第22話 アルブクーク動乱・その2


 貴音たかねのなかで、時間がとまったような気がした。一瞬一瞬が何百倍にも引きのばされ、壊れた映写機のフィルムでも見ているようだった。


 貴音の目の前で、リーチェの腹から刀が突きでていた。

 鮮血の飛沫が、顔にかかった。


「姐さん!」


 やけに間延びしたレアーレの絶叫が聞こえる。


「う……うおおおおっ!!」


 リーチェは獣のような声をあげ、サーベルで後ろを薙いだ。

 サーベルが敵を感知し、上半身をズタズタに斬り裂いた。つづいて、突き刺さった刀身をへし折る。


 リーチェは、がくりと膝をついた。


「リ……リーチェ!」


 うずくまって腹を押さえるリーチェを、貴音は抱きかかえた。背中には、まだ刀の切っ先が刺さったままだ。

 敵の最後のひとりを倒したレアーレが、何事かわめきながら、リーチェの背中からべっとりと血のついた刀身をひきぬいた。

 リーチェは歯を食いしばり、体をぎくんと震わせて、激痛に耐えた。


「姐さん! しっかりしてくれよ!」


 レアーレが涙声ですがりつく。リーチェは、苦痛に顔を歪ませながらも、にやりと笑ってみせた。


「だ、だいじょうぶさ……ぬかったよ、このあたしが……ちきしょう……」


 リーチェは、傷口を押さえてうめいた。


「どこかへ隠れるんだ。傷の手当てを……!」


 隠れられそうな部屋はないかと、哲夫てつおは周囲を見まわした。

 だが、リーチェが強い口調でいった。


「駄目だ! そんな暇があるもんかい。艦首へむかうんだ」


 リーチェは、血に濡れた指を通路の一方へむけた。


「……この先……この先に、空間破砕砲の砲撃管制室がある。そこまで、あたしを運びな……急ぐんだよ!」


 いい終えると、リーチェは歯を食いしばって、ぶるぶると体を震わせながら、サーベルを頼りに立ち上がろうとあがいた。


「だ、駄目よ、じっとしてなきゃ!」


 結衣ゆいが、涙をぼろぼろこぼしながら、あわてて抱きかかえた。

 リーチェの口からは鮮血があふれだしている。相当な重傷だ。今すぐ治療しなければ、命が危うい。

 だが、治療できそうな場所は、どこにもなかった。


 敵艦のなかで受けた傷としては、あまりにも深すぎた。


「時間がないんだよ……あたしを、管制室まで運びな。いやだってんなら、あたしひとりでいく……」


 リーチェは、ゆっくりと足を踏みだし、歩きだした。血が、ぱたぱたと床へ落ちていく。

 貴音が、ショックの抜け切らない顔で、それでもリーチェの腕を自分の肩へまわした。リーチェの苦痛にならないよう気遣いながら、身に寄り添う。


「ありがとう。助かるよ……」

「いいえ。……大垣おおがきさん、しんがりをお願い」

「ああ」


 リーチェを支えながら、貴音は歩きだした。






 貨物場は、砲声と、火炎と、絶叫に包まれていた。


 丈昭たけあきはつづけざまに砲撃した。できるだけ派手に、できるだけ多くの敵を、こちらに引きつけなければならない。

 盛んに旋回をくりかえして派手に動きまわる戦車に、敵は肉薄して高周波ブレードで車体を切り刻もうとする。


「追いつかれるな、刀にやられるぞ!」


 車内に、丈昭の檄がとんだ。


私掠しりゃく軍どもめ、風通しをよくしてやる……撃てぇ!」


 何発目かの砲弾が発射され、四、五人の敵が着弾に巻き込まれて吹っ飛んだ。敵はどんどん群がりよって、なんとか戦車の動きを止めようと躍起になっている。標的にはこまらない。

 彼らを牽制しようと、丈昭は注機してある内火艇を砲で撃った。内火艇のひとつが爆発炎上し、あたりを炎の色で染めあげる。


川内かわうち、あと何発残ってる!」

「あと……二四発!」


 次弾を砲へ装填しながら、嘉一よしかずが叫んだ。

 丈昭はせせら笑った。


「余裕だな。よし、手近な標的をかたっぱしから……なにっ!?」


 つぶやきかけた丈昭の眼前に、ズズズ、と横から光るものがすべりこんできた。かすかに蠢動する細長い金属。敵の高周波ブレードだ。

 驚いて入ってきた根元を見ると、砲塔を貫いて刀がのびている。横に取りつかれたのだ。

 見つめる丈昭の目の前で、刀は、そろそろと装甲を裂きはじめた。戦車の装甲は厚く、さすがに切りがたいのか時間がかかるようだが、このままでは、車長席にすわる丈昭の脚まで切り落とされかねない。


葉山はやま、敵に取りつかれてるぞ! もっと急旋回できないのか!」


 冷汗が吹きでてくるのを感じながら、丈昭は叫んだ。


「これ以上は無理です!」


 車内通話用のヘッドセットから慶太けいたの悲鳴が返ってくる。丈昭の切迫した声に思わずふりむいた嘉一は、刀を見てぎょっとした顔になった。


「車、車長!」

「あわてるな! 川内、拳銃を貸せ!」


 嘉一は、ホルスターから拳銃を抜いて、丈昭へ手渡した。


「四発しか残っていませんが!」

「かまわん、充分だっ」


 丈昭は9ミリ拳銃の感触を右手におさめると、ひとつ深呼吸をしてから、キューポラハッチを開いた。黒煙と熱気に包まれた空気が、ごおっと顔を襲う。


 前部装甲の上に立って、いまにも刀を突き立てようと構えていた敵が、物音にふりむいた。丈昭に気づき、刀を持ちなおして斬りかかろうとする。丈昭は瞬間的に、三発の弾丸を相手の体へたたきこんだ。

 つづいて腕を横へまわし、刀を砲塔へ突き立てている敵に銃口をむけ、引き金を引いた。

 敵の額にボッと穴があき、後頭部から脳漿を撒き散らしながら床へ落ちていった。


 丈昭は、突き立ったままの刀身を、指でつまんで引きずりだし、投げ捨ててからキューポラを閉じた。


「もういちど、水平発射だ!……敵の多いところを狙えよ」


 車長席にすわりなおして、丈昭はいった。

 戦車はいっそうスピードをあげ、敵に取りつかれないように激しく動きまわった。発砲、着弾、爆炎。


 その様子を、ひとりの男が、壁のプラットホームから見下ろしていた。


「なかなか、おもしろい兵器だな」


 男は、口の端をつりあげて笑った。楽しくてたまらない、といいたげに。


「地球に降りたときには、見なかったが……地球人どもめ、なかなか愉快なショーを見せてくれるものだ」

「危険です。我々にお任せになられたほうが……!」


 おそらく下位戦士なのだろう、脇に控えていた作業員の男が心配そうにいった。


「危険だと? この俺がか?……貴様、俺を舐めているのか?」


 怒りと嘲りの入り交じった声音で応えると、男は作業員のこめかみめがけて裏拳を放った。

 作業員の頭部が、爆発したようにこなごなに砕け散った。首なし死体と化した体が、ずるずると壁に倒れ込む。


 男は何事もなかったかのように、ふたたび暴れまわる戦車へ目を戻した。


「たかがあの程度の兵器、この俺が軽く仕留めてくれる。……この、ジェミト様がな!」






 ブリッジの正面窓に、貨物場の様子が映しだされていた。地響きをたててうなり、火を噴く一〇式戦車。爆発する内火艇、粉微塵になる下位戦士たち。

 ネルガは憎々しげに、窓に映る戦車の映像を見つめた。


「……あの兵器には、見覚えがある」


 銀色の髪をゆったりとうごめかせ、ネルガはつぶやいた。


「地球製の自走兵器だ……それを、ああまで自在に動かすということは……あ奴らは、地球人か……」


 だが、本当にこれが、あの貧弱な臆病者の集団である下賎な地球人の戦いなのだろうか。以前地球へ下りたとき、戦士であるにもかかわらず、苦痛と死の恐怖に泣きわめくという下等生物を何匹も見てきたのだ。それを思うと、信じられない気分になる。


「地球人め……!」


 ネルガが怒気をこめてつぶやいたとき、艦長席のモニターにコールがかかった。主コンピュータ室からだ。

 ネルガは回線を開いた。


『ネルガ、どういうことか!』


 ベスティアである。


「お姉さま!?」

『さっきから艦の震動が絶えん。艦内で戦闘がはじまったとは聞いたが、未だに収拾がつけられんとはどういうことか! この状態では、プログラムの解析ができない!』

「もうしわけありません、お姉さま」


 ネルガは表情をかたくした。姉は怒っている。無理もないことだが、それがすべてネルガの過失とされるのは問題だった。

 ネルガといえども、ベスティアの機嫌をそこねては、どんな目にあわされるか、わかったものではないのである。


「現在、全力を以て事態の収拾に努めています。いましばらくのご猶予を」

『敵の正体はつかめたのか』

「おそらく、地球人と思われます」

『地球人!?』


 ベスティアの声が、半オクターブ跳ねあがった。


『奴らが、ここまで攻め込めるものか!』

「しかし、事実です。リーチェが持ち込んだ自走兵器を、巧みに使用しています」

『なんだと?』


 ベスティアは、思案げに眉を寄せた。


『……リーチェはどうなっている?』

「未だ、身柄を拘束できておりません」


 しばしの沈黙が流れた。


『……ブリッジに上がる。リーチェの捜索を急がせろ!』

「ハッ」


 そこで回線は切れ、ベスティアの姿はモニターから消えた。


 ネルガは、静かに立ち上がった。美しい銀の髪が、激しくざわついている。

 モニターから消える寸前、ベスティアは失望の色を顔に浮かべていた。それも、明らかに怒気を含んだ表情で。

 彼女は、愛しい姉に自分の指揮能力を疑われたのだ。


 ブリッジのオペレータが、揚陸艇の接近に気づいていれば、こんなことにはならなかったはずなのに!


「この能無しども……」


 オペレータを見るネルガの目は、ぞっとするほど無機質な輝きを帯びていた。






 リーチェを支えながら、貴音は歩いていた。

 反対側を結衣が支え、足元のふらつくリーチェを心配そうに見つめている。リーチェは、結衣に笑ってみせたが、そのあまりの弱々しさに、結衣は顔を伏せて唇を噛んだ。


 腹部からの出血はひどく、リーチェは目に見えて衰弱していた。もはやこうなっては、どうすることもできないのだ。


「姐さん……」


 レアーレが、泣きだしそうな声でつぶやいた。


「なんだい、情けない声をだすんじゃないよ、まったく……」


 リーチェは、口の端を歪めた。

 そんなやりとりを聞きながら、リーチェを支える貴音の頭のなかで、何かが、がんがんと鳴っていた。


 重さは、苦にはならない。防護服のアシストがあるのだから、信じられないほど軽々と運んでいける。

 だが、貴音は脚がふらつきそうになるのを、必死に堪えていた。


(わたしを、助けた……この人は、わたしを助けた……)


 貴音は混乱していた。先ほど起こった現実に、何かしていないと頭がどうにかなってしまいそうだった。

 リーチェが庇ってくれなかったら、きっと自分は死んでいたろう。体が恐怖でこわばって、動くことができなかったのだから。


 リーチェに命を救われたのは、これで二度目である。

 しかも今度は、自分の身代わりとして、重傷を負わせてしまったのだ。


「ごめんなさい、リーチェ……わたしのせいで」


 貴音は、震え声でつぶやいた。リーチェが、ふりむくのがわかった。


「わたし……あなたを誤解してた。あなたも、しょせんは私掠軍だって……裕文さんを殺した奴らの、仲間なんだって、ずっと思ってた……ずっとずっと、あなたを憎みつづけて……わたし、あなたが武器を返してくれたとき、あなたを撃とうとしたわ。……あなたなんか、後ろから撃たれて死ぬくらいが当然だって、思って……」


 リーチェは、貴音の横顔にじっと見入っている。

 貴音は、リーチェとまともに顔をあわせられなかった。


「だけど、あなたは……わたしの命を助けてくれて……わたし、あんなにひどいことばかり言ったのに……」

「貴音……」


 通路が、何度目かの振動を伝えた。きっと丈昭たちが派手に暴れているのだろう。

 リーチェは、しばらく貴音の横顔を見つめていたが、ふたたび視線を前へ戻した。


「知ってたよ、あんたが撃とうとしたのは」


 リーチェのつぶやきに、貴音は眉をあげてふりむいた。


「あんなに、鋭い殺気を感じたのは、久しぶりさ。あんた、やっぱり奇襲にはむいてないね。自分の気持ちに、素直すぎるよ」


 まったく予期していなかった言葉であった。


(知っていた!?)


 貴音は、目を見開いたまま、リーチェの顔を見つめた。

 死相が、色濃くただよいはじめていた。

 リーチェの気高い瞳には、かすかに自嘲するような色が浮かんでいる。

 貴音は、胸の奥に痛みを感じた。


「……し、知っていてなぜ、避けようとしなかったの!?」

「あのとき、あたしは、あんたに撃たれてもいいって、思ったのさ」


 リーチェは、口元を歪め、小さく笑った。

 とても悲しそうな笑みだった。


「ここだよ」


 霞みはじめた瞳で、リーチェはドアを示した。砲撃管制室だ。

 哲夫が、刀でドアを破る。彼らはなかへ侵入した。

 室内には誰もいなかった。リーチェが倒した管制官の死体は、すでに片づけられていた。


「奥へ……」


 リーチェはつぶやき、貴音と結衣は、コンソールパネルのところまでリーチェを運んでいった。

 そのまま、リーチェをそっと床に寝かせる。


「貴音……きいとくれ……」


 苦しげに息を吐きながら、リーチェは、貴音へ視線をむけた。


「あたしは、たいしたもんじゃない。あんたの言うとおり、人殺しの私掠軍さ。……この五年間に、ベスティアの配下として、いったいいくつの世界が滅びるのに手を貸したか、わかりゃしないよ。……もちろん、あたしが直接手を下したわけじゃない。だけど、その世界が滅びるのを防ぐために、何かしたのかといったら、あたしは、何もしなかった。ただただ、ベスティアに信用されることだけを考えて、あいつらに、ずっと手を貸していたんだ」


 いったん言葉を切り、リーチェは、ぎりっと奥歯を噛みあわせた。


「今まで、ずっとあいつらが憎くて、いつか必ず、この手で倒してやるって、あたしは、いつも思ってた。あたしの故郷をめちゃめちゃにした奴らを、いつか絶対に……いつか、家族の仇を、同胞の仇を、とってやる、と。……そう誓って、これまで、ずっとやってきた……だけどね、あんたをみて……」

「わたし?」

「そう。……あんたをみて、あたしは……この五年間に、自分がやってきたことを、思い知らされたのさ」


 リーチェは、ふ、ふ、と苦しげに笑った。口から、血溜りがこぼれる。

 結衣が、耐えきれず、顔を背けた。


「あ……あたしは、あいつらに、目にもの見せてやりたくて、そのためにやることなら、なんだって正しいと思い込んでいた。……他の世界が、滅び去ってゆくのを見ても、ベスティアに信用されるまでのことだと思って、ずっと自分をごまかして、正当化してきたんだ……他の世界の奴らが、死んでいくのを見ても、あたしは、何もしてやらなかった……ずっと、見殺しにしてきたんだよ。この手で、あいつらを倒すまでの、辛抱だ、と思って……」


 意外な思いで、貴音はリーチェの顔を見つめた。

 いつのまにか、リーチェは涙を流していたのだ。

 貴音も、結衣も、哲夫も、レアーレさえも、はじめて見るリーチェの涙だった。

 ぼろぼろと、あとからあとから溢れでる涙を拭おうともせず、リーチェは涙を流しつづけた。


「あたしは……なんて酷いことをしてきたんだろう! きっと、あの世界の人たちは……あたしのことを、呪いながら死んでいったんだ。あたしの同胞とおなじように!……あたしは、私掠軍を倒したかった。……この手で……ひとり残らず殺してやりたかった!……だけど……あたしも、いつのまにか、ただの人殺しに成り下がってたんだ……あそこで、あんたに撃たれてやるくらいしか、あたしには詫びる方法がなかったんだよ……!」


 それ以上、言葉はつづかなかった。リーチェは唇を噛みしめ、喉の奥から絞りだすように嗚咽した。


「リーチェ……」


 貴音は、リーチェの涙を、指先で拭ってやった。


「その言葉だけで充分よ、リーチェ……誰も、あなたを責めたりはしないわ。……わたし、あなたに逢えて、よかった……」


 貴音は、静かに微笑んだ。目尻から、涙の雫がこぼれ落ちていった。

 リーチェは、しばし、それを見つめた。


「……許して、くれるのかい……あたしを……」

「許すも許さねえもねえよ」


 哲夫がいった。


「リーチェさんは、俺たちを助けてくれたじゃねえか。それで帳消しだよ、全部」

「哲夫……ありがとうよ……」


 リーチェは、嬉しそうに目を細めた。


「……レアーレ、あたしの、左のブーツの踵に、予備の記憶素子が入ってる。……そいつを、このコンソールにセットするんだ。……“スクード”は、全自動で動作するようにしてある……いったん立ち上げたら、あとは破砕砲が壊れるまで、撃ちつづけるだけさ。……はは……ベスティアめ……ガキみたいに、のこのこ貨物場まで、降りてきやがるから……ネフリートのコンピュータで、もうひとつ、コピーしておいたのさ……ざまあ、みろって……」

「姐さん!」


 涙で顔をくしゃくしゃにして、レアーレが叫んだ。


「……吠えづら……かかせ……て…………」


 ――それきり、リーチェは何もいわなくなった。

 瞳はまだ開かれていたが、もうそのなかには、何も映っていなかった。


「姐さん!!」


 レアーレは絶叫した。


「……嘘だろ……? ちょっと休んでるだけだろ?」


 リーチェの亡骸に取りすがって、まだ温かい身体を揺らす。

 だが、もはやそこには、誰もいなかった。

 彼の、たったひとりの姐御は、二度と還ることはなかった。


「姐さん、姐さんってば!……返事してくれよぉ!!」


 砲撃管制室を、レアーレの悲痛な叫びが満たした。リーチェの胸もとへ顔を埋め、半狂乱になって泣き伏す。


「リーチェさん……!」


 結衣は、肩を震わせて泣きじゃくり、両手で顔をおおった。あまりにショックが大きかったのか、ぺたんと床へすわりこみ、激しくすすりあげる。

 失うという言葉の意味を、結衣は、生まれて初めて思い知らされていた。

 哲夫は、顔を伏せてかぶりを振り、唇を噛み締めていた。必死に、悲しみに耐えているのだろう。


 ――そして、貴音は。

 リーチェの死に顔を、じっと見つめていた。


 この五年間のリーチェの生きざまは、いったいなんだったのか……貴音は、手をリーチェの顔へ差し伸べ、目を閉じさせてやりながら、心のなかで己に問いかけていた。


 故郷を滅ぼされ、すべてを奪われ、いつか私掠軍を倒すことだけを心の支えに生き延びてきた五年間。


 彼女は、この年月をどう感じて生きてきたのだろう。


 彼女だけではない。それは、自分も同じことだ。そして、彼女がいった、他の『世界』の人々も、きっとそうだったのだと思う。


 彼女らは、そして我々は、ひとつの『世界』のなかで、一所懸命に生きてきた。もちろん、なんの問題もない『世界』などなかったろう。我々と同じように、どこの『世界』もたくさんの問題を抱え、互いに奪いあい、殺しあい、戦火に踏みにじられ、多くの悲惨が世を満たしていたにちがいない。多くのものが、天に唾して神を呪い、己の悲劇に頭を抱えてうずくまり、恐怖におびえ、悲嘆と苦痛の涙に頬を濡らして、打ちひしがれてきたことだろう。


 だが、それと同じだけの幸福と希望も、たしかにそれぞれの世界には存在したのだ。人々は、母の優しいかいなに抱かれ、愛しい人と睦みあい、自然を慈しみ、新たな家族の誕生に胸を踊らせ、ほんの小さな喜びも友や恋人と分かちあい、たくさんの芸術や音楽に触れて、彼ら自身を豊かにしてきた。彼らの歓びは小さなことばかりだったが、それらはすべて価値あるものだった。誰にも侵すことのできない、哀れで、ちっぽけで、綺麗なきらめきだった。

 いつも明日を思い描き、彼らは必死に生きていた。今日はいいことが何もなくとも、明日にはきっと何かがあると、ひたすら信じて生きてきたのだ。きっと何かが、きっと明日には。


 だが、それらはすべて失われてしまった。根こそぎ奪い尽くされ、世界は滅び去り、何もかもが灰燼に帰した。


 貴音のなかで――おそらく初めて、憎しみではなく――私掠軍に対する、純粋な怒りがわいた。


 人々のささやかな幸福も、希望も、夢も、可能性も、未来も、何もかもが、奪いとられ、踏みにじられ、叩き潰されたのだ。そして、それを――


 それをやったのは――




 貴音は、リーチェの右手をていねいに開き、握られていたサーベルを手にした。

 そして、静かにたちあがった。


「大垣さん。わたしが囮になって敵を引きつけるから、その隙にみんなを脱出させて」


 哲夫は、驚いて貴音を見あげた。


「ど……どうするつも――」


 いいかけた哲夫は、はっと貴音の顔をみた。

 貴音の瞳は、何かを見ていた。哲夫にも、結衣にも、けっして見えない何かを。この世ならぬ、けっして手の届かない何かを。


 呼び戻すことは、できない。

 哲夫はそう思った。


「……わかった。気をつけろよ」


 彼は顔を伏せ、ぼそりといった。

 結衣がぎょっとして顔をあげた。貴音は、どこへ行くというのだ!? 哲夫はなぜ止めないのだ!?


「ま……待って貴姉たかねえ! いったい、どこへいくの!?」


 あわてて立ちあがり、外へむかう貴音に取りすがった。


「ね、ねえ……いっしょに、地球へ帰るよね?」


 貴音は結衣を見た。視線がからみあう。ほんのいっとき。貴音の瞳に、これまでとは違う光が宿っているのを、結衣は認めた。

 それは彼女への優しさか、それとも滅ぼされた世界へ馳せた悲しみだったのか。


 貴音は、無言のまま結衣を見つめていたが、やがて、かすかに口元をほころばせた。


 だが、すぐに表情をひきしめ、正面へ向きなおると、砲撃管制室を飛びだして走りだした。


 一路、ブリッジへ。

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