第二十八夜 反撃開始―呪詛か、祝福か―
ヒュプノス本部にたどり着いた
鳥輿
「い、いやぁ倉狩さん。その、早いご到着ですな……」
「その、『面倒くさい先輩が来たなぁ』みたいな反応、やめてくんないかなぁ……」
鳥輿の反応を、とりあえず的確に形容する。
隔離エリアに入った
「(鋸桐くんかぁ……)」
正直なところ、倉狩的にはあまり喜べるような人選ではない。彼は単純だから、病本の言い分を信用する可能性があった。他の職員も一緒に行ったのだから、そのままさっくりと丸こまれてしまうわけではないだろうが、病本が自由なまま出てきたりすると、かなり困る。
倉狩として一番面倒くさい事態になるのは、病本が鳥輿、鳳透と接触して、彼の知る情報を話すことだ。そうなる前に処分できるのが理想だが、あまり大っぴらにやると、やはり鳥輿たちに疑われることになる。
となると、やはり一番確実なのは<真昼の暗黒>が復活するまで時間を稼ぐことだ。そうなってしまえば、ヒュプノスの一員という立場に固執する必要はもうない。堂々と裏切り者を名乗って、ここを出ていってしまえばよい。まぁそれはそれとして、病本はやはりさっくり殺しておいた方が、後々困らないだろう。
うん、そうだ。それが良い。
思えば長い計画だった。最初にこの計画を立案した人間も、それに協力してくれた人間も、もうこの世にはいない。自分だけが延々、彼らの寿命の数倍の年月を生きて、やっとここまでこぎつけたのだ。
自分の存在意義が、生まれてきた意味が、思想が歪んでいく末に摩耗して、それでもようやく報われる感覚。これを分かち合える相手は、もはや誰ひとりとしていはしない。<真昼の暗黒>であっても、きっとそれを理解してはくれないだろう。
まあ、わかって欲しいだなんて、甘えたことを言う気も、ないけど。
それでも、再会は楽しみだ。
さすがにこれが終わったのなら、今の主人には少し休暇をもらいたいところである。ほとぼりが冷めるまでは休ませてもらって、その後、面識者のいないどこか別の場所へ飛ばしてもらおう。
「倉狩さん、どうなさいましたの? ぼーっとなさって」
鳳透が小首を傾げながら、そう尋ねる。
「ああいや、物思いにふけっていてね。歳を取るとやっぱりダメよねぇ」
「しっかりしてくださいまし。次の本部長は、あなたか師匠のどちらかなのですから」
「いやあ、あたしは人の上に立つ人間じゃないよ。
ソファの上、鳳透の対岸にどっかりと腰を下ろす。
「それに、どうせ総本部から次の棺木が送られてくるんじゃない? 前回も前々回もそうだったじゃん」
「まったく関係ない疑問なのですけど、どうして総本部はブエノスアイレスにあるんですの?」
「昔はヨーロッパにあったのよ。ドイツだったかな? 大戦の影響で、いろいろあって移転したのね。なんでアルゼンチンなのかは知らないけど」
あのころのゴタゴタがあった時点では、倉狩は別の名前でアメリカにいた。当時、ヒュプノスの最高幹部の1人は合衆国政府と強いコネクションがあって、戦後、日本に新しい本部を開設する際、スムーズに事が運んだのはそのためだ。極東本部の開設に伴って、倉狩はアメリカから日本へと送り込まれた。
なお、これは組織内でも別に隠し立てしていることではないが、倉狩には戸籍が存在しない。だからパスポートは作れないし、運転免許も偽造だ。各所に根回しをしているから、問題にはなっていないだけで。
まっとうな人間として登録されていれば、世界最長寿としてギネス登録もされてしまうだろうし、それはちょっと困る。
鳥輿や鳳透たちと他愛のない談笑をしながら、倉狩は意識を〝端末〟に傾けた。
病本の反応はまだない。隔離エリアから出てきていないということだ。こちらの端末は、まぁ放置で良い。病本本人を処分すれば、回収する必要もない。
「倉狩さん、いま、鋸桐くんから連絡がありまして」
汗を拭きながら、鳥輿や倉狩に語り掛ける。
「病本くんの確保に成功したそうです。これから、こちらに出てくると」
「お、りょーかい」
いよいよか。倉狩は、いくつかの端末をそっと放ち、この後への布石を作る。あまりたくさん用意すると疲れるのだが、今回ばかりは、そんなことも言っていられない。
「ひとまず、あたし行っていいかな。鳥輿くんも来るよね?」
「まぁそうですな。病本くんにはいろいろ話を聞かねばなりませんし……」
ソファから立ち上がって、大きく伸びをする。伸びをしながら、倉狩は硬直した。
端末から送られてきた情報は、彼女にとって、想定外の事態が起きていることを示していた。
屋上への道を探すのは、そう難しいことではなかった。凌ノ井と<悪食>は、途中何人かの知り合いとすれ違って、ようやく建物の上に出る。天高く太陽の昇る青空が、どこまでも広がっていた。
ぽっかりと穴が開いたように、黒い闇が浮かび上がっている。沫倉綾見は、その闇の中にいた。
裸のまま、膝を抱えて胎児のようにうずくまっている。そんな彼女を、何本もの鎖が取り巻いて雁字搦めにしていた。これは綾見自身の夢の中だから、これは彼女の望んだイメージの姿だ。自分の中にある何かを、必死に抑え込んでいるように見える。
だが、そんなのは意味のないことだと、凌ノ井にはわかっていた。わかっていたというよりは、見当がついていた。
「よう」
凌ノ井は片手をあげて挨拶する。
「元気なさそうだな」
『凌ノ井さんもね』
目を閉じ、うずくまったままの綾見の言葉が響く。
「あの、マスター……」
あまり落ち着かない様子で、<悪食>がそわそわしている。凌ノ井は、そんな相棒を片手で抑えた。
「それでおまえ、俺に殺して欲しいって?」
『うん。まぁ、一応。そういうことになるのかな』
綾見の反応は平坦なものだ。相変わらず、声に抑揚がなく感情がほとんど滲み出てこない。可愛げのないやつだな、と凌ノ井は思った。
『全部思い出したんだ。<私>の記憶を全部。だから、このまま起きるのが怖いんだよ。凌ノ井さんを急にいたぶりたくなるだろうし、次は、ユミを苦しめるんじゃないかなって思う。<私>ってそういう奴だからさ』
「知ってるよ。嫌と言うほどな」
沫倉綾見の意識の中に<真昼の暗黒>が眠っているというような、両者を分けて考えられるような問題ではない。2つの存在は同一だ。シームレスですらない。だから、綾見は綾見のままに、<真昼の暗黒>に戻る。彼女が恐れているのは、つまりそこだ。
『たぶん、凌ノ井さんじゃ勝てないと思うんだ。今の凌ノ井さんはボロボロだし、<私>はとても強い』
「それもまぁ、知ってる。わかってる。おまえ本当に遠慮なく言うのな」
『ごめんね』
綾見が何を思い出したのかわからない。きっと、本人が全部と言うからには、全部なのだろう。目の前にいるのは、あの夢魔だ。嬉々として
そいつ本人から、まさか殺してくれと言われる日が来るなんて思っていなかった。願ってもないことだった。できることならそうしてやりたかった。
だが、
「ご期待には沿えねぇな。今の俺は木偶の坊なんだ」
『………』
「この状態で<悪食>みたいなパワーのある夢魔を使ったら、俺の方が死んじまうよ。そんなの嫌だろ」
『じゃあ、<悪食>さんは?』
「え、私ですか!? ええと……」
いきなり話を振られて、スーツ姿の美女が如実に狼狽える。なかなか見られない光景なので、凌ノ井はちょっぴり愉快だった。
「私はその、できれば、綾見さんを消してしまいたくはないので……」
『でも<私>、<真昼の暗黒>だよ。とても悪い夢魔だよ』
「そ、そうかもしれませんけど! ええと……。ど、どうにかならないんですかマスター!」
とうとう、凌ノ井の方を見て、すがるような目つきになってしまう。凌ノ井は頭を掻きながら答える。
「なるかならないかは、おまえの方がわかってるんじゃないの。<悪食>」
「うぐ……」
「どうにかなるなら、俺はあんなに荒れなかっただろ。沫倉綾見と<真昼の暗黒>は、『不可分の存在』と表現するのだって妥当じゃねえ。沫倉綾見が、<真昼の暗黒>なんだ。こいつが雀を殺したのは変わらない。こいつの罪は消えない。永遠にだ」
そう言って、凌ノ井はじっと綾見を見る。
夢の中でも口元が寂しく、煙草が欲しくなる。手持ち無沙汰な手で、ごしごしと髪を掻きながら。
<悪食>はがくりと項垂れて言った。
「どうしようもないんですか……」
「そりゃあ、どうしようもないだろうよ」
「じゃあ……」
顔をあげて、<悪食>は凌ノ井を睨む。
「綾見さんが、自分の衝動を抑えきれるって信じてあげれば良いじゃないですか! これまでやってきたことが消えないなら、綾見さんとして過ごした時間だって消えないんですよ!」
はっきりと、<悪食>は綾見が消えるのを嫌がっている。この夢魔がどれだけ沫倉綾見のことを気に入っていたのか、凌ノ井も知っていた。だが、この言葉だけでは、きっと綾見は納得しないだろうとも思う。
『<私>だって、自分がそんな酷いことをするなんて思いたくないんだけど』
案の定、綾見はそう言った。
『でも、もしそうなってしまったら、取り返しがつかないと思うんだ。<私>はそれが怖いんだよ』
「なんでもっと自分を信じられないんですかー!」
『自分を信じるには、やってきたことが、ちょっと重すぎるかなって……』
まあ、そろそろ、いいか。
凌ノ井は頭を掻き、空を見上げる。2人を苛めるのもこの辺にしておこう。今、この夢の中においては、自分の時間は有限だ。
「そろそろ、俺がここまで来た理由を話す」
凌ノ井の言葉に、<悪食>がぴたりと動きを止める。綾見の方は同じ姿勢のまま浮かんでいたが、明らかに意識をこちらに傾けるのがわかった。この、場の主導権を握る感覚というのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
『来た理由?』
「さっきも言ったけど、俺はお前を倒せないんだ。世間話をするために来たんじゃない。だいたいそんな話は、後でいくらでもできる」
「マスター……!」
ぱっ、と、<悪食>の表情に笑顔が戻る。いつもこれだけ可愛げがあればいいのだが。
反対に、少しばかり不機嫌な態度を見せるのが綾見だ。表情こそ変わらないものの、明らかに空気に棘が生えてくる。
『凌ノ井さんも、<私>を信じるとか、言うつもりなの』
「信じたくねぇんだが」
凌ノ井は頭を掻きながら答えた。
「端的に言えば、信じるってことになるのかなぁ」
『どうして?』
綾見の言葉は、かすかに震えているように感じた。
『<私>が凌ノ井さんにしたことを、忘れたわけじゃないでしょう。<私>は酷いことをした。きみの恋人を殺した。それだけじゃない。もっとたくさんの人を酷い目に合わせてきたんだよ。どうして<私>を信じるって言えるの?』
「まぁそう焦るなよ。良いか、まず俺の話を聞いてくれ」
『………』
とは言え、どこから話したものか。これは<悪食>にもずっと黙って、思考が漏れないように隠していた。倉狩の能力を警戒してのことだ。そもそも確証がある話でもない。でも、ここで話しておかねばならないことだった。
「おまえが記憶を失った件についてだ。これについて思いだせたことはあるのか?」
『ううん。そこだけよくわからない。でも、記憶の中に抜け穴がある感じでもないんだ』
「おまえが<真昼の暗黒>としての記憶を失って、人間として育てられるようになったきっかけだ。こいつのせいで、倉狩師匠はずいぶん迂遠な真似をしてくれたし、俺や<悪食>も面倒くさいことになった」
『でも<私>は、記憶を失くしていてよかったと思っているよ』
「そうか」
その言葉を、特に追及するつもりはない。自分や<悪食>、それに高校の友達と過ごすことができて良かったという、それ以上の意味の言葉ではないだろう。
凌ノ井は話を続ける。
「こいつは俺の仮説だ。だが俺には、おまえの<真昼の暗黒>としての記憶を封印した人物に心当たりがある」
『え、誰? どうやって?』
<悪食>も、きょとんとした顔して横に立っている。どうやら、心当たりがまったくない様子だった。
「俺に話してくれたことがあっただろう。物心ついたころから、ずっと心に残ってる言葉があるって」
『え……』
「幸せの生きなさいと、人の悪意に折れない、強い人間として生きなさいと、そう言われた記憶があるんだろう」
『いや、でも、凌ノ井さん。それは……』
「だから仮説だ。それに確証がない。だが、少なくとも矛盾もない」
凌ノ井は、闇の中に浮かぶ沫倉綾見の姿をじっと見据えて、はっきりと自分の答えを掲げる。
「<真昼の暗黒>の記憶を封印したのは、沫倉
それは果たして、呪詛か、祝福か。
17年前、沫倉綾那を襲ったのは突然の不幸であった。正体のよくわからない〝何か〟にとり憑かれ、じきに生まれる予定であった娘さえ失う。毎日悪夢を見せられ、精神が削り取られていく。おそらく、今までどれだけいたかも知れぬ<真昼の暗黒>の被害者と、同じ宿命をたどるであろうと思われた。当の夢魔自身も、それは信じて疑わなかっただろう。
だが、沫倉綾那には適正があった。強力な
綾那がその道を辿らなかったのは、病院からの情報遮断があったからだ。
とにかく綾那には適正があった。そして、彼女は精神を失っていく過程で最後にある願いを抱いた。自らの精神すべてを代償にして、宿る何者かにその願いを叶えさせたのだ。
幸せに生きろ。
人の悪意に負けないよう生きろ。
強い人間として生きろ。
人間として生きろ。
それは底抜けの慈愛からくる祝福であったのか。
自らを理不尽に貶めた何者かに、十字架を背負わせるための呪詛なのか。
あるいは、狂気に堕して亡き我が子へ託そうとした願いなのか。
いずれにせよ、それは成ったのだ。最凶最悪の夢魔であった<真昼の暗黒>は、沫倉綾那の望んだままの子として、この世に生まれ直した。幸せに生きる為に。強い人間として生きる為に。事実、生まれた子供は幸せに育ち、そして、強い人間に育った。
「仮説だ」
凌ノ井は繰り返し、3回目の言葉を吐いた。
「正直、気分の良い話じゃねぇ。これを話しておまえが幸せになれると思っちゃいねぇ。俺だって、こんな話冗談な方が良いなと思ってるよ」
『………』
「でも、実際どうなんだ。おまえ、今は俺やクラスメイトの子を傷つけたいとか、思ってんの?」
『……思ってない』
「じゃあ、そういうことなんだよ」
そして、仮説が事実なら、沫倉綾見はもう一度立ち上がる。
彼女は、人の悪意には決して折れないからだ。倉狩
そしておそらく、自分の中の悪意にも、負けることはない。
沫倉綾見は、決して自らの悪意に屈しない。そうなるように、生まれ直してしまったのだ。
「本当は」
『うん』
「そうじゃない方が良いんだ。俺にとっても。お前にとっても」
折れることを許されない生き様なんてバカげている。もしそうであるとすれば、人間として育ち、人間であるように育った彼女は、それでも人間ではない。夢魔でもない。もっと強くて、おぞましい何かだ。
そんなものであるくらいなら、極悪なだけの夢魔が正体であってほしかった。でも凌ノ井はもう、自らの願望には縋れない。
『酷いお母さんだね』
「自分の母親のことをそんな風に言うもんじゃない」
『うん。感謝してるんだ』
ぴしり、と、暗闇にひびが入る。
ああ。凌ノ井は目を伏せた。結局はそうであったか。
綾見を縛り付けていた鎖がいくつもいくつもはじけ飛び、しかし最後の一本だけは切れずに残る。闇はやがて砕け散って、腕に一本の鎖を縛り付けた少女が、屋上にふわりと降り立った。これはきっと、二度目の生を受けた時からずっと、少女を縛り付けている鎖そのものなのだ。
「ただいま、凌ノ井さん」
「おかえり、沫倉ちゃん」
その名前で呼んでやると、綾見ははっとしたような表情になって、しかしすぐにほほ笑んでみせる。
「凌ノ井さんは、<私>を許してくれるの?」
「どうだろうな。なんとも言えん。愛憎渦巻いてるってところだ。どっちも100倍だな」
「そうなんだ」
綾見はぼんやりとした顔で頷く。この仕草も久しぶりな気がした。
「<私>はね。いつか、報いを受けた方が良いと思うんだ」
「でも、今じゃなくても良いだろ」
「そうだね。今じゃなくても良い」
そう言って、綾見は凌ノ井を見上げる。
「凌ノ井さん、<私>の思い出したことを話すよ。倉狩さんのこととかね。いろいろ知っておいた方が良いと思う。知るのは知るでリスクがあるんだけど、知っておかないとどうにもならないことだから」
「含みがあんなぁ。でもまぁ、一度夢を出るわ。話は病室で聞く。良いな?」
「今、<私>病室にいるんだ……」
目的は果たした。とすると、これ以上、夢の中に留まり続けるのは得策ではない。
「綾見さんっ……!」
凌ノ井を突き飛ばすようにして、<悪食>が綾見にとびかかった。とびかかるというよりは、抱きついた。スーツの美女が裸の少女に飛びつくのだから、はた目から見るとかなり危ない。が、突っ込まずに放っておくことにした。
ここまで来るのに、<悪食>にはそうとう世話になった。まだ安心できる段でないとは言え、ここで無粋な野暮は言いたくない。
「綾見さん、お帰りなさい……!」
「うん。<悪食>さん、ただいま」
「良かったです! 無事で、ほんとに!」
「うん。まあね」
これでひとつ、倉狩の考えを潰した。あとは彼女がどう出るか。それは、綾見からいろいろ聞いてからになるだろう。
反撃開始だ。
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