闇にさようなら

第二十五夜 闇にさようなら―糸口―

 慌ただしい様子の医師たちを、倉狩くらがりは遠目に眺めていた。緊急搬送された沫倉まつくら綾見あやみは、いまなお検査を受けている最中だ。もっとも、詳しい検査結果など出ないまま終わるだろうと、倉狩は思っていた。綾見の身体には外傷が一切ない。ただ、『意識がない』というだけの状態なのだ。

 倉狩に追い詰められた綾見が取った最後の手段が自決であった。<真昼の暗黒>としての最後の記憶が覚醒した瞬間、彼女は自らの意思で精神体を破壊した。白昼夢は解け、そこには抜け殻になった綾見の肉体と、倉狩、そして気絶したユミという少女だけが残された。


 なので、一応、沫倉綾見は死んだ。


 実際のところ、倉狩はそれを信用してはいない。の持つ力は、自ら命を絶ったくらいで終わってしまうようなものではない。だから倉狩は、沫倉綾見を病院へと運んだ。


 やがて検査が終わり、医師たちから事情を説明される。


 意識を失っている理由に関しては、まったくの詳細不明。このまま再び起きるのかさえわからないという。倉狩は適当な相槌を打って、礼を言った。残された病室で、眠り続ける綾見を眺め、微笑む。


「死んだくらいで、あなたの運命から逃れられるほど、甘くはないのよ。沫倉ちゃん」


 肉体は健康そのもの。心臓をはじめとした各臓器の動きにも異常や支障は見られない。ただ、意識だけがないという状態だ。医者たちも、これには首を傾げていた。

 実際のところ、ベッドに横たえられた綾見の姿は眠っているようである。先の戦闘で、ああもあっさり彼女を追い詰めることができたのは、倉狩にとっては行幸だった。基礎スペックで言えば、綾見のそれはもっと手に負えないものであったはずだ。


 勝てた要因は幾らかある。綾見が、倉狩の正体を知らなかったこと。

 加えて、彼女があくまでも、ユミの救出を優先したことだ。あちらが最初から倉狩を殺すつもりできていれば、ちょっとわからなかった。幸運が重なった結果ではあったが、それらは決して偶然の産物でもない。倉狩にはあらかじめ、そのくらいの勝算はあった。

 あの時大量に生まれた夢魔は、とりあえずその辺に放った。どこかで適当な宿主を見つけ、立派に育つか、あるいは見つけられなければ死んでゆくだろうが、そこまで感知するつもりは倉狩にもない。


 倉狩が綾見を眺めながらぼんやりしていると、病室の扉が軽くノックされた。


「どーぞー」


 倉狩が腕を組みながら返事をすると、遠慮がちに扉が開く。隙間からこっそり覗いてくる少女には見覚えがあった。綾見と同じ学校の制服を着ている。


「あらユミちゃん。調子はもういいの?」

「あ、あの、はい……」


 気絶したままのユミも、とりあえず病院に運んだ。放っておくといろいろ面倒事がありそうだったし、流石にまぁ、ちょっと可哀想だったからだ。

 倉狩が登校中の彼女を襲ったことを、ユミ自身は知らない。だから彼女の認識は、綾見のバイト先のちょっと変わったお姉さんというくらいのものだ。ユミが何者かに襲われて、それを綾見が助けて、綾見も気を失って、という、若干雑な筋書きではあるが、話した内容としてはそんなところだ。どうせ長いスパンで騙すつもりは、倉狩にはもう無い。


「あやみんは、大丈夫なんですか……?」

「お医者さんの話だと、わからないんだって。ご家族の連絡先とか聞かれたけど、ユミちゃん知ってる?」

「いえ、あの……。あやみん、その、施設育ちで……」

「らしいわねー」


 まぁ知ってたけど、と口の中で呟く。


「ユミちゃん、沫倉ちゃんのお友達なんでしょ?」

「はい……」

「じゃあ、そばにいてあげてね」


 倉狩はユミの手を取ってにっこり笑う。


「え……」

「ユミちゃんがそばにいて、祈っていてあげれば、きっと沫倉ちゃんは目を醒ますわよ」


 そう。人々の願いを受け、それを糧とする夢魔、その中でも最強の一体である<真昼の暗黒>が、ここで終わるはずがない。その目覚めを待つ者の祈りがあれば、死んだ精神さえも蘇る。

 だから倉狩は決して気休めの励ましをしているわけではない。真実を口にしているのだ。


 そこで目が覚めるのが、本当に沫倉綾見であるのかは別にして。決して、嘘を言っているわけではない。


「……はいっ!」


 ユミは幾らかの希望を得たのか、その表情を明るくする。


 ひとまずこれでよし。あとは、ヒュプノスの方への言い訳をどうするか。<真昼の暗黒>が目覚めれば、極東本部に居座る理由もそこまでだが、少なくともそれまでの間は、彼らを騙しておく必要がある。


 ひとまずユミに別れを告げ、病室を出てから、倉狩は大きく伸びをした。


「うーん……。やっぱりいろいろ崖っぷちだなー」


 思った以上に、綾見が頑張りすぎたせいだ。綾見だけじゃない、<悪食>も。もろもろの不確定要素が重なって、計画の進捗は思った以上に芳しくない。が、ことを起こすならこのタイミングしかなかったわけで、今できる限りのことを頑張るしかない。


 その時、不意に倉狩の脳内、あるイメージが届く。


「おっと」


 倉狩は足を止め、口元を歪めた。


千羽朗せんばろう、それはちょっと悪手じゃないかなぁ……」


 その言葉が本人に届くことはない。だが、倉狩は遠くヒュプノス本部の地下にいる病本やまもと千羽朗の動きを、はっきりと知覚する。その動きが、倉狩の計画のうちにおいて、とうてい許容できるものではない、ということもだ。

 すぐには向かえない。先に押さえておく必要がある。倉狩は携帯電話を取り出した。


「あー、もしもし。鳥輿とりこしくん? あたしー、だけどー」




「はい? 病本くんが?」


 電話をとった鳥輿黒鵜くろうは、倉狩から伝えられた突然の報告に困惑していた。彼は、本部に設えられた専用のオフィスに駐在しているのが常であり、この時も、机の上に広げていた英字新聞を読みながら、株価の乱高下や世界経済の先行きに胃を痛めている、そんなさなかの出来事であった。

 にわかに狼狽える鳥輿の様子を見て、ソファに腰かけていた少女は澄ました顔をわずかに傾げる。鳥輿の愛弟子である鳳透ほおずき凰華おうかも、こうしていつも鳥輿のオフィスに常駐していた。


『そう、不審な動きをしていたら捕まえておいて欲しいの。今あたし、ちょっと本部離れちゃってるからさー』

「その不審な動きというのが、なんなのかはわかりませんが……」

『隔離エリアに近づくとかかな。気にしておいてもらえる?』

「は、はぁ……」


 額に浮き出た汗を拭いながら、鳥輿は生返事をする。

 鳥輿は52歳。ヒュプノスに名を連ねてから30年以上になるベテランだ。その30年前から、この倉狩鍔芽つばめは一切姿かたちが変わっていない。日本にヒュプノスの活動基盤ができたのは戦後まもなくのことで、今は亡き鳥輿の師匠に聞いた話では、既に設立期のメンバーとして名前を連ねてはいたらしい。


 そんな得体の知れない倉狩のことが、鳥輿はどうにも苦手だ。


「まぁ、一応、確認してはおきましょう。ですが倉狩さん、|凌ノ井(しののい)くんに続き、病本くんまでとなると、あなたの監督責任を問われるのでは……」

『あははー、ごめんねぇー』

「い、いえ、出過ぎたことでした。いやしかし。次の本部長を決める総本部とのやり取りもあります。あまり不祥事を重ねるのは倉狩さんの為にも……」

『どーせ次の棺木も総本部が送ってくるでしょ。あたしも鳥輿くんも出世の見込みはないよー』

「む、むぅ……」


 結局うまい具合にはぐらかされる。最後に、『じゃ、よろしくー』と言って、電話は切れた。


「倉狩さんからかしら。鳥輿師匠……」

「うむ……。相変わらず無茶を言うよ、あの人は……」


 ソファに腰かけた鳳透が、ティーカップを片手に尋ねる。


「病本さんが、どうなさったと?」

「造反の可能性がある、と言われた」

「まあ」


 口ぶりに比して、鳳透はあまり驚いた様子を見せない。


「落ち着いてるね、鳳透くん……」

「病本さん、前回の会議の時ずっと様子がおかしかったんですもの。可能性としては、まあ、なくはありませんわね。わたくしは同じくらい、倉狩さんのことも疑わしいと思っておりますけど」

「だよなぁ……」


 すっかり前髪が後退し、広くなった額をハンカチでぬぐう鳥輿。


「しかし、怪しい動きがあると言われて動かないわけにもいかないんだよ。それは鳳透くんだってわかるだろう。もし本当に病本くんが夢魔にそそのかされて造反を試みていた場合……」

「ええ。ですから、病本さんの確保はきちんとするべきですわ。無実なら事情を話していただけるかもしれませんし」

「じゃあ、鳳透くん行ってくれる?」

「いいえ?」


 鳳透は笑顔で首を横に振った。


「わたくし、腕っぷしには自信がありませんもの。鋸桐のこぎりさんの方が適任なのではないかしら」




 ヒュプノス地下本部に設えられた隔離エリアは、夢魔の精神波を遮断する。見た目は重苦しい牢獄だが、いわば無菌室のような場所だ。通常、夢魔はこの先へと入ってくることはない。レベル4以上の夢魔を幽閉したり、逆に夢魔に狙われた人間を匿ったりするのに使われる。

 隔離エリアは通常閉鎖状態にある。本部長の許可がない限り、立ち入りは許されない。だが病本千羽朗はいま、正規の手順を一切踏むことなく、その隔離エリアへと足を踏み入れていた。棺木が死に、各部署が混乱のさなかにある。ごまかしはいくらでも聞いた。


『ちょ、ちょっとセンバロー! まずいわよ!』


 頭の中で、<アリス>がキンキン声を張り上げる。


「まぁ、まずいね……」


 病本は苦笑いをしながら、隔離領域の中を歩く。中に入ってしまえば、もう歩く必要はないのだが、それでもなんとなく奥へ奥へと進んでいく。重苦しい金属製の壁が、延々と続いていた。


『なんなの!? こんなの規則違反でしょ!? センバロー、不良になっちゃったの!?』

「なっちゃったかもしれない。けど、これはこうしなきゃならなかったんだ。<アリス>、聞いてくれるかい」

『え、う、うん。センバローが、聞け、って言うなら、聞かないこともないわ』


 病本にとっての懸念は、まず単純に、行動をすべて倉狩に把握されていることだ。行動だけではない、おそらく思考についても。

 倉狩は病本だけではなく、凌ノ井の行動もきちんと知覚できているようだった。が、おそらく他のエクソシストエージェントにまでは、それは及んでいない。凌ノ井と病本、この2人だけだ。


「理由はいくつか考えられるけど、大きくわけると2つだ。師匠が特別な場合か、師匠の夢魔である<丸呑みオロチ丸>が特別な場合か」

『ふんふん』

「とりあえず、後者の場合だったら、この隔離エリアにいる限り外部から干渉されることはない。この会話も師匠に聞こえることはない。まぁ、僕がエリアの外で、これを『思い立った』時点で察知されるだろうから、どっちにしても時間の猶予はないんだけどね」

『前者だったら?』

「うーん……」


 病本は苦笑いを浮かべて立ち止まり、頬を掻いた。


「例えば師匠がすごい超能力を持っていて、僕や先輩の行動をすべて読み取ることができる、とかだったらお手上げかもね。でも、まあ、僕は別の可能性を考えてる」

『センバローが考えてるんだったら多分それが正解よ!』

「そうかなぁ……。これ言うと、<アリス>がショックを受けそうで、あまり言いたくないんだけど」

『そうなの? 言いたくないなら、センバローの意識に潜って勝手に見ちゃうわよ』


 冷たい床の上にゆっくりと腰を下ろして、病本は鞄からパソコンを取り出す。少し目を細めながら宙を睨み、話を続ける。


「師匠は、<アリス>や<悪食>さんの思考を読み取って、僕らのことを監視してるんじゃないかなって」


 確証はない。証拠もない。ただ、病本がそう考えるというだけの話だ。


 だが、病本が倉狩と出会ったのは、<アリス>と接触してそう間もない頃の話だった。凌ノ井もまた同様であるという。倉狩は、<アリス>と<悪食>の行動を知覚することができて、彼女たちがとり憑いた凌ノ井や病本を、弟子として教育してきたのではないだろうか。

 自分の計画の、都合のよい手駒とするためにだ。

 なぜ、<アリス>と<悪食>なのか。他の夢魔を知覚することはできないのか。この仮説を追求するなら、まだ確認しなければならないことが多すぎる。だが事実なら、少なくともこの隔離エリアにいる間、倉狩に思考を読まれることはない。


『………』


 <アリス>は黙り込んでいた。さすがに自分が原因という話を聞かされれば、ショックなのかもしれない。


『……な、何よそれっ! じゃあ、私のせいなの!? 全部!?』

「そう言ってるわけじゃないんだけど」

『許さないわあのオンナ! 私とセンバローの絆を利用するなんてっ! 見つけたらケチョンケチョンにしてやるんだから!』

「無理だと思うけどね……。怒りの矛先がそっちに向いてくれてよかったよ」


 翻って、この隔離エリアに足を運んだ理由だ。


 病本の考えが正しかった場合、あるいは、間違っていたとしても、おそらくたいていの場合は、この隔離エリアにいる限り、病本が倉狩に行動を察知されることはない。あちらにわかるのは、病本が隔離エリアに入ろうとした、という、そこまでの情報だ。

 このエリア内で、病本が何を調べ、何を知り、どのような行動に出たとしても、倉狩にはそれはわからない。


『でも追い詰められたら逃げ場ないじゃない』

「ま、そうだね」


 病本は開いたパソコンに指を載せ、キーボードを叩き始める。


「でも、何から何まで情報を抜き取られるよりはマシだ。わからないっていうのは、気味が悪いものだしね。こうすることで、少なくとも師匠は困る。この情報を師匠に知られない形で誰かと共有できれば、なお良いんだけど」


 倉狩が出かけている隙を見計らったのだ。彼女は、すぐにはここには来ない。

 とは言え病本のやっていることは規則違反だ。気づいた誰かが、彼を拘束しに来る。その誰かと情報共有をするのが、病本にとっては理想的だ。その誰かは、倉狩に行動を察知されることなく、そしてそれが誰なのかは倉狩もすぐに知ることができない。


 頼む、話の通じる奴が来てくれ。


 あとできることと言えば、祈ることだけ。そしてこのパソコンで調べられることを調べるだけだ。情報収集はお手の物と言っても、さすがに装備がこれだけではできることも限られる。


 その時、不意に隔離エリアの入り口の方から、重苦しい音が響いてくる。扉が開けられたのだ。病本はパソコンを叩く手を止めて、顔をあげる。

 いよいよ、覚悟の決め時か。


『センバロー、話が通じずにつかまっちゃったら、どうするの?』

「その時はまぁ、たぶん、僕は師匠に殺されちゃうね」


 病本はのんびりと答える。


『じゃあなんで、こんなことするのよ。別にそのまんま、言うこと聞いて静かにしてればよかったじゃない』

「そういうテもあったけど、まぁ、そこはねぇ……。悪いことをしてるのは師匠の方だしねぇ……」


 命をかけるだけの価値があるのかという問いは、まぁナンセンスだろう。こんな仕事をしているのだから、命をかけていない時なんてない。間違っている方の片棒を担がされるなんて、それこそゴメンだ。


『でも私、センバローのそういうところ、大好きなんだから!』

「はいはい」




 鋸桐雁之丞がんのすけにとって、わりと様々なことが不愉快であった。


 棺木が死んだこと、凌ノ井が平然と裏切り者扱いされていること、そして今度は病本が怪しい動きをしているという。それだけでも不愉快だが、その件について報告を下してきたのが、あの鳳透というのもやはり不愉快だった。

 鋸桐は、鳥輿を師に持つ。弟弟子に怨堂えんどうつぐみがおり、そして妹弟子にその鳳透凰華がいる。ヒュプノス極東本部に所属するエージェントの中では、あの鳳透が飛びぬけて苦手だった。


 武装した職員を引き連れて、ひとまず隔離エリアの前まで来る。監視カメラでは、既に病本がこの中に入ったというのは確認済みだった。どういう意図があるにせよ立派な規則違反なので、これは取り締まる必要がある。

 ここは先日、沫倉綾見が職員を殺害して逃亡したとされる現場でもある。その話を思い出して、やはり鋸桐はまた、不愉快な気持ちになった。


 重苦しい扉を開けて、一同は中に入る。銃を構えた職員たちが警戒しながら進んでいく。金属製の壁が延々と続く通路に、足音が反響していた。


『厄介なことになっているな。雁之丞』


 頭の中で、<くろがね>が囁く。


「おまえそれを言うの何度目じゃ」

『うむ。まぁこの1時間だけで6回ほどは言ったかな』


 辟易としながら呟くが、<くろがね>の態度はあくまでも飄々だ。こういうところは、この夢魔は<悪食>とそっくりなのだが、それを指摘すると途端に不機嫌になるので滅多なことでは口にしない。


「そういや、おまえさん、なんで<悪食>と仲が悪いんじゃ」

『初めて会った時から気に入らなかったのだ』

「その、初めて会った時、っちゅーんがよくわからんのじゃが。儂にとり憑くより前に、あいつに会ったことでもあるんか?」

『ない』

「じゃろう」


 あり得ない話だとは思っている。<くろがね>はレベル3の夢魔だ。鋸桐以外の人間にとり憑いたことなどない。だが、<くろがね>と<悪食>は、鋸桐と凌ノ井が初めて顔を合わせた時から、互いのことを毛嫌いしていた。

 正確に言えば、<くろがね>が<悪食>を毛嫌いしていた。あまりにも<くろがね>の口が悪いものだから、<悪食>も次第に態度が硬化していって、滅多なことでは口も利かなくなった。


『雁之丞、夢魔はどこから来ると思う?』

「そんなん知らん。どこから来るんじゃ」

『私にもわからない』

「ああん?」

『だが、あいつは。私や、他の大多数の夢魔とは違う。だから嫌いだ』

「そりゃあ……」


 違うだろう。レベル4なんだし。と、言おうとして、鋸桐はやめた。<くろがね>が言っているのは、そのようなことではない。彼女が言っているのは、〝生まれ〟の話だ。それが何を意味しているのかまでは、わからないが。


 しばらく進んでいくと、前方を歩いていた職員がぴたりと立ち止まる。周囲に緊張の糸が張り詰めた。


 職員たちが一斉に銃口を向けるその先に、1人の青年が座り込んでいる。彼はライトに顔を照らされ、苦笑いを浮かべたまま、両手をあげていた。


「あー、鋸桐さんでしたかぁ……」

「病本……」


 特に悪びれた様子もなく、青年は妙にへらへらとした笑みを浮かべている。

 病本千羽朗は、特に抵抗の意思をみせなかった。鋸桐は出方を伺い黙っているが、病本の方も、切り出し方を吟味している様子でもある。


『雁之丞、言っていなかったかもしれないが』


 しばらくの沈黙が続く中、<くろがね>がこう言った。


『こいつに憑いている夢魔も、あの白猫と同じだ。私たちとは、




――どうして、来るの


 綾見の発した言葉が、凌ノ井の頭の中に反響していた。


――私は、凌ノ井さんを連れていきたくない


 その言葉に、いっさいの反論ができなかった。そこでようやく気づく。自分は何の目的も、何の信念もなく、ただ後悔と復讐心だけを引きずって十数年を生きてきただけの、餓鬼であるのだと。


 自分の信じていたもの。大切なものが砕け散った時、それでもなお前に突き進むための信念が、凌ノ井にはなかった。名前と姿以外何もわからないような少女を、リスクを冒してまで助けに行く理由が、凌ノ井にはなかった。

 今の彼にあるのは、ただ倉狩が憎いというその気持ちだけだ。


 公園のベンチに腰掛けてぼんやりとしているだけの時間は、ただただ意味もなく過ぎていく。


『マスター』


 それまでずっと言葉を発さずにいた<悪食>が、不意に凌ノ井へ声をかけた。


『携帯鳴ってますよ』

「……ああ」


 ぼんやりした態度のまま、コートに手を伸ばす。死んだ魚のような目に映る画面は、『沫倉綾見』の名前を表示している。着信は通話ではなく、メールだった。腕をあげるのも億劫そうな動作で、ようやく届いたメールを開く。


 そこに書かれていたのは、いつもの綾見からの、無味乾燥な文面ではなかった。


 『代理です』と書かれたタイトルから始まったそのメールには、打ち手が綾見の友人である高梨たかなしユミであるということ、綾見が現在、病院に収容されていること、その綾見には意識がないということ、少ないアドレス帳に登録されていた名前に片っ端からメールを送ったこと、などが綴られていた。


『ユミさん、助かったんですね』

「……ああ」

『でも、綾見さんが倒れてしまったようですけど。大丈夫なんでしょうか』

「……さあな」

『……お見舞い、いきません?』


 凌ノ井は、ぼんやりと空を見上げる。


 心の中にはいろんな言葉が浮かんだ。だが、今はそれを口にするのも億劫だ。


「……行くか」


 理由などは特にない。今度は引き留める者がいないから、というだけの話だ。それに顛末は気になる。倉狩はどうなったのか。綾見が負けたのなら、ユミが無事なはずもないし、呑気に入院などさせられているはずもない。たぶん、綾見が倉狩を、倒した、はずだ。


 彼女が目を醒ましたら、それを聞いて、そしてその後のことは、その後に考えよう。


 凌ノ井は、引きずるような重い足取りで、公園を出ていった。

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