第三十夜 反撃開始―炎の対峙―

「うぅむ。大丈夫かのう。病本やまもとの奴は……」


 隔離エリアの中で腕を組みながら、鋸桐のこぎり雁之丞がんのすけが呟く。


『あったりまえじゃない!』


 彼の独り言に対して脳内に反響する声は、いつも聞きなれた<くろがね>のものではなかった。きゃんきゃんと響く子犬のような喚き声は、実際の音として聞こえているわけではないものの、鼓膜の奥がくらくらするほどに甲高い。


『センバローはあんたなんかと違うのよ! とっても優秀で、とっても有能なエクソシストエージェントなんだから! 悪い奴なんかチョチョイのチョイ、よ!』

『ガンノスケ、こいつを黙らせてくれ。もう耐えきれない』


 次いで聞こえてきたのは、しっかりと<くろがね>の声だ。

 鋸桐は無駄だと知りつつ、頭の中の奇妙な居候に語り掛けることにした。


「<アリス>と言ったか。少し口をつぐんでもらえんかのう」

『なーんでアンタの言うこと聞かないといけないのよ! 私はアンタの夢魔じゃないんだから!』

「まあ、そーじゃのう……」


 病本千羽朗せんばろうが鋸桐に持ちかけた提案。


 それは、夢魔である<アリス>を鋸桐に預けるというものだった。

 自分の夢魔を他人に渡すなど前代未聞である。そもそもできるのかどうかさえ、鋸桐は考えたことがなかった。だが眠りにつき、片方が片方の夢にダイブすることができれば、それは不可能ではない。ダイブ中、2つの夢は接続状態にある。理論上、夢魔はそのどちらも行き来ができるのだ。

 通常、エクソシストエージェントが他人の夢に入り込む際、2つの精神が融合してしまったり、夢の影響を受けて変質してしまったりしないよう、夢魔によってプロテクトがかけられる。そのため、エクソシストエージェントの精神に他の夢魔が入り込むことはできないはずだが、今回は意図的にそのプロテクトを一部解除させた。そのため、病本の夢の中から<アリス>を連れ帰ることに成功したのだ。


 病本はいくつかの仮説を立てていた。

 そのうちのひとつが、倉狩くらがり鍔芽つばめが夢魔を通して、他人の思考や行動を読み取ることができるのではないかというものだ。病本の考えでは、おそらくすべての夢魔が倉狩にとっての情報端末になっているわけではない。だが彼は念には念を入れる形で、自分の中に一切夢魔がいない状態にしてから、鳥輿とりこしに直談判をしに行った。


 倉狩は、病本に一度釘を刺しに来た。彼の口から真実が漏れることを警戒しているのだ。

 完全に味方につけることはできなくとも、少しでも疑いの目を向けさせることができれば良い。倉狩の目的は依然として不明だが、彼女が何かしらの意思を持って動き、今まさにそのさなかであることは間違いないのだ。鳥輿を動かすことができれば、少なくとも倉狩の暗躍を止めることができる。


 あれから2時間近く。そろそろ病本が戻ってきても良いのではないかと思うのだが。


『あーあ、はやくセンバローの中に戻りたいなー。こんなむさっ苦しい男の中じゃ、居心地悪くってしょうがないんだから』

「居心地が悪くて悪かったのう」


 口の減らない夢魔である。

 どうにも鋸桐の知る夢魔は口さの無い奴が多すぎる。弟子の絶脇たてわきなどは、自身の夢魔が言葉をひとつも発さないことを残念がっていたが、そっちの方がはるかに楽だと思う。


 早く病本が戻ってきてくれないか、と思っているところで、隔離エリアに『ばん!』という大きな音が響いた。


『ひえっ』


 あからさまに怯える<アリス>。


 音は隔離エリアと非隔離エリアを隔てる大きな扉から聞こえた。鋸桐は訝しげに思いながらも、ゆっくり扉に近づいていく。


『や、やめた方が良いわよ。危ないかもしれないし……』

「そんなこと言ってものう。放っておいても逃げ場はないしのう」


 こういう時、いっさい物怖じしないのが鋸桐雁之丞である。これは単なる怖いもの知らずとも少し違って、単純に少ない選択肢を並べた結果、それが最有力ならあっさり他を割り切れる思いきりの良さがあるのだ。

 それに加えて、鋸桐の信条として『拳で片付くならそれでよし。片付かなかったらどうしようもない』というものがある。考えても仕方がないという自覚のある脳筋。それが鋸桐だ。


 その間にも、扉を叩くバンバンという音は止んだりしない。


『それで危ない奴だったらどーすんのよ! センバローはこんな迂闊なことしないんだから!』

「心配するな。そういう時のために、人間には二本の拳がついとる」

『何よそれ! 一本予備ですと言わんばかりじゃないの!』

「そういうわけでもない。二本ないと投げ技が使えん」

『やだあ! こいつやだあ! センバロぉー!』

『ガンノスケはこういう奴だ。諦めろ』


 隔離エリアの障壁は防音もしっかりした作りのはずだ。こうも激しく音がしているということは、そうとう強い力で叩くものがいるということである。念のため、扱いなれない拳銃に手を伸ばしながら、鋸桐はゆっくり扉を開けた。


「アアアアアアア!!」

「うおっ」


 飛び出てきた影に対して、反射的に拳が出る。確かな手ごたえが腕にかえってきた。


『ほら言ったじゃない! 危ないって!』

「ほら言ったじゃろう。殴ればなんとかなると」


 絶妙にかみ合わない会話劇を繰り広げつつ、鋸桐は目前の状況を確認する。確認しながら、もう1人別の男がとびかかってきたので、とりあえず殴り返しておいた。

 そう、男だ。鋸桐に襲い掛かってきたのは、当然ながら人間。それも、このヒュプノスの職員だった。何かに苦しむように頭を押さえて、のたうちまわるものが数人。残る何人かは小銃を手に、やはりもだえ苦しんでいる。倒れた職員たちは、両手を血だらけにして、真っ赤に腫らしている。


「なんじゃあ、これは……」


 異様な光景を目の当たりにして、鋸桐は眉を顰める。見れば床にもおびただしい量の血が流れている。

 すると、いきなり通路の角あたりから響いて、小銃を持っていた職員の腕から血が弾けた。とりあえず隙ができたので、一足飛びに近寄って思いっきりぶん殴っておく。気絶した。


「鋸桐さん!」


 角から聞こえてきた声には聞き覚えがあった。


「おお? その声は鳳透か。何があったんじゃ」

「細かく説明すると長いですわね! 緊急の用件から言いますわ。倉狩さんが本性を表しまして……」

「なんじゃ。やっぱり倉狩さんじゃったんか」

「ええ。あのクソアマ、急に開き直りやがって師匠と病本さんを撃っていきましたわ!」


 頭の中で、<アリス>が息を飲むような感覚があった。


「状況はまあわかった。少し待っとれ」


 鋸桐はそれだけ言うと、拳を握りしめて一番近くにいた職員に駆け寄った。いま、立っているのは彼を含めて2人。まず手前にいる方の後頭部を思いっきりぶん殴る。ごすん、という音がして、男はそのまま床へうつ伏せに倒れた。

 残る最後の1人も、意味をなさない悲鳴をあげながら小銃を振り回している。時折、ばららっ、という音がしてマズルが光った。職員は近づいてくる鋸桐にどんな幻影を重ねているのか、絶叫と共に銃口を向ける。鋸桐は一切物おじせず、ひときわ大きな踏み込みと共に肩を突きだし、そのまま背中からの体当たりを決めた。


 かくして5人の男が気を失って床に転がる。その間も、彼らは明らかにうなされているのがわかった。


『夢魔だな』


 <くろがね>が呟く。やはり夢魔か。


 鋸桐が、通路の影に隠れた鳳透のところへ踏み込むと、彼女は拳銃を片手に片膝をついて、ようやく一息をついた。自慢のドレスは裾を破り取られている、と見たが、これは彼女自身で破ったものだろう。横に転がされた2人の男、鳥輿黒鵜くろうと病本千羽朗には、破り取られたドレスの裾によって止血がなされていた。


『センバロー!』


 <アリス>が叫ぶ。その声が聞こえたわけではないだろうが、鳳透は彼のことをちらりと見て、言った。


「生きてはいますけど、一命をとりとめたとは言えませんわね。早くでも病院に運びたいところですわ」

「この通路から地上に出られるじゃろ。お前さんは、その2人と……」


 鋸桐は通路に転がる5人の男を見る。


「そこの職員を連れて病院に行くのがええ」

「そんな! 鋸桐さんは1人で戦うつもりですの!? 危険ですわ! お任せします!」

「まだ何も言うとらんのじゃが、まあ話が早くて助かるのう」


 元からこの鳳透凰華おうかという女は良い性格をしていると思っていたが、いまの会話を通してその認識をさらに強くした鋸桐であった。


「1人で戦うつもりもないんじゃが、どのみちこの様子だと、他の職員もあてにはできんのう」

「ですわね」


 鳳透は取り出したスマートフォンで、どこかに連絡を取りながら頷く。


『センバロー……。センバローは大丈夫なの?』

「あー……」


 鋸桐はもう一度病本を見る。


 鳳透の言う通り、辛うじて生きているといった状態だ。全身にいくつかの銃創。おそらく内臓まで届いているものもあるだろう。


「鳳透、病本の夢魔が病本は助かるかって聞いちょるが」

「助かるようにいたしますわ。……あ、じいや? すぐに2台ほど手配していただける?」


 通話はそれだけで終わった。その後、鳳透は鋸桐を見る。


「で、鋸桐さん。お任せはしますけど、大丈夫ですの? 病本さんの夢魔を通して、考えを読まれてしまうのではなくて?」

「読まれて困るような上等な頭でもないからのう。それに、こいつアリスを邪魔者扱いするのもなんじゃし、まぁ、倉狩さんを放置もできんじゃろ」


 鳳透を残すのもそれはそれで不安だ。勇ましさとたくましさは頼もしいが、それが実際の戦闘能力に直結するわけではない。夢の中ではなく、現実世界での荒事になるのなら、間違いなく鋸桐の出番だ。


 とは言え、確かに1人よりは2人の方が良い。


「絶脇も呼んでおくかのう」


 スマートフォンを取り出して、鋸桐は呟く。


「絶脇さん、今日は非番なのでは? オリエンタルランドに行くと言ってましたよ」

「とは言え命がかかった状態となるからのう」

「まあ、可哀想に」




「まあ、可哀想に」


 端末からもたらされた情報を聞いて、倉狩は同じ言葉を口にした。


 鋸桐に<アリス>を移すという荒業を実行されるとは思わなかった。凌ノ井しののい綾見あやみの件もあって、タイミングとしては最悪と言って良かっただろう。倉狩の計画は完全に破綻していた。どんなものも、崩れ去る時は一瞬だ。

 彼女はいま、棺木ひつぎの執務室にいる。初代棺木としてここに来てから80年近く。椅子に座って天井を眺める。


 倉狩は、大量に納められた書棚から、いくつかのファイルを乱暴に引っ張り出す。自分が関わったことのあるもののうち、を中心に、大量にダミーと共にまとめてシュレッダーに叩き込む。出てきた紙屑は、部屋の隅にまとめて火をつけた。


「立つ鳥は後を濁さずというけど、この場合はどういう処理が濁さずになるのかしらねぇ」


 独り言と共に焼却処分を続けていると、執務室の机に置かれた電話が、けたたましいベルの音を奏でた。倉狩は迷わず受話器を取る。


「もしもし?」

『ヘマをやったな』


 いきなり彼女の耳に届いたのは、そんな声だった。


「あー」


 電話口の向こうで青筋を立てる相手の顔を想像し、倉狩は苦笑いになる。


「そうみたいねぇ。ごめんごめん。長く生きると、いろんなところがダメになるね」

『こちらとしても、今更責任の取り方を問うつもりはない。だが、おまえを送り込んだ我々の立場はどうする』

「そんな情けないこと言わずに、そっちのことはそっちでなんとかしてよ。まぁなんだ。最後のホムンクルスの暴走。それでいいんじゃない? 旧世代の遺産も、これで全部なくなるわけだよ。表向きはね?」


 言いながらも、倉狩は紙屑を火にくべ続ける。電話口の向こうで、男がため息をつくのが聞こえた。『ごめんね』と改めて、心の中で付け加える。

 倉狩がヘマをやらかしたおかげで、保守派の立場はだいぶ辛いものになるだろう。彼女をこの地に送り込んだのだって、この電話相手の父にあたる人物だ。思い出もあれば思い入れもある。が、結局のところ、それは全部パーとなった。


 こうなってしまった以上、倉狩は保守派の後ろ盾を期待するつもりはない。やれることをやって、あとはサヨナラをするだけだ。計画の実行には長い長い年月とあ、それに伴って多くの人々の意思が関わっていて、それも全部おじゃんになることだけが、心残りと言えば心残り。それも結局自分のヘマなのが、どうにも申し訳なくて仕方がない。


『計画の成就は一族の悲願だった』

「まあ、ねえ。それは悪いと思うけど」


 あらかたの資料を処分し終わり、倉狩は再び椅子に戻る。


「でも、あたしもきみも、きみのお父さんも、お祖父さんも、ひいお祖父さんも、みんな悪いことをしてきたからね」

『今更何を言いだす。地獄に落ちるのを恐れよとでも言う気か?』

「地獄に落ちれたら良いよねぇ」


 作られた命も、死んだら地獄に行けるのだろうか。


 くだらない話を続けても仕方がない。倉狩は話を打ち切って、それを友人と交わす最後の言葉にした。鋸桐はいずれこちらに来る。もうすぐ凌ノ井も到着する。まぁ命を懸けた戦いになるだろう。

 今後も友人たちは計画の続行に固執をするだろう。障害になるのは凌ノ井と綾見だ。<真昼の暗黒>がこちらにつかない以上、殺しておくのが手っ取り早い。

 手を掲げ、倉狩はリリスを放出した。小さな夢魔の幼生たちは、人の心の中で互いを食い合い、すぐに大きく成長する。この周辺にはやがて夢魔が充満するようになる。あと今のうちにできることと言えば、まあそれくらいか。


 外が急に慌ただしくなるのを感じた。


 凌ノ井や鋸桐が来る前に、他の職員たちが到着したようだ。鍵の閉めた扉をこじ開けようとしている。倉狩は、自動拳銃に弾がきちんと装填されていることを確認して、銃口を扉へと向けた。




「うああああああああああッ!!」

「えっ」


 スリーピングシープの建物が見え始めた時、急に頭を押さえてタクシーの運転手が叫び声をあげた。ハンドルから手を放し、身体をのけぞらせて絶叫する。凌ノ井には一瞬、何が起こったのか理解できなかった。


「お、おいどうしたんだ!」


 後部座席と運転席の間にあるプラスチックの板が邪魔をして、運転手を引きずり出せない。


『マスター、これやばくないですか?』

「やべぇよ! なんで落ち着いてんだよ!」

「せめてハンドルを切って、スピードが上がりきる前にどこかにぶつかろう」


 綾見が冷静だがとんでもない提案をする。


「誰がハンドルを切るんだよ!」

「<私>は運転免許持ってないから」

「関係ねぇよ! クソが!」


 どっちみち迷っている暇はなさそうだった。凌ノ井は拳を握って、プラスチックの板を叩き割る。そのまま身を乗り出し、ハンドルを思いきり左に回した。

 タクシーは歩道に乗り上げ、街路樹に激突する。そのまま凌ノ井の身体はぽんと浮き上がって、フロントガラスに激突する。運転手はハンドルから飛び出したエアバッグに身をうずめた。


「凌ノ井さん、大丈夫?」


 後ろからひょっこり顔を出して、綾見が聞く。


「ちくしょう。何がどうなってるんだ……」


 全身に走る激痛を堪え、凌ノ井が呻く。


『夢魔ですね』

「ああん?」

『夢魔がついています。それもレベル3相当の』


<悪食>の声に、信じられないといった目つきで凌ノ井はタクシー運転手を見る。気を失ったまま、あの人の好さそうな運転手は苦しげに呻いていた。確かに、夢魔の被害者にみられる類のうなされ方ではある。

 これまで、夢魔に憑かれているような気配も素振りも、いっさいなかった。と、いうことは。


「師匠か」

「そうだね」


 後ろで綾見が頷く。


 倉狩が自分の手で夢魔を作りだせるというとんでもない話は、まだ信じ切れたわけではない。だが、すでにこの土地はヒュプノスの敷地であり、地下には広大な研究施設が広がっている。そこにいる倉狩が大量の夢魔を作りだし、放っているのだとすれば、それによる被害はまだまだ拡大することになる。


「凌ノ井さん」


 綾見は、うなされる運転手をじっと見ながら言った。


「ここから先は、凌ノ井さん1人で行くのはどうかな」

「なんだと?」

「よく考えたら、<私>と凌ノ井さんは一緒には戦えないよ。<私>は白昼夢デイドリームを展開しなきゃいけないし、凌ノ井さんの精神状態はまだ万全じゃない。倉狩さんを倒すなり捕まえるなりするなら、生身の戦闘の方が良い」


 綾見は、いつものぼんやりした表情のまま、しかしはきはきと告げる。


 彼女の言うことには、確かに一理ある。しかし、ここでわざわざそれを言いだすということは、


「この会話、どうせ師匠に筒抜けなんだろ? 対策とられねーかな……。いや、それは沫倉ちゃんが一緒に行っても同じか……」

「そういうことだね」


 どのみち、すべての事が片付いた後、倉狩の放った大量の夢魔の後始末をしなければならない。綾見は先にそれをやっておくと言うのだ。白昼夢デイドリームを展開すれば、大量の人間に憑いた夢魔を同時に相手にできるから、処理が素早く済む。


「……わかった」


 凌ノ井は頷く。


『あのう、私、本当について行っちゃっていいんですかね……。倉狩さんに取り込まれたりしません?』

「ないとは言い切れないけど」


 綾見は特に否定をする様子もなく、


「でもまぁ、その場合は凌ノ井さんと<私>でなんとかするよ」

「おまえ簡単に言うけどさぁ……」


 しかし一度頷いてしまったものは取り消せない。凌ノ井はボロボロになったタクシーを出て、喫茶スリーピングシープを睨む。夢魔の対処をするという綾見をその場に残し、彼は一直線にヒュプノス本部へと走って行く。


 小高い丘を駆けのぼっていくと、琥珀色をしたクラシックな建物が近づいてくる。元から閑静なイメージのあるスリーピングシープだが、今も不気味なほどに静まり返っていた。


「………」


 意を決して、扉を開ける。


 案の定、執事喫茶スリーピングシープも夢魔にやられていた。客も店員も、みな一様に倒れ、頭を押さえてうなされている。酷い悪夢にうなされている様子だった。意識のある何人かは、発狂するように頭を掻きむしって、叫び声をあげている。

 覚醒状態で意識を夢魔に支配されているのは極めて危険だ。凌ノ井は後ろから、そうした起きている被害者を1人1人丁寧に気絶させてから、いつもの部屋へと向かった。


 棺木の亡骸と対面して以来足を踏み入れなかったその部屋は、棺木が死んだ時とほぼ変わらずそのままになっている。凌ノ井は静かに歩を進め、そして、部屋を地下へと移動させるため、燭台に偽装したレバーを引いた。


「………」


 不気味な沈黙の中、ゴウンゴウンという音だけが響く。


「……おい」

『………』

「なんで黙ってるんだよ」

『……喋ると、倉狩さんにバレるかなぁって』

「どうせバレてんだから気にすんなよ」


 倉狩は、自身の放った夢魔に対してのみ、その思考や行動を読み取ることができると、綾見は言った。そして、おそらく<悪食>は、そうして倉狩の放った夢魔の一体だと。本人は一切の自覚なく成長してきたが、彼女は倉狩製の夢魔である可能性が高い。


 すると何か? 自分と<悪食>が出会ったのも含めてすべて、倉狩の計画の内だったとでも言うのか?


 凌ノ井がそう尋ねると、綾見は『それはわからないけど』と言葉を濁した。


 結局のところ、問い詰めるしかない。

 凌ノ井は最終的に、そう判断を下した。


 部屋が地下へと到達する。凌ノ井は扉を出て、地下施設の通路へと足を踏み出す。むっとする、すえた臭いが鼻をついた。近くで誰かが死んでいると、嫌でもわかる臭いだった。

 しばらく歩いていくと、通路の向こうにおびただしい量の血が滞留し、血だまりを作っているのが見えた。そこに転がっているのは、いずれも眉間を正確に撃ち抜かれた職員たちの亡骸だ。凌ノ井は一瞬だけ、わずかに怯んだが、それでも前に進んでいく。


「おかえり、鷹哉たかや


 目の前にあるのは棺木の執務室。そこからはっきりと声が聞こえた。

 室内では、囂々と音をたてて書類が燃えている。耐熱性に優れた地下施設の壁は、それ以上周囲に被害を広げることはなかったが、それだけにその執務室だけがまるで違う世界に切り離されたかのように、違う温度を保っている。


 問い詰めねばならないと思っている人間。

 いや、既に人間ではないとわかっているその彼女は、机の上に腰かけて、静かに凌ノ井を迎える。


「師匠……」


 血みどろの倉狩と、凌ノ井は2度目の対峙をする。

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