第三十三夜 決戦の極東本部―夢から醒める時間だ―


 敵は、目の前の大蛇だけではない。展開された白昼夢デイドリームの中に、周囲に滞留していた夢魔たちが忍び寄ってくる。それらは互いに食い合って成長し、無視できない規模にまで育つ。鋸桐のこぎり絶脇たてわきは、得物を構えてそちらを向いた。


 凌ノ井しののいは、一之宮いちのみやすずめと向き合ったまま、動かない。雀は鎖にからめとられた姿で、ベッドの上から凌ノ井を見下ろしていた。大蛇、<丸呑みオロチ丸>は、その彼女を守るようにとぐろを巻いている。

 <悪食>には、あの雀も、そして周囲を埋め尽くす石造りの壁と床も、すべて大蛇が生み出した夢の景色であることがわかっていた。この光景が、凌ノ井の記憶から作り出されたものであるのか、あるいは彼女が言う通り、本当に一之宮雀本人の記憶から作り出されたものであるのかは、判別ができない。


 だが、この際それはどちらでも関係なかった。凌ノ井が、それを真実だと認識してしまった以上は。


「マスター!」


 <悪食>は、主であるその男に呼びかける。


「マスター、しっかりしてください! これが雀さんの記憶ならば、確かにマスターにはそれを乗り越えなくちゃいけません。それはマスターに必要な試練かもしれません! でも!」


 彼女の叫びは、果たして凌ノ井に届いているだろうか。彼がこちらに振り向く素振りは、なかった。


「でも今でなくてもいいはずです。今はまだ、他にするべきことがあります。だから……」

「ダメ! 離れて!!」


 凌ノ井をかばうように立とうとした<悪食>を、少女の声が制止する。それによって凌ノ井から意識を逸らした<悪食>は、かろうじて、自分に向けてまっすぐに伸びる巨大な蛇の影を視認することができた。

 <丸呑みオロチ丸>の大顎が、<悪食>の身体を捉えんとする。制止の声がなければ、その顎は確かに<悪食>の姿を捉えていたはずだった。空を噛み砕く大蛇の口元から、粘性の高い唾液が飛び散る。


「そいつは、あたし達を食べる気よ! 離れて!」


 声の主は、鋸桐の裾にしがみついて叫び声をあげている<アリス>だった。


 <悪食>は、<アリス>の言う『あたし達』が、鋸桐や絶脇を含めたこの場の全員ではなく、<くろがね>や<名剣無銘>を含めた夢魔たちのことではなく、まさしく<悪食>と<アリス>の2人を指し示している言葉であると理解する。

 共通点は、倉狩くらがり鍔芽つばめによって生み出されたであろう夢魔であるということ。この大蛇は、おそらくこの2人の夢魔を食おうとしている。それは倉狩が死ぬ前から、命じられていたことなのだろう。


「さがっとれ、<悪食>」


 拳を握りしめた状態で、鋸桐が言う。


「そいつは儂と絶脇でやる。おぬしは周りに寄ってくる他の夢魔をなんとかせい」

「しかし、マスターは……!」


 凌ノ井は、いま、雀に魅入ったかのように身動きを止めている。


 事実、魅入ってしまっているはずだ。

 凌ノ井をこのままにはしておけない。これ以上、雀と会話をさせるわけにはいかない。彼の精神にどれだけの影響を及ぼすのか、わかったものではないのだ。


「<悪食>、はようせい!」

「鋸桐さんの言葉は聞けません!」


 大蛇と距離を保ちながら、<悪食>は叫び返す。


「私のマスターは、マスターだけです……!」


 自分の言葉は、このままでは凌ノ井には届かない。彼女は今、それを痛烈に実感していた。だが、だからといって離れたら、もっと届かなくなってしまう。凌ノ井の心を振り向かせるには、もっと、何か。もっと、大切な何かを、賭ける覚悟が必要だ。

 こうして雀と向き合うのは、彼にとって必要な通過儀礼なのかもしれない。そこに介入しようとまで考えるのは、夢魔の領分を超えた『欲望』だろうか。


 言葉が届かないなら、自らの存在を掛け金にする。

 ベットだ。<悪食>は、皮膚をぬらつかせながら揺らめくその大蛇を正面から睨んで、対峙した。




「ずっとあんたに、同じ苦しみを味わわせてやりたかった」


 雀の言葉が、凌ノ井に突き刺さる。


 一之宮雀の姿を借りて、放たれる呪詛。それは、凌ノ井鷹哉たかやが十数年前に置き去りにしてきた感情へと手を伸ばし、歳月を超えて今この瞬間へと引きずり出す。それは後悔という言葉ですら表しきれないほどの、深く苦々しい慚愧の記憶だ。少年・凌ノ井鷹哉はそれを克服したわけでもなければ、長い年月がそれを癒したわけでもない。

 ただただ、距離が空いたという、それだけの話なのだ。そして今目の前に現れた一之宮雀は、そうしてできた空白をただの一瞬でなかったことにする。


 目の前にいる一之宮雀は偽物でも、彼女の持つ記憶と言動は本物のそれだ。

 少なくとも凌ノ井の認識ではそうであり、一度そうなってしまった以上、もはやことの真偽は関係ない。


 これまでに凌ノ井が見てきた悪夢は、すべて雀を失った後悔と罪悪感が生み出した幻にすぎない。彼には過ちを犯したという自覚があった。その過失が恋人の命を奪ったのだという事実。言ってしまえば凌ノ井が自らを罰するために作り出した虚像であり、そこに一之宮雀本人の意識は一切介在しない。

 あるいはだからこそ、凌ノ井は今まで潰されずに済んでいたのかもしれない。自ら作り出した虚像に、自らを罰させることで、罪悪感から逃れることができていたのかもしれない。


 だが今は違う。


 今この瞬間、凌ノ井はどうしても自分の罪と向き合わざるを得ない。

 一之宮雀が凌ノ井に向けて語る弾劾を、正面から見据えなければならないのだ。


「それが……」


 凌ノ井は、雀を正面から見据えることができない。ただかろうじて、言葉を絞り出すことはできた。


「それが、お前が俺に言いたかったことなのか。雀」

「ううん。それだけじゃない。まだあるよ」


 にこりともせずに、雀は続ける。


「鷹哉はどうして、わたしを助けてくれないんだろうって。わたしにこんな酷いことをするんだろうって。ずっと思っていたよ。わたしは嫌だって言ったよね。やめてって言ったよね。でも鷹哉はやめなかった。そのときは、憎いとか、嫌いだとか、そういう気持ちは何もなかったよ。ただ、すごく辛くて、痛くて、苦しかった」


 凌ノ井が雀にしたことを、忘れたわけではない。彼女を屋敷から強引に連れ出して、山の中の小屋へと連れ込んだ。ベッドの上に縛り付けられて苦しむ彼女こそが、悪夢の原風景だ。雀は淡々と、当時の記憶を語り、それは容赦なく凌ノ井の精神を苛んでいく。


「し、仕方がなかったんだ!」


 凌ノ井は叫んだ。取り繕うように、ただ当時の自分の気持ちを、正直に弁解する。


「夢魔にそそのかされてたんだ! 逆らえなかった! 弱かったのは俺の心だけど、俺は雀を苦しめたいわけじゃなかった!」

「へえ」


 雀は冷たい視線で、凌ノ井を見下ろす。


「じゃあ全部その夢魔が悪いんだ。鷹哉は何も悪くなかったんだ。そういうことだよね?」

「そ……」


 そうだ、と頷こうとする凌ノ井の首を、何かが引き止めた。凌ノ井の脳裏に、沫倉まつくら綾見あやみの姿がかすめる。凌ノ井をそそのかしたのは、なのだ。<真昼の暗黒>と、沫倉綾見は不可分の存在ではない。すべての責任を夢魔に押し付けることに、凌ノ井は強い抵抗があった。


 凌ノ井はかぶりを振った。


「雀は……俺をどうしたいんだ。同じ苦しみを味わわせたいって……。それで、満足するのか?」

「わたしが生きているみたいな言い方をするのはやめてね」


 ぴしゃりと雀は言う。


「人の望みというのはね、叶わなかったら泥のように滞留するの。凝り固まって解れなくなる。鷹哉、わたしはね、生きたかったの。ただ、。幸せになりたかった。でももう、それは叶わないことなの」

「あ……」

「わたしは絶対に満足しない。いま話しているわたしは、ただの記憶なの。目的があるわけじゃないの」

「ああ、う……」

「鷹哉……。わたし、生きたかったよ……。幸せになりたかったよ……。その隣にいるのが、鷹哉でもいいと思っていたのに……」


 雀の言葉は、ひとつひとつが鎖のようになって、凌ノ井の心を雁字搦めに縛り付けていく。


「辛かったよ……。苦しかったよ……。だんだん、何もわからなくなってきて……。ただ、鷹哉にも、同じ気持ちを……」


 そう、雀は贖罪を求めているわけではなかった。復讐を求めているわけでもなかった。ましてや、理不尽な死の原因を追究したいわけでもない。彼女は、ただ記憶に沿って、自らの言葉を語るだけだ。そこで何かをしたいというのは、やはり凌ノ井が自らのエゴで罪から逃れようとしているだけのことだ。


 凌ノ井は正面から現実を見つめる。


 二度とかなえられない雀の望みを、夢を知る。

 苦しみの中で、ただ凌ノ井を憎んでいく気持ちだけが膨れ上がっていったことを知る。


 それが解消されることは、永遠にないのだ。


 解決できない事実だけが、凌ノ井の心の上に滞留していく。雀は決して満足しない。彼女は死んだ。叶わない望みと果たされない恨みだけを残して。一之宮雀の時間はそこで止まったままなのだ。そしてその責任はすべて、凌ノ井鷹哉の行いにのみ収束される。


 凌ノ井の膝が崩れる。置き去りにしてきた時間が、存在ごと魂を蝕んだ。停止した過去の中に心がとらわれていく。現実を受け止めなければならないと思っていても、凌ノ井鷹哉は受け止め方を知らない。叶わない夢が凝り固まり、沈殿していくのと同じように、ただ精神も歩みを止め、奈落に向けて沈んでいくのだ。

 そんな凌ノ井の姿を見て、雀は笑うこともしなければ、嘲ることもしなかった。彼女が言った通り、凌ノ井がどのような姿を見せたところで、雀は満たされることがない。彼女が凌ノ井を許すことは決してない。その事実が突きつけられるたびに、凌ノ井の心はただただ硬直していく。


 かに思われた、そのとき。


 凌ノ井の目の前に、白い影が飛び込んでくる。


「マスター!」


 その女性は、いつになく逼迫した表情を見せ、凌ノ井の両肩に手をかけた。


「<悪食>か……」

「マスター、しっかりしてください! マスターは、生きてるんです! いいですかマスター、マスターはいま、生きてるんですよ!」


 同じことを何度も、確認するように叫び続ける。このとき凌ノ井は、<悪食>が何を言おうとしているのか、よくわからなかった。ただ、いつも余裕めいた笑みを浮かべる<悪食>が、このときばかりは必死に、何かを訴えかけているのは、理解できた。


「死んだ人は生き返らない、死んだ人が満たされることはない、死んだ人が誰かを許すことなんて絶対にないんです。でもマスター、あなたは生きてるじゃないですか!」

「何が言いたいんだ……」

「私は、マスターにこれからも生き続けて……」


 その言葉の続きを、唐突に中断された。横から大口をあげて突っ込んでくる大蛇が、<悪食>の身体を捉える。歯牙の類が一切生えていないその顎は、彼女の身体を傷つけることすらなかったが、口の中に捉えた<悪食>の身体を、呵責なく丸呑みにしていく。


「生き続けてほしいんです。マスター……」


 片手を伸ばした姿勢のまま、<悪食>はそのとき、微笑みを見せた。伸びた手は、助けを求めるものではなく、その手で銃の形を作り、人差し指を向ける。


「そろそろ、夢から醒める時間ですよ」


 その言葉を最後に、<悪食>の姿が消える。


 彼女が残した言葉は、このとき凌ノ井の身体を縛り付けていた呪いに、ひとつの楔を突き立てた。解れず、叶わず、沈殿し、凝り固まった夢に、新たな解が示される。


「俺は……」

「どうしたの」


 雀が冷たい顔のまま、凌ノ井をにらみつける。


「鷹哉は、これから何をしたいの」

「何をしたいのかはわからないが、何をしなくちゃいけないのかはわかった」


 開いた手を固く握り、その拳を見つめて凌ノ井は言った。


「<悪食>を助けねえと」

「わたしのことは、助けてくれなかったのに?」

「ああ」


 凌ノ井は、大蛇をにらみつける。その視線が、雀に向けられることはない。


「雀が苦しんだのも、辛かったのも、俺にその気持ちを味わわせたかったのも、わかった。でも、その重みに押しつぶされて、動けなくなっている場合じゃないんだ」

「そんなの、鷹哉の自己満足だよ」

「知ってる」


 凌ノ井は、自身と契約を結んだ夢魔の力が、まだ自分の中に注がれているのを感じる。<悪食>はまだ、生きている。凌ノ井自身もまだ、生きている。生きている限りは、前に進まなければならないのだ。置き去りにした過去を、受け止めることができなくても。背負うことができなくても。

 罪悪感は生き続けている。これが晴れることはないだろう。それで良いだなんて言うこともできない。でも立ち止まっている暇はない。今立ち止まれば、少なくとも凌ノ井は、もうひとつ別の何かを失う。


 と、はっきり言えた。


 と、はっきり言えた。


 凌ノ井の心根に生じた、新たな望みの萌芽に呼応するようにして、石造りの壁がひとつ、はじけ飛ぶ。砕けて飛び散る瓦礫の中から、1人の少女が姿を見せる。彼女の周囲だけ、まるで別の空間であるかのように、白塗りの床と壁がたわむように現出していた。


「………」


 少女は眠たげな顔つきのまま、まずは鋸桐たちを見、次に凌ノ井と大蛇を見、そして最後に、雀を見る。


「………!」


 雀が息をのむ。一之宮雀は、正確には、死に瀕した際の彼女の記憶は、現れた少女に対して明確な恐怖を露わにした。


「やだ、そいつは……やだ……」

「ごめんね」


 少女――沫倉綾見は、ただひとこと、雀にそれだけ言って、凌ノ井の横に並ぶ。その様子を見て、雀の記憶は初めて、怒りと憎しみに満ちた感情を、はっきりとした形で発露させた。

「なんで……どうしてそいつと手を組むの!? そいつがわたしを殺したんだよ! そいつが、わたしを……鷹哉を不幸にさせたんだよ!? わかってるでしょ!?」


 綾見は表情を変えない。傷ついている風でもなく、ただ淡々と、雀の罵声を聞き入れている。


 彼女の言葉は、何もかもが正しい。例えそれが、確立させた人格ではなく、単なる記憶の再現に過ぎないものであったとしても、凌ノ井鷹哉が今しているのは最低の不義理であり、裏切りだ。そしてこの二律背反に酔えるほど、凌ノ井の心は簡単にできていない。

 すべてがかみ合わず、矛盾した現実を引きずって、凌ノ井は前に進むしかない。


 そんな凌ノ井を見上げて、綾見は尋ねた。


「あんなことを言われているけど」

「そりゃあ、言われるさ……」


 自身の声が震えているのに気づく。平静を装うのには無理があった。


 本当は、一之宮雀の意思に沿うことをしたかった。<真昼の暗黒>を殺し、敵を討ち、そして墓前に花のひとつでも添えてやることができれば、どんなに簡単なことだったろうか。過去に犯した罪の記憶だけを背負い、それを抱いて沈んでいくことができれば、どんなに楽だったことだろうか。

 だが、<悪食>は、凌ノ井にそれを許してはくれなかった。彼女は前に進めと、そう言ったのだ。自らの存在を掛け金にして、凌ノ井に前を向かせた。一之宮雀の記憶の前で、さらなる裏切りを重ねることを強要した。罪の上塗り。背後で叫ぶ雀の声は、たとえそれが記憶の再現であったとしても、正しく彼女の本心なのだ。


 それでも前に進む。


「<悪食>! 聞こえているなら銃を寄越せ!!」


 凌ノ井が叫ぶと、彼の片手に、一丁の拳銃が呼び出される。それはずっしりと重く、しかし存在が希薄であるかのように揺らめいていた。凌ノ井は銃口を、大蛇に向けて突きつける。


 十数年にわたって自分自身を縛り付けてきた呪縛ゆめを、振り払うときが来た。

 自分に言い聞かせるように、凌ノ井はつぶやく。


「さあ、呪縛ゆめから醒める時間だ……!」

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