第二十六夜 闇にさようなら―決死のダイブ―
病院にたどり着くと、
医者によれば、脳や内臓を含めた肉体に一切の損傷はなく、ただ意識だけが無い状態であるという。だがこれをなんと言うのかを、凌ノ井はよく知っていた。
そこにあるのは、人間、沫倉
『……マスター』
<
「……心配するな。落ち着いてるよ」
自分でも驚くくらいに、と、心の中で付け加える。
単に、感情を吐きだし尽して、疲れてしまっただけかもしれないが。凌ノ井の中にはもう、嘆きも怒りも、残されていないだけかもしれないが。凌ノ井は嫌になるくらい冷静だった。冷静なまま、ベッドに横たえられた綾見の身体を眺めていた。
口には呼吸器が備え付けられ、腕には点滴。生命活動に必要なものはすべて、外部から賄っているような状態だ。今の綾見は抜け殻である。
それが本当に、肉体を操っていた人格の死を意味するものなのか。
あるいは、自らの意思で肉体を捨て、夢魔としてどこかへ旅立ったことを意味するのか。
そのどちらかであるかは、凌ノ井にはわからない。
だがいずれにせよ、沫倉綾見は死んだ。
『……一杯食わされましたね』
<悪食>は忌々しげに言う。
『ここを出ましょうマスター。
「別に良いさ。<悪食>」
そのまま早口でまくしたてるような<悪食>に対して、凌ノ井は平然とした態度で答えた。
「焦ってここを出ても、逃げ場があるわけじゃない。いや、
状況は最悪と言って良い。倉狩がどこにいるかわからず、しかし彼女はどうにかして綾見を退け、あるいは自身の思うままの展開へとことを運ぶのに成功した。だがここまで来ると、凌ノ井には焦燥はなく、あくまでも冷静だった。
ベッドの上の綾見を見て、昂ぶるものも、こみ上げてくるものもない。
ただ目の前にあるがままの現実を受け入れる。凌ノ井は、自分がとうとう壊れてしまったのかとさえ思った。
扉が軽くノックをされ、凌ノ井は振り返る。倉狩が入ってくるのかとさすがに身構えたが、そこで控えめに扉を開いてきたのは、綾見と同じ学校の制服を着た、小柄な少女である。凌ノ井が軽めの会釈をすると、彼女も小さく頭を下げた。
「……あ、あの」
少女は凌ノ井を見て、遠慮がちに声をかける。
「あやみんの、お知合いですか……?」
「……あぁ、まあ」
反対に、彼女が無事な理由は、すぐにはわからなかった。
倉狩の目的がなんであったにせよ、彼女が綾見に勝った以上、ユミには危害が加えられてしかるべきだ。その様子や痕跡は一切見られない。倉狩は意図的に、ユミを見逃した。
「……あの、」
ユミはまた、凌ノ井を見上げて尋ねる。
「……どこかで会ったこと、ありましたっけ……?」
「ん、いや」
かぶりを振る凌ノ井。
実際のところ、一度はある。凌ノ井が初めて綾見の夢の中へとダイブしたとき。病院に収容された綾見を見舞いにきていたのが、ユミ達だ。その時凌ノ井は、自分を医者だと偽って病室に入った。実際に顔を合わせたことがあるのは、その時くらいだ。
ユミの側にもはっきりした記憶がないのか、凌ノ井の否定をそれ以上追及してくることもなかった。
「あやみんがなんでこんなことになったのか、よくわからないんです」
横たえられた綾見の姿をじっと見ながら、ユミは言う。
「ただ、私ができるのは、目を覚ましてって祈ることだけで……」
「祈る、か」
凌ノ井は抑揚のない平坦な声で、ユミの言葉を繰り返す。
「あの、祈れば届くって、そう言われて……」
面識の薄い人間に対してするような話ではないと思う。だが、凌ノ井は黙ってそれを聞いた。それを聞きながら、じっと目を瞑ったまま言葉を発さない、綾見の顔を眺める。
「祈れば目をこの子が目を醒ますと、そう思うのか?」
「でもあたし、あやみんを信じて裏切られたこと、ないんです」
「………」
凌ノ井は目を細める。その言葉の意味するところ。その真の意味を、彼は知っている。
それ以上、ユミの言葉を聞きはしなかった。無言のまま病室を退出し、廊下に出る。険しい表情のまま、ただひとこと、こう言った。
「どう思う」
『さ、さぁー……』
<悪食>の返事は妙に歯切れが悪い。無理もないが、と思いつつ、凌ノ井は自らの考えを述べる。
「師匠は、<真昼の暗黒>を復活させるために、あえてあの子を残してるのか?」
『ううん……。どうなんでしょう。それで死んだ
今までそんな例はなかったですよ、と<悪食>は言う。
沫倉綾見は、夢魔だ。彼女が周囲の人間の欲求を叶えたがるのは、夢魔の本能によるものだった。では、『沫倉綾見に再び目を醒まして欲しい』という願いは、果たして消滅した彼女の自我をよみがえらせることはできるのか。
可否はともかくとして、それが倉狩がユミを生かした理由だとすれば納得はいく。やはり倉狩
もし、誰かの願いが本当に綾見を復活させるようなことがあるのだとすれば、彼女の
『……ど、どうします?』
「わからん」
凌ノ井は仏頂面で答える。
『じゃ、じゃあ……』
<悪食>は、普段の彼女らしからぬやけに遠慮がちな態度で、凌ノ井に続けて尋ねた。
『マスターは、どうしたいんです?』
なんとなく、その質問が来るだろうな、と思っていた。
「わからん」
思っていたが、回答の備えをきちんとできていたかどうかと言えば、それはまた、別の話だ。
「わからねぇんだ。何をしたいかなんて、さっぱりだよ。それがちゃんとわかってるなら、さっき、あいつに置いていかれることだってなかった。あいつが死ぬようなことだって、なかったはずだ」
凌ノ井
おそらく少年の時から、そうであるように教育されてきた成果だ。だからこんな事態に陥ってもまだ、何をしたいかが、わからない。
「ただ、」
ただ、何をしたくないかだけは、不思議とはっきりしていた。
「このまま、師匠に全部良いようにやられるのは、正直癪だよな」
『それだけですか?』
「今はまぁ、それだけってことにしとこう」
凌ノ井は、病室の扉を振り返る。中には、ベッドの中で眠りについたままの綾見がいて、そして彼女が目を醒ますことを祈り続けるユミがいる。
「隣の部屋から、いけるかな」
『直接的な問題はありません』
<悪食>はきっぱりと答える。
『ただ、中断される可能性も、妨害される可能性もあります。その場合の安全は保障できません。まぁヤバいですよ。倉狩さんはどうもこちらの行動を把握してるっぽいですし。そこを突かれたら、どうしようもありません』
「それでも良い。やるぞ」
凌ノ井は、病室の隣、給湯室と書かれた部屋の扉を開ける。
『そこまでリスクを冒す価値って、あります?』
「わからん」
そう答えるしかなかっただが、しばらく宙を見つけてから、自分の言葉を取り下げた。
「いや、ある。リスクを冒す価値はある」
『ほう』
「あいつが生きているのか死んでいるのかはともかく、残されているのは手つかずの
給湯室の奥には畳が敷かれている。凌ノ井はおあつらえ向きだとばかりに戸締りをして、薄暗い部屋の中にどっかりと腰を下ろした。
「この件にはまだわかってねぇことがある。師匠だって知らないことだ。そいつがわかれば、新しい突破口になるかもしれん」
『苦しいですねぇ。まぁ、良いでしょう』
<悪食>はため息をつきながら言った。
『でもマスター、少し落ち着いてきたと言っても、今のマスターに長時間の私の制御は無理ですよ。私がダメだと判断したら、すぐにリンクを切ります。良いですね?』
「おう」
実は、<悪食>にも言っていないことがある。<真昼の暗黒>にかけられた記憶のロック、そして件の夢魔が沫倉綾見として生活を続けてきたその理由に、ひとつだけ心当たりがあった。沈んだ心の中にぼんやりと浮かび上がってきた、細い細い、可能性の糸。
それは誰かの福音にはなり得ない。凌ノ井にとっても、あるいは綾見にとっても、悪辣な呪詛として残る可能性があった。それが事実だったとき、凌ノ井は自分の心をどこに持って行けばいいのか、まだ覚悟を決めきれてはいない。
しかし、その呪いをもっとも強く受けるのは、きっと倉狩だ。彼女にとっては致命的な事実。
確定された事象ではない。あくまでも細い可能性の糸。
誰を幸せにするかもわからないその糸を手繰り寄せに行くというのだから、こんなにバカげた話は他にはない。
だがそれでも、からっぽになった綾見の夢世界へのダイブという挑戦に、<悪食>は付き合うと言った。凌ノ井は、彼女への感謝を口にはしない。ただ飲み込むこともせず、口内で持て余したままに、腕を組んで腰を下ろした。
催眠状態を維持する機材もなしに、危険な挑戦ではある。だが、意識がゆっくりと闇に落ち、夢の中へと溶けていく……。
ヒュプノス極東本部の隔離エリアで、2人のエージェントが相対している。
豪放磊落を絵にかいたような鋸桐
まぁ、
「まったく、阿呆なことをしよったのう。病本」
言葉口は軽いが、表情と声音は硬く厳しい。周囲に銃を構えた職員を引き連れ、鋸桐は病本を睨んだ。
「隔離エリアへの無許可の立ち入りは禁止じゃ。こん忙しい時に。処分だってタダじゃあ済まんぞ」
「もちろん、タダで済ませようなんて思っちゃいませんよ。命かけてますしね」
病本が両手をあげたまま軽口を叩くと、鋸桐は怪訝そうに眉根を寄せる。
「妙なことを抜かしよるのう」
「鋸桐さん、月並みなことを言うようで恐縮なんですが」
ちらり、と周囲の職員に視線を巡らせてから、病本は改めて真正面から鋸桐を見る。
「僕の話を聞いてくれませんか」
「うーむ……」
鋸桐は、巌のような顔面を顰めたままだ。腕を組んで考え込み、しまいにはそのまま、どっかりとその場に座り込んでしまう。生来、自分でものごとを考えるのが苦手と自負する鋸桐だが、常に思考を放棄して生きているわけではない。むしろ、考えるのが苦手だからこそ、ある種の決断には慎重になるきらいがある。
たとえば今この時が、そうだということだろう。
「どう思う。<くろがね>」
頭の中の夢魔に、意見を仰ぐ鋸桐。
<くろがね>の言葉は、周囲の人間たちには聞こえない。病本にも、職員たちにもだ。
「……そんなことはわかっとる。じゃが……んん? 気にならんこともないが……まぁうむ。……それもそうじゃな」
鋸桐は、最後には『ふん』と鼻を鳴らし、腕を組んでその場に座り込んだ。
「まあええじゃろ。貴様がここまでするにゃあ、何かしらの理由があるんじゃろうしのう」
ふう、と安堵のため息を、病本は漏らす。
『やったわねセンバロー! さっすが相手は単細胞なだけあって、言うこと聞かすのもお茶の子さいさいってなもんよ!』
「ええと、<アリス>。ちょっと黙っててね」
病本の理想としては、この場に他の職員がいないことだが、さすがにそこまでは聞いてもらえないだろう。彼らに倉狩の息がかかっていないとまでは言い切れないが、現時点で判明している事情を、ここで話すしかない。
鋸桐は心情的には、凌ノ井の味方側。つまりは病本の味方側のはずだ。
正直、病本としてはもう、これ以上凌ノ井に期待は出来ないと思っているが。
病本は正面から鋸桐を見据えて、ゆっくりと口を開いた。
「結論から言います。
病本の口からそんな発言が飛び出し、職員たちの間に動揺が走った。鋸桐は腕を組んだまま、目を閉じてその言葉を反芻する。
「……あんまり、驚いてませんね?」
「阿呆。驚いちょるわい」
あるいは他のエクソシストエージェントであれば、予測のひとつでも出来ていたのかもしれないが。少なくとも鋸桐に、その可能性はさっぱり思い当たらなかった。では誰がやったのかと言われれば、わからないと言う他なかったが。
それでも、病本の言葉を妄言と突っぱねなかったのは、凌ノ井が下手人ではないと信じていればこそだ。可能性には吟味する価値がある。
『問題は、ガンノスケにそこをまともに吟味する知能がないことだな』
<くろがね>の減らず口には閉口しつつ、黙って病本に続きを促す。
「僕は師匠に行動と思考を監視されています。これはおそらくですが、先輩もそうです」
「凌ノ井もか」
「ええ。で、僕は、その監視が夢魔を経由したものであるという推測を立てました。まぁ、的外れな可能性もあるんですが。夢魔の精神波を遮断するこの隔離エリアなら、思考を読まれる可能性もないと思って、ひとまず引きこもってみました」
『油断をするなよ、ガンノスケ』
病本の言葉を聞き、<くろがね>は釘を刺す。
『考えられる可能性はふたつだ。そのふたつに限って言えばシンプルだ。こいつが本当のことを言っているか、嘘を言っているか。本当でも、嘘でも、ワタシには心当たりがある』
先ほど言っていた、<悪食>が嫌い、という話に繋がるものだろうと、鋸桐は思った。
『そう、その通りだ。ガンノスケ。この男についている夢魔と、<悪食>は、ワタシ達とは違う。だから、どちらとも考えられる。この男の言うことが正しくて、その2つの夢魔は思考を届ける為のパスとして利用されている可能性。あるいは、この男の言うことがまったくの出鱈目で、この男と<悪食>の主が何かを共謀している可能性。どちらでもあり得る。あり得るのだ』
そのどちらの可能性を信じるにしても、わからないことは多い。
夢魔を思考のバイパスとして利用できるのならば、それを実行している倉狩とは何者なのか。
<悪食>と<アリス>が何かを企んでいる夢魔で、凌ノ井と病本がそれに従って共謀しているのだとすれば、2人がそれに従う理由とは何か。
そしてどちらの場合であっても、<悪食>と<アリス>が、どう違うのか。
そこで鋸桐の思考は最初に戻る。
結局、自分の脳みそで吟味をしても、仕方がないような気がする。
吟味しても仕方がないので、自分の信じたい方を、信じることにした。
「続きを話せ、病本」
沈黙の末、鋸桐の口にした言葉に、職員たちが再度ざわめく。病本は訝し気な顔を、鋸桐へと向けた。
「……信じるんですか?」
「儂が信じちょるのはお前さんじゃあない」
いかにもなセリフを口走ってしまったあと、鋸桐は自分で顔をしかめ、こう続けた。
「いや、信じちょるっちゅうわけでもないな。まぁ上手くは言えん。考えても無駄じゃからのぅ。気分じゃ」
『正気かガンノスケ』
頭の中で、くろがねが呆れた声をあげる。
『ワタシは油断するなと言ったぞ』
「油断なんぞしちょらんわい。吟味するには足らなすぎる。材料も、頭の中身もな。それならもう、指針になるのは、自分の気分しかなかろうよ」
『……呆れてものが言えんぞ』
「じゃあ黙っとるのがええんじゃないか」
病本に、運が良かったな、と言ってやりたいところであった。自分以外のエクソシストエージェントがここに居合わせれば、どういう判断を下すのか、鋸桐にも想像がつかない。だが、少なくとも自分ほど無条件に病本の発言を信用しようとする者はいないだろう。
「あ、あのう……。そこまで根拠もなしに信用されると、それはそれで不安なんですが……」
「根拠も何も、判断材料が足りんと言うちょる。病本、言うだけ話せ。儂は、凌ノ井が棺木を殺すなんてことはないと思うちょるが、ひとまずそれに納得するだけの証拠が欲しい」
病本は、不安げに職員たちへ視線を泳がせる。
彼らは鋸桐ほど単細胞ではない。ぴりぴりとした緊張感が漂い、銃口は依然、病本の方へと向けられたままだ。
「鋸桐さん、納得できません」
職員の一人がそう声を張り上げる。
「彼の言い分が正しいとしても、まずは外に出て話を聞くべきです。然るべき取り調べの手続きを経て、事の正否を問う。そうでなければ、なんのための組織ですか」
もっともな話だ。それを聞いた病本の表情がわずかに曇り、諦観めいた自嘲が口元に浮かぶ。
「しかしなぁ」
鋸桐は頬を掻いた。
「病本の言うことが本当だとすれば、外に出た時点でこいつはアウトなんじゃないかのう。倉狩さんに考えがバレる。病本の目論見が失敗したっちゅうことが、倉狩さんに伝われば、倉狩さんは病本を追い詰める為に工作をするじゃろ? 鳥輿師匠や鳳透あたりが敵に回ると、流石に苦しいと思うぞ」
「だからと言って!」
声を荒げる職員。
「〝気分〟でこんな重要なことを決断されても困ります!」
『雑な感情が混じっているな』
ぼそり、と<くろがね>が言った。
『言動の端々に何者かへの憎悪が入り込んでいる』
さもありなん。無理からぬ話だと、鋸桐は思う。
何者かによって、ヒュプノスでは既に5名の死者が出ている。手を下したのは沫倉綾見であり、凌ノ井鷹哉であり、そうした前提のもとで遅々とではあるが調査は進んでいたはずだ。それをひっくり返すことを、彼らは恐れている。
もちろん、口にしている言葉は至極真っ当なものだ。こんな重要な決断、〝気分〟で下すようなものでもない。
「とは言え、」
と、鋸桐は言った。
「おまえさん達が病本を警戒する理由だって、〝気分〟じゃろう」
「ふざけないでください。俺たちは……」
「いいや気分じゃ。確かに病本の発言は突拍子もないが、矛盾があるわけじゃあない。それは倉狩さんも同じじゃ。どちらを疑うにしても、判断材料は足りていない。ただ心情的に、規則違反を犯し不審な行動を取っている病本が怪しく見える。それだけの話じゃ」
「ぐ……」
職員は言葉を継ぐことができなくなる。そう、職員だって病本の言葉を否定するだけの根拠は持ち合わせていないはずだ。『突拍子もない』とか『根拠がない』とか、それを言いだせば、凌ノ井を下手人とする説だって突拍子もなく、根拠もない。
それでもあの会議が一応の成立を見たのは、暫定的な行動指針が必要だったから。そして、その指針をもとに行動しても、手遅れになる可能性が低かったからだ。だが今回に限ってはそうではない。
病本の発言が真実であった場合、それを信じ、決断するための猶予はそこまで長いものではない。
倉狩はパスが通じなくなったことを不審に思い、行動に移しているはずだ。もしかしたら、ここに鋸桐が派遣されていること自体、元をたどれば倉狩の指図によるものかもしれない。で、あるとすれば、倉狩がここに踏み込んでくる可能性だって、時間が経てば経つほどに高くなる。
「鋸桐さん、話します」
先ほどに比べ、いくらかきっぱりとした口調で、病本は言った。
「鋸桐さんも想像されてる通り、師匠が来るまでには時間がない。でも、師匠が来るまでの間、ここで鋸桐さんや……皆さんに話したことは、師匠には伝わらない。これはアドバンテージになるんです。喩えこの後、鋸桐さんに話した内容が師匠に伝わってしまったとしても、それを受けて行動する鋸桐さんの動きは、師匠には知覚できなくなる」
「それで、儂にどうしろっちゅうんじゃ」
病本は、素早く自身の打ち立てた幾らかの仮説、そして倉狩を追い詰めるのに必要なプランを説明した。それは鋸桐からすればまったく想定の内になかったことであって、彼は再び、意味のない吟味に頭を悩ませることになった。
まだ想定の範囲内だ。
病本と鋸桐が隔離エリアで会話を交わしている頃、当の倉狩は車を飛ばしてヒュプノス本部へと戻る最中であった。まさか病本があそこまで思い切った手段に出るとは思わなかったが、それでもまだ、想定を大きく逸脱してはいない。
こうまで動かれると、病本をこれ以上放置しておくのは難しい。直接手にかける必要も出てくるかもしれない。しかしそうなった場合、さすがにヒュプノスに籍を置き続けるのは難しいだろう。もちろん、表向きはの話であるが。
倉狩をこの日本に派遣した老人たちの思惑。一部のそれは、成就の時が近い。肝心かなめの<真昼の暗黒>がまだ不完全な状態であるという、その事実だけがもどかしいが、まぁ、時間の問題だ。
「はぁー……」
ハンドルを握りながら、倉狩はため息をついた。
「この国も、好きだったんだけどなぁ……」
下準備がギリギリ間に合わない状態での作戦決行。その結果、やはり穴だらけの計画を遂行するハメになっている。それでもまだ。それでもまだ良い。成功しさえすれば。決行に移すタイミングの話をするなら、あの時しかなかったし。
計画の核自体は順調だ。<悪食>のパスを通し、凌ノ井が<真昼の暗黒>の夢の中に入ろうとしている状況は伝わってきていたが、これは倉狩にとっては予想外の好転と言えた。
いま、<真昼の暗黒>は目覚めつつある。綾見は、ロックされた自分の最後の本性を開き、それを恐れて自死を選んだ。つまり、次に目覚めるとき、沫倉綾見は完全な<真昼の暗黒>として覚醒する。そこに精神がボロボロになった凌ノ井が飛び込もうというのだから、倉狩としてはそれを止める理由もない。
目覚めた<真昼の暗黒>と、おそらくそこには、
そこまで行けば、目標はほぼ達成したも同然だ。だからあとは、それを邪魔しそうな病本と、ヒュプノスのメンバーに注意を払う。途中でご破算にならないよう、ここから先はもっと慎重に行く。
倉狩の車は、じきにスリーピングシープへと到着した。
夢の中に入るのは、なんだか久しぶりな気がした。石造りの重たい部屋が、相変わらずそこにある。いつにもまして、その部屋の光景は凌ノ井の心を重くするが、立ち止まってはいられない。部屋の中にある唯一の異物、白くしなやかな身体を持つ雌虎は、凌ノ井を見て目を細めた。
「やはり……ボロボロですね」
「そうか」
「武器を出すことも、夢の中での身体能力を強化することもできません」
<悪食>は、首だけで壁にかけられた大きな時計を指し示す。凌ノ井の、夢の中でのタイムリミットを示しているそれは、いつもに比べて明らかに不規則に、しかし高速で、その短針と長針を動かしている。盤上の数字はボロボロと崩れ落ち、目盛りと一緒に床へと転がっていた。
凌ノ井の懐に入っている、もうひとつの夢時計も同様だろう。これでは、何かを望むべくもない。今の凌ノ井は、夢魔の加護を経て夢に入ることができるだけの、限りなく無力な存在だった。
「本当に、綾見さんの夢へ接続しますか?」
「ああ」
「もう、綾見さんではないかもしれませんよ?」
「……ああ」
自棄になっているわけでは、ない。
自分の仮説が正しいことを、証明しに行くだけだ。そしてそれを証明できれば、倉狩の想定をひとつ、打ち砕くことができる。
それが、凌ノ井鷹哉と、沫倉綾見にとっての救いになるのかは、別にして。
<悪食>は、凌ノ井の意見を尊重した。凌ノ井の意識と、綾見の夢が接続される。空間に広がる波紋。それをくぐり、中に入ると、そこには―――、
どこまでも広がる暗闇が、凌ノ井を待ち受けていた。
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