第二十九夜 反撃開始—スワロースイング—

 状況を正しく理解した倉狩くらがり鍔芽つばめは、にわかに落ち着きを失くし始めていた。


 端末が彼女の意識に伝えてきた情報は、その計画に致命的な欠陥があったことをはっきりと示している。あとはただ時間を稼げばいいだけだと思っていた倉狩は、いきなり盤面をひっくり返されたような気分になった。

 焦りから狼狽を露わにする彼女に、後ろを歩いている鳥輿とりこしが、恐る恐る声をかけてくる。


「ど、どうしました? 倉狩さん……」

「え、あ、いや……。その、大丈夫。何でもないわ!」


 苦笑いを浮かべ、手をぱたぱたと振るが、内心はとても穏やかではいられない。


 流れ込んできた情報が事実であるとすれば、彼女の知る<真昼の暗黒>は、もはやどこにも存在しないことになってしまう。計画のリカバリーは極めて困難、というよりは、不可能だ。費やしてきた年月の総てが水泡に帰す。今ここで叫びたくなる衝動を抑えるのには苦労を要した。


「(いや、まだ……)」


 倉狩は努めて冷静を維持しようとし、顎に手をやって考え込む。


「(沫倉まつくらちゃんと<真昼の暗黒>は同一の存在だから、あの子の性格をもう一度焼き直すのは不可能じゃない、か。問題はそれをどうやってやるかだけど。レベル4の夢魔に強制的に命令を下せるようなエージェントを、さらに捨て駒にするくらいじゃないとできない……)」


 該当するようなエクソシストエージェントは、ヒュプノス全体を見まわしても3人しかいない。そのうち、凌ノ井しののい鷹哉たかやを含めた2人には、こちらの意見を聞かせること自体が不可能だ。そうすると最後の1人だが、こちらは総本部にいて動かすだけでもかなり面倒な手続きが必要になる。


「(ホークアイに言えばなんとかなる……? うーん、厳しいな。もう最悪、計画はおじゃんにして綾見ちゃんを殺すことくらいまで考慮に入れた方が良い、かも……)」


 そうすると、重要なのはこの場をどうやって乗り切るかだ。

 これもかなり厳しいが、のらりくらりとかわしていけば、まだなんとかなる。棺木ひつぎ亡き現在、ヒュプノス極東本部でいちばん発言力があるのは倉狩、周囲に浮かび上がる疑惑を考慮すれば鳥輿だ。そして鳥輿と、彼の教え子である鳳透ほおずきは、決断をくだすのに慎重になるはずである。


 付け入る隙がある、と言えるような相手ではないが、結論を先延ばしにさせることはできるはずだ。


 鳥輿はハンカチで汗をぬぐい、そしてそのさらに後ろを、鳳透が静々と歩いているのがわかる。


 やがて、倉狩たちは隔離エリアの前までやってきた。管理された重厚な金属扉の前では、何人かの職員が厳重に警備を続けている。倉狩たちの姿を見つけるや、彼らは小さく会釈をした。


「あ、おつかれおつかれ」


 倉狩はぱたぱたと手を振って挨拶する。


「それでー? ここで鋸桐のこぎりくんが、千羽朗せんばろうを連れてくるの、待つ?」


 扉を眺めたまま、後ろの鳥輿に判断を仰ぐ。


「いやぁ、まぁ、その必要はありません」


 やけにはっきりした鳥輿の声に、妙な違和感を覚える。


 直後、がちゃり、という音がする。扉の前に立つ職員たちが、自動小銃を一斉にこちらへ向けた。倉狩ははっとして振り返る。すると、これまで静かに後ろをついてきた鳥輿と鳳透の手には、やはり倉狩を向いた拳銃が握られているのが、見えた。


「えっ? あ……」


 倉狩は、一瞬、その顔に狼狽を浮かべ、


「あ、あー……」


 だが、すぐにそれは苦笑いに変わって、


「あー……。マジかー……」


 そして、こめかみのあたりを、指で掻いた。


「こっちの方も、一手遅かったかぁ……」

「そういうことです」


 病本やまもとの声。隔離エリアの中にいると思い込んでいた彼は、通路の後ろ側から、やはり銃を片手にこちらへと近づいてくる。端末の声に耳を傾けてみたが、倉狩には、本来聞こえるべき声が届いてこない。

 不審に思いこそすれ、取り乱しはしなかった。手段を選ばなければ、やりようはあった。だが、ここまで先を越されるとは思わなかった。


「鳥輿くん、ここまで来てこう言うのも往生際が悪いんだけど……千羽朗にあたしが悪いと吹き込まれて、それを信じてる、ってことでいいのかな?」

「そうなりますな。一応は……」

「千羽朗の言葉には、信用に足るだけの何かがあった?」

「私も盲目的ではない。確証はありません」


 まぁ、しかしこうはなるだろうな。隔離エリアの中とは違って、外にいれば調べられる情報も、それを裏付ける証拠も入手しやすい。病本がそういう技能に長けるよう教育したのは、他ならない倉狩だ。だが、まぁ、裏目には出た。と、いうことか。


 油断があったな。それは否定できない。


「倉狩さん、棺木さんを殺害したのはあなたということで間違いはありませんかな」

「うん、まあ」

「そして、あなたはエクソシストエージェントとは何か違うメカニズムで……特定の夢魔を操ることができるのでは、と、いうのが病本くんの推測ですが……」

「……ああ」


 それを聞いて、倉狩は顔をあげた。


 そこには、諦観とはまた違う、妙に朗らかな笑みが浮かび上がっていた。





「倉狩さんは人間じゃなくてさ」


 目を醒ました綾見あやみを連れて、急いで病院を出る。そのさなかに、彼女が口にした言葉だ。


「薄々そんな感じはあったが、やっぱりか……」


 凌ノ井はややげっそりした様子で頷く。


「いろいろ気にはなる情報だが、ちょっと待て。タクシーを捕まえる」

「車はどうしたの」

「あれヒュプノスの支給品だから使えねぇんだよ」


 綾見が目を醒ましてからの一連は、それなりに大変だった。


 まず凌ノ井は隣の部屋で改めて起きたわけだが、綾見の病室に足を踏み入れると、彼女の胸に飛び込んで号泣する高梨たかなしユミの姿を目撃する。友人同士の感動の再会であって、あまり邪魔をしてもいけないのだが、なにぶんこちらにも時間はない。

 ユミの頭を撫でていた綾見だが、凌ノ井が来たのを見て、すぐに頷いた。ユミに『すぐ戻るから』とだけ告げて、ベッドを降りる。医者や看護師に見つかると面倒くさそうだったので、それから急いで病院を出た、という感じだ。


 大きな病院だったので、タクシーはすぐに捕まった。スリーピングシープの場所を伝えて、後部座席に乗り込む。


「それで? 師匠が人間じゃないって?」

「うん」


 いきなり後ろで始められた意味のわからない会話に、タクシーの運転手がぎょっとする。

 気の毒な話だが、あまり気遣ってやれる余裕もないので、凌ノ井は綾見に続きを促した。


「いやまぁ、あれだけ長く生きてるなら人間じゃないだろうよ。……いや待て、先に聞いておきたいんだけど、沫倉ちゃんって何歳なの?」

「17」

「じゃあそういうことで良いや……」


 下手をしたら、自分より年上なのではないかと思っていた凌ノ井だが、綾見がどうしても人間としての年齢を主張するのであれば、それ以上は追及できない。


「それで、師匠が人間じゃないって言うなら、なんなんだよ。夢魔なの?」

「夢魔でもない。ええとね……」


 そこまで言いかけて、綾見はわずかに言いよどんだ。

 ここで何かを悩む必要があるのだろうか。口にするのが憚られているのか、あるいは、もっと別の理由なのか。凌ノ井は急かそうと口を開き、しかしすぐに口を閉じて、不機嫌そうに前を見た。


『綾見さん、倉狩さんとのお付き合いは長いんですか?』


 すると、<悪食>が別の問いかけを発した。


「まあね」


 頷く綾見。


「かなり、長い。具体的な年月については、さておくけど」

『具体的なお話を聞いても?』

「そうだね。そっちから話した方がやりやすいかもしれない」


 綾見は、いつものぼんやりとした表情で、窓の外を流れていく景色をじっと見つめていた。




「<私>と初めて会った時にはすでに、倉狩さんの中には、夢魔に人間の肉体を与えるプランが成立していた。でもそれは、倉狩さんが発案したことじゃなくって、それよりもっとずっと前に、倉狩さんと親しかった人が考え出したこと、みたいだった」


 窓の外を眺めている綾見が、ゆっくりと語りだす。


「<私>はその時点でかなり強い夢魔だったから、倉狩さんも<私>に相応しい肉体を用意すると約束してくれた。そのあと、かなりしばらく経ってから夢現境会むげんきょうかいが出来た。アレはね、一応、<私>のための組織だったはず。できてしばらくしないうちに、<私>の行方がわからなくなって、まあ可哀想なことになったけどね」

違崎ちがさきは……人間の方の違崎は、おまえが<真昼の暗黒>だって気づいてたのか?」

「どうかな。わかんない。夢魔の方の<違崎>は気づいてたかもね」


 違崎恭弥きょうやは、生真面目な人だったよ、と綾見は語った。


「で、夢現境会と倉狩さんが用意した<私>の肉体が……」


 そこで綾見は、窓の外から視線を凌ノ井へと向ける。


「俺か」

「うん」

「そんな感じはしてた」


 倉狩の目的は、凌ノ井を廃人化させて肉体と精神の器だけを残すことだ。そこに復活した綾見を入れる、というのが、彼女のプランということだろう。

 それは、まぁ良い。いや良くないが。

 良くないが、もっと気になることがある。


『結局、綾見さんでは乗っ取れなくないですか? 変な言い方しますけど、私がマスターの肉体乗っ取ることもできますよね?』

「できるけど、倉狩さんとしては大きな問題じゃないんだよ」

『よ、よくわかりませんが……』

「うん。あとで話すね」


 しかし薄気味の悪い話ではある。倉狩鍔芽は、最初から自分が<真昼の暗黒>が活動するための肉体として、目をつけていたことになるわけだ。一之宮いちのみやすずめを失い、牢屋で腐っていた凌ノ井に声をかけた、あの時点では、既に凌ノ井の資質を見抜いていたことになるのか。


「師匠はなんだって、そんなことをしてるんだ」

「詳しいことは、知らない。ずっと昔にそういう計画がたって、それを遂行するのが目的だって言ってた」

「ずっと昔って、どんくらい昔だ」

「わかんない。そこは、ずっと昔としか言われなかった」


 結局、核心の部分はわからないままか。


 だが、倉狩を動かしている感情が、言うなれば『使命』に近いものであることは、わかった。自分の想像を絶するような長い年月を、彼女のはそのために費やしてきたことになる。凌ノ井を利用し、病本を利用し、棺木を殺害し。似たようなことはきっと、もっとたくさん続けてきたのだろう。

 凌ノ井はそこでふと、思い出すことがあった。


 夢現境会の本部に乗り込んだとき、違崎恭弥が口走った内容だ。


——彼らは精神面において我々より遥かに優れている。

——ですが肉体を持たないという点では我々よりいくらか脆弱な生き物です。

——我々は共存するべきだとは思いませんか?


 その時は、綾見が声に怒気を滲ませ、それ以上の妄言を許さなかった。


 そう、結局あれは妄言の類だ。凌ノ井は、夢魔というものに同情したことなど、一度もない。


 だが、夢現境会に関わる一連の事件が片付いた、そのとき。


——夢魔、って、なんなのかな。


 綾見が発した言葉だ。


 人間の肉体を得た<違崎恭弥>には、確かに強い欲望が芽生えていた。物質の世界に足をつき、五感を得たことで世界に対する執着を得た。その夢魔が最期を迎えるさまを見て、綾見はその疑問を口にしていた。

 今でこそ<真昼の暗黒>として自らの過去を認識できる綾見だが、その時点での彼女は間違いなく人間としてのメンタリティを備えていたはずだ。その綾見が口に出した言葉だった。


「……なんとなくだが、」


 凌ノ井は、タクシーの低い天井を睨む。


「師匠も、その計画を立案した奴も、別に夢魔にそそのかされて始めたとかでは、無い気はするな」

「そうだね。<私>もそう思う」


 綾見は頷き、そしてこうも続けた。


「物質世界に足をつけられない夢魔は、不完全な生き物だと思う。……あ、<悪食>さんの前で言うことじゃないかもしれないけど」

『いえいえ。私も別に自分が完璧だとは思っていませんし。自分の生き方を楽しんでいるからいいんですよ』

「その計画の発端っていうのは、夢魔への同情心なのか」

「だからわかんないよ。でも近いものはあるんじゃないかな」


 でも、どのみちそれは、夢魔以外の生き物を——例えば人間を、その命や精神を軽んじている。夢魔の方を見ているだけだ。人間を軽視し、夢魔にそこまで入れ込む理由は、やはりよくわからない。


「凌ノ井さん、夢魔はどこから来ると思う」

「考えたことなかったな。どうなんだ、<悪食>」

『え、私もよく知りません』


 ヒュプノスで解明できているのは、夢魔には成長段階があるということだけだ。


 人間ではほとんど知覚できない、精神世界を漂うだけの存在であるレベル1、リリスと呼ばれる形態があり、それは人間にとり憑くことで成長する。レベル2、キューブスと呼ばれる形態、レベル3、ナイトメアと呼ばれる形態では、人間の精神の内側でのみ生きることができ、やがてサナギが羽化するように魂を食い破って飛び立つ。

 だが、夢魔が分裂して増えるだとか、生殖して増えるだとか、そういった話は聞かない。


「さっき<私>は、夢魔は不完全な生き物って言ったけど、訂正する。夢魔は、不自然な生き物だと思う」

「不自然?」

「夢を見るのは人間だけじゃないのに、人間の夢にしか寄生するところが確認されていない、とか。自分だけで増える機能を持っていない、とか」

「まあ、そうだな……」


 凌ノ井は頷く。よくわかる話だ。


『綾見さんは、夢魔がどこから来るのか知ってるんですか?』

「正確にじゃないけど。半分くらいは」

「どこから来るって言うんだ」


 それを聞かれ、しかし綾見はすぐには答えない。ぼんやりした顔で、じっと凌ノ井を見つめ、それから一度天井を見て、それからもう一度、凌ノ井を見る。

 どう答えたものか迷っている時の反応だ、と、凌ノ井は思った。


「そう聞かれると正確に答えられないから、こう言った方が良いと思う」

「おう」

「倉狩さんは、夢魔を作れる」




——おめでとう、■■■■。


 初めて自分につけられた名前がなんであったか、倉狩はもう思い出すことができない。

 だが、初めてかけられた言葉だけは、はっきりと覚えている。


——君は今、この世界に生まれたのだ。


 生誕は拍手で迎えられた。目が覚めた時点で、彼女には記憶をする能力があり、言葉を発する能力があり、自分で思考するだけの能力があった。そして、彼女だけが持つ力として、天使を生み出す能力があった。

 今ではそれが天使ではなく、悪魔と呼ばれているとしても。当時人々は、彼女が作りだすことのできる疑似生命が、天使であると信じて疑わなかった。


 倉狩がその手から生み出した天使こそが、この世界に生まれ落ちた、最初の夢魔である。


 その後も疑似生命の研究は進んだと見え、倉狩の力を使わずとも夢魔は生まれるようになる。だが依然、彼女の力は重宝された。生みだした疑似生命と精神交感を行えるのが、その最大の理由であったように思う。そしてその力は、今日この日に至るまで、与えられた様々な任務を遂行するために、遺憾なく発揮されてきた。


 そしてまぁ、例えば今も。


 通路に絶叫が響きわたる。小銃を構えていた職員たちが、突然頭を押さえて喚きだしたのだ。倉狩の後ろにいるエクソシストエージェントは3人。彼ら以外はみな、突如として精神に入り込んできたの侵略者を許容できずに、のたうちまわっている。

 倉狩の放ったリリス達は職員の精神に入り込み、共食いを始めている。これだけの量ならば、手っ取り早くレベル3規模までの成長は果たすだろう。そしておそらく、心の中に数体のナイトメアを飼って平然とできる人間など、そうそういるものではない。


「倉狩さん、あなたは何を……!」


 咎めるような声は、鳥輿のものだ。倉狩はその言葉に応じることなく、半狂乱になった職員たちの手から自動小銃を奪い取った。銃口を後ろに向け、躊躇いもなく引き金に手をかける。


 銃声が一発。ぱっ、と赤い血が散った。


 鳳透凰華おうかの手にした拳銃から、硝煙があがっている。銃創は倉狩の腕に出来ていた。だが倉狩は、再び改めて、自動小銃の引き金を引いた。反動と共にバラ撒かれる銃弾。病本が通路の影に引っ込み、鳥輿も鳳透を引き倒して伏せる。倉狩は銃口を少しおろして、鳳透を庇おうとする鳥輿の背中にとりあえず十数発を撃ちこんだ。


「うぐぉっ……!」


 くぐもった悲鳴。次いで、鳳透が自らの師の安否を気遣い、名前を繰り返す。


 残念ながら念入りに殺している余裕はない。そしてまぁ、こうなってしまった以上、<真昼の暗黒>に関わる全ての計画がおじゃんになったと思って良いだろう。ならばせめて、凌ノ井と綾見は殺しておく必要がある。さもなくば後に支障をきたしそうだ。


「師匠ォッ!!」


 通路の影から、病本が発砲。倉狩の胸に弾丸が突き刺さり、またも血が散った。だがやはり倉狩は動じない。銃口を正確に病本へと向け、引き金を引く。病本の退避は今度は間に合わなかった。降り注ぐ銃弾の雨に、彼はその身を晒す。


「それじゃあみんな、ごきげんよう!」


 倉狩は叫んで、血の流れだした通路を走り出した。


「こうなっちゃったら、もうどうしようもないからねぇー! 反撃開始といこうかあ!」

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