第三十二夜 決戦の極東本部—混ざり合う悪夢—

 荒い呼吸を繰り返し、凌ノ井しののいはゆっくり立ち上がる。目の前に転がる死体は、もうひとことも言葉を発したりはしなかった。身体のそこかしこに空いた銃創と、そこから流れる血は、普通の人間と変わらない。凌ノ井の手には明確に、人を殺めたという感覚だけが残る。

 ようやくここで、状況を改めて確認するだけの余裕ができる。とは言え、転がっている大量の亡骸と、執務室でいまだに燃えている炎が目につくだけだ。


 長い戦いがようやく終わったような気がする。

 だが心の中には達成感よりも、ただ虚ろな感覚が残るだけだ。結局何も理解できないまま、引き金に指をかけるしかできないような、どうにもやりきれないだけの戦いだった。手の中に掴めるだけの何かが残った感覚さえ、ないのだ。


『マスター……』


 頭の中から、<悪食>が声をかける。


「ああ、大丈夫だよ……」


 凌ノ井はひとまず、そう答えるしかない。


「おまえは大丈夫か?」

『え、何がですか?』

「そりゃあ、いろいろだよ。俺もいろいろあったが、おまえもいろいろあっただろ」

『いや私は……マスターほどは、そんなにはありませんよ』

「そうか」


 それ以上は、深く追及しない。<悪食>がないと言えば、ないのだ。


 状況は凄惨を極める。戦いが終わったと言っても、それは、ただ倉狩くらがり鍔芽つばめという1人の叛逆者が死んだという、ただそれだけの顛末に過ぎない。むしろ彼女が放った悪意の種は、まだ大量にこの場に残されている。

 これらを処分するには、綾見の手を借りる必要があるだろう。そこに自分が加われるかどうかは、まだ少しわからない。


「自分で大丈夫っつったが、俺のメンタルは今どうなってるんだ」

『落ち着いてはいますけど、安定とは程遠いですよ。マスターの場合、時間をかけてケアしていかなきゃいけない部分もあるでしょうし』

「んー。まぁ、そうか……」


 自身の精神が不安定なのは、倉狩がなるように育てたからだという。常に暴走の危険が伴う状態で、いつでも<真昼の暗黒>に身体を明け渡せるようにしていた。と、そういうことだ。

 しかしまだ少し引っかかる。気になる点が残っている。そこがぬぐえず、凌ノ井の胸中には妙に気持ちの悪い感覚があった。


『マスター?』


 凌ノ井の懸念を敏感に感じ取り、<悪食>が怪訝そうな声を出す。

 彼がそれに応じようと思ったとき、後ろの方から何かがドタドタと走ってくる音がした。今更、誰かを警戒するでもない。凌ノ井は特に気を引き締めたりはせず、そのまま後ろを振り向く。すると、案の定、そこには見知った顔があった。


「うおおおお〜、凌ノ井ィ! お前さん、ここに来とったんか!」


 2メートルはあろうかという巌のような巨漢が、とてつもない笑顔でこちらに向けて手を振っている。


「よう、鋸桐のこぎり


 凌ノ井は巨漢に向けて片手で挨拶をする。次いで、鋸桐の後ろをついて走ってくる女性にも、視線がいった。


「……と、絶脇たてわき

「ど、どうも。凌ノ井さん」

「ずいぶん大人しいな。キャラ変えたの?」

「凌ノ井さんまでそんなことを言う!」


 ついで扱いされたことには別段腹を立てず、しかしその後絶脇はすぐに視線を、床に転がる死体たちへと向ける。大声をあげて騒ぎ立てることも、驚いてひきつけを起こすでもなく、彼女は静かに目を細め、黙祷をした。


「うぅむ……。何から言うか迷うのう。これは」

「順番で良いよ。どうせ邪魔する奴はいない……。まぁ、ゆっくりする時間もねぇんだが」


 凌ノ井はちらりと後ろを見てから、鋸桐の方に向き直る。


「こっちとしても状況を把握したいんだが、今、本部はどうなってんだ」

「うむ? こっちも結構立て込んでおってのう」


 鋸桐は顎を撫でながら、ヒュプノス極東本部の状況を説明してくれる。凌ノ井の方も、自分に何が起こったのかや、今しがた何が起こっていたのかを説明する。綾見関連の話はするべきかどうか迷ったが、結局避けて話すことは出来ない部分なので、手短に済ませた。

 鋸桐と絶脇は、告げられた内容に関しては驚きっぱなしの様子であったが、最後、凌ノ井が倉狩との戦いに決着をつけたくだりに関しては、かなり複雑そうな顔をしていた。


「そうか……。一応、終わったっちゅうことになるかのう。これは」


 血の海に沈む絶脇の骸を見やり、鋸桐は呟く。


「それで、鋸桐。言いにくいんだが、この後の件が片付いたら、俺と沫倉まつくらちゃんのことをなんとかできねーかな。鳥輿とりこしさんあたりに言って」

「あー。本部への復帰か。まぁなんとかなるとは思うぞ。立て直しには人員も必要になるじゃろうしのう……。少なくとも、おまえさんの方は」

「沫倉ちゃんは厳しいか」

「難しいことはわからん。鳥輿師匠に聞くしかなかろう。腹を撃たれておったが、まぁ無事じゃろ」


 その後も、凌ノ井と鋸桐の話は続く。エクソシストエージェントの中で、撃たれたのは鳥輿黒鵜くろう病本やまもと千羽朗せんばろう。鳥輿はともかく、病本の方は予断を許さない状況であると言う。一度、倉狩の目を欺くために、病本の<アリス>を鋸桐の精神世界の方へ移したという話もされて、ちょっと驚いた。


「じゃあ、<アリス>は今、鋸桐の中にいるのか」

「うむ。なかなか喧しくてかなわん」

『<アリス>さんは病本さんのことが大好きでしたから、鋸桐さんの中は居心地悪そうですよね』


 凌ノ井にしか聞こえない声で、<悪食>が呟く。


「ひとまず鋸桐、こんな状況だが遺体のことは後回しだ。夢魔に憑かれた人たちをなんとかしなきゃ……」

「あ、あの、あの、あの……」

「あん?」


 言いかけたところで、先ほどから絶脇が妙に慌てた様子で手をパタパタと振っているのに気づく。


「あ、あの。あれ……あの……。く、倉狩さんが……」


 遺体は後回しだと言ったろう。


 などと、悠長なことを言える余裕は、凌ノ井の中にはない。どちらかと言えば、『まさか』と言うような感覚の方が強かった。鋸桐も同様だったのだろう。一緒に振り向くと、そこには信じられない光景が———血だまりの中からゆっくりと、まるで糸で釣り上げたかのように立ち上がる、倉狩鍔芽の姿が、あった。

 その瞳には生気がなく、ただ空虚な闇だけが広がった瞳孔の中に沈殿している。それは生き返ったというよりは、死体が動いたと形容する方が、正しいように思われた。


「どういうことだ」


 凌ノ井が<悪食>に尋ねる。


「夢魔は……『死体』でも動かせるのか?」


 真っ先に思いつくのは、違崎ちがさきや綾見と同様の現象。宿主の意識が消えたところを、夢魔が乗っ取ったというものである。だがこれらの現象は、ただ死体があれば良いというものではない。精神体の中の、自我を司る部分——高我エゴが喪失された状況でのみ、発生しうるはずだ。

 破損した肉体を操る術など存在しえない。だからこそ、凌ノ井は『倉狩の殺害』という手段に打って出たはずだ。


『そんなはずはありませんが、事実として動かせています』


 <悪食>の認識も、凌ノ井のそれとは違わない。


 糸で吊られた人形のように、倉狩の肉体は不自然な動きを見せる。真っ先に動いたのは鋸桐だった。拳を握り、巨体に見合わぬ瞬発力で床を蹴りたてる。振りかぶった拳が倉狩の華奢な身体を叩くと、その肉体は容易く吹き飛び、頭蓋の一部を陥没させながら床と壁をバウンドしていく。


 その直後、ぶわり、と世界が変容する。深層意識が、現実側に向けて引きずり出されるような感覚が、その場に残る3人に襲い掛かった。




「はっきりと申し上げておきますけど」


 と、鳳透ほおずき凰華おうかが言う。


「あなたへの嫌疑が晴れたわけではありませんわよ」

「うん」

「まあ、だいたい晴れたようなものですけれど」


 道端で出会った鳳透は、出会いがしらにはっきりとした警戒を、綾見あやみに対して向けた。ヒュプノスのエクソシストエージェントとして、名前と顔は知っていたものの、実際に言葉を交わしたことはほとんどない相手だ。歳が近いので仲良くなりたいとは思っていたものの、こんな場所とシチュエーションで親交を深めることになるとは思わなかった。


 鳳透が綾見にかける嫌疑は当然のものだ。だから、とりたてて釈明をしようとは思わない。

 ひとまず最優先で解決するべきは、この周辺に大量にバラ撒かれた夢魔の処理であり、綾見にはそれに適した能力があるということで、2人の見解は一致している。なので、手を取り合うことになった。


 ひとたび白昼夢デイドリームを展開すれば、夢魔の姿は可視化される。綾見が一時的にそれを解除していたのは、視界を覆うほどに漂うリリスのせいだったが、鳳透と合流したことで再度展開をした。


「げへへへへ、食い放題だァ!!」


 鳳透凰華の夢魔は、彼女の姿や性格からはおおよそかけ離れた、がさつで下品な個体である。常に鳳透の足元を動き回り、彼女の足元にまとわりつく、粘性の高い半液体状の姿をしていた。ぼこぼこと浮き出た泡状の眼球と、大きく開いた口だけが辛うじて確認できる。


 名前を<セバスチャン>と言った。

 <セバスチャン>は、文字通り大口をあけて漂うリリスを大量に吸い込んでいく。おかげで視界はだいぶ開けたので、こればかりはかなり助けられた。


「なんだか、夢魔って大概、正反対の性格の人に憑くよね」

「ああ、やっぱりそうなんですの? あまり他の人の夢魔のこと、わかりませんから」


 足にまとわりつく<セバスチャン>を引っぺがしながら、鳳透は眉を顰めた。


「でもまぁ、それでいて似た者同士なところもある」

「それは聞かなかったことにしますわ」


 倉狩が放ったであろう大量のリリスは、人にとり憑いた時点で大量に互いを喰い合い、その後急成長する。あらかじめ、リリスを減らしておけばこの後の夢魔の被害者は減らせるということだ。<セバスチャン>が掃除機のように大気中のリリスを食い散らかす傍ら、綾見と鳳透はスリーピングシープを目指した。


 スリーピングシープにたどり着いた時点で、床に転がる大量の人間の魂と、それにむしゃぶりつく夢魔の姿を確認できる。鳳透はそれを目の当たりにして、ただでさえ顰め面になっていた顔を、更に険しくした。


「汚らわしいわ」

「うん。まぁ……うん」


 綾見は、思念体から弓矢を作りだそうとして、手を止める。ひとつひとつ処分していたのでは間に合わない。右手を掲げて、夢魔の1体を握り潰すイメージを込める。


「ピぎゃッ」


 ぱちゅん、という音がして、1人の男にしゃぶりついていた夢魔の身体が弾けた。


「鳳透さん、白昼夢デイドリームの世界は普通の夢の世界と違って、わざわざルールを探す必要はないから」

「あなたの作りだした夢の世界、だからですわね。やりやすいのは良いことですわ」


 鳳透はどのようにして戦うのだろう、と思っていると、彼女の足元にまとわりついていた<セバスチャン>が、少しずつ膨張を始める。そのぶよぶよとした不定形の身体が、巨大な拳を象って食事を続ける夢魔たちへと伸びていく。まだ若い夢魔たちは迫りくる脅威には気づかず、その手に掴み上げられて初めて、状況を理解しキィキィと悲鳴をあげた。

 <セバスチャン>は、掴み上げた夢魔をポイポイと開いた大口の中へと放り込んでいく。


「この夢魔たち、レベル3相当ですけど知性はありませんのね」

「人の精神じゃなくて、夢魔を食べて急成長したからじゃないかな……」

「……なるほど?」


 綾見がぼんやりと呟くと、鳳透は心当たりがあるかのように足元を見つめていた。


 スリーピングシープでの夢魔退治は、さほど苦戦をするでもなく続いていく。時折、見境の無い<セバスチャン>が被害者の精神まで口に運ぼうとするのを押しとどめ、それでも10分も経つころにはおおよその掃討が完了する。綾見はその時点で一度、白昼夢デイドリームを解除した。


 夢の世界と寸分たがわぬ構造になっているスリーピングシープの中で、ごろごろと人間が倒れている。苦し気に呻く様子はすでになく、大事は脱したことが察せられた。それを鳳透と共に確認し、その上でもう一度白昼夢デイドリームを貼る。

 綾見の意識は夢世界と現実世界の両方に跨って存在する。夢の中の鳳透が歩き回り、そのまま現実側で倒れた男の手を踏みそうになるところを、急いで止めたりもした。


「鳳透さん、このまま本部の職員さん達を助けに行きたいんだけど、迷っていることがあって」

「あら、なんですの?」

「下で凌ノ井さんと倉狩さんが戦っている可能性がある。まぁ、さっき話した通り」


 鳳透の話では、地下施設にいる職員たちも夢魔にとり憑かれている可能性が極めて高いという。綾見としては助けに行きたいところだが、下に降りていった結果、凌ノ井を白昼夢デイドリームの範囲内に巻き込むことになれば、かえって拙い。


 綾見の表情はいつものぼんやりとしたもので、それほど困っているようには見受けられない。だがそれを聞いて、鳳透も綾見同様考え込んだ。


「1人1人、外に運び出してからやる方が確実なのかしら」

「それはそれで、中で戦闘があって危ない可能性はあるよね」

「うーん……」

「面倒臭ェからさっさと食っちまおうぜ!!」

「黙りなさい<セバスチャン>」


 いつの間にか鳳透の足元で大型犬くらいのサイズまで戻っていた夢魔を、彼女は思いっきり踏みつける。


「ひとまず、白昼夢デイドリームを解除した状態で下に降りましょう。鋸桐さんや絶脇さんもおりますから、いざとなったらわたくし達か弱い乙女はトンズラこけばいいんですわ」

「ん、わかった」


 綾見は鳳透の提案に従い、白昼夢デイドリームを解除しようとする。


 ちょうどその時、綾見の精神の片隅に、何者かが強引に介入してくるような違和感と、脳幹を鋭い刃物で抉ったかのような激痛が走る。体勢を崩しそうになり、綾見はたたらを踏む。その直後、地下からぶわりと何かが膨れ上がって、綾見の意識と拮抗するように、大きく拡大した。


「どうかしましたかしら、沫倉さん?」

「いや、少し、頭痛が……」


 額を押さえてよろめく綾見は、その頭痛の根源があるであろう方角を睨む。


 白昼夢デイドリームだ。下でそれを展開した者がいる。拡張された2つの精神領域が、互いに食い合う形で混ざり合っている。綾見の意識の中に、彼女の知らない記憶と感情が本流のように流れ込んでくるのがわかった。

 が血だまりに立ち尽くしているのがわかる。身体中から血を吹きだして倒れていくのがわかる。視界の片隅に、マシンガンを構えて立っている男の姿があった。


 綾見はこの時はっきりと、下にいると、記憶の共有をした。それは意図せず起こった事故だろうが、混ざり合った2つの白昼夢デイドリームは、両者の間にあるあらゆる精神的要素を混濁させていく。拡張された精神領域が衝突した結果、起こった事故だ。


「沫倉さん……?」

「鳳透さん、下に急ごう」


 綾見は額を押さえながら呟く。


「まずいことが起こるかも」




 展開されたのが、白昼夢デイドリームであるということはすぐに理解できた。


 だが、目の前で起こっている出来事を、凌ノ井は理解できない。倒れ伏した倉狩鍔芽の精神体からだから飛び出してきたのは、全長10メートルにも及ぶ巨大な大蛇であった。その蛇は口が大きく、目にあたるものがない。口の中には歯もなく、全身をぬらぬらと照り輝く皮に覆われていた。

 <丸呑みオロチ丸>だ。名前と姿は知っている。倉狩鍔芽が自身の使役する夢魔として、ヒュプノスに登録していた夢魔。


 だが今となっては、その登録情報のどこまでが真実であるのか、凌ノ井たちにはわからない。


 あれもまた倉狩自身が生み出した夢魔なのか。まったく別の経緯で彼女にとり憑いた夢魔なのか。あるいは、夢魔とは根本から異なる、倉狩が便宜上そう呼んでいただけの存在なのか。

 はっきりしているのは、それは倉狩の肉体を奪う形で白昼夢デイドリームを引き起こした。拡張された精神領域が、現実世界を侵食するように周囲の光景を飲み込んでいく。それは、その夢魔の意識した光景であるはずだった。その夢魔の記憶に基づいて構成されるべき世界であるはずだった。


 白塗りの壁が、鬱屈とした雰囲気を漂わす石造りのものへと変わっていく。

 血だまりの床が、冷たい石製のタイルへと変わっていく。


 その変化の正体を正しく認識できたのは、この場には凌ノ井鷹哉たかやと、そして<悪食>の2人だけだった。


「な、なんで……」


 掠れた声で、凌ノ井は呟く。


「マスター、呆けていてはダメです」


 その肩に手をかけ、<悪食>が強く引っ張る。


「おいどうした凌ノ井。これが一体なんじゃっちゅうんじゃ」


 鋸桐が訝し気に声をかける。


 やがて、倉狩の亡骸があった場所には、ひとつのベッドが出来上がっていた。大蛇はそのベッドに絡みつくかのようにとぐろを巻き、やがてベッドの上で鎖に縛られた1人の少女が、ゆっくりと目を醒ます。


 そんなはずはない。凌ノ井はかぶりを振る。


 この大蛇はあくまでも倉狩の夢魔だ。倉狩の記憶と、そしてそれと共に過ごした夢魔としての記憶しかないはずだ。この光景と、彼女の姿を、ここまで完璧に模写できるはずがない。


「可能性はあります」


 凌ノ井を守るように立ちながら、<悪食>は言う。


「私経由で、倉狩さんはマスターの夢を見ていた可能性があります。倉狩さんは知っていたんですこの光景を。これがマスターに一番有効だと知っていたんです。ですからマスター、これから彼女が言うことに耳を傾けてはいけません。それはマスターの罪悪感の……」

「黙りなさい」


 早口でまくしたてる<悪食>を、少女は遮る。病的なほどに青白い肌は、それが実際病——あるいは夢魔に侵されていたからだと、凌ノ井は知っている。幾度となく見た光景。幾度となく見た悪夢だ。


「鷹哉、久しぶりだね」


 少女を絡めとる鎖は、やがてそれ自体もまた蛇に変わっていく。


「それとも鷹哉にとってはそうでもないのかな。ううん。違うよね。こうやって、受け答えをするなんて、かれこれもう十何年も会ってないでしょう?」

「す、すずめ……」

「うん。私だよ」


 ベッドの上で、少女は——一之宮いちのみや雀は両手を広げる。


 この段になって、鋸桐は状況を察した様子だった。背後にいる絶脇も同様。夢魔の姿として具現化した<くろがね><アリス>、そして絶脇の<名剣無銘>も一切の言葉を発しない。<悪食>が、凌ノ井に何かを言おうとし、そしてそれを凌ノ井は片手で制す。


「おまえは雀だが……雀じゃない……! 俺の心の中にしかいない、弱い俺の心が生み出した悪夢でしかない!」

「ふうん」


 雀は目を細めて笑う。それは、凌ノ井が初めて見る笑顔のようにも見え、久しく忘れていた笑顔であるようにも見えた。記憶の中にない表情を雀が見せるたび、凌ノ井の心は大きく動揺する。


「じゃあ鷹哉は、私が本当に鷹哉を恨まずに死んでいったと思ってるんだ?」

「……っ!」


 すべてを見透かしたような雀の目に、凌ノ井は何も言い返せなくなる。


「あなたに罵声をぶつける私の姿はあくまでもあなたが罪悪感から逃れるために作りだした幻で、本当の私は、信じていたが豹変して嫌がる私を無理やり連れだしたり、死ぬまで監禁していたとしても、その友達を恨まないと、本気で思ってるんだ?」

「そっ……」

「そんなの、わからないよねぇ。鷹哉の中にいる私は、あくまでも鷹哉の想像した私でしかないものね。でもね、死ぬ間際の私の本当の気持ちを知っていた人はこの世に1人だけいるんだよ。知ってる?」


 凌ノ井の思考が、一瞬だけ停止する。


 その思考停止の後に、彼女の口から出た言葉の意味が、頭の中にゆっくりと浸透していく。

 確かに、一之宮雀が死ぬ直前まで、彼女の心を完全に理解し読み取っていた者は存在する。そしてその記憶も、確かに彼女は持ち合わせているはずだった。


 それを如何なる手段で、目の前の雀——いや、夢魔<丸呑みオロチ丸>が手にしたのかはわからない。だが凌ノ井はその可能性を吟味した。その上で、彼はもう、目の前にいる一之宮雀が、自身のトラウマの産物——都合の良い、都合の悪い妄想であるなどと、断定できなくなっていた。

 <悪食>が何かを叫ぶ。鋸桐も何かを言っていた。


 だがこの時、凌ノ井鷹哉の意識は、少女・一之宮雀が発する言葉だけに向けられている。


「ずっとあんたに、同じ苦しみを味わわせてやりたかった」

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