―― VII ――
目を開けると、エレベーターを降りたところで突っ立っていた。
見慣れたマンションの風景と思って、辺りを見回して、自分が今どこの階にいるのか確認すると、七階だった。
その後、自分の制服を確認するが、血は付いておらず、右手の甲の怪我も治っている。背中の痛みも消えていた。
エレベーターの中での出来事は夢だったのかとも思う。だが、夢ではないと証明するものはあった。
鞄の中に入れて、持ってきていた二冊の文庫本が、消えていた。
それを確かめるに至った時、真は溜息を吐いてみせる。それには、安堵の息も混じっていたのかもしれない。
文庫本が二冊無くなっているのは、彼女の中の黒い蛇を消し去ったのと同義であるから。
週休二日制の世の中。
その休みの日に当たる土曜日、にもかかわらず彼の伯父は、仕事で出払っており、彼はズボンのポケットから鍵を取り出して、家に入っていった。
誰もいないリビング横の自分の部屋へと足を踏み入れて、制服のままベッドに横になる。
エレベーターの中でのことで疲れたのか、瞼は重い。
そのまま彼の意識は、夢の中へと誘われる。
そんな彼を起こしたのは、マンションのインターホンの音だった。
連続的に鳴り響くその音に起こされ、目覚めの気分は良くない。
部屋にあるデジタル時計を見ると時刻は、午後八時を回っており、携帯電話には数件の着信履歴があった。
それらは全て伯父さんからだった。
SNSアプリにも何件かメッセージがあったが確認せず、尚も鳴り響いているインターホンに、リビングへと向かうと真っ暗。すぐに電気を点けて、訪問してきた人物の映像を見る。
首を傾げる彼の見ている画面には、二人の女子高生が映っていた。
外はすっかり暗くなっているにもかかわらず、訪ねてきた二人と会話する為に画面横のボタンを押す。
「……どうしたの、豊川?」
クラスメイトであり、幼馴染の彼女の名前を呼ぶと、その隣にいたクラスメイトの女子も反応する。
『ごめん! 降りてきてもらっても良い?』
「……わかった」
もう一度、同じボタンを押して、画面を暗くする彼に断る理由は無く、ちゃんと鍵を閉めて家を後にする。エレベーターを待つのも面倒だったので、横の階段から一段飛ばしで下りていく。
一階のロビーへと辿り着き、エントランスの方を見ると、ガラス越しに制服姿の女子が二人。
エントランスの自動ドアを通って、彼女たちの前に行くと、豊川は申し訳なさそうな顔をしながら口を開く。
「ごめん……高比良さん泊められなくなっちゃった……何回もメッセージ送ったんだけど?」
「ああ、寝てた…………てか今なんて言った?」
「泊めれなくなっちゃったの。ごめんね」
胸の前で両手を合わせる彼女の横にいる、眼鏡を掛けた女の子と真は目が合うと、彼女はすぐに頭を下げる。
「お風呂には入っちゃって、私の着替えも貸してるから。あとは夜ご飯と寝るとこだけなの」
急いでいる様子の豊川は、考える暇を与えてくれそうにはない。
諦めて受け入れるしかないのだろう。
「……分かったけど、布団が……」
「真が地べたで寝れば済むことでしょ。じゃあ、急がないといけないから! 本当にごめん!」
豊川は、こちらに手を振りながら走り去っていく。それに高比良も小さな手振りで答えた。
残された二人。
黒縁眼鏡を掛けた彼女は顔を俯けており、真は頭を掻いて目を他の場所へと移しながら口を開く。
「じゃあ、行こう……か?」
彼の言葉に小さく頷いて、マンションのロビーに入り、エレベーターへと乗り込んで、七階のボタンを押す。
エレベーターの動きは正常で、七階から上に行く事はなかった。
鍵を開けて、彼女を誰もいない家の中に入れる。
伯父が帰って来るので二人きりになることはない。はずだった。
彼女をリビングへと通し、そのまま彼女をリビングで待たせ、自分の部屋に戻って着信の入っていた携帯電話を確認すると、今度はメールが来ていた。
顔を引きつらせる真の見たメールの内容は、伯父が仕事の都合上、出張しなければならなくなり、明後日の月曜日にしか帰って来れない、というものだった。
(……これって……二人だけってこと……?)
心臓の鼓動が速くなっていくのが聞こえ、携帯電話を水没させてしまうのではないかと言うほどの手汗が溢れ出る。
時を刻む時計の音すら聞こえない状況の中、彼女をリビングに突っ立たせているのを思い出し、自分の両頬を両手で叩いた。
リビングへと赴いてみると、やはり彼女は佇んでいる。
「鞄に……着替え入ってる?」
豊川が渡したという着替えが見当たらなかった為に生まれた質問に、彼女は頷く。
「お風呂は入ったんだよね?」
肯定の動作。
「ご飯食べた?」
否定の動作。
(ご飯食べてないって、さっき言ってたな……豊川は食事にでも出かけたのか……?)
そんな考えに及んだ時にお腹は鳴って、まずやらなければならない事は決まる。
「……ご飯作るから、テレビ見てていいよ」
そう言って、リビングの彼の部屋の入り口とは対面にあるキッチンへと赴いて、冷蔵庫を開ける。そして、すぐに閉める。
毎日見ているものなので、ある程度は把握していた。
おかずは用意できそうだが、ご飯は炊かなければ無い。
「野菜炒めで良い?」
真の質問に彼女は、首を縦に振る。
「それと手伝ってほしいことがあるんだけど、高比良さんって料理できる?」
失礼な質問だと思ったが、できないのを無理やりやらせる方が、駄目だ。
黒縁眼鏡をかけた少女は、小さく頷いて見せた。
控えめにキッチンへと近づいてくる彼女は、真の前で立ち止まる。
「ご飯がないからさ。炊いて欲しいんだけど、大丈夫?」
炊飯器を指差しながら言うと、彼女は首を縦に振って、手を洗い始める。
それ以降の彼女との会話は、ご飯を炊く事に関してのもので、真自身もそれ以外、今は話すつもりはなかった。
野菜炒めを作るのは簡単だ。野菜と肉を包丁で切って、一緒に炒めればいいだけ。
その為、料理が出来上がるのにそう時間はかからず、ご飯も良いタイミングで炊きあがる。
ご飯と野菜炒めを机の上に並べる。
それだけでは、おかずの種類が足りないと思って、インスタントの味噌汁を並べた。
二人で一緒に手を合わせて、ご飯を食べる。
テレビがついていたおかげで、そこまで気まずい空気にはならなかった。
彼女が片づけをしてくれると言うので、真はその間にお風呂に入ることにする。
お風呂から上がってパジャマ姿でリビングに戻ると、彼女は食器を元あった位置に戻してくれていた。そして、いつの間にか彼女も、制服姿からパジャマ姿になっている。
お礼を言うと、彼女は泊めてくれる上に料理までしてもらったので、やったのだと言葉を詰まらせながらも話してくれた。
リビングのテレビの前に座り込んで、黙り込んだまま、テレビを視聴する。
時刻はもう既に十一時を回っている。
寝るにはいつもより早過ぎる時間だが、寝ないと気まずくて死んでしまいそうな雰囲気だ。
彼女に声を掛けようとした真だったが、彼が声を掛ける前に、彼女の方から口を開いた。
「お母さん……亡くなられた……の……?」
唐突な質問に、真は答えるのが遅れる。
家に母親に関するものは一切ない。写真も仏壇も。それがあるのは、彼の本当の家だ。
一切ないからこそ、出てきた質問なのかもしれない。
同時にもう一つの理由が考えられる。
エレベーターの向こう側の空間での黒い蟒蛇の言葉から、真の記憶が彼女の心に流れ込んでしまっているかもしれない。
彼女の心に干渉するということは、自分の心も彼女に読み取られる可能性がある。
「う、うん……俺がまだ、小さい時に……でもなんで……?」
テレビタレントの笑い声だけがリビングに響く。
彼女はテレビの画面も彼の事も見ずに、ただ俯いていた。
答えようとはしているが、何かがそれを邪魔しているようにも見える。
記憶が見えてしまったから、などと答えてしまっては、頭のおかしい人だと思われかねない。
ならば、自分の方から聞き出してみればいい。
「何か見た……?」
問いかけに彼女は、顔を上げて彼の方へと目を向ける。そして、控えめに頷いてみせた。
「あなたが誰かを……罵倒してるところ……」
彼女自身もはっきりとは理解していないようだが、確実に彼女の中に真の記憶が流れ込んでいる。
その証拠に彼の記憶の中には、鮮明に自分が誰かを罵倒している場面が存在していた。
彼女がその“誰か”までは分からなかった事に少しだけ安堵する。
「実は俺も……見ちゃったんだ……」
口が滑ってしまった。
「過去の弟の言動……」
◇
翌日
あれからの会話は少なかった。
昨日の弟の言葉から、今日のことを心配する彼女の発言と、真の「大丈夫」という会話。そして――――
『なんで……人の為にそんなに頑張るの……?』
何を見て、その質問がでてきたのだろう。
今日の自分の行動からなのか、それとも記憶を見たからなのか。
多分、前者で、彼女は真の記憶の一部分しか見ていない。
一番強い、感情の表れた記憶。だから、罵倒した場面だったのだろう。
彼女の問いに、彼は答えられなかった。
黒い物体が告げた言葉が、彼の頭の中を過ぎって、自分でもよく分からなくなった。
朝起きて、リビングから彼の部屋のベッドで寝ている彼女を見てみると、彼女も真の目覚まし時計の音で目覚めたようで、目を擦りながら体を起こす。
黒縁眼鏡を外している彼女の姿は初めて見た。真はつけていない方が可愛いと思ったが、今は口には出さなかった。
制服に着替えて彼女と真の二人きり。ではなく、豊川も合流して三人で学校に向かう。
その道中、豊川はずっと顔に心配の色を浮かべていた。昨日、高比良の弟と交わした約束のことである。
本気にすることはないと言っているにもかかわらず、真は美術部の部室に行こうとしている。
学校に着いた時、豊川は真を助けてもらおうと、当てにならないかもしれないがある人物に声を掛けてみた。
「なんだい、豊川さん? オレっちの魅力に今頃気づいて告白でもしに来た?」
「……一瞬でもあなたに頼もうとした私が馬鹿だった……」
「えっ? ちょっと、待ってよ! 豊川さん!」
頭を抱えながらその場を去ろうとする豊川。彼女を止めようとするのは、彼女と同じクラスで、真と良く話している、友人の古井新であった。
「……何があったの? 豊川さんがそんなに焦ってるとこ初めて見たけど……」
豊川の真剣な様子からただ事ではないことを察したのか、彼も真剣な表情になる。
豊川は、彼に事情を話した。
それを聞き終わった彼は、少し考えるような素振りを見せてから、口を開く。
「別に何もしなくてもいいっしょ。そいつ、オレっちと同じで友達少ないような匂いが……って豊川さん、そんなにオレっちを哀れむような目で見ないでくれるかなー? 照れちゃって集中できないよぉー」
真剣に答えているのか分からない彼の言動に、ため息を吐きながら、彼女は話す。
「そんなこと分からないでしょ……」
「でも、あっちは今年受験なんだよねー? なら、
古井の言うことも一理ある。だが、彼の言葉だけでは、彼女は不安を取り除けない。
そんな彼女の顔を見て、
「そんなに心配なら、美術部見に行けばいいじゃないかー」
そう言う古井に背中を押されて、客が疎らに入り始めた校内に入った。
階段を上って、美術部のある三階へと向かう。
見つからないようにそっと、美術部の部室を覗き込んでみると、そこには三人の人物がいた。
一人は高比良明乃。一人は山下真。そして、あと一人は見たことのない男子だった。
「あれが高比良さんの弟ね……」
豊川が、三人には聞こえないほどの小さな声でそう呟く。
すると、タイミング良く、三人の会話は始まった。
「昨日と同じ時間帯って行ったのになんでもう来てるんですか? あなたは姉の何なんです?」
「……友達だ」
睨みあう二人。真の後ろで怯えている高比良。
真は、彼女の記憶の中の弟の様子から、一つの疑問を投げかける。
「お前は自分の姉に何を望んでるんだ?」
「はい? 急に何ですか?」
質問の意図が分からないようで聞き直してきた。
当たり前だ。急にそんな質問をされても、答えられる人物の方が少ないだろう。
だが、真は答えさせたかった。何としてでも。
「お前が彼女に酷い事を……暴力を振るうのは、ただのストレス解消なんかじゃないような気がする」
「なんで、俺が暴力振るったって決め付けるんですか? 俺が姉ちゃんに暴力振るった証拠って何かありますか?」
まだ、
「自分より何もかも劣ってる彼女に、そんなにまで拘るのは――――何か劣ってない事があるからか?」
「……知った風な口聞くな!」
淡々と、冷静に答えていた弟が、初めて声を荒げる。それは自ら図星だと言っているようなものだった。
「俺が……姉ちゃんに劣ってるだと? こんな奴に、俺が劣ってるとこなんてあるはずないだろ!?」
真の後ろにいる彼女を指差した。
その瞬間、弟の視線が泳ぎ始める。視線だけでなく、首を動かしながら、キョロキョロと周りを見て、その足を一歩また一歩と退かせた。何かに怯えるように。
三人の周り、教室には彼女の描いた絵が展示されているだけだ。
怯える原因は、それ以外あり得ない状況だった。
彼が恐れているのは、彼女の絵の才能。
彼自身ももう、真に気付かれてしまっていることを察したのか、顔に笑みを浮かべて、話し始める。
「俺に絵の才能はない……姉ちゃんの方が上手い……それ以外は俺の方が上なのに、それだけは勝てない……そんな俺を見下してるんだろ……?」
姉に問いかける弟。弟の問いかけに答えない姉。
ずっと、真の後ろに隠れている彼女を、真ごと睨めつける。
「答えろよ!」
その怒号に彼女はその身を震わせる。
数秒間の沈黙。その間に弟は姉が答える気がないと判断して、もう一度、声を荒げようとした時、彼女は何かを呟いた。
小さすぎて聞こえなかった言葉を彼女は、繰り返す。
「……違う……私は羨ましかった。勉強もスポーツも……何でもできるのが……羨ましかった……お父さんとお母さんに期待されてるのが羨ましかった! 私にも期待して欲しかった……かまって欲しかった……ずっと、ずっと我慢してた……」
真の陰に隠れていた彼女が初めて、前に出る。
一度吐き出してしまった言葉は、溜めてきた言葉は留まることを知らない。
「私にはこれしかないの……私を認めてもらうにはこれしかないの! だから……これだけは……私から、盗らないで……!」
彼女の最後の願いなのかもしれない。
それを聞いた弟は、何も言わずに美術室を後にしてしまった。
姉弟の関係は良くなったのか。真はそれの役に立ったのか。分からない。
それに、全てを吐き出した彼女の安堵した表情を見て、彼は満足してしまった。それ以上は望まない。
自己満足だと言われれば、そうだろう。否定はしない。
だが、確かに収穫はあった。
月曜は代休で休みとなり、一週間の学校のはじまりの火曜日。
午前中は学園祭の片付けが主であり、豊川とともに体育館に借り出されていた。
彼女の事が気になっていたので、自然と体育館でクラスで集まった際には見つけられなかった彼女の姿を探していた。
すると、控えめなツインテールで黒縁眼鏡を掛けた女子生徒は、彼女の方から声を掛けてきた。
「や、山下くん……」
小さなか細い声が耳に入る。
彼女に名前を呼ばれるのは初めてであるような気がした。多分、それは間違いじゃない。彼女から話しかけられる事が、まず珍しい事だ。
「ちょっと来て……」
そう言って連れて行かれるのは階段を一階上がった場所にある、美術部の部室の前。
中に入ると、もう殆どの絵は片付けられていたが、一つだけ布が被せられた大きな絵だけが残っていた。
「文化祭の時に……少し書き直したの……」
そう言いながら、彼女は恥ずかしそうに布を捲った。
表れた大きな絵には壮大な景色が描かれ、同時にそれは遠くから見ると、笑っている少女の顔のようだった。
「……すごい……」
絵には詳しくなく、その言葉しか思いつかなかった。
しかし、彼女は真に微笑んで、
「ありがとう」
と、一言。
それだけで満足だった。
美術室を出て、体育館へと戻る為に階段を下りている時、ふと思う。
(俺も……気持ちを吐き出したら、高比良みたいに笑えるのかな……)
階段を下りていた足が一瞬にして止まり、和らいでいた表情も固まる。
「あるはずない……か……」
◆
少女は、絵を描く。弟は、そんな姉を見て、真似して絵を描く。
姉のようには上手く描けない。
それでも、姉は絵を褒めてくれた。自分より下手でも。自分より汚くても。
それが嬉しくて、絵を描いた。夢中になって、楽しくなった。
姉も弟と同じだった。
弟が絵を褒めてくれた。だから、彼女は夢中になって描き続けることができた。
「おねえちゃんの絵! だーいすき!」
笑顔で言われたその言葉。それが彼女の原点だった。
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