第三十五夜 決戦の極東本部―俺の夢―
「いやあ、今回きみにはずいぶん迷惑をかけてしまった」
「まあ……
病室で出迎えてくれた鳥興
ヒュプノス極東本部を舞台にした攻防から2日後。
棺木、倉狩がいなくなったことにより、ヒュプノス極東本部は指揮者不在の状況が続いている。現時点でまとめ役にもっともふさわしいのがこの鳥興だと言われていて、実際、事後処理におけるごたごたの多くは、鳳透の口を通して鳥興によって解決された。
鳥興は自分はそんな器ではないと言うが、それでも期待する者が多いならと、消極的にまとめ役を受け入れるつもりのようだった。とはいえ、それも次の『棺木』が、総本部によって決定されるまでの話だ。
「私はね、きみを追い出すつもりはないよ。沫倉くんに関しては、経過観察が必要になるだろうが……どのみち倉狩さんもいなくなった今では、人員不足を補うために彼女に頼るのも妥当だろう」
「………」
ほっとしたような、複雑なような、そんな気分。
沫倉
両手をあげて、彼女は安全だから大丈夫だと言うものは、ほとんどいない。あの場で綾見の行動を見てきた鳳透ですら慎重論を提唱したのだから、むべなるかなというところだ。
「まぁ、いちおう、総本部が動くまでは私に全権があるみたいだから。反対してくる人に対しては、こちらでなんとかするしかないねぇ……」
「ええと……、よろしくお願いします」
慣れない『頭を下げる』という行為をしつつ、凌ノ井はこめかみを掻く。
「
「ええと、はいまあ。元気そうでした」
「それはよかった。倉狩さんのやらかしのせいで、きみと病本くんは居づらい環境が続くかもしれないけどね。私も直接は口出しさせないように頑張るから。まあ、よろしく頼みますよ」
「はあ……。はい」
頭を下げてから、凌ノ井は病室の隅で紅茶を飲む鳳透に目をやった。
鳳透は、凌ノ井をちらりと一瞥してから、すぐに窓の外へと向き直ってしまう。あんまり友好的な態度を示してくれるわけではなかった。軽口も叩きにくく、やはり居づらくなってしまって、結局凌ノ井はそのまま病室を出た。最後にもう一度だけ、鳥興へ一礼をしておく。
『お疲れ様でした、マスター』
「おお……。あの部屋、いるだけで肩凝るな……」
病室から出て、腕をぐいぐいと回す。
いるだけで肩が凝ったのは、おそらく鳳透のせいだ。鳥興は人のいいおっさんという感じではあるが、鳳透はとにかく気の難しそうな少女で、凌ノ井とは徹底的にそりが合わない。肩が凝る程度ならまだいい方で、正直、息が詰まるところでもあった。
鳥興は命に別状なし。病本は少し危なかったようだが、無事に持ち越した。ただ、復帰はしばらく先になるらしい。<アリス>は、無事に鋸桐から返還された。そのほか、銃撃を受けて倒れた職員たちも、全員死んだわけではなく、何人かは一命をとりとめている。施設周辺の夢魔も一通り処分が済んでいる。
夢魔退治については、やはり綾見の力が大きかった。彼女の持つ
そしてそれがあったからこそ、綾見を即座に排斥するのは待った方がいいという声も出てきたわけだ。
凌ノ井は一介のエージェントだ。ヒュプノス全体の組織運営事情については、まったく明るくない。だが、『人間の身体を借りて現実世界で行動する夢魔』の存在が、今後組織にどういった影響を与えていくのか。まるで何も起こらないということはないはずだと、思う。
綾見は人間として生まれ、育った稀有なパターンだ。だが同時に、彼女はこれまで多くの人間を殺害してきた夢魔であるという明確な事実が存在する。この辺を、組織の上層部がどう折り合いをつけていくか。想像も及ばないが、綾見のこととなるならば、完全な他人事とも言えなくなる。
「………」
凌ノ井は病院の廊下を歩きながら、考え込む。
『マスター……』
<悪食>が遠慮がちに声をかけてくる。
『大丈夫、ですか……?』
「何が」
『いえ、あの……。なんだか、マスターから生気が、なくなってしまったように感じられて……』
「んー……」
彼女の言葉が、わからないでもない。
確かに今の凌ノ井は、意識の足が地についていないというか、心が宙ぶらりんな状態にある。それは2日前のあの凄絶な事件をきっかけにしていることは間違いない。結局あれは、凌ノ井を取り巻く様々なものを、大きく変貌させてしまった。
親しい知人の死と裏切り。そして自分自身の、過去に対する裏切り。
特にやはり、
かなえられない夢は、凝り固まった解れずに、滞留する。
それを振り払うにはもう、前に進むしかない。
だが本当に凌ノ井
新しい夢、目標を見つけなければという焦燥感がある。それでもまだ、後ろ髪を引く誰かがいる。<悪食>の荒療治は確かに効いた。効いたが、それは凌ノ井の中にあった後悔を、呪いを、完全に消し去るものではなかったのだ。
『……マスター?』
「まぁ、気にするなよ」
凌ノ井はさっくりとそれだけ言って、病院の外を出る。日の光がやけにまぶしい。
「カレーでも食いに行くか」
『えっ、あ、は、はい……』
「どこにする? 店は、おまえが選んでいい」
『じゃあ、あの、えっと……』
やや遠慮がちに、いくつかの店の名前を挙げる<悪食>。以前のように、喜んで食いついてこないあたり、気を使わせてしまっているのだとわかる。凌ノ井は頭を横に振って、努めて明るい口調でつづけた。
「わかった。じゃあその店にしよう。俺もちょうどそこで食いたい奴があったからさ」
『お、欧風ですか? 神南ですか? カツはのせます?』
「カツはのせる! ルーの種類はあててみろよ」
見え見えの虚勢なんか張ってなんの意味があるのか。それでも凌ノ井は、自分の口から出る言葉まで暗いものにするのは、正直御免だった。
「あやみーん! おっはよー!」
登校してきた綾見に、まず真っ先にユミが飛びついてくる。彼女の頭をぽんぽん叩きながら、綾見は短く『おはよう』とだけ言った。
「もうすっかり元気になった?」
「もうすっかり元気になったよ。心配かけてごめんね」
クラスメイトである彼女たちからすれば、綾見は数日前にいきなり学校を欠席し、倒れて病院に運ばれていたことが判明した、という流れだ。その後病院で目を覚ましたのち、姿をくらませたのだから、相当な心配をかけたことだろう。ごまかすのは大変だったが、ヒュプノスの方も手を回してくれたりして、結局はなんとかなった。
大変だったのはこの数日。これからまた、今までと同じ生活が戻ってくる。
致命的に変容してしまった一点としては、自分の正体を知ってしまったこと。だがそれでも、沫倉綾見が沫倉綾見であることをやめない限り、生活そのものが変わってしまうことはないはずだ。
「沫倉、いったい何があったんだ?」
クラス一のイケメン、
「まあ、ちょっとね。大したことじゃないよ。心配かけてごめんね」
いつものぼんやりした顔で、彼にも同じような答え方をする。高木は別段、深く追求してくることはなかった。彼の姉がかつて所属していたという
それから綾見は、そのまま少し離れていた場所に座っている
「田中も、心配をかけてごめんね」
綾見がやや大きめに声をかけると、田中はびくっと肩を震わせてから、振り返った。
「う、うん。何事もないみたいで、よかったよ」
結局、このように普通に学校に戻って、人間として生活できるようになったのは、鳥興黒鵜が綾見を擁護する立場に回ってくれたのが大きい。綾見は取引として、鳥興に自分自身が知るだいたいのことを説明した。
まずは、自分自身と夢現境会の繋がりについて。
実際のところ、<真昼の暗黒>が夢現境会の手引きで動いていたことはない。だが、どうやら夢現境会の方ではこちらの動きをある程度把握していたようだ。彼らの目的は、夢魔の解放。倉狩が話していたそれに、よく似ている。
倉狩鍔芽という女性についても、知る限りの情報を提供したが、こちらは発覚している以上の情報は特にはなかった。彼女は人間ではなく、かつてヒュプノスという組織が生み出した人造人間であること。彼女自身に夢魔を生み出す能力があること。まぁ、そのくらいだ。
「うーん……」
自分の席について、綾見は腕を組んで考え込む。
「あやみん、どうしたの。そんな真面目に考え込んで」
「いや、うん。自分の今後について漠然と思いを馳せていた」
先ほども考えたように、生活そのものが変わることはおそらくないだろう。
ただ、やはり細かいところでの変化は、数えきれないほどあるのだろうな、とも思う。
棺木が死んで、これから鳥興が窓口になるのだってそうだし、おそらくはきっとこれから、自分が凌ノ井について仕事をすることはなくなる。エクソシストエージェントとして、実質の独り立ちだ。メインとサブの関係でサポートについてもらうことくらいは、あるかもしれないが。
それに、気になるのはやはり、凌ノ井鷹哉のことだった。
結局、彼のあらゆる望みは、叶えられることがなかった。
一之宮雀に許してもらえる機会は二度となく、彼女と幸せに過ごすことは二度となく、そして、自らを罰する機会も、仇を討つ機会すら彼は放棄した。それをそうさせたのは、自分と<悪食>、2人の夢魔のエゴだった。
凌ノ井のことだけを考えるなら、彼はあそこで綾見を殺すべきだったかもしれないし、自らの魂を大蛇に食わせてすべてを終わりにするべきだったのかもしれない。だが結局、彼に我を貫くことを許さなかったのは、沫倉綾見と<悪食>だ。
「今後かぁー。そういえば進路どうしようねぇー」
そんな綾見の胸中など気づかないかのように、ユミがのほほんと言う。
「もう進路について考えているの」
「えー。だってあやみん、もう2年生の春だよ?」
「早すぎる。しっかりしてるなぁ」
綾見は特に表情を変えないながらもつぶやき、そしてまた、黙り込む。
「……ユミ、私はね。謝らなければならない人がいるんだけど」
「え、誰? また告白されたの?」
「そういうわけではないけれど」
事情を話さなければならない相手というわけではないけれど、なんとなくユミに相談をしてしまう。今、凌ノ井は救われていないような、そんな気がするのだ。綾見は、自分の悩みを外側だけ、適当なフェイクを織り交ぜて説明する。
きょとんとした表情のユミが、すぐに顔を弛緩させて笑ったのは、そのあとだった。
「うへへ……」
「どうしたの」
「いや、あやみんが相談してくれるなんて久しぶりだからさぁ……。あやみんに頼ってもらえて、嬉しいなぁ」
その気持ちは正直わかる。綾見は無言のまま、ユミの頭をわしわしとかき混ぜた。
ユミは『ひゃ~』と楽しそうに笑って、目をつぶる。
「で、どうすればいいかな」
「あやみんがしてあげたいことをすればいいんじゃない?」
「してあげたいこと」
無表情のまま、ついおうむ返しで聞いてしまう。
「あやみんは、人がしてほしいことを考えるのが上手なんだから、そのまましてあげたいことをすれば良いんじゃないかなぁ……。ないの? そういうの」
「なくはないんだけど」
綾見は、自分の考えているひとつのアイディアを思い浮かべて、首を傾げる。
「なんとなく、自己満足な気がして」
「えー、あやみんはそういうこと、あんま気にしない人だと思ってた」
「というと」
「んーとね。あやみんは、自分のやることが自己満足でも、特に気にしない人かなって。助けたいから助けるタイプの人かなって思ってたんだけど、違う?」
「それは違わない」
ただ自己満足だから躊躇しているわけではないのだ、と、今になって思いあたる。
自分が、そこに踏み込んでいいものかを考えていたのだ。
何かをしてほしいという相手の意に沿うのはそんなに難しいことではないが、してほしくないと思う相手の意に沿うのは難しい。綾見はおせっかい焼きだからだ。
いや違うな。自分がそれをしたいと思っているから、難しいのだ。
結局のところ、綾見は自分の欲望を優先させたいと思っている。
「……うん」
綾見は頷いた。
「結論、出た?」
「うん、出た。ありがとう、ユミ」
「えへへー」
再び顔を弛緩させてはにかむユミの頭を、綾見はわしわしと撫でてやる。
そうだ。結局、自分のやりたいことをやるしかない。もう、中途半端に踏み込んでしまったあとなのだから。ここで引き返すなんて選択肢は、それこそあり得ないはずだ。
夜になる。凌ノ井は家に帰り、そしてそのがらんとした部屋の電気を点けることもせずに、ソファの上で横になっていた。<悪食>はその凌ノ井に声をかけることができない。きっと彼はまた、なんでもないような振りをするだろうから。それが痛々しくて見ていられない。
夢魔として、長い間ただ人に悪夢を見せるためだけに生きてきた<悪食>は、傷ついた人の心を癒すすべを忘れていた。
凌ノ井の心が、救われたわけではないと感じたとき、彼女に去来したのはやはりひとつの無力感だ。自分が無理やり前を向かせることはできても、どこか置き去りにした何かに心を引きずられている。そこに介入する手段を探しても、探しても見つからない。<悪食>にはそれが、ひどく虚しかった。
やがて、凌ノ井が眠りに落ちる。彼の眠りが、せめて安らかであるように、<悪食>は手を出すまいとした。ここで彼にいつもの夢を見せることに、どのような意味があるのだろうか。
『<悪食>さん』
無力感に佇む<悪食>に、ふと声をかける気配がある。
はっとして、意識を傾ける。すでに目を閉じ、眠りに落ちた凌ノ井の感覚を介さずとも、<悪食>は明確にその存在を知覚できた。それは、相手もまた、自分と同じ夢魔であるという証だ。
『あ、綾見さんですか?』
『うん、<私>』
<悪食>の浮かんでいる暗闇の世界に、ぼんやりと、綾見が姿を見せる。いつもと同じ制服姿。夢魔である彼女が、こうして接触を図ることは不可能ではないが、それでも初めてのことなので<悪食>はちょっと驚いていた。
『あ、ようこそマスターの頭の中に。すいません、大したものは特にありませんけど……』
『ああいや、うん。お構いなく』
慌てる<悪食>を、綾見は片手で制する。
『どうかな。凌ノ井さんの様子は』
やっぱり、それを聞きに来たのか。<悪食>は暗澹たる気持ちになる。
それを話すのは、結局自分の無力を証明するようなものだ。話さなくても綾見は察してしまうだろうが、それを自分から言うのは、どうしても躊躇してしまう。
『そっか』
沈黙の果てに、綾見は頷いた。
『綾見さん、どうなんでしょうか。あの時出てきた、一之宮雀さんのこと。綾見さんもちょっと見ましたよね』
『うん、見た』
『あれ、本当に、雀さんの記憶をもとに作られたものだったんでしょうか。マスターを追い込むためだけに、そう言った可能性も……』
『うーん……』
綾見は、夢の中でも変わらない、ぼんやりとした顔で首を傾げる。
『そこは、もう、凌ノ井さんが本物だと思ったかどうかが大事だから……どっちでも大差はないと思うけど』
『ああ、やっぱそうですよねぇ……』
『あの時、私は<丸呑みオロチ丸>と接触して、その時にちょっとした意識の混濁が起こったんだよね』
それは初めて聞いた話だ。綾見がいきなり何を言い出すのかと思い、<悪食>は首を傾げる。
彼女の話はこうだった。綾見と<丸呑みオロチ丸>の2人が白昼夢を展開した状態で接触したことにより、2つの夢世界が混ざり合った。その瞬間、垣根を設けなかった2人の意識の間に、記憶の交流が起こったのだという。綾見の頭の中に、明確に、<丸呑みオロチ丸>の記憶がいくらか、流れ込んできたのだと。
つまりその逆もあり得る。綾見の中にある記憶が、<丸呑みオロチ丸>へと逆流した。その結果、あの夢魔は一之宮雀に関する正確な記憶を得た。
だから、あの一之宮雀が正確な記憶をもとに作られたものだと言っても、それにはきちんと理由をつけることができる。
『真実はわからないけどね』
『でも、それなら……』
<悪食>は、綾見を正面からじっと見た。
『綾見さんは、知ってるんですよね。一之宮雀さんの、正確な記憶を。彼女が最期にどんなことを考えて、何を思っていたのか。知ってるんですよね?』
『うん』
綾見は頷く。
『今日はその話をしに来たんだよ』
そういって、彼女はその手に、小さな結晶のようなものを取り出した。それは、淡く光る小石のようなもの。夢の中の世界では、しばしば、その意識の持ち主によってあらゆる概念が形を持つ。これも、綾見によって形作られた、そうした概念のひとつだ。
『これは、生前の一之宮雀の記憶』
綾見は淡々とした口調で、そう言った。
『<私>がとり憑いてから、死ぬまでの記憶。凌ノ井さんの想像で生み出されたものじゃない、彼女だけの記憶』
その手の中に浮かぶ結晶を、綾見は<悪食>に向けて差し出す。
『<悪食>さんがそれを知りたいなら、これをあげる。一之宮雀が、本当に凌ノ井さんを恨んだまま死んでいったのか、心の底では彼を許そうとしていたのか、<私>の見せる悪夢にどれほど苛まれていたのか。これを手にすれば全部わかるよ』
『え、でも、どうして……』
それを渡してくれるのか。疑問を口にする前に、綾見は答えた。
『必要だと思ったからだよ。今の<悪食>さんには、あった方が良いかなって。でもね、やめておくって言うなら、渡さないでおく。この中に詰まっている記憶がどんなものなのかも、教えない』
『ください』
<悪食>は迷わなかった。綾見の言う通り、確かに自分にとって、今一番必要なものだと思ったからだ。
その小石の中に詰まっているのが、希望とは限らない。絶望そのものである可能性もある。凌ノ井鷹哉に対して向けられる憎悪の結晶である可能性もある。だがそれでも、<悪食>は一之宮雀の真実を知る必要があった。
『ん、わかった』
綾見はそれだけ言って、彼女の真意を問いただそうとはしなかった。
その手にもった結晶は、綾見の掌の上を離れて、<悪食>の中に取り込まれていく。その刹那、彼女の頭の中に、すさまじいまでの情報量と感情の奔流が流れ込んできた。
――それを見て、どうするかは、やっぱり<悪食>さんの自由だよ。
最後に綾見の声が聞こえる。その声を最後に、沫倉綾見の気配が、どこかへと遠ざかって行った。
凌ノ井鷹哉が目を覚ます。目を覚ますとそこは、いつもの薄暗い、石造りの小屋だった。小さな溜息をついて、固いベッドに腰を下ろした。
あの時の悪夢を再現しているわけではない。ということは、これは<悪食>が見せている夢ではないのだ。ただ、自分自身で見ているだけの悪夢に過ぎない。ひどく滑稽な話だと、凌ノ井は思った。結局、あの時の悪夢に取りつかれたままで。凌ノ井は前に踏み出すことがでいていないという、それだけの話なのだ。
自分を罰してしまえれば、それですべてが終わるはずなのに。
それすらできない臆病者だ。生きてほしいという、他者の好意にすがって生きているだけの、みっともない男だ。凌ノ井は、自嘲気味に、口元を緩めた。
「鷹哉」
後ろからふと、声が聞こえる。つい2日前に、聞いた声だった。
凌ノ井が振り返ると、そこには少女が1人。ベッドの上で正座をしている。穏やかな笑みをたたえた、やさしそうな顔。それは、凌ノ井が長らく忘れいていた、一之宮雀の本来の表情だった。
「出たか」
凌ノ井は無表情のまま、言った。
「それで雀、今日は俺に、何を言いに来たんだ」
「今日はね、鷹哉。きみを許しにきたんだよ」
「は……?」
信じられない言葉を耳にして、凌ノ井は動きを止める。
「え、は……? ゆる、……なんて?」
「許しにきたの」
それは、
きっと長い間、凌ノ井鷹哉が待ち焦がれていた言葉だったのかもしれない。ずっとずっと、彼女の口から言ってほしかった言葉だったのかもしれない。だが、そんなことが叶うはずもない。凌ノ井は顔を伏せ、歯を食いしばりながら、首を横に振った。
「う、そだ……」
目の前に現れた彼女の言葉を、信じることができない。
「嘘だ。雀が、俺にそんなことを言うはずがない。おまえは夢だ。俺の、自分の心が、甘えが、許してほしいと思うみっともない気持ちが生み出したんだ。おまえは夢だ。都合のいい夢なんだ。おまえは、一之宮雀じゃない!」
凌ノ井は、心の底からありったけの気持ちを吐き出していく。夢の中で許してもらったって何にもならない。そんなのただの自己満足だ。自分が犯した罪の重さは消えたりなんかしない。
「雀は俺を恨んで死んでいった! 憎んで死んでいったんだ! だから俺は罰せられなくちゃいけない! わかるか! なのに俺はこんな都合のいい、許されようだなんて夢を見ている! こんなこと、あっちゃいけないんだよ。雀! 俺は、きみを殺したんだ!」
「きみは十分苦しんだよ。それで、もういいんだよ」
「ふざけ……」
吐き捨てようとして顔をあげると、そこには相変わらず、優しく微笑む雀の姿がある。
夢の中だというのに、涙があふれてきた。熱いものが頬を伝ってこぼれていく。嗚咽が声を妨げて、言葉が意味をなさない。
こんなことを言う雀の存在が、信じられなかった。自分の知る雀と、思い描いている雀と、何かが決定的に異なっているような気がした。でもそれはどこか懐かしくて、自分の忘れてしまった彼女の本質を、まだ壊さずに大切に持っていてくれているような気がした。
「……雀、俺はずっと、言いたかったことがあるんだ」
涙でボロボロになった顔をぬぐい、凌ノ井は声を絞り出す。
置き去りにした17年を取り戻すことはもうあり得ない。凌ノ井の身体はいつまでも、みっともなく成長した大人のままだ。
「うん。なに?」
「ごめん、なさい……」
ずっと言えなかった言葉。もう二度と言えないだろうと思っていた言葉。
そして今ここでつぶやいたとしても、きっと彼女には届かないだろうという言葉。
「俺、ずっと謝りたくって……! わかってるんだ! 謝って許されることじゃない。俺はきみを殺した。恨まれても仕方がないひどいことをした。憎まれて当然なんだ。でも謝りたかった! きみに許してほしかった! 身勝手だってわかってる! でもおれは、きみに罰してほしかったんじゃない。本当は、許してほしかったんだ!」
すべてを吐き出す凌ノ井の頭を、雀の柔らかい手がそっと撫でる。
隔絶された17年の年月は、2人の差異をよりはっきりと際立たせている。泣きじゃくる少年をあやす少女の手は、もう成長することはない。
「きみが好きだったんだ、雀」
「私もきみが好きだったよ、鷹哉。だから、きみが自分を許すまで何度も、私はきみを許します」
このときはじめて、
凌ノ井鷹哉は、自分を取り囲んでいた鬱屈とした何かが、晴れていくのを感じていた。やり残したすべてのことが消えて、散っていく。かなえられなかった夢はかなえられないままに、砕けて塵になっていく。だからこそ凌ノ井は、前に進めるような気がした。
17年の呪縛が、初めて解けた夜だった。
ヒュプノスゲーム/鰤/牙 カドカワBOOKS公式 @kadokawabooks
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