第三十四夜 決戦の極東本部―ザ・ラストショット―
虚無の中に漂う自らの意思を繋ぎとめたのは、
<悪食>は、出会う前の凌ノ井を知らない。だから、十数年の歳月を経て積み重なっていった凌ノ井の悪夢の根源に介入することはできない。どれだけ言葉を尽くしたところで、凌ノ井の魂は十数年の停滞の中にあり、堆積した自己嫌悪の下敷きから逃れることはなかっただろう。断ち切れるほどたやすい未練ではなく、割り切れるほど生ぬるい罪悪感でもない。自身の心を満たすのは後悔と慚愧であり、突き詰めればそれは自己満足ですらない。
それでも凌ノ井は前を見なければならなかった。また大事なものを取りこぼす前に、冷たい鎖だけを引きずったまま、前を見続けなければならなかった。
声の限りを尽くして届かないならば、自らの存在を尽くすまで。
かくて天秤は傾いた。凌ノ井の相棒たる夢魔は、賭けに勝ったのだ。
どれだけ心が停滞しても、時は流れ人は老いる。そこに日々が重なっていく。助けたい、失いたくないという願いを引き出せたのは、自身と凌ノ井の生きた歳月が、無駄ではなかったという証左。そこには新たな価値が生まれる。
凌ノ井が過去からの脱却を果たしたことが何よりも嬉しく。
そのために自らの存在を賭けられたことがその次に嬉しい。
お願いです、マスター。私を、助け出してください。
本当はもっと自分勝手に生きてほしい。過去に執着せず、助けられなかったことを悔やまず、罪を忘れて奔放に、自らの欲に忠実に生きてほしい。ですが無理でしょう。あなたは優しくてカッコつけだから。
ならばせめて、私を助け出してください。
そうすることで、あなたは前を向かざるを得ない。傷口が開いたままであっても、癒えないままに腐り落ちていくよりはずっと良い。あなたが見る悪夢の半分は、私が肩代わりしましょう。
夢魔の領分を超えた願いであっただろうか。だが、一度生まれいでた願いは止まらず、加速を続けていく。欲望を抱くことの心地よさを、<悪食>は知った。
形と境界を失い、存在そのものが曖昧となった<悪食>は、虚空のかなたに手を伸ばす。自らの主人の場所に手が届くように、祈りながら。
背後から響く怨嗟の声を受けて、凌ノ井は大蛇と退治する。
ふり絞られた彼女の力の一端である、その不安定に揺らめく銃を構えながら。
お前はひどい奴だよ。<悪食>。
この俺に人でなしになれと言うんだからな。
銃の作りは弱弱しく、今にも壊れてしまいそうだ。ガラスのように儚く、陽炎のように揺れているそれは、しかしずしりと重く凌ノ井の手に感触を残す。見た目の頼りなさに反して、しっかりとした手ごたえがあった。
今まで心の中を渦巻いていた停滞感と不安感は、いつの間にか搔き消えていた。目の前を向く凌ノ井の視界はどこまでもクリアで、正面でとぐろを巻く大蛇の存在だけを見据えている。
未練が消えたわけではない。
後悔が解けたわけではない。
罪悪感はいまだに残り続けている。
決して、凌ノ井鷹哉のこれまでの行いが消えることはないけれども。
それでも前に進む力を得た。
二度と叶わうことはなく、解れることもないと思っていた夢は、凝り固まったまま砕け散り破片となった。その中に眠っていた自らの心を引きずり出して、凌ノ井鷹哉は前を向く。夢から醒めた代償は、癒えない傷に向けて放たれる少女の叫び声だった。
――どうして私を殺した夢魔と手が組めるの。
――どうしてそんな光景を私に見せて平気でいられるの。
――ひどいよ、鷹哉。
その通り。凌ノ井鷹哉はひどい奴だ。
何が罪であるかを問うならば、そもそもこの日まで生きてきたことが罪なのだ。あの停滞した時間の中で、埋もれて消えてしまえば何も問題はなかったのに。凌ノ井鷹哉は生きてしまった。生きて、歳月を重ねて、そしてめぐり合い、関わってしまった。その事実までは消せはしない。心を過去に置き去りにしても、時間だけは流れていたのだ。その時間が培った何かが無に帰すことを、凌ノ井鷹哉は看過できない。
その結果、十数年前の罪悪感が、決して癒えない傷として心に残り、血を流し続けることになろうとも。
凌ノ井鷹哉は銃を向け、引き金を引いた。
確かな反動が腕に返る。どぱっ、という音がして、大蛇の身体に大きな穴が空いた。だが、空いた穴は即座にふさがって、大蛇は地面を這いながら大口を開け、凌ノ井を飲み込もうと迫る。
「はァッ!」
横合いから飛び込んできた
自ら夢魔の記憶を取り戻した
綾見はそのまま、視線を彼女の背後に向け、大量に迫る夢魔の軍勢へと向き直った。
倉狩の放った大量の夢魔は、徐々に数を減らしつつあるが、依然としてその量は無数にのぼる。大蛇は時折、近寄ってくる夢魔をその顎に捉えて貪り、嚥下する。いわばこの大量の夢魔はそれ自体が、大蛇のリソースのようになっていた。
背後では
綾見は特に構えをとるでもなく、ただ平然と夢魔の方へと歩いていき、そして拳を振り上げる。その拳の一振りで、数匹の夢魔が消し飛んでいく。彼女の真横から奇襲をしかけた夢魔は、しかし綾見がかざした片腕を前に、不可視の力にさえぎられて動きを止めた。綾見がかざした手をゆっくりと持ち上げると、その夢魔の身体も持ち上がっていき、そして開いた拳を握りしめると同時に、空中で四散する。
「おっかねぇ」
凌ノ井は思わずそう漏らしていた。
彼女にまでそうやって強キャラムーブされると、先輩として凌ノ井の立つ瀬がない。そう毒づこうにも、相槌を打ってくれる夢魔が隣にいない。なんにしたって、目の前の夢魔を倒さなければ埒が明かないということだ。まったく、世知辛い。
蛇はしゅるしゅると音を立てながら床を旋回するように這う。その顔に目は見当たらないが、確実にこちらの動きを捉えているはずだ。凌ノ井は銃口を向けながら、ゆっくりと移動し距離を保つ。
手に持った銃の揺らめきが少しずつ崩れていく。凌ノ井の心にわずかな焦りが生まれそうになっていた。
その一瞬の小さな隙を狙って、大蛇が跳ねる。
「凌ノ井ッ!」
鋸桐の叫ぶ声が聞こえた。跳ねた大蛇の大顎が開かれ、凌ノ井の身体を捕まえる。歯がないと思われていた口内には、小さくギザギザとしたものが細かく生えており、それが凌ノ井をがっちりと固定する。
「ちっ……!」
そのまま飲み込むかに思われたが、大蛇は予想に反してくわえたままの凌ノ井を大きく振り回し、壁や床に何度も何度もたたきつける。苦痛の呻きを漏らす凌ノ井の身体を、大蛇は最後のぽんと放り投げた。
「ぐぉっ……!」
「おっと」
放り投げられた凌ノ井の身体を、綾見が軽やかに受け止めた。
「大丈夫? 手伝う?」
「いや、……俺がやる」
「うん。そうだと思った」
そういって綾見は凌ノ井の身体を地面に起こし、その背中をとんと押す。とんと押して、綾見はそのまま、夢魔の集団へと向き直った。押された背中から、身体全体が軽くなっているのがわかった。
「凌ノ井さん、凌ノ井さんの今の願いはなに?」
後ろから、綾見の声が尋ねてくる。
「……何を、今……」
「<悪食>さんを助けるなら、」
綾見はそこで、言葉をぷつりと止める。
「きっとその願いは叶う」
「………」
それは、ここが夢の中だからだろうか。綾見の言葉の意味を、凌ノ井は吟味する。
振り返れば、綾見がいる。鋸桐は<くろがね>とともに夢魔の群れを迎撃しており、彼の足には<アリス>がひっついて悲鳴をあげている。
そして、こちらを強くにらみつける、
凌ノ井は再び前を見る。這いまわる大蛇めがけて銃を向ける。陽炎のように儚く揺れる銃身を見据え、そのグリップに両手をかけて、静かに目を閉じた。
「(俺の今の、願い……)」
闇雲に撃っていてもダメだとわかる。ただ目の前の大蛇を撃っていればいいという話ではない。
心の中で念じ、望み、イメージを拡張させる。今ならばはっきりとわかる。この銃の力は、相棒たる夢魔の力そのもので、夢魔には望みを叶える力がある。使用者の精神力を代償に、肥大化する力の制御方法を、凌ノ井は感覚としてはっきり認識していた。
銃を貸せ、ではない。力を貸せ、でもない。
凌ノ井にはもっとはっきりと望むべき言葉がある。
「来い、<悪食>!!」
その言葉を口にした瞬間、手にした銃の揺らめきが炎のように大きくなり、どくんという脈動が凌ノ井の手に伝わった。
一丁の銃は風をはらみ、渦の中心点となって光の粒子を集めだす。光は大蛇の身体からだけではなく、様々な方向から集約されて、いま、凌ノ井の手でひとつの人型を紡ぎだしていた。銃の形がほどけ、ゆらゆらと揺らめきながらそれは腕の形を成す。腕から先、肩ができ、身体ができ、頭ができ、足ができる。白いスーツをまとった、獣のような美女が、凌ノ井の手を握ったまま恭しく傅いていた。
「……おかえりなさい、マスター」
<悪食>が艶やかな声で告げる。
「……ああ、ただいま」
凌ノ井はややぶっきらぼうに答えた。
ようやく、あるべき関係が返ってきたような、そんな感じがする。たった数日もないはずなのに、この期間が随分と長く感じた。
感傷に浸る間も惜しみ、凌ノ井は相棒に尋ねる。
「やるぞ、<悪食>。やれるな?」
「もちろんです。いいかげん、私も力を振るえずにストレスが溜まっていましたからね」
「今のマスターならば預けられます。どうかご命令を」
「
「了解」
<悪食>は両手を床につけ、咆哮とともにその身を変異させる。強靭でしなやかな四肢は、そのまま大地を蹴りたてて、虎と化した夢魔が大蛇へと躍りかかった。
大蛇は、凌ノ井への対応と異なり、<悪食>に対しては明確な捕食を試みている。<アリス>の件と言い、他の夢魔を食らう点と言い、この大蛇は倉狩が生んだ夢魔しか食わないということなのか。だが、爪を突き立て引き裂く<悪食>の苛烈な攻撃は、大蛇の反撃を一切許してはいない。
援護射撃を、と思い、凌ノ井は自らの手に銃がないことに気付く。
「おい、<悪食>! 銃を貸せ!」
「んもう……! せっかく調子が出ているのに!」
ぶつくさ言いながら、瞬間<悪食>の姿が明確にブレる。大蛇に躍りかかっていた白虎はその姿を光の粒子に変換し、風と共に凌ノ井の片手へと飛び込んできた。銃は陽炎のように揺らめいたまま、どこかあ<悪食>の面影を残したまま凌ノ井の手に収まる。
「……俺は銃を貸せって言ったんだが?」
手の中の銃は、いたずらっぽく笑って返した。
「たまにはこういうのも良いでしょう? ぶっ放してごらんなさいよ」
「ああ、そう!」
どうにでもなれ、という気持ちで、凌ノ井は銃を目の前に向ける。引き金に手をかけた瞬間、すさまじい反動が肩に返ってくる。虎の咆哮とともに打ち出された衝撃は、天井に大きな穴をあける。おおよそ、小さな銃口から飛び出したにしては不釣り合いにすぎるほどの、巨大な穴だった。
本当の天井が崩れたわけではない。大蛇の生み出した夢の世界を、これだけ破壊するに足る火力であったのだ。
鋸桐たちが、目を丸くしてこちらを見ているのがわかった。
だが、肝心かなめの大蛇はどういうわけかぴんぴんしている。
「外れたぞ!」
凌ノ井が悪態をつくと同時に、大蛇は大口を開けて突進してくる。凌ノ井の片手に収まっている<悪食>が目当てなのは疑いようもない。凌ノ井が必死に逃げようとすると、その横をすり抜けるようにして、綾見が走ってきた。
「ふッ……!」
開いた顎を、両手と片足で抑え込むようにして、進撃を止める。顎を閉じようとする大蛇と、抑え込もうとする綾見の力が、しばしの間拮抗していた。
「外れたんじゃありません。再生したんです」
「なっ……」
「さっき私がつけた傷も治ってますからね……。あのあたりの部位はどれだけ攻撃しても無駄かもしれません。弱点を狙わないと」
<悪食>の冷静な分析に、凌ノ井は絶句する。
「ですからマスター、次はちゃんと弱点狙ってくださいね」
「俺任せかよ。くそっ……!」
凌ノ井は悪態をつき、綾見を巻き込まないよう位置取りを変える。
「沫倉ちゃん、もうちょっと堪えててくれ!」
「うん」
相変わらず緊張感があるんだかないんだかわからない、ぼんやりした顔で綾見が頷く。
銃を構え、凌ノ井は大蛇の身体をつぶさに観察する。よく見ればその身体は、地面に倒れ伏した倉狩の亡骸から、まるで冬虫夏草のように生えていた。ここはあくまでも夢の世界で、倉狩が死んだ以上、あそこに彼女の精神体が存在するはずがない。
とすれば。
凌ノ井は、銃口をゆっくりと、倉狩の骸へと向けた。
もう一度、彼女に対して引き金を引けと。そういうことだとすれば。
狙いを定めようとする凌ノ井に向けて、野良の夢魔が迫る。綾見は大蛇を押さえつけているため、身動きが取れない。だが、夢魔は凌ノ井に到達することなく、その後ろを追いすがるようにして駆けてきた絶脇の手で、見事に両断される。
銃を構えた瞬間、無防備となる凌ノ井の姿は確かに夢魔の標的となった。だが、続けて迫る夢魔は鋸桐の拳が叩き伏せ、そして鳳透の足元で大口を広げる夢魔に飲み込まれていく。
「――鷹哉!!」
背後から、凌ノ井を呼ぶ声が聞こえた。
傷口を押し広げ、後悔を刷り込む声。だが、凌ノ井は振り向かない。
そうして引き金に指をかける彼の姿こそが、決意の表れであったのかもしれない。
できることならその言葉の続きを聞きたいと。例え怨嗟の声であったとしても、彼女の本音を今一度聞いておきたかったと。そう思いながらも。凌ノ井鷹哉は過去を振り返らない。
かくて引き金は引かれ、虎の咆哮がすべてをかき消していく。
その夢の世界を構築していた夢魔が存在を消滅させたとき、その力によって生み出された少女の記憶は、そこには残らなかった。言いかけた言葉の続きを、凌ノ井鷹哉が聞くことは、なかったのである。
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