボールペンをノックして、プリントに印刷された理系の文字に丸をつける。そして、自らの氏名を書き始めるのだった。
物事が起こる時には必ず、“前兆”というものが存在する。
「――――ッ!?」
真は自分の目に映ったものに目を大きく見開いた。
目に映ったもの。それは――ボールペンでプリントに描かれた黒い文字が空中へと浮かび上がり、蠢く姿だった。その『倉崎博則』と言う文字羅列は水中を泳ぐ魚のようにただ、空中を漂う。
“前兆”は時として、人に襲い掛かったり、何もせずにただ空中を大人しく漂っていたりする。
今回の“それ”は後者であった。
だが、彼が驚いていたのは、自らの目に映る“異様なモノ”が原因ではなかった。
(なんで……おじさんが……?)
問題は伯父の倉崎がその“前兆”を引き起こしている事にあった。
未だに目の前の光景が信じられない為に、目を擦る。すると、伯父の横に漂っていたはずの“異様なモノ”は綺麗さっぱりなくなっていた。
(見間違いだったのか……? 疲れてるから……?)
そう思い込むことによって彼は、勝手にほっとする。
「おじさん。あんまり、無理はしないようにね」
「……? 急に何言い出すんだ?」
訝しげな表情で「熱でもあるんじゃないか?」と自分の額に右手を当てて馬鹿にする伯父を見て、いらない心配を全て消し去った。
「じゃあ、俺宿題しないといけないから」
「頑張れよ」
倉崎に言葉を投げかけられながら、椅子を立ち上がって、右側にある自分の部屋へのドアを開。中へ入る前に後ろを振り返って伯父の様子をもう一度確認した。
変わったところがない姿を見て、部屋の中に入り、ゆっくりとそのドアを閉めた。
◇
二学期の中間考査がまだ終わっておらず、夏休みが終わったばかりの九月初め。まだ、秋には程遠いような暑さが残っているこの時期。
真は夏休み前にある事を引き受けてしまった為、いつもよりも足取り重く、駅から学校へと向かう。
引き受けなければ良かったのだ、と言われれば、返す言葉も無い。だが、彼は何事も断る事ができない性格だった。
夏休み初めの課外の
そして、断る事もできずに今日も放課後、残ってしなければならないことがある。
当日の出店の内容についてはクラス内で話し合っており、その提案書を放課後書かなければならない。さらにはその提案書が到底通るとは思えないのが、彼のやる気を殺いでいる一つの要因でもあった。
溜息を吐きながら、自分の所属している一年一二組の教室へと入り、窓側の一番奥の列、その列の後ろから二番目の席の前に至る。
「ヨっす!」
重い鞄を床に置いて、席に着いた真の前に一人の男子生徒が姿を見せる。
髪の毛の殆どがくるりと円を描いている男子はその髪と同様に性格も曲がっている。
古井
苗字と名前が真逆の意味である男子は、高校に入学すると同時に行われたオリエンテーション合宿で、真が初めて仲良くなった人物だった。
そんな自分の目の前にいる友人を無視して真は、鞄の中から三百ページほどの文庫本を手にし、黙々と読み始める。
無視した理由は古井の曲がっている性格にある。
「ちょっとー! オレっちの存在を意識しすぎたせいで、現実逃避に走らないでくれるかな? オレっちもそこまで意識されちゃうと困るんだよねー。まあ、オレっちが神々しすぎてぇ、直視できないって言う真っちのそんな気持ちも物凄く分かるんだけど、それでも直視せざるを得ない存在がオレっちだよね!」
右手の親指を立てて見せる友人の発言に耳を傾けながらも、本の世界に意識を持っていかれているふりをする。
それが古井に見抜かれていたのか否かは定かではないが、彼は額に右手の指を当て、「やれやれ」と首を横に振る。
先の発言からも分かるように彼の性格は曲がっている。
自分が世界の中心人物だと思っている。
そんな事を思うのは、この年頃ならば、全員とまではいかないにもそれなりの人に共通するものであるという反論が上がるだろう。しかし、彼は自分の周りの全ての事象は自分の為に起こっていると思っているのであり、良く言えば、極度なポジティブ。悪く言えば、極度な自己中心なのである。
これ以上、自分の席の前にいられると本を読むのに支障をきたすと考えた結果、真は本を閉じて、彼との会話を試みる。
「なんか用?」
大方の予想はついていたのだが、あえて尋ねてみた。
質問を投げかけたのは、自らの駄目な性格を変える試練を作り出す為だ。
「昨日の数学の宿題――」
「嫌だ」
相手が要求を最後まで告げる前に断ること。それが、彼が考えた自分の断れない性格を打開する策だ。それは今まさに友人に対しては成功した。
ほっと安堵の息を吐く。その隙に手に持っていた本を目の前の天然パーマに奪われてしまった。
「返して欲しかったら、オレっちに数学の宿題を貸すしかないよー? というかオレっちは世界の中心なんだから、オレっちの言うこと聞けないはずがないよね!」
「にひひっ」と笑い、本を持った手を天然パーマの頭上に上げる。
真が数学の宿題を諦めて渡そうかと思っていたその時、古井の背後から同じクラスの女子生徒が近づいてきていることを確認し、深く溜息を吐いた。
その瞬間、古井の手の中にあった文庫本が背後から接近していた女子の手によって、奪い取られてしまう。
「え? あれ?」
文庫本が自分の手の中から無くなり、後ろを振り向こうとした彼の頭はその文庫本の角によって叩かれる。
「うわっ! 角はやめろよ!」
「山下くんをイジメないの! はい! これ返してあげるから、あたしに数学の宿題貸して!」
「にこり」と悪魔的な笑みを浮かべる彼女の名前は
真は嫌々ながら、宿題を完璧にこなした数学のノートを廻に手渡し、それと同時に古井に盗られるまで読んでいた本を彼女から受け取る。
「ありがとー! 数学までには返すからねー!」
そう言って、真の席の傍を走り去っていく彼女を不機嫌な表情で見ていた人物は、その表情のまま、本を持った男子生徒へと視線を移す。
「なんで、オレっちに貸さないであいつに貸すんだよ! 普通、逆だろ、逆!」
「どちらかと言うとお前より廻の方が面倒だから……かな……?」
真は夏休み前に一度、廻に宿題を見せるのを断ろうとした事があった。というよりも見せようか否か迷っていただけなのだが、一瞬にして、腕を背中へと持っていかれ、関節技を決められてしまうのだった。
つまり、真は弱肉強食の世界に負けたのである。
その記憶が呼び覚まされ、このままでは古井にも同じ行為をされるような気がしてきた為に口を開く。
「てか、お前ほどの実力があれば、数学の問題を解くのなんてチョロいだろ? 世界の中心の男なんだからさ。数学くらい朝飯前なんじゃないの?」
苦いものを無理やりに食べさせられたような表情をする古井。それに対して、彼の目の前にいる真は、してやったりと口元を少しだけ歪めてみせた。
「廻が写し終わった後に勝手に借りるから、別にいいよ!」
頬を膨らませながら、真の席から離れていく古井にそれ以上視線を向けることは無く、窓からの俯瞰風景に目を止める。
古井が自己中心を“演じていること”には気が付いていた。それが何かのきっかけで暴発してしまわないかと懸念してはいるものの、そこに足踏み込んでみようとは思わない。それは古井自身の問題であって、真が軽く踏み入っていい問題ではないからだ。
教室は三階に位置しており、今現在、彼が見ている俯瞰風景もそれなりの光景である。
この景色を見て、ある衝動に駆られる者もこの“学校”と言う場所においては決して少なくないだろう。いや、学校だけじゃない。会社。職場。人間関係。
それぞれ、“社会”というものは様々なストレスや悩みを抱えてしまう枠組みであるから。
真のノートを写す、教室で唯一のポニーテールの女子生徒、廻くるりのその行為が、ストレスや悩み、非日常を生み出す原因となる。
だが、真は自らの目に映るこの光景が“非日常”になることこそが、彼にとっての“日常”そのものであった。
彼の視覚や聴覚を刺激するものは、まさに彼にとっての日常。
『フラれてしまったの……悲しいわ……助けて……悲しいの』
その“前兆”は後者――大人しい方の部類であった。
そして紛れも無く、その前兆は廻が文字を書いた瞬間に真の鼓膜を刺激し、それと同時に眼球を以ってして得られる情報をも釘付けにしてしまう。
黒い文字が廻の握るシャープペンによって描かれる中、その文字はノートから遊離し、列を成してまるで小さな虫が蠢くかのように、天井へと伸びていく。
その様子は、目の前の光景に
伸びていた文字羅列は一つのカタチを形成した。
カージオイド。そして、ハートマーク。
しかし、次の瞬間にそのハートマークには亀裂が入り、文字は空中へとバラバラに飛散した。
『愛して……私を愛して……』
(この前兆……失恋なのは間違いない……だけど、廻から……?)
今起きている前兆と同じようなものを見るのは、入学当初から数えて、これで三度目の事だった。その為、その前兆が失恋である事が見ただけで分かったのだ。
その失恋を廻も経験し、そして前兆を発生させた事に、真は失恋というものの心の傷の大きさを知ることとなる。
朝の
その時の彼女は女子生徒たちと楽しく会話をしているところだった。
(友達との会話が……心の傷を埋めてるのか……?)
真はぶるぶると首を横に振って、その考えを頭の中から宙に飛散させる。
“前兆”はその人が文字を書いている時にしか起こらない。
文字を書いていない時に前兆が現れないのは当然のことなのだ。
そのままじっと廻の様子を窺っていたのだが、端から見ると何か勘違いされるかもしれないと思い、本を自らの手にとって、挟んだ栞のページから読み進め始める。
「……? お昼ごはんは?」
本の世界へと意識が引き込まれる前に、隣の席の女子生徒、
机上の栞を再び本に挟んで閉じた後、肩よりも少し伸ばした黒髪で、二重瞼の切れ長の目の豊川を見た。
「ちょっと……ご飯食べられる気分じゃなくて……」
「気分でも悪い……? 保健室行ったら?」
真は微笑んで、否定の動作で答える。
(あんなものを見た後じゃ……それに廻……)
先の空中にハートマークを描いた文字羅列を思い出すと、嫌な気分になる。
それは、能天気で何も考えていないように見えた廻が、ストレスや悩みの化身とも呼ぶべき、文字が浮き出る現象を起こすなど、微塵の予想もしていなかった為だろう。
そして、隣の彼女に尋ねる事にした。
「豊川は失恋とかしたことある?」
「私? うーん……」
顎に手を当てる素振りをする豊川だが、その行動は何かを思い出しているものではなく、話すか話すまいかを考えているものだった。そして、決心がついたようで少し手をもじもじさせながら恥ずかしげに話し始める。
「私は中学の時にした事あるよ……詳しい事は言わないけどね」
こうやって彼女が自らの恥ずかしい話でも真に話せるのは、彼の事を信頼しているからである。二人は小学校から高校まで同じ学校で、所謂、幼馴染というものだ。その為、二人の中は非常に良く、信頼も高い。
「……悲しかった……?」
「うん。一週間くらいは立ち直れなかったかな……けど、なんで急にそんな事知りたいの?」
「いや、その……いろいろと、理由が……」
訝しげな表情を浮かべる隣の豊川に真は言葉を濁す。“異様なモノ”の事を軽率に彼女に話すわけにもいかずに回答に困っていたところで、彼女は何かを思い出したように話題を変える。
「それより、今日の放課後、残っとくの忘れないでよ?」
勿論、放課後に残ると言うのは学園祭の話し合いの事で、真と同様に豊川も学園祭の委員だった。
そんな彼女の発言に頷く。すると、彼女は友達に呼ばれてその場から離れていった。
真は胸を撫で下ろす。
(危なかったー……)
「ふぅー」と息を吐いて本を開き、栞を机上に滑らせて、本の世界へと意識を吸い込ませた。
真は本が好きであり、毎日、大量の本を持って学校に登校している。しかし、それはただ単に「本が好きだから」という理由のみで済ませて良い話はなかった。
彼自身にとって本は必要なものであるから、“何度も読んで内容を覚えてしまった本”を、どれだけ重たかろうが十何冊も鞄に入れて持ち歩いている。
今まさに手に取っている文庫本は、読み飽きるくらい読んだ本ではなく、一度も読み終わった事の無い本であり、貴重な本であるから、“無駄にはできない”。
真の本を読むという行為は彼の母親によって教えられたものだ。小さい頃から本に触れさせられたおかげで、今では年に何千冊という数の本を読む『本の虫』となっていた。
だが、彼の本棚は、決して本を捨てているわけでも、売っているわけでも無いのに一向に埋まる気配が無い。それは“当たり前の事”であった。
昼休み、授業、と淡々と終わっていき、放課後になった現在。
真は部活に勤しむわけでは無いので、普段どおり、帰路に着くつもりであったのだが、学園祭の話し合いが残っている。
それと同時に極力、避けたい事態が彼の帰宅を待っている。その為、避けられる方法があるのならば、実行せざるを得ない。
(豊川……少しだけ遅れるけど、許して……)
心中で隣の席の幼馴染に謝りながら、その避けられる方法を実行しようと、机の上に重い鞄を置き去りにして、一人の女子生徒の背中を追いかける。
避けるためには彼女の心の悩みやストレスを解消する必要があった。
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