決戦の極東本部
第三十一夜 決戦の極東本部―再会と再開―
血だまりの中に、
ここで義憤にかられるほどの体力を、
コートの裾を血の海に垂らした背の低い少女は、そこかしこに銃創を作りながらも、存外にしっかりとした目つきで凌ノ井の方を見ている。
凌ノ井は改めて、彼女を呼ぶ。
「師匠……」
「まだ、師匠と呼んでくれるのね。
「今更『倉狩』だなんて他人行儀な呼び方もねぇだろ」
吐き捨てるように呟きつつ、凌ノ井の心は意外なほどに落ち着いていた。
あれほどまで倉狩に感じていたはずの異様な怒りは、今はまったくと言って良いほど感じない。
『………』
頭の片隅で、<
「聞きたいことはいろいろあるんだが」
「いいよ。答えられることならね」
「<悪食>を俺につけたのは、あんたの目論見通りなのか」
「いやぁー……」
倉狩は苦笑いを浮かべて頭を掻く。
「そこまで出来ていたらカッコよかったんだけどねぇ。その子のことは完全に偶然だよ。まぁ、鷹哉に憑いたのを確認したから会いに行ったのはあるけど」
「だとよ、<悪食>。良かったな」
『まったく安心できませんよ』
<悪食>の声は強く張り詰めている。
『じゃあすいません倉狩さん。私からもひとつ』
「何かな」
『夢魔、って、なんなんですか?』
「………」
夢魔当人から浴びせられた質問に、倉狩は答えない。ただニコニコと笑みを浮かべながらそこに立っている。
『人の精神に寄生して欲望を食べる生き物。私の認識はずっとそうだったんですが、なんか、それだけじゃないですよね? あなたは夢魔を作れて、どうやら驚くことに私はその中の1体らしいんですが、それは夢魔全体にとって特別なことなんですか? それとも、他の夢魔も……例えば綾見さんとかも、実は作られた存在だったり、するんですか?』
「<悪食>ちゃんはそれが気になるの?」
『気になりますよ。だって自分のことですよ』
<悪食>が話に集中し、倉狩の意識もそちらに向いている間に、凌ノ井は改めて状況を確認する。
倉狩は既に満身創痍。手には銃を持っているが、取り押さえるのはそう難しいことではないように思われる。凌ノ井の知る限りにおいて、彼女の身体能力はそう高いものではない。もちろん、それがフェイクの可能性があるから、慎重になる必要はある。
問題は取り押さえたあと。本当は活かして捕らえるのが正しいのだろうが、そんな余裕はないだろう。倉狩が夢魔を無尽蔵に生み出せるなら、それこそ隔離エリアに幽閉するか、本人を殺害するしかない。
凌ノ井が話している間にも、倉狩と<悪食>の話は続く。
「それは言えないなぁ。あたしにも義理立てしなきゃいけない相手はいるし」
『それは、その義理立てするような相手に関わることなんですか』
「想像には任せるけどね」
倉狩はニコニコ笑ったまま両手を広げる。
「あたしは嬉しいよ<悪食>ちゃん。きみがそこまで自分の生まれに興味を持てるようになるなんて。あたしが野に放ったリリス達の中でも、レベル4まで成長した個体はきみが初めてだから。きみの意識はずっと追いかけていたし、どんな生き方をしてきたのか、ずっと見ていたからね」
『やめてくださいよ、気持ち悪い』
ぴしゃりと叩きつけるように言う<悪食>の声には、はっきりと嫌悪感が滲んでいる。
『夢魔にだってプライバシーとプライベートはあるんです。覗き見されるのは良い気分じゃありませんね』
「じゃあ、他に聞きたいことはある?」
凌ノ井は考える。
他に聞きたいこと。
山ほどある。結局、倉狩の目的は何だったのか。その背後にはどんな奴らがいるのか。<真昼の暗黒>を復活させてどうするつもりだったのか。だが、その答え合わせをひとつひとつしていくことに、どれだけの意味があるのか。
最後に、凌ノ井はこれだけ聞くことにする。
「結局、おまえは何歳なんだ。このクソババア」
倉狩は自動拳銃の弾倉を交換しながら、にこりと笑った。
「それは秘密」
倉狩の造反が発覚したことにより、凌ノ井と病本の容疑は完全に晴れたことになる。が、あの沫倉綾見という少女については、強い疑惑が残ったままだ。彼女が悪名高い夢魔<真昼の暗黒>であることは、確定事項である。沫倉綾見が敵対行動をとってくる可能性は、十分にあった。
鳳透が非常口からちょうど出たあたりで、黒塗りの自動車が到着した。助手席から姿を見せた初老の男性は、ボクサー崩れかヤクザのような強面である。
「お嬢様、お待たせしました」
その姿に見合わぬ恭しい一礼をして、老人は下に並べられた2人の男を見やる。
「こちらが?」
「ええ。銃で撃たれたの。急いで病院に運んで頂戴」
後部座席の方から出てくるのは、白衣を身にまとった鳳透家の医療スタッフだ。彼らは鳥輿と病本を慎重に、座席へと運んでいく。
「う、うう……」
運ばれる鳥輿が、わずかにうめき声を漏らしたのが聞こえた。それを見送りながら、鳳透はもうひとこと、〝じいや〟に言付けをする。
「鳥輿師匠の方は、お肉が分厚いから大丈夫そうだけど、病本さんの方が危ないの。よろしくね」
「はい、かしこまりました」
その間、非常口に入り込んだ他の使用人たちが、怪我を負った職員たちを連れ出してくる。ここで救出できるのは、隔離エリア付近で倒れていた4人までだ。施設内には、まだまだたくさんの職員が残っているはずだが、それを捜索させるには危険が多すぎる。どこに倉狩が潜んでいるかわからないし、ただの人間である彼らも夢魔に襲われる可能性があった。
怪我人が車に運び込まれるその横で、〝じいや〟は鳳透に尋ねる。
「お嬢様は、これから?」
「わたくしは一度スリーピングシープの方へ向かうわ。夢魔に憑かれてる方が多そうだし。じいや達も、早くここを離れなさい」
家の使用人と交わす言葉はここまで。〝じいや〟は最後にひとこと『ご武運を』とだけ発してから、車の助手席へと乗り込んだ。
高級車がこの場を去るのを見送り、鳳透は逆方向へと振り返った。道路をしばらく進んだ先に、執事喫茶スリーピングシープの建物がある。
「……どうかしら、<セバスチャン>」
腕組みをしながら、鳳透は自分の頭の中にいる居候に、それを尋ねた。
『いるねェ。そこらじゅうに夢魔の幼生がふよふよ浮いてるぜ。オマエにゃあ見えないだろうが、憑かれた人間も大量に見えるぜェ』
「やっぱり倉狩さんの仕業なのかしら」
『知ったこっちゃねェや。それより凰華、早く喰わせろよ。腹ァ減って仕方ねェンだ』
「何度も言っているけど<セバスチャン>、わたくしの夢魔らしく、もう少し知性と品性を身に着けなさい」
言っても無駄だと知りつつ、とりあえず言っておく。
とは言え、<セバスチャン>は鳳透の予想した通りのことを、はっきりと知覚している。この付近には大量の夢魔がうろついている。職員たちが急に発狂したのもこのためで、そしておそらくそれは、倉狩とは無関係ではない。
『凰華ァ、早くしろよォ! 我慢できねェって言ってンだろうがよォ!』
「黙りなさい<セバスチャン>」
鳳透は組んだ腕を解き、こめかみのあたりを押さえながら道路をゆっくりと歩きだす。
「だいたい、夢魔を退治するには夢の中に入らなければいけないのよ。こんな道のど真ん中でできることではないわ。そろそろ学習しなさい、<セバスチャン>」
『おッ! 凰華! 前の方にすっげェ美味そうな夢魔がいっぞ! あいつにしよう!』
「次の仕置きを楽しみにしていなさい、<セバスチャン>」
言いつつ、鳳透は警戒を強める。<セバスチャン>は、グルメではないが大喰らいだ。そんな彼が『美味そう』と表現するということは、相当な力をつけた夢魔ということになる。宙に大量に浮かんでいるリリスではない、最低でもレベル3か、それ以上に相当する夢魔が、被害者を伴ってそこにいる、ということになる。
付近に人影のようなものは見当たらないが、その代わり歩道に乗り上げたタクシーが一台目に入る。夢魔の被害者がいるとすればあの中だ。レベル3相当の夢魔だとすれば、急がなければ手遅れになる可能性もある案件である。容態次第では、ダイブを試みる必要も出てくるだろう。
「………」
鳳透はタクシーにゆっくりと近づいていく。頭の片隅で、<セバスチャン>がウキウキしているのが、嫌でも感じ取れた。
その直後、タクシーの扉が開く。身構えた鳳透の前に姿を見せたのは、1人の少女だった。
『あいつだ!!』
嬉々とした声で、<セバスチャン>が叫ぶ。その、聞こえるはずのない声に、少女がこちらに振り返るのが、鳳透には見えた。
少女の顔には、鳳透も見覚えがある。ぼんやりとして感情を伺わせない、眠たげな目つきが、少しだけ驚いたように動いた。ここに来て鳳透凰華の警戒心は頂点に達する。構えを取ろうとする鳳透に対して、少女は先に口を開いた。
「……えぇと……。ヒュプノスの……誰だっけ?」
鳳透家の人間にとって、名前を忘れられるというのは耐えがたい屈辱である。
だが、夢魔<沫倉綾見>は、その屈辱を平然と、鳳透に浴びせたのであった。
鳳透凰華と沫倉綾見が接触した頃、
「いきなり呼び出したと思ったら、なんでこんなひどいところに呼ぶんですかぁ……!」
情けない声をあげながら、模造刀を片手に絶脇は走る。彼女の横を走りながら、鋸桐は素朴な疑問を口にした。
「おまえさん、あのキャラ付けやめたんか?」
「それどころじゃないからですよ! そもそもオフだったんです!」
そう言う絶脇は、服装も普段纏っているような着流しではなく、清楚なワンピースである。
施設の中は、不気味なほどに静まり返っている。ときおり、いくつかの部屋からは何かに苦しむような声が聞こえてくる。部屋の中を確認すれば、夢魔に憑かれて苦悶の悲鳴をあげる職員たちの姿があった。
「鋸桐さん。これ、どういうことなんですか……?」
「倉狩の仕業じゃ」
苦しむ職員たちを前にして、絶脇の当然の疑問に答える。
「あいつが夢魔を大量に作りだして、この施設内にバラ撒いとる」
「えぇっ!? あの人、夢魔を作れるんですか!?」
「おまえさんは反応が新鮮で良いのう……」
レベル3相当の夢魔に憑かれた職員たちをこれ以上放置することはできないが、かといって1人1人対処するには時間が足りていない。まずは倉狩を何とかする必要がある。
「こ、これ、極東本部はもう、おしまいじゃないですか……?」
「立て直しはかなり難しそうじゃのう……」
自棄を起こした倉狩が暴走した結果、既に極東本部はかなりの被害を被っている。あるいは、このテロめいた行為も、彼女の本来の目的にそぐうものなのか。どのみち、本人を問い詰めるしか真実を知る術はないし、そして場合によっては、問い詰めるだけの猶予はない。
「うーむ……。ヒュプノスの敵対組織からの刺客だったりするんかのう……」
「て、敵対組織なんてあるんですか? 秘密の組織ですよ? わたし達……」
「秘密の組織でも認識してる連中はおるじゃろうしのう」
「まあ、考えるだけ無駄かのう」
自分のあまり頭脳労働に適さない脳みそである。結局は、倉狩をとっちめに行く方が先だ、という結論になる。ここまで、職員は夢魔に憑かれてこそいるが、倉狩が直接通った痕跡は見当たらない。
「絶脇、あと探してない区画はどのへんじゃ」
「えぇと……あとは第一エリアですかね。棺木さんの執務室とかがある場所」
「よし、急ぐぞ」
鋸桐と絶脇は苦しむ職員たちをひとまず寝かせ、廊下を再び走り出した。
銃口が凌ノ井を捕らえ、火を噴く。だが、肩に既に傷を負った倉狩のエイムは、正確なものではない。凌ノ井が咄嗟に伏せると、弾丸は掠めることすらなく、むなしく壁に弾痕を残した。彼女は身を守ろうとしていない。執務室の中で姿を隠すでもなく、自動拳銃の引き金を引くという作業を、事務的に繰り返す。
狙いこそ正確ではなく、その動作にはあらゆる感情が反映されていなかったが、それだけに研ぎ澄まされた鋭利な殺意だけが断続的に放たれている。倉狩の冷徹な動きは、その背後で燃え盛る炎の対比として、ぞっとするようなコントラストを浮かび上がらせる。
「師匠、もう腕がガタガタなんじゃないか」
「よくわかってるじゃん。もう、その通りなのよね」
倉狩はいつもの調子で答えながら、机の影に隠れた凌ノ井に近づいていく。
「でもねー鷹哉。きみと沫倉ちゃんだけは、絶対に殺しておくつもりなの。逃がさないわよ」
「逃げるつもりもねーんだけどな!」
凌ノ井の逃げようとする先に、倉狩は先回りをしてくる。ここまで致命傷を負わずに済んでいるのは、倉狩の肉体損傷による不調のためだ。あとはまぁ、やはり単純な身体能力差においても、凌ノ井の方が勝っている。
『やっぱり、私がマスターの足かせになってますか?』
頭の中で<悪食>の声がする。
実際、倉狩が凌ノ井より先に動けるのは、この夢魔を通して凌ノ井の視界を確認できているからだ。それは間違いないし、否定しても仕方のない部分である。凌ノ井は、無言でそれを肯定する。
「とは言え、今更お前を追いだすわけにもいかねーしなぁ」
『そう言ってもらえて嬉しいです。死んじゃヤですよ』
「それはどうかな……」
いつもの軽口で答える頃、再び倉狩が目の前に現れる。凌ノ井は銃口の先を確認せず、執務室の出口に向けて駆けた。甲高い銃声と共に、熱い衝撃が肩をかすめた。苦悶の声が口から漏れそうになり、それを思わず飲み込んだ。
「実銃ってこんな痛ぇのかよ……」
『この経験は次の夢の中に活かしましょう』
廊下に出ながら、凌ノ井は肩を押さえる。2発目の弾丸が届く前に、凌ノ井は壁の裏側に飛び込んだ。床に流れ出た大量の血に飛び込み、職員の亡骸から自動小銃を取り上げる。
背後に倉狩の飛び出してきた気配がある。彼女の銃口が、いまどこを向いているのか、気にする猶予はなかった。凌ノ井は振り向きざまに小銃を後ろへ向け、引き金を引く。今まで意識したこともなかった反動が、腕にかえってきた。
夢の中では銃を武器とする凌ノ井でも、実銃に触れたことはほとんどない。リアルな経験が夢の中にまで影響を及ぼすなら、この反動も次からは反映されてしまうのだろうか。
一瞬よぎった、なんの関係もない思考を、響く銃声と目の前で炸裂する血しぶきが弾き飛ばした。
「あ」
耳をつんざく音の合間に、倉狩の声が聞こえた気がした。
小柄な身体に、ありったけの鉛弾が叩き込まれる。運動エネルギーが皮膚を裂き血管を断ち肉と骨を砕く。倉狩の身体は小躍りするようにステップを踏み、血の海に倒れ込む。血の海には新たに、今倒れ込んだ女のものが注がれていた。
「………」
一瞬の放心状態。凌ノ井は小銃を手に、床にへたり込んでいる。そんな彼の脳内に、喝を入れるような叫びが響く。
『マスター、前!!』
はっとした凌ノ井の目に映っていたのは、じっとこちらを見つめる空虚な瞳と、冷たい銃口。立ち上がるよりも身をよじるよりも、引き金が引かれる方が早い。緊迫が、一瞬の静寂を大きく引き伸ばした。
かちり、という音が、むなしく響く。
「あー……」
開きかけた瞳孔を小さく緩めて、倉狩は力なく笑った。
凌ノ井は、小銃を構えなおしてゆっくりと立ち上がる。この間にもなお、倉狩は動きを止めていない。震える手で拳銃の弾倉を取り変えようとしている。おそらくしばらく放置していれば、倉狩は死ぬだろう。だが、その放置されたわずかな時間にでも、何をするのかわからないような雰囲気が、死にかけの倉狩にはあった。
「師匠、最後の最後にひとつ聞きたいんだけど」
「ん……なに、かな……」
「師匠は、何をしたかったんだ。何をするのが望みだったんだ」
辛うじて弾倉を変え終わった倉狩の手が、震えながらも持ち上がっていく。
「あたしの望みかぁー……」
倉狩の言葉には、ひゅうひゅうという空気の音が入り混じっている。肺に穴が開いているようだった。空虚な闇をたたえたような瞳には、既に凌ノ井の身体は映し出されていないように思えた。
「あたしは、多分、彼の喜ぶ顔が見たかったんじゃないかな……」
「そうか」
凌ノ井は、倉狩のこめかみに、小銃を突きつける。
「じゃあ師匠、夢から醒める時間だ」
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