第二十三夜 暗がりの陰謀―弱い人だな―

 極東本部に緊急招集されたエージェントの間には、重苦しい雰囲気が漂っている。スリーピングシープ地下のブリーフィングルームには、現在、12人いるエクソシストエージェントのうち9人が集まっていた。緊急時の僻地担当として東京に常駐していない2人のエージェントは、オンライン回線で会議に参加しているため、事実上ここにいないのは、凌ノしののい鷹哉たかやの1人だけだ。


 その凌ノ井鷹哉の造反。

 そして、ヒュプノス極東本部長、棺木ひつぎの死。


 その2点が、集まったエージェントに告げられる。まさしく、青天の霹靂であった。

 この場を取り仕切るのは、凌ノ井の師匠にあたり、そして彼からの攻撃を受けたという倉狩くらがり鍔芽つばめ。彼女の顔には激しい殴打のあとがあり、さらには肩のあたりに銃創が残っている。

 倉狩の話では、凌ノ井は棺木を殺害した後、異常を察して駆けつけた彼女にも襲い掛かったという。棺木は右目のあたりを撃ち抜かれており即死。現場はスリーピングシープの、いつもの個室だ。


「棺木くんの部屋の電話に残ってる会話ログからすると、鷹哉は彼に話があると言って呼び出したみたい。指定した時間と死亡時刻はほぼ一致しているわ。会話の内容は、配った資料を読んで」


 紙をめくる音が、ブリーフィングルームに滲みだす。最年少エージェントの憑内つけない隼太しゅんたは、読めない漢字があるのか隣の怨堂えんどうに小声で何かを尋ねていた。


 資料を読みながら、エージェントの反応は様々だ。


「あ、あの……ど、どう思います? ええと、鋸桐のこぎりさん……」

「………」


 おどおどした様子で隣の鋸桐に尋ねる絶脇たてわき。鋸桐は顔面を巌のようにしたまま、黙り込んでいる。


「本当に、凌ノ井さんが棺木の兄ちゃんを殺したってんなら、オレ、許せねーな……」

「いや、あ、うん……。そう、だね……」


 資料に振り仮名を書き込みながら呟く憑内と、遠慮がちに頷く怨堂。


 涼しい顔で資料をめくりながら紅茶を飲むもの、止まらない汗をハンカチで拭くもの、仲間の死に涙をこらえきられていないものもいる。

 その中で、倉狩は黙り込んだままひとことも言葉を発しない、1人の青年をじっと見ていた。


 病本やまもと千羽朗せんばろうは、資料にすら目を通さず、唇を噛んでいた。拳を握り震えながら、しかし決して倉狩の方を見ようとはしない。その態度だけで、彼女は満足だった。彼は優秀だ。倉狩が、育てたのだから、当然だが。


『倉狩さん、よろしいか』


 オンライン回線で会議に参加してるエージェントの1人が、手元の資料を閲覧しながら言った。


「なにかしら、金沁かなしみくん」

『現時点で、凌ノ井さんが棺木さんを殺害したという確定的な証拠はひとつもない。もちろん、あなたが嘘をついているとは、私も思わないわけだが……』

「そうねぇ。まぁ信じてもらうしかないわけだけど……。でも、少なくともあの時間帯で、棺木くんを殺そうとして殺せたのは、鷹哉だけよ。棺木くんの電話は盗聴不可能。知ってるでしょ?」


 もちろん、たまたま出くわし、衝動的に棺木を殺すことはあるかもしれない。だが、殺そうという計画に基づいているのであれば、それを実行できたのは凌ノ井しかいない。あくまで状況証拠に過ぎないが、少なくとも倉狩の言葉に破綻はない。


「しかしそのう、なんだって凌ノ井くんが、棺木本部長を……」


 額に浮き出た汗を拭きながら、まるまる太った壮年のエージェントが言う。


「それはね鳥輿とりこしくん。これはあたしの仮定でしかなんだけど、やっぱり沫倉まつくらちゃんとの接触によるものだと思うのよね」


 凌ノ井の精神的な未熟さは、ヒュプノスのエージェントの間でも周知されていた事実だ。<真昼の暗黒>として覚醒した沫倉綾見あやみと接触、戦闘し、そして自らの〝時間切れ〟を気にせず戦い続けた結果、その精神を他の夢魔に乗っ取られるようなことがあったのではないか。


「う、うぅむ。なるほど、可能性がないわけではありませんな……」

「もし仮にそうであるとすれば、」


 紅茶を飲んでいたドレス姿のエージェントが、そこで口を開く。


「倉狩さんの教育の結果が、今回の悲劇を引き起こした、ということになりますわね」

「そ、それは、そう、だねぇ……」

「まぁ今は構いませんわ。責任の所在を追及してる時ではありませんものね」


 すると、彼女の隣に座る太ったエージェント、鳥輿黒鵜くろうは汗を拭きながら尋ねた。


「ま、まさか鳳透ほおずきくん。きみは本当に凌ノ井くんがやったと……?」

「可能性は高いんじゃないかしら、鳥輿師匠。どのみちスリーピングシープの職員は、凌ノ井さんのお姿を目撃していらっしゃるのでしょう? では、凌ノ井さんは何故現場から逃げたのかしら? 彼が何かを知っているのは、間違いないのではなくて?」


 真実はさておき、ヒュプノスとして凌ノ井を捕らえる方針、そして綾見を捜索する方針に一切変わりはないだろうと、それが鳳透凰華おうかの意見である。その場にいるエクソシストエージェントの大半は、彼女と同じ意見のようだった。


 本当に凌ノ井が棺木を殺害したのか。可能性は高いが、みな半信半疑なのだ。綾見の件に関してもそうである。だが、すべては捕らえればはっきりすることなのだ。


「……儂は信じんぞ」


 ぼそり、と鋸桐が呟く。


「凌ノ井がそんなことになっとるなんて、儂は信じん」

「の、鋸桐さん……」


 隣でおどおどしながら、絶脇が鋸桐を見上げた。


「それはそうでしょう。わたくしだって凌ノ井さんがやった、とはあまり信じたくありませんわ」


 紅茶を片手に、鳳透が飄々と言ってのける。


「ですが、あれが既に。そういったことも考慮に入れなければならないのではなくて? 感情論だけではどうにもなりませんわよ」

「なら<悪食>はどうなんじゃ。あれがそうやすやすとやられるとでも思っちょるのか? 凌ノ井に危うい側面があるのは儂もわかっとる。じゃがのう、<悪食>だってそこを把握しとらんわけではない。今までだって何度も、凌ノ井の危ういところを止めてきたんじゃ」

「夢魔にそこまで信頼を寄せるのは、それこそ危ういことですわよ。鋸桐さん」


 冷ややかな視線が、鋸桐へと向けられる。


「それに会話記録を見ると、『裏切り者』の正体にあたりをつけたと、凌ノ井さんが言っておりますわね」

「その裏切り者が凌ノ井じゃっちゅうんか!」

「それがわからないので、わたくしたちは様々な可能性を考慮しなければならない。そうではありませんの?」


 鳳透の態度はあくまでも涼しいものだ。彼女に挑発の意図はないが、ヒートアップしがちな鋸桐にとって、これは激しく不愉快な言動であると言えた。鋸桐も鋸桐で、こちらの年若いエージェントと真っ向から言い争う気はないようで、視線を倉狩の方へと向ける。

 その横で、絶脇は彼の裾を引っ張る。


「や、やめてくださいよ。鋸桐さん……」

「あんたもあんたじゃ、倉狩さん。何故、凌ノ井のことを信じてやれんのじゃ! あいつはあんたの弟子じゃろうに! それに病本! おぬしだって……」

「もうよせよ、オッサン!」


 テーブルにつく最年少、憑内隼太が声を荒げて鋸桐の言葉を遮った。


「あんたが凌ノ井さんを信じるのは勝手だけどさ! 棺木のにーちゃんは実際に死んでんだぜ! オレは倉狩さんや鳳透のねーちゃんの話に賛成だね」

「あ、うん。俺もその、同じ意見かな……」


 怨堂がおずおずと手を上げる。会議に参加するエクソシストエージェント達は改めて、倉狩、鳳透の意見に同調をはじめ、鋸桐に彼の立ち位置を突き付ける。鋸桐は巌のような顔面をさらに険しくしで、腕を組む。何かを堪えるように顔中を皺だらけにする彼は、噴火を直前に備えた活火山のようでもあった。


 場がおさまったのを見て、倉狩はこう言った。


「あたし達は別に鷹哉を捕まえて殺そうってわけじゃないのよ、鋸桐くん。ただ、あいつを捕まえて事情を聞かなきゃいけないでしょ。ただ、常に最悪の可能性は想定しなくちゃいけない。それだけかな」


 本部長が急死したのだから、すぐさま代理を立てて総本部へと連絡をつけなければならない。次の〝棺木〟が誰になるのかは、中央委員会の沙汰を仰ぐ必要があるのだ。そのためにも、整理しやすい状況にしておくことが大事なのだと、倉狩は言った。

 鋸桐はまだ納得をしていないようだが、反論もしてこない。


 会議はひとまずそこで終了する。事態が緊急であるため、シフトを組み直し、一部のエクソシストエージェントは夢魔事件の発生に備えて待機、それ以外は凌ノ井と綾見の捜索を行うことになった。




 会議が終わる。それぞれがそれぞれの思惑を抱えてブリーフィングルームを出た後、病本千羽朗は奥歯を噛みしめたまま部屋に残っていた。


『センバロー! なんであの場でビシッと言わなかったのよ!』


 頭の中で、<アリス>の非難する声が聞こえる。


『あのブショーヒゲが犯人じゃないことはセンバローだってわかってるじゃない! カタメガネを殺したのは……』

「わかってるよ……。わかってるけど、<アリス>、迂闊なことは、今はできなかった……」


 彼女の言う通り、棺木を殺したのは凌ノ井ではない。それこそ確証はないが、それでも病本には確信があった。あまりにもタイミングが良すぎたのだ。

 犯人はおそらく、倉狩だ。〝裏切り者〟の正体も。そうなると、綾見の逃走に手を貸したのもやはり彼女である。少なくともこの2日の間で、倉狩は4人の人間を殺害したことになる。迂闊な態度を見せた場合、先に口を封じられるのはこちらの方だ。


『それでも、あの会議の場よ? 口封じなんてできっこないし、センバローが言えばみんなきっと……』

「口封じをされるのが、『それを言おうとしたとき』だって確信があったら、僕も言っていたよ」

『ど、どういうこと……?』


 病本には気がかりな点があった。


 棺木が殺されるタイミングが、あまりにも良すぎたこと。そして、凌ノ井が来た時間もまた、タイミングがあまりにも良すぎたことだ。死ぬ直前の棺木と、病本は会話をした。あの時点で、病本は約束があるとは言ったが、それが凌ノ井であるとまでは教えてくれなかった。明確な時間も、場所も聞いていなかった。


 棺木と凌ノ井しか知り得ない情報を、倉狩は知っていた。


 そして、倉狩が棺木に手をくだした理由。それがもし、本当に口封じだとしたら、これも不自然なのだ。あれから凌ノ井と約束があった棺木には、倉狩のことを調べる時間もなければ、ましてや問い詰めるような時間もなかったはずだ。よしんばあったとしても、棺木はひとりで倉狩と接触するような迂闊な行動はとらなかっただろう。


 棺木は病本と会話をし、倉狩に対する疑いを得た。

 だが、その疑いのことは、棺木と病本しか、知り得ない情報。


 病本の考えた通りの展開であるとすれば、倉狩は『棺木と凌ノ井しか知り得ない情報』と、『棺木と病本しか知り得ない情報』を知っていた。


「<アリス>、僕ときみが初めて会ったのは、いつだったっけ」

『え、やだなにセンバロー。忘れちゃったの? あのね、あれはとても暑い』

「4年前の8月。僕がきみの存在を知覚したのはその頃だ」

『うん、そうね……』


 当時、まだ名前のついていなかった夢魔はレベル2だった。倉狩鍔芽が病本へ接触を図ってきたのは、それから間もなくもしないうち。症状がさほど進行していないうちのことだ。大学生だった病本の前に、ある日倉狩はやってきた。


「千羽朗は勘が良いなぁ」


 声が、ブリーフィングルームの入り口から聞こえる。病本ははっとして、椅子を蹴るように立ち上がった。


 扉の前に、いつの間にかその小柄な女性が立っている。


「……師匠!」

「きみは賢いから迂闊なことはしないだろうけど、まぁ、一応釘を刺そうと思って来たよ」


 床につくほど裾の長いコートを引きずって、倉狩鍔芽は病本へと近づいていく。


「……僕と先輩の行動が、師匠には筒抜け……ってことをですか」

「うん。まぁそうねぇ。行動だけじゃなくて、考えていることもわかっちゃう。わかるでしょ? あたしがなんで、千羽朗を殺さなかったのかは」


 倉狩が病本の口封じをしなかった理由は簡単だ。口を封じる必要がなかったから。病本が、『倉狩のことを告発するのは少し様子を見よう』と決めた時点で、その必要がなくなったからだ。しかしこれで確証が持てた。倉狩は病本の、そしておそらく、凌ノ井の動きと考えを、すべて掌握している。


『ちょ、ちょっと待ってよセンバロー。それじゃ、あの、でも、それじゃあ……でも、なんで、そんな……』

「なんでだろうねぇ<アリス>ちゃん」

『ひっ』


 <アリス>の声が、はっきりと息を飲む。倉狩はこの時、病本しか聞けないはずの彼女の声をはっきりと認識していた。


「……師匠は、これから先輩をどうするつもりなんです」

「んー。鷹哉のことは流れに任せればどうにでもなる気がするので、ほぼ放置かな」


 にこにこと笑顔のまま、倉狩は告げる。


「あとは<真昼の暗黒>だ。あたしの予定だと、自分のことを思いだした時点で、あの子の精神も元に戻っているはずだったんだけど、まだあの子は〝人間〟に留まってるように見えるのよねー」

「どうやってもとに戻す気なんです」

「うーん。あとちょっとしたキッカケだとは思うんだけど……これはあたしの予定にはなかったからなぁ。そこはまぁ、いろいろ試してみるよ」


 今の倉狩は、尋ねればどんなことでも答えてくれそうだった。


 余裕を見せつけているわけでも、ただ自身の計画を自慢しているわけでもないだろう。ここで病本に喋ることによって、倉狩が被るデメリットは何ひとつないのだ。その気になれば迅速に口封じができるし、病本が何かを調べれば、倉狩は自動的にそれを情報として得ることになる。

 今、病本がどう動いたところで、倉狩に不利益を与えることはできない。病本にはそれがわかってしまう。だがおそらく、そういった判断に聡いのは、倉狩が病本を育てたからだ。


「師匠、あなたは……」


 倉狩にとって病本は、有能な情報収集端末だ。しかしそれを知ったところで、病本にできることは、何もない。


「……あなたは、何者なんです」


 辛うじて尋ねることができたのは、それだけだった。


「……人間、なんですか?」

「まぁ夢魔ではないよ」


 倉狩はそう言ってにこりと笑うと、手をひらひらと振りながらブリーフィングルームを後にした。




『あやみん、本当に学校には行かないの?』

『うん……。まぁ、ちょっと迷惑をかけることにもなりかねないからね』


 少し前にかわした会話がそれだ。綾見は現在、ユミの家に転がり込む形になっている。共働きをしているご両親とも挨拶し、許可をとりつけた。ひとまず雨風をしのげるのはありがたいが、それでもここに長居するわけにはいかないだろうな、と綾見は思う。


 今の綾見は、ヒュプノスに追われる身だ。誤解を凌ノ井が解いてくれると考えたいが、結局昨晩わかれたきり連絡がない。今日の昼過ぎには、昨日の公園でもう一度顔を合わせる約束をしている。

 できることなら、凌ノ井が上手くやっていてくれればいいのだが。次の休日には、ユミと遊びに出かける約束をしてしまったし。


 綾見は、時計を見てから出かけの支度を整える。


 考えなければならないことは多い。自分の正体のこと、今後の凌ノ井との付き合い方、あとはそう、倉狩のこともだ。倉狩鍔芽が裏切り者だという仮説は、綾見としても少しばかりショックが大きい。綾見でそう感じるのだから、やはり心配なのは凌ノ井のことだ。

 凌ノ井は綾見の言葉を信じてはくれた。だがきっと動揺もあったはずだ。綾見の言葉を信じるか、あるいは倉狩の潔白を信じるかで、悩んだりもするかもしれない。凌ノ井が、倉狩に言いくるめられる可能性だって、あるような気がした。


 沫倉綾見は、他人を無条件で信頼するようなメンタリティを持ち合わせてはいない。

 凌ノ井が倉狩に言いくるめられて、またこちらを攻撃して来たら、どのような対応をするべきだろうか。ぼんやりと考えながら、部屋を出る。借りた鍵できちんと戸締りをして、公園へと向かった。


 近所の公園は小さなもので、遊具の数も極端に少ない。昔はそれなりにあったのだろうが、きっと危険という理由で撤去されたのだろうな、ということが、地面に残った土台から推察できる。綾見はベンチにちょこんと腰を下ろし、凌ノ井を待つことにした。

 しばらくして、約束の時間になっても、凌ノ井は姿を見せない。幾らか不安になり始めたころ、公園の入り口付近に、ふらふらと歩く影を確認できた。


「(凌ノ井さんかな)」


 出来た人影を見て、そう思う。だが不確かな足取りを見て、綾見は眉をしかめた。すぐさまベンチから立ち上がって、駆け寄る。それは間違いなく凌ノ井ではあったが、綾見の思った以上に、憔悴しきっていた。目の焦点はあわず、虚ろ。まるで浮浪者のそれだ。

 綾見が駆け寄ってきたことに凌ノ井も気づいたのか、口元に自嘲めいた笑みを浮かべて、辛うじて呟く。


「……よう」

「お、おう」


 そう返すのが精いっぱいであった。


「凌ノ井さん、どうかした? 何があったのかな」


 彼の態度はただ事ではない。きっと辛いことがあったのだろうとは思うが、聞かないわけにはいかなかった。


「………」


 しばらく考え込んだ後、凌ノ井は意外とあっさり答えた。


「棺木が死んだ」

「えっ」

「殺されたんだ。倉狩鍔芽にな」


 その言葉を聞いて、綾見はまず、どのような反応を見せればいいのかわからなかった。現実感がなかったのである。頭の中で、棺木という単語と死という単語が上手くかみ合わないような、ちぐはぐな感じがあった。

 なんとなくだが、棺木という男は綾見の中で、死からもっとも遠い存在であるような気がしていたのだ。あの飄々とした佇まい、超然とした態度。この人は本当に人間なのかな、と思ったことだってある。まぁ、人間でなかったのは綾見の方だったという、笑えないオチまでついてきたが。


 その棺木が、死んだ。


 倉狩に、殺された。


「おまえの言う通りだったよ。あいつは裏切り者で、それで、俺たちをずっと騙していたんだ」

「凌ノ井さん」

「……なんでだ! なんで俺の周りばっかり!」


 凌ノ井は、拳を握って地面に思いきり叩きつける。


「師匠は敵で、棺木は死んだ! 俺はハメられて裏切り者扱いだ! お前だって……<真昼の暗黒>だった! 俺の周りにいる奴だけがどんどん変わっていくんだよ! 俺の知らない何かになっていく。俺はどうすれば良い! どうやって俺の心を守ればいい!?」


 声を荒げる凌ノ井の姿は、昨日のものよりも一段増して痛々しい。感情を持て余し、叫ぶことしかできなくなった者特有の態度だ。

 綾見はこの時、凌ノ井の苦悩を実感できない自分に小さな苛立ちを感じていた。頭を必死に巡らせて、凌ノ井が何を嘆き、恐れ、苦しんでいるのかを考える。夢魔の本能は、目の前にいる男が何かを恐れていることだけは、確かに囁いていた。人間が何かを恐れるとき。それは、何かを失うときだ。


「凌ノ井さんは、何を失くしそうなの? 何を失くしているの?」

「………」


 膝を抱え込み、凌ノ井は綾見を見上げる。


「……あ、」

「あ?」

「頭の中にはあるんだが、言葉にできねぇ……」

「うん」

「繋がり、とか、絆、とか、縁故、とか。そういう感じの奴だ……」

「そうなんだ」


 綾見はひとまず納得をする。


「師匠との関係も、棺木との関係も、それに、お前との関係も……もう昔とは別のものになっちまったよ。ハメられて、今のヒュプノスにも俺の居場所はない」

「うん」

「それは怖いことなんだよ。わかるか?」

「うん、たぶん」


 凌ノ井の言っているような本当の意味で、わかっているのかはわからないが。それでも、綾見は棺木が死んだことはショックで、倉狩が敵だったことはショックで、そして今、凌ノ井が決して自分の名前を呼んでくれなくなっていることが、ショックだった。

 関係性の致命的な変容とは、つまりそういうことだ。それでも綾見にはまだ、学校の友人たちがいる。ユミがいるし、高木たかぎ田中たなかがいる。凌ノ井には、それがない。


 違いはきっと、それだけではないのだろうが。


『綾見さん、倉狩鍔芽の目的はおそらく、それなんです』


 今まで黙っていた<悪食>が、綾見に対して語り掛ける。


「目的?」

『マスターの精神状態をボロボロにすることです。たぶん今の精神状態では、私をの制御だってまともにできません。でも、マスターはほら、無茶をする方ですから……』

「MP切れで廃人になっちゃう、ってこと?」


 何のために、と綾見は考えてみる。考えてみるが、思いつかない。


『それでですね、マスターが無茶をしそうになった時は、一緒に止めて欲しいんですよ』

「………」


 普段なら、<悪食>の言葉に反論をしそうな凌ノ井も、ここでは特に何も言わない。自覚があるのだ。自分が無茶をしてしまうことも、その結果、<悪食>の制御に失敗して廃人化してしまう可能性があることも。

 感情的になった凌ノ井がどれだけ危うい存在かは、綾見も知っている。


「凌ノ井さんは、私に止められるの、嫌じゃないかな」

「業腹だよ」


 吐き捨てるように言われた。


「でも喚いたってしょうがねぇのはわかってんだ。まぁ、落ち着いたって何ができる状況でもねぇんだけどな」

「凌ノ井さん」

「悪いが現状は八方塞がりだよ。師匠が俺をハメて、今はヒュプノス全体が敵みたいなもんだ。誰を信じればいいのかもわからねぇ。どうすれば状況を打開できるのかもわからねぇ」


 凌ノ井の言葉が事実なら、状況は最悪と言って良い。極東本部のトップが死んで、ヒュプノスはいままとまりを欠いた状態だ。その混乱に乗じてエージェントの意向をひとまとめにするくらい、倉狩はやってのけるかもしれない。


『マスター、綾見さん、まず目的を決めましょう』

「目的か」


 <悪食>が急にそんなことを言った。


『まずは何を目指すのかを整理しましょうよ。綾見さんはどうですか?』

「んー」


 話を振られ、綾見はぼんやりとした顔で空を睨む。とはいえ、だいたい自分の中にある考えを口にするだけなので、ほとんどよどみなくすらすらと言葉は出た。


「私はまず、自分の欠けている記憶を埋めようと思う。倉狩さんが私の記憶を封印した可能性があるなら、倉狩さんとは接触したい。理由と目的を聞きだしたい」


 正確には、目的はあと2つ。


 ヒュプノスという組織への円満な復帰と、凌ノ井との仲直りだ。だが前者はビジョンがまったく見えないし、後者はここで口にするべきではないと考える。だいたい、欠けた記憶が復活した結果、『やっぱりここは大人しく凌ノ井に殺されとこう』となる可能性は、綾見の中で捨てきれない。


 まぁ、ユミの為にも、それはなるべくしない方向で行きたいのだが。


「凌ノ井さんの目的は?」

「………」


 凌ノ井は口をつぐむ。


「……頭がごちゃごちゃなんだ。はっきりしたことは、言えねぇ」

『まぁ、仕方がないですよねぇ』

「師匠を放置できねぇのは、まぁ事実だ。だが師匠をどうしたいのかは、俺にもよくわかんねぇ」


 変容した関係をあれだけ嘆き、泣き叫んでも、それを完全に受け入れるのは難しいのだろうか。破綻してしまったものを、自分の中で再構築するだけの時間が、凌ノ井には必要であるらしい。


「(……弱い人だな)」


 綾見は、単純にそう思った。


 それが良いとも、悪いとも思わず、ただ凌ノ井のことをそう評価した。

 綾見の記憶の片隅には、恋人を失ったときの彼の姿がある。自分に向けて酷い罵声を浴びせる少年の姿、甘い囁きにそそのかされて、取り返しのつかない凶行を働く少年の姿。いずれもが凌ノ井と被る。彼の本質は、その時から変化していない。弱くて脆い、少年の姿だ。


 綾見は、そんな凌ノ井から視線を逸らし、また空中を睨みつける。


「……倉狩さんは、これからどう動くんだろう」

『と言いますと?』

「凌ノ井さんの精神をボロボロにするだけなら、もう目的は済んでいる。でもそれで終わるわけがないから。倉狩さんは次に、何を仕掛けてくるんだろう、と、思って」

『難しいですねぇ』


 <悪食>が唸る。そもそも倉狩は凌ノ井を廃人化させて何をしようというのか。考えられるのは、違崎ちがさきの時と同じように、凌ノ井を夢魔の活動用の肉体として確保するためだ。だがそれにしたって<悪食>が邪魔だろうし、そもそも廃人化が次の目的なら、凌ノ井に何かしらの無茶をさせる必要がある。

 その無茶というのは、少なくとも夢魔を使役する状況でなくてはならない。実際のところ、意識していれば回避できる条件のようにも思う。


 倉狩は何かを仕掛けてくるはずだ。だが、何を仕掛けてくるのかまでは、わからない。


「うーん」


 腕を組んで考え込む綾見。そこで、携帯電話が小刻みに振動を始める。


「ん……」


 ユミからの着信だった。時間的に今は授業中のはずだが、何かあったのだろうか。凌ノ井は相変わらず憔悴しきった様子で、ひとことも言葉を発さない。綾見は彼から視線を外して、電話を取った。


「もしもし、ユミ。どうしたの」

『やっほう、沫倉ちゃん。鷹哉の調子はどーぉ?』

「………!」


 その時の、綾見の表情の変化。それは彼女の顔を見慣れていない人間であっても、明確に察知できるほどはっきりとしたものだった。ぼんやりとした目つきが、鋭く吊り上げられる。

 事情は理解できない。だが、電話口から聞こえてきたその声は、状況を理解するには、余りあるものだった。

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