第5話 殺戮の美姫・その3
「うう……」
思わず頭へ手をやると、ぬるりとした感触があった。目の前へもってきた指に、べっとりと血がついている。
「くっ……」
貴音たちのいたプレハブ宿舎は、ロケット弾の直撃こそ免れたものの、爆風のあおりを受けて柱の骨組みが曲がり、天井が崩れ落ちていた。
背中を細い鉄骨に打ちつけられ、痛みに顔をしかめながら、貴音は腕のなかの
天井が崩れてきたとき、貴音はとっさに結衣をかばって床へ伏せたのだ。結衣は気絶していたが、怪我はないようだった。
「よかった……」
貴音は安堵のため息をついた。それから、体に力をこめて、なんとか起き上がろうと試みる。
かなりの重さだが、まったく持ち上がらないほどでもない。
「結衣……結衣!」
「ん……」
貴音の声に、結衣はかすかに身じろぎ、目を開いた。しかしまだ意識がはっきりしないようだ。
ぼうっとした瞳をする結衣の頬を、貴音は二、三回たたいた。結衣の瞳に、ふたたび光がやどった。
「あ……
「だいじょうぶ? ここから出るわよ、手を貸して。……
「ここだ。……ったく、ひでえ目にあったぜ。ちょっと待て、俺がどけてやる」
「貴音ちゃん、平気なのか? ひでえ怪我だぜ!」
哲夫は貴音の姿に目を見開いた。頭からの出血も痛々しいが、それより背中だ。迷彩作業服の背中が、血で染まっている。
「たいしたこと、ないわ……それより、警察本部へ……」
「いっても無駄だぜ。あれをみろよ」
哲夫は、自衛隊の宿舎へとあごをしゃくってみせた。その仕草に貴音は視線を転じた。すぐに表情がこわばる。
警察本部も置かれていた自衛隊宿舎は、すでに全体が業火に包まれていた。もはや消火しようにも、手のつけようがなかった。
がらがらと音をたてて壁が崩れ落ち、予備の弾薬に誘爆しているのか、さかんに何かが弾ける音が轟き、爆発とともにいっそう炎が吹きあがる。
巻き込まれないようにそこから離れたところで、まだ生き残っている自衛隊員たちが、目を血走らせ、鬼神のような顔をして、小銃や対戦車弾を携えていた。迫ってくるネルガに最後の、そしてたぶん絶望的な抵抗を試みようというのだろう。
かわいそうだが、彼らは助かるまい……と、哲夫は思った。だが、自分たちはこの隙になんとしても脱出しなければ。あの女――だか、女の形をした化物だかは、こちらの存在に気づいていない様子だが、彼我の距離は五〇メートルと離れていない。
もしこのまま戦闘がはじまったら、結果はそれこそ火を見るよりも明らかだ。
「貴音ちゃん!」
哲夫は貴音にふりむいた。
貴音は、しばし無言のまま、ネルガをじっと見つめていた。
何もかも焼き尽くすような、激しく、昏い、憎悪の瞳で。
が、やがて唇を――血がにじむほどつよく噛みしめると、ふたりに向きなおった。
「しかたないわ……大垣さん、結衣をおねがい。すぐに駐屯地の外へ避難するわ」
貴音は自分のうかつさを呪った。手持ちの武器が、何もないのだ。特災対の要員たちに特例貸与されている9ミリ拳銃は、たった今這い出してきた宿舎の残骸のなかである。そして、今さら崩れたプレハブ宿舎のなかを漁る時間もない。
まだ多くの脱獄囚がひそむ駐屯地の外へ、丸腰のまま出なければならないとは。……だが、やはり今は目の前の危機を脱するほうが先だろう。そしてできるだけ早く、避難民を保護している警官隊――すでにこちらへ向かっていると思うが――と合流して――
しかし、哲夫と結衣が、足元をふらつかせる貴音を抱きかかえつつ歩きだそうとしたそのとき。一輛の一〇式戦車が、轟音とともにプレハブ宿舎の残骸を蹴散らし、三人の真正面に踊りでた。
戦車の砲塔が回転する。搭載された一二〇ミリ滑腔砲が、まっすぐネルガへ向けられる。
砲口は、貴音たちのすぐ頭上にあった。
三人は、驚愕した。
「なぁっ!!」
「ま、まさか! ぶっぱなすつもりか!!」
その戦車の動きに、ネルガも気づいていた。
(……あの砲身の形態! かなり高速の大型弾頭だな、今度は!)
先ほどのロケット弾とは、おそらく比較にならないだろう。口径もこちらのほうが大きいようだ。ということは……衝撃力は速度と弾頭の重さの二乗……おそらく数百倍に達するはず!
「小賢しい!」
ネルガは吠えた。腰に巻いたベルトへ手をやり、はめこまれていた機械を引き抜く。
亜空間転移装置である。拳銃ほどの大きさだ。表面にはタッチキーがならび、淡い光がちかちかと瞬いている。
彼女は、装置を戦車へ向けた。つづいてタッチキーのひとつを押す。
装置の先端から針のようなものがいくつか飛びだし、四方へ展開した。
その中心で、小さな黒い球体が発生し、渦を巻きはじめた。
「後ろへまわって、早く!!」
貴音が叫んだ。結衣の腕をとって戦車の後方へ走り、哲夫もそれにならう。地面に身を投げ出した瞬間、大地を圧する砲声とともに、戦車が砲弾を発射した。
ほぼ同時に、ネルガもタッチキーを押していた。黒い球体が射ちだされる。
球体は戦車へとうなりをあげて突っ走りながら、瞬時に一〇メートル以上も膨れあがった。飛んでくる砲弾を呑み込み、つづいて戦車そのものも空間から攫う。
黒い渦が消え去るまでには、二秒もかからなかったろう。……だが、それに呑み込まれたものは、すべて跡形もなく消え失せていた。
弾道をなぞる形で、駐屯地の地面がきれいにえぐられて無くなっており、そこに存在していたものは、何ひとつ残っていなかった。
「ふん……」
ネルガはうすく笑い、何事もなかったかのように、装置を停止させてベルトへ戻した。
それから五分後、陸上自衛隊
「世界」という言葉がある。人が、ある閉じられた範囲を形容しようとするとき、よく使われる言葉だ。
だがそれは、単体では、いったい何を表しているのか、たいへん不明瞭な言葉でもある。疑うなら、いちど国語辞典を繰ってみるといい。そこには思った以上にたくさんの意味が含まれていることを、あなたは学習できるだろう。
ならば、ふだん人が「世界」と口にするとき、はたして何をもって「世界」としているのか。
ある学問の分野だろうか。この大宇宙のことか。
あるいは、宗教書に描かれているような、数十もの階層に別れた想像上の空間のことだろうか。
もちろん、そうした場合もあるだろう。だがたいていの場合、「世界」とは、この地球上に存在するすべての国々を指しているはずだ。人類が「ここは我々の領土であり、我々の生活圏である」と主張できる土地の範囲であるはずだ。
人類の生活圏の集合体。その一切を含むもの。
だが、それなら「世界」とは、ただひとつしか存在しないのだろうか? われわれ人類が、猿の時代から数百万年もかかって少しずつ築き上げてきた文明のおよぶ範囲。「世界」とは、それしかないのか?
そうではあるまい。まだまだ幼い、成長途中である人類は、きっとまだ気づいていないのだ。生まれて間もない乳飲み子にとっての「世界」が、自分と母親だけの関係でしかないのと同じように。
そのまわりには、数十億もの彼の同胞がいるなどと、幼い頭でどうして理解できようか。
しかし、それは彼に理解できないだけであって、まったく何のかかわりも持たない、という意味ではない。それどころか、同胞の存在なしには、彼の生存さえ確保できないだろう。
そして、やがては彼も成長し、「世界」とかかわっていくことになる。
それはきっと、数千年の昔――まだ「世界」はおろか、「国」という概念さえ確立されていなかった時代、自分の住んでいる陸地の形さえ満足にわからなかった頃でさえ、遠いとおい地平線のむこう、海の彼方との交易があったのと同じだ。
大昔、人は太陽と月と星と、風と気候の移りかわり、そして己の勘と勇気だけを頼りに、まだ見たこともない土地、彼らとは別の人種の住む「世界」へと乗り出していった。あるものは馬に乗って、あるものは帆をあげて。
海のむこう、見知らぬ大地、髪の色も肌の色もちがう人々――人は、どれほどそこへ思いを馳せたことか! 疑うなら、過去の冒険小説を紐解いてみるといい。ほとんどが、外海の荒々しさを乗り越えて、新天地を求めた人々の冒険譚で占められているはずだ。
彼らにとって、「世界」とは彼らの住む土地のことでしかなかった。だから、きっと海のむこうには「別の世界」があるのだと信じ、彼らは胸を張って、あるいは歯を食いしばって、果敢に挑んでいった。
大海原は、いつでも未知の「世界」との接点だった。果てしなく広がる彼女は、いつも残酷な女神だった。晴れやかな笑みをたたえていたはずが、突如として表情を変え、抑えることを知らない感情のままに激しく逆巻き、粗末な造りの船を冷たくなぶり、幾度も打ち砕いた。
真っ暗な海中へ、どれほど多くの者たちが、己の不運を呪いながら無残にも引きずり込まれていったことだろう!
そして、それを乗り越えた男たちの上にだけ、彼女は心からの祝福をあたえ、富と栄光をさずけるのだ。
では……はるか海のむこうの大陸と、島々と、すでに人や物流、通貨とエネルギーでもって密につながり、一体となって久しい我々の住むこの「世界」にとって、「別の世界」とは、何を差すのだろう。
別の人々……別のひろがり……別の宇宙。
そんなものが、あるのだろうか?
――そこは、我々の宇宙とは、まったく性質を異にする虚数空間だった。
その空間には、我々が通常知るような星々のたぐいは存在しない。暗黒が支配する、人類がこれまでに発見したいかなる物理法則も通用しない空間だ。
ただ、その空間は、多くの星々を内包する代わりに、数多くの「世界」と接触をもっていた。
空間には、薄いながらも大気が満ち、粒子流と呼ばれる普遍的なエネルギーの流れが存在した。それは、穏やかなときもあれば、嵐のように乱暴に、荒々しく渦巻くときもある、巨大なエネルギーの潮流だ。
例えるならば、それは多くの「世界」のあいだにだだっ広く横たわる、大海といえるだろう。そして事実、その存在を知るものたちは、それを『
いま、粒子海洋のある“海”域に、一隻の船がただよっていた。
全長は九〇メートルほど。そのあたりは主要な粒子流から離れており、海は“凪”いでいた。
船の、うす暗く、さして広くもないブリッジには、ふたつの人影があった。
前面の窓にそって配置されたふたつのコンソールパネルのうち、右側のシートにひとり。奥まった位置にあり、独立したコンソールに囲まれて、まわりの床よりほんの少し高いところにあるシートにひとり。
おそらく、後者がこの船の船長だろう。
「前方に漂流物発生」
前のシートにすわっている、寝ぐせ頭の黒髪の少年が声を発した。
「発生?」
後ろにすわる人影が、いぶかしげに顔をあげた。
女である。艶を感じさせる顔立ちから推して、三〇代半ばといったところだろう。
ツナギのような上下一体の作業服を着込み、肩口で切りそろえた黒髪を赤いバンダナで締めている。
「そりゃあどういう意味だい、レアーレ? ソナーから目を離してたのかい?」
レアーレと呼ばれた小柄な少年は、心外そうにふりむいた。
「ちがうさ。いきなりわいて出たんだよ。大方どこかの『世界』から弾き飛ばされでもしたんだろ。……ありゃ、生体反応があるぜ」
レアーレの言葉に、女はぴくりと眉を動かした。船長席から降りると、レアーレのもとへ駆け寄る。
「いくつ?」
「えっと、……全部で六つ。ばらばらに反応があるのが三つ、金属製の物体のなかに三つ。……こいつは人工物っぽいな。てことは両方とも人間か。どうする、姐さん?」
女は口元に手をやり、しばし目を細めた。
「……いまの凪状態なら、粒子流に分解される前に回収できるか……よし、前進! 目標はその生体反応。急ぎな!」
「あいよ!」
レアーレは操船用のシンクロ・ヘッドギアを装着すると、エンジンの出力をあげた。
私掠軍船モナルキア号はゆっくりと動きだし、ネルガによって素粒子の大海へ放逐された六人の地球人の回収にむかった。
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