第二十七夜 闇にさようなら—アイ・シー・ユー・アゲイン—

 目の前にどこまでも広がる闇の中を、凌ノ井しののいはただ進んでいく。実際のところは、本当に前に進んでいるのかどうかすらも、よくわからない。何しろ、道しるべになりそうなものは何もないのだ。ただただ、黒い闇がそこにある。


 これが、沫倉まつくら綾見あやみの夢の中であるという。

 以前、夢魔のとり憑かれた彼女の夢に入り込んだ時、その夢世界は学校だった。既に十年以上、エクソシストエージェントとして活動してきた凌ノ井も、こんな虚無だけが広がっているような夢に入り込むのは、初めてのことだ。


 夢世界は、その夢の主が持つ様々な記憶や欲求を元に形作られる。欲求が夢のテーマを決め、記憶がテーマに沿って細部を組み上げていく。そこに欲求がある以上、どれだけ記憶が稚拙でおぼつかないものであろうとも、夢世界というものは作りだされる。こんな、暗闇が広がっているだけで、など、作られるはずもない。


「やはり、綾見さんは……」


 <悪食>がぽつりと呟く。


 そう、考えられるのは綾見の精神が完全に機能を停止している場合だ。正確に言えば、精神の中で言う高我エゴの部分が。人格のうち、欲求や欲望を司り、感情を動かすのが高我エゴ。言わば精神体のオペレーションシステムだ。これが機能を停止すると、人間は廃人になる。

 それは夢魔である綾見も同じことだ。夢世界に何もないということはつまり、欲求を発生させる部分、すなわち高我エゴが消滅しているということ。綾見が死んでいるか、あるいは、既にこの肉体を離れてどこかへ行っているということ。


「どこかへ行ってる、ってことは、ないはずだ」


 凌ノ井は呟く。


「それだったら、わざわざ残った肉体と精神体マナスを病院に寝かせておく理由がない」

倉狩くらがりさんには、綾見さんが蘇生するという見込みがあった。それはわかりますけど」


 凌ノ井の真横を行く<悪食>の声には、あくまでも不安の色が濃く残る。


「綾見さんは<真昼の暗黒>なんでしょう? 倉狩さんはその記憶を蘇らせる算段があるから、こうしているんですよね?」

「ああ、だろうな」

「だったら、やっぱり危険じゃないですか」

「いや……」


 それは大丈夫だろう、という予見があった。


 <真昼の暗黒>が自身の記憶を失っているのは、倉狩にとっては予定外の出来事だった。倉狩の言動を確認するに、それは間違いない。記憶が完全に蘇れば、<真昼の暗黒>としての本性が完全に覚醒する。そう読んでいるのだ。

 人格、性格というものは、その精神体の様々な要素が複雑に絡み合って構成される。OSとなるのは高我エゴだが、精神体マナスの持つ記憶と経験は、それに強い影響を与える。


 沫倉綾見が人間として過ごし、例えばあのユミという少女や、学校のクラスメイトを過ごし、大切に思ってきたという『記憶』。綾見の行動原理を多く決めているのはその部分だ。こちらの記憶が強いから、<真昼の暗黒>としての記憶の一部が蘇っても、綾見は綾見でいられた。

 そこで<悪食>が懸念し、そして倉狩が実行に移そうとしているのは、<真昼の暗黒>としての記憶を完全に蘇らせることだ。それはもう完了しているのか、あるいはこれからなのか。が完了したとき、彼女は果たしてどちらの記憶に従うのか。


 だが、そういったアレコレについて、凌ノ井は『大丈夫だろう』と踏んでいた。


 綾見の記憶が何故封印されていたのか。凌ノ井はずっと引っかかっていたし、言ってしまえば、その正解には常に心当たりがあった。

 黙っていた理由は簡単だ。それは、凌ノ井鷹哉がもっとも望まない展開のひとつであったから。


「<悪食>、先にふたつだけ、確認しておきたいことがあるんだが」

「なんですか。あまり余計なことで時間食わない方が良いですよ? ただでさえ、今のマスターはボロボロなんですから」

「まぁ、うん。進みながらで良いよ。これ本当に進んでるのかよくわかんねぇけど」


 暗い闇の中をかき分けていきながら、凌ノ井は質問を口にした。


「夢魔とエクソシストの契約って、つまりどういうメカニズムで起こるんだ」

「色々ですね」


 <悪食>がばっさりと大雑把な答え方をし、そのまま数分間、沈黙が虚無に流れる。


「……あのな?」

「ええと、はい。待ってくださいよ。ちゃんと説明するのにも整理がいるんです。まぁ、私とマスターの契約は極めて穏当なものでしたからねぇ」


 避難がましい視線を華麗にスルー。しつつ、白い虎は黒い闇を睨んだままこう答える。


「本当にいろいろです。私とマスターの場合は、わかりやすく『契約』でしたね。マスターが私にご飯を提供して、代わりに私が力を貸す。私は人間が出来ている夢魔ですから契約は穏当に進みましたが、必ずしもそういう場合ばかりとは限らないのです。そもそも、そうした契約の取り交わしに強制力はありません」

「今、おまえが俺を殺そうとすれば、殺せるって話だろ」

「はい」


 夢魔は、力を行使したり、意に沿わない行動をしたりする際、対価を求める。凌ノ井たちがMPと呼んでいるそれだ。だがそれだけでは、常に反抗的な夢魔を抑えつけておくことはできない。


 そこで重要なのが、夢魔を強制的に従わせるための力だ。


「わかりやすく言えば殴り合いで勝てばいいんです。夢魔の持つ精神体マナスを、より圧倒的な精神体マナスでねじ伏せる。マスターが私を制御のは、それだけ精神体が強力だったから。これは誇って良いですよ。マスターは強いんです」

「今更とってつけたようなお褒めの言葉はいらねぇよ。今は制御できてないんだろ」

「まぁそうですね。精神体マナスの強さは変化するものではないんですが、そもそも今のマスターは自分の心すら制御できていません。これでは私との殴り合いもできませんね」


 凌ノ井は、先日倉狩の前から逃亡した際のことを思いだした。


 正しくは、逃亡させられた、だ。あれは凌ノ井の意思ではなく、<悪食>の意思だった。精神体同士の勝負で凌ノ井があっさり破れ、意識の主導権を明け渡してしまった結果だ。

 おそらく今の凌ノ井と<悪食>の力関係も、あのころと大差はない。<悪食>がやろうと思えば、凌ノ井の意思を自由にできる。凌ノ井は、それに抗うことができない。


 そこで、彼はもうひとつの疑問を口にする。


「今の俺がMPをお前に食わせて、言うことを聞かせることはできるのか」

「できますけど、やらないでくださいね」


 <悪食>の声は鋭い。


「今は力関係が違いすぎます。夢時計を見てもわかるでしょう。私がマスターに求める対価は普段の比じゃないんです。私がどれだけマスターに友好的でも、マスターが私を制御できていない以上、私が吸い取ってしまう分は、私にだって抑えられません」


 整理するとこうだ。


 エクソシストと夢魔の間に発生する契約は、それそのものに強制力はない。エクソシストはすなわち、自分の精神力だけで自分にとり憑いた夢魔に殴り勝てる者。<悪食>は言い方をぼかしたが、おそらく自分の精神の力だけで、自分にとり憑いた夢魔を殺せる者だ。だが、今の凌ノ井にはそれができない。


 ここまでわかれば、凌ノ井はふたつ目の疑問を口にする。


「もし俺が、いまMPを全部お前に食わせるとしたら、どれくらいまでの言うことを聞かせられる?」

「マスター?」


 <悪食>が立ち止まって、凌ノ井を見る。


「何を考えてるんです?」

「お前が心配しているようなことは考えてない。安心しろ」

「ええ……本当ですかね……。じゃあ一応答えますけど、あんまり自信ないですよ……」


 そこで<悪食>が例えに出したのは、先日の<違崎ちがさき恭弥きょうや>の一件だった。


 人間の違崎が、自分の夢魔にすべてのMPを食わせた。これによって、夢魔はレベル3からレベル4へと成長を遂げ、さらに違崎自身の肉体を乗っ取って活動を開始した。

 だがあの時点で、夢魔<違崎>の力は、明らかに成長したてのレベル4夢魔の域を逸していた。鋸桐のこぎり絶脇たてわきという、2人のエクソシストエージェントを相手に一切危なげなく立ち回り、そこに凌ノ井と<悪食>、そして綾見が加わることで、ようやく勝ちを拾うことができた。


「考えられるのは、違崎が自分のMPをすべて食わせる過程で、夢魔を無理やりパワーアップさせた可能性です」

「なんでそんなことをしたんだ?」

「さあ……。あくまでも可能性の話ですしね。それに、自分の命をあげちゃうほど夢魔のことを大事に思ってるんですから、最後の『要求』だって、夢魔の得になることをするでしょうよ」


 だからまぁ、それくらいのことはできるんじゃないですかね、と<悪食>は言った。


「ただ、今のマスターじゃ無理ですよ。繰り返して言いますけど、消費する量がそもそも普段と違うんです。今のマスターの精神状態で、私に全部を託しても……そうですね。カツ丼1個出すのが精一杯です。だからやらないでください」

「やらないよ。そう心配するな」

「じゃあなんで聞いたんですかね……」


 はらはらした様子で、<悪食>は凌ノ井を見る。


 本気で嫌がっている様子からすると、夢魔の側からMPの受け取り拒否はできないのかもしれない。人々の欲求を糧とするのがその生態である以上、夢魔がどれだけ望まない要求であったとしても、向けられたものは食ってしまうものなのだろうか。

 もし、凌ノ井が本気で<悪食>にすべてのMPを食わせようとしたら、その時点で悪食は凌ノ井の身体から飛び出していきそうな勢いだ。


「ね、ねぇ。なんでマスター、そんなこと聞くんですか?」

「気になるなら頭の中覗いてみれば良いだろ……」

「うう……」


 凌ノ井としては、特に意地悪をしているつもりはない。ただ、ここで悠長に説明しても、どうせ後で同じことを言うのだから、黙っているだけのことだ。


 暗闇を進んで、あるいは進まないで、どれくらいの時間が経過しただろうか。


 不意に、周囲の暗闇が少しずつ和らぎ始めるのがわかった。あるいは、虚無の中にぼんやりと、何かが浮かび上がってくるのがわかった。


「おや……」

「お目覚めみたいだな」


 凌ノ井が呟く。


 沫倉綾見の自我が、少しずつ蘇っている。これはその証左だ。やはり倉狩は、ただ無策で綾見を病室に放置していたわけではなかった。こうなることを、確実に見越していたのだ。


「どうしますか」

「あいつを探す」


 凌ノ井が足を一歩、踏み出すと、その足は闇ではなく確かに地面を叩いた。

 いや、正しくは床だ。そこはすでに、屋内だった。清潔感のある廊下は、以前彼女の夢に入り込んだ時と同様に、学校であるかのように思われた。


 ぼんやりとした、透明な影のような登場人物たちが廊下を歩き始める。よく見ればそれらも、それぞれ顔や体型が異なっていた。精神体マナスに蓄積された記憶が、綾見の意識が提示するテーマに沿って、夢の構築を始めているのだ。


「気を付けてくださいね、マスター」


 <悪食>が言った。だが、凌ノ井はかぶりを振る。


「こいつは、<真昼の暗黒>じゃない」

「どうしてそう言えるんです?」

「ここが学校だからだよ」


 凌ノ井の予感は当たっていた。沫倉綾見は、まだ、沫倉綾見のままだ。


 それが、自分にとって良いことなのか悪いことなのか。そこを考えるのは、ひとまずやめておく。心の底で覚えたわずかな安堵こそが、その答えであるような気もしたが、それを正面から認め切れるほど、彼は大人ではなかった。




——目覚めたくない。


 暗闇の中でぼんやりと浮かび上がる思考を抱きながら、沫倉綾見はそう思った。


 自分を呼ぶ声が、どこからか聞こえてくる。その声こそが、死んでいた自分の魂を再びより戻した正体であることを、綾見は知っていた。生存を望む声がある限り、この魂が消滅することはないのだと、はっきりと理解できた。

 夢魔としての本性は、消えた自我すらも再生する。望まれたものを叶えずにはいられない。あさましい怪物こそが自分だ。綾見はこの時初めて、自分が夢魔であることを恨んだ。


 倉狩鍔芽つばめに望まれた綾見は、閉じられた最後の記憶の扉を開いた。


 自分という存在、<真昼の暗黒>と呼ばれる夢魔が一体いかなるモノであるのか。自分がどのようにして、沫倉綾見として生まれてしまったのか。そして、倉狩鍔芽が何故そこまで自分に固執するのかも。すべてがはっきりと思いだせた。


 だからこそ、目覚めたくないと、綾見は強く願った。


 まだ、綾見だ。今はまだ、沫倉綾見だ。


 だが、次に目覚めた時、果たして自分は本当に、沫倉綾見でいられるのだろうか。


 自信がないのだ。綾見はなぜ、今の自分が沫倉綾見でいられるのかさえ、それさえわからない。いつ、悪辣な夢魔としての本性が露わになるのかわからない。

 目覚めたくない。目覚めるわけにはいかない。自分という存在が希薄になるように、綾見は願う。自分自身のその強烈な望みが、あるいは大切な友達の望みを打ち消してくれることを、また願う。


 他人の望みが叶わなければいいのになどと、それを思うことは、綾見にとってはきっと、初めてのことだった。




「……いねぇな」


 凌ノ井は、やや苛立ちの混じった声で呟いた。


 校舎のほとんどを速足で巡回したが、綾見の姿は未だに見つけられていない。多くの登場人物は薄ぼんやりとした影になっていて、その中で、綾見にとって重要だと思われる人物たちだけは、はっきりとした色と形を得ていた。例えば高梨たかなしユミだとか、高木たかぎだとか、田中たなかだとか。


 あるいは、薄ぼんやりした影の中に、綾見の姿はあったのかもしれないが、まだはっきりと識別できるような形状にはなっていない。ひとつひとつ確認していれば、それこそ時間切れになる。綾見の夢の中は、登場人物が異様に多いのだ。


「マスター。あの、もうあまり時間が……」

「わかってるよ!」

「本当にわかってます?」

「……わかってねぇけど! くそ!」


 教室に繋がる引き戸を、何度開けたかわからない。凌ノ井は、廊下を急いで進み、次の扉に手をかける。


「くそ、ここか!?」


 扉を開けた、その直後、


 何やらふわりと、やたら心地の良い芳香が、凌ノ井の鼻腔をくすぐる。目の前に広がるその光景を目にして、凌ノ井は、そして<悪食>は、一瞬あっけに取られていた。


「これは凌ノ井様」


 やたらと高い天井に、豪奢に設えらえた調度品は、学校の教室のそれではない。


 そしてその部屋の中央には、見慣れた燕尾服の、そしてもう二度と見ることはないと思っていた片眼鏡の男が、ティーポットを片手に立っていた。


「それに<悪食>様も。ようこそ、おいでくださいました」

棺木ひつぎ……か……?」


 凌ノ井がかすれた声で呟く。


 そこにいたのは、間違いなく、ヒュプノス極東本部の本部長を務めていた、あの棺木である。凌ノ井は、今自分の置かれている状況すらも一瞬忘れて、こう続けた。


「死んだはずじゃ……」

「何をおっしゃいます。死んでおりますよ」


 あっさりと、棺木は応じる。


「少なくとも、沫倉様はそう認識されているようですね。ですから、わたくしは死んでおります。この夢の中ではね。その証拠にわたくし、足がございませんでしょう」

「え、あ、お……おう……?」


 見れば、確かに棺木の足元はうっすらと掻き消えていた。これが綾見のイメージする死者のビジョンだとすれば、ずいぶんと滑稽な話であるようにも思える。


「とにかく、せっかくですのでご着席ください。<悪食>様にお茶をお淹れできる機会など、そうそうあるものではございません」

「い、いや……。悪いけどその、先を急ぐんだ」


 相手が、夢の中の登場人物であるとわかっていても。凌ノ井はここで棺木を無視することなどできなかった。二度と、言葉を交わすことができないと思われた人物が、そこにいるのだ。<悪食>が、心配そうな顔でこちらを見てくる。


 棺木はにこりと笑って、こう続けた。


「お力になりますよ」

「なに……」

「凌ノ井様は今、沫倉様をお探しなのでしょう。ですが、先を急いでも沫倉様は見つかりません。この夢の中に、沫倉様はいらっしゃらないのです」


 繰り返し考える。目の前にいるのは、夢の中の登場人物だ。


 それは、沫倉綾見の記憶をもとに構築された存在であり、棺木ではないのだ。である、というだけに過ぎない。

 だが、逆に考えれば。

 綾見の思い描いた棺木が、ここで凌ノ井たちに不利益になるような態度を取るとは、思えない。不要なことを言って混乱させることもしない。この棺木はひょっとしたら、自分たちの知り得ない情報を、知っているのかもしれません。


「……棺木さんなら、いろんなことを知っていそう、と、綾見さんは確かにそう思っていそうですね」

「はい。どうやらそのようです。ですので、わたくしは色んなことを知っております」


 棺木は微笑んで言った。


「もちろん、沫倉様の知っていることだけではございますが。おかけになってください。わたくしが代弁者として、凌ノ井様の知りたいことをお話しましょう」

「……助かる」


 凌ノ井は結局、最後にはそう言って大人しく腰かける。すると、隣の席にはスーツを着た美女が、平然と腰を下ろした。一瞬遅れて、それが<悪食>であると把握する。こいつ、普段は自発的には人間の姿をしたがらない癖に、今回は紅茶を飲むためだけにその禁を破ったのだ。


「棺木さん、時間がないので率直に伺います。綾見さんがいないって、どういうことです?」

「それが沫倉様の夢ということでございます」


 2人分のカップに紅茶を注ぎながら、棺木は答える。


「沫倉様は、いつ自分が<真昼の暗黒>になるのかを恐れていらっしゃいます。その自分が目覚めることで、自分の望みが叶わなくなることを避けるために、自分のいない世界を望まれているのです」

「……あいつの望みってなんだ」


 凌ノ井がぼそりと呟くと、棺木は紅茶を差し出して笑った。


「ご自分のお知合いが、みな平和に暮らしていらっしゃるということでしょうか。わたくしも、その末席に加えていただけているようでございます」

「大した夢ですねぇ」


 <悪食>は、時間がないと言った割にはのほほんとした様子で、紅茶を口に運ぶ。


「わあ、美味しい! マスター、こんなに美味しいなら、もっと美味しいって思ってくださいよ! 私、マスターの感情を元に探るしかないんですから!」

「そりゃ悪かったな。次から気を付けるよ」


 うっかりそう言ってから、棺木の紅茶に限って言えば『次』がないことを思い出す。1人で勝手に落ち込みながら、凌ノ井がティーカップに口をつけると、口の中に想像以上の味が広がるのがわかった。

 確かに美味い。凌ノ井が今まで感じていた棺木の紅茶と比べても、別格の味だ。


 どういうわけだ、と思ってから、すぐにこれが綾見の夢であることを思い出す。この紅茶だって、綾見の記憶をもとに再現された味なのだ。綾見にとって、棺木の紅茶とはそれほどまでに美味しかった、ということなのだろうか。


「……ところで、凌ノ井様と<悪食>様はこれからどうなさるのです?」

「棺木から、あいつを呼び出せたりしないか」


 凌ノ井がそう言うと、<悪食>がぎょっとしたような顔でこちらを見る。


「沫倉様は、この夢のすべてを無意識下で知覚していらっしゃるはずです。凌ノ井様とお会いになるつもりであれば、こちらに顔を出されるかと思うのですが……」


 出てこない、ということはつまり、出てくる気がない、ということだ。


「……わかった。ならこう言えば出てくるか」


 凌ノ井は呟いて、空のティーカップをソーサーに置く。


「お前の夢を叶えてやるから出てこいと。蘇りかけたお前の自我をもう一度殺してやると。そう言えば出てくるか。なぁ、<真昼の暗黒>」

「マスター……」


 <悪食>が何とも言い切れない、複雑な顔をしてこちらを見ている。

 これが本心から発せられたものなのかどうか。それくらいはわかるだろう。<悪食>にしても、それに綾見にしてもだ。どちらも、凌ノ井の心根を見通せないような、愚鈍な夢魔でもない。


 だが、この物言いは効くはずだと、凌ノ井は察していた。


「流石でございますね。凌ノ井様」


 にこりと笑って、棺木は言う。


「沫倉様からのことづけでございます。屋上で待つと」

「なんで屋上なんだ……」

「この部屋で戦いたくはないからでは?」


 <悪食>がぼんやりと言い、まぁいいか、と、凌ノ井は立ち上がった。夢時計を確認する。残り時間が、もうあまりない、ということだけはわかる。どれだけ残っているのかは、時計の動き自体が不規則なのではっきりしない。

 ひとまず、急ぐに越したことはない。ここに足を踏み入れた当初に比べ、名残惜しさはだいぶ減っていた。


「じゃあな、棺木」


 凌ノ井は言う。


「本物でないとしても、会えてよかったよ」

「それは何よりでございます。いってらっしゃいませ、凌ノ井様、<悪食>様」


 慇懃な一礼と共に、片眼鏡の男は凌ノ井たちを見送る。凌ノ井は振り返らない。あっさりと告げた別れが、死者本人に伝わることがないとわかっていても、幾らかだけ気持ちが楽になるのを感じていた。生き残った人間というのは、得てして傲慢で、身勝手なものなのだ。


 扉を開き、廊下に出ると、そこはやはり学校だ。凌ノ井は屋上に向かうため、速足で歩き始める。


 歩き始めたその時、凌ノ井の真横を、ふと誰かが駆けていく。


 それは、見覚えのある少女だった。思わず足が止まる。視線が動く。掠れた記憶の彼方からでも、はっきりと思いだせるその顔は、凌ノ井鷹哉たかやが長らく忘れていた表情を——笑みを、浮かべていた。


「待ってよ、鷹哉!」


 その声が、自分を呼ぶものでないことを、凌ノ井はなんとなくわかっている。


「早く来いよ、雀!」

「もー、あたし病み上がりなんだよ? あんまり無茶させないでよ!」


 ここは、沫倉綾見の記憶をもとに構築された夢の世界。

 そして、<真昼の暗黒>の記憶をもとに構築された夢の世界。


 だから、『彼女』はいるのだ。<真昼の暗黒>の記憶を持つ沫倉綾見が望んだままの、実に勝手で、理想的な世界の中に。


 振り返れば、決意が揺らぐ。

 話しかければ、心が臆する。


 凌ノ井鷹哉は再び歩き出した。過去を背中に、遠く離れて行く。


——夢はな。人を頑固にするんだ。


 いつだったか自分の放った言葉を、改めてかみしめる。


 凝り固まった夢は解れない。もう叶わない夢でも、新しい夢に切り替えが効くわけでもない。心の中に、重しとしてずっと残る。


 それに対して、少女の返した言葉。


——その夢、いつか叶うと良いね。


 その彼女の抱いた夢のひとかけらが、遥か後ろに遠ざかっていく。


「大した夢ですね」


 <悪食>が言った。


「本当にな」


 凌ノ井は頷く。


 心を縛る重しは、その足取りを阻害することもなく、かえってはっきりと、彼の歩く先を指し示していた。

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