暗がりの陰謀
第二十二夜 暗がりの陰謀―その棺桶に紅い花束を―
その来歴のことは、
常に飄々とした態度で、自らの手の内を明かさない。凌ノ井をエクソシストエージェントとして教育したのも彼女だったが、そのやり方はわかりやすく放任だった。もちろん必要な知識はきちんと教えてくれた。困ったことがあれば助けてもくれた。
悪い人ではない、と思っていた。
「………」
『マスター』
車の運転席で押し黙る凌ノ井に、<悪食>の声がかかる。
「……最近、ロクなことがねぇ」
ぼそりと、凌ノ井が答えた。
「なんで俺の周りにいる奴らばかりこう、変なことになっちまうんだろうな」
『……日頃の、行い、ですかね?』
彼女の軽口にも、どことなく覇気が足りない。
――倉狩さん。
あの時、
倉狩が裏切り者であるということが、凌ノ井にはどうしても信じられない。
情けない話だとはわかっている。ただ、信じたくはないのだ。
綾見が、<真昼の暗黒>であることすら、凌ノ井は受け止めきれてはいない。そこにこの追い打ちはたいそう堪えた。もし事実であるとすれば、凌ノ井はこの1日の間に、2人の知人を失うことになる。そしてそれは、決して縁遠い存在ではない人々だ。
すぐにでも本部に戻り、倉狩を問い詰めたいという気持ちがあり、同時にそうはしたくないという思いもあった。もし凌ノ井の言葉を倉狩が否定すれば、あるいは肯定すれば、自分はどのような行動を取るようになるのか、自分自身ですら想像できなかったのだ。
自分は倉狩の言うことをあっさり信じるだろうか。
それとも疑念を抱き続けるだろうか。
もし、倉狩が凌ノ井の問いを否定し、それを凌ノ井が信じたとしよう。そうすれば彼はもう、自分で何かについて判断を下すことが、きっとなくなる。倉狩が『綾見は悪い夢魔だから、あれを殺せ』と言えば、躊躇いなく実行するようになる。そんな気さえした。
結局のところ、凌ノ井が欲しているのは信じられる何かだ。それに全権をゆだねるというのは、今の彼にとって溜まらなく魅力的な衝動だった。楽な人生、楽な生き方だ。
ほんの少し前の凌ノ井ならば、その生き方を選ぶことに躊躇をしなかっただろう。綾見との会話は、結果的に彼の精神を少し落ち着けた。理性を取り戻せたのは、凌ノ井にとっては幸運でもあったし、不幸でもあった。
「<悪食>、今、誰のことなら信頼できる?」
『極論を言えば誰も信頼できませんね』
「だったら、誰に相談しても同じことだな……」
倉狩が裏切り者であるにせよ、それが綾見のついた嘘であるにせよ、凌ノ井がするべきはヒュプノス内部に情報の共有者を作ることだ。自分1人では動くのに限界があるし、自分の持つ情報の裏付けを取れる相手が必要となる。
凌ノ井の頭の中に浮かんだ影は、いくつかある。
「……誰に相談しても、同じことだな」
ぼそりと呟く。呟いて、彼が頭の中に思い浮かべたのは、一番謎が深くて一番胡散臭い男の存在であった。
「――棺木に相談をする」
『私もそれが一番いいと思いますよ。信頼できないのは、誰でも同じことですしね……』
「これはこれは凌ノ井様。如何さないましたか。棺木でございます。……はい、はい。ええ……」
手袋が掴んだのはやたらとアンティークな受話器だが、これでも立派なハイテク機器である。レトロな外観は棺木の好みで、ヒュプノス本部の地下に設えられた執務室――やはりアンティークな雰囲気の漂う書斎も、棺木の好みである。
先ほどまで中央委員会の老人たちを相手に、沫倉綾見の件について報告を行っていたところだ。ヒュプノスの総本部はブエノスアイレスにあって、組織全体を運営する中央委員会もそこにある。極東本部においては全権を預かる棺木も、あそこに放り込まれれば一介の若造だ。
夢魔が人間の肉体を乗っ取ることがある、という事実を説明したところ、老人たちにはさほど驚きを与えることはできなかった。さも初耳のように振る舞いながらも、それを事前に知っていたことを、隠そうとすらしていない。総本部の老人たちは口をそろえて、この件に対する対応を棺木に確認し、そして経過を報告するようにだけ告げた。
いつものことだが辟易とした。
辟易とした直後に凌ノ井からの電話があった。棺木は、さも目の前にあのくたびれた男がいるかのように笑顔で応対をする。
凌ノ井からの連絡は、裏切り者について話をしたいというものだった。綾見が脱走する際、職員を殺害した犯人についてもまた、心当たりがあるという。それが綾見と接触した結果によるものであることは、棺木にも想像がついた。想像がついたが、言及こそはしなかった。
「かしこまりました、凌ノ井様。1時間後、スリーピングシープでお待ちをしております」
電話口の向こうで、凌ノ井の返事は暗い。だが彼ははっきりと礼を述べ、そして電話が切れた。
裏切り者。これもまた、棺木には頭の痛い問題だった。現在、ヒュプノスの極東本部に在籍しているすべての職員、エージェントの身元を洗っている。が、もともと来歴のはっきりしている人間の方が、この組織では珍しい。比較的足取りを追える凌ノ井
まぁこれは、先代の〝棺木〟がかんり杜撰な情報管理を行っていたせいでも、あるのだが。
こんこん、と扉をノックする音があった。
「はい、なんでございましょう」
「あー、棺木さん、僕です。
「これは病本様、どうぞ中へ」
棺木はにこりと笑って、扉に手をかける。がちゃりと開いて、白塗りの廊下にたたずむ青年の姿を確認した。
病本
「棺木さん、今お忙しいですか?」
「1時間後、少しばかり用件がございます。その準備などはございますが、多少でしたら、お時間をおつくりすることはできます」
「じゃあその、簡単に、いくつか……。まぁ主に、先輩のことなんですけど」
棺木は、
「伺いましょう」
「率直に聞くんですけど、棺木さんはどう思ってます? 先輩のこととか、沫倉綾見さんのこととか」
「ふむ……」
質問の意図を理解できないほど、棺木は愚鈍ではない。だが、相手が裏切り者かもしれないという状態で、安易に答えを出すこともまた、躊躇われた。
「僕は、沫倉さんの逃走は不自然だと思うんですよ。いや、多分、みんな不自然だと思っているとは、思うんですが……」
「それに関しては同意いたします。多少の疑問点は残りますし、それを放置して事態を断定するべきではない」
状況証拠だけを突き合わせれば、綾見が犯人であることは間違いない。そして彼女が<真昼の暗黒>であるというデータもまた、現時点では十分信用に足るものだ。また、仮に脱走の際、職員を殺害したのが綾見ではなかったとしても、彼女を確保するというヒュプノス本部の目的に何ら変更はあり得ない。
「はっきり言いますね。僕、先輩のことが不安なんですよ」
のらりくらりとした物言いをする棺木に、病本が告げる。
「先輩って、エクソシストエージェントとしてはベテランだし、十分な力量がある人だとは思うんですが、精神面がすごい不安定じゃないですか。意図的に、未熟な部分を残して育てられたんじゃないかと、思うんですよね」
「……病本様、」
声を潜めて語る病本の言葉を、棺木は遮る。
「それは病本様個人の感想でいらっしゃいますでしょうか?」
「確証があって言ってることじゃありません。でも聞いてもらえますか?」
「伺いましょう」
病本の語る、凌ノ井の〝精神が未熟である〟。という点は、客観的事実として棺木も観測している。彼は、レベル4エージェントを扱い、使役するだけの
夢魔を前にしたとき。そしてその夢魔に対して、明確な憎悪を抱いたとき。
凌ノ井鷹哉の精神は、こと〝憎しみ〟という感情に対しての耐性がない。結果としてMPを使い果たしそうになり、あわや廃人というところで生還したケースは数多くある。最近では、
エクソシストエージェントとして著しい欠陥ではあるが、それはここ数年まできちんと認識されてはいなかった。凌ノ井は、ヒュプノスという組織全体を見ても3体しかいないというレベル4の夢魔を見事に制御していたし、何より著しい憎悪というものを見せることは、ほとんどと言って良いほどなかった。
この欠陥が露わになったとき、凌ノ井の教育を担当した倉狩はこう述べている。
『夢魔にとり憑かれるきっかけがきっかけだったからね……。矯正はしたつもりだったんだけど、無理だったみたい。棺木くん、鷹哉の運用には気を使ってあげてね』
憎悪の前では、凌ノ井の精神は自制を欠いた子供のそれになる。結局、凌ノ井はその欠陥を抱えたまま、エクソシストエージェントとして活動を続けていた。
だが病本は、その欠陥が意図的に残されたものではないかと言う。
「では、何故あえてそのような欠陥を、残す必要があったのでしょうか」
棺木は、そのような尋ね方をした。
彼を教育した人物については、まず一切触れずに。
「……<真昼の暗黒>と、相対させるため、じゃないでしょうか」
だから心配なんです、と病本は続ける。
「先輩が、<真昼の暗黒>と戦うことになれば、それこそあの人は死ぬんじゃないかって。そしてその死はたぶん、最初から仕組まれていたものになるんじゃないかって」
「なるほど」
棺木は頷いた。
「断定するのは危険な話ですが、病本様の懸念は承知いたしました」
少なくとも現時点で、凌ノ井は死んではいない。<真昼の暗黒>沫倉綾見と相対しているはずだが、彼はまだ精神を保っている。そしてこの後、棺木に会いに来る。病本の言葉が真相に近いものだとすれば、少なくとも〝裏切り者〟の狙いはひとつ、外れたことになる。
棺木はその時点でそれだけのことを考えたが、決して口にはしなかった。
まだ、目の前の青年が裏切り者ではないという、確証が得られていないのだ。
これからある凌ノ井との相談。それで、この病本の話についての裏付けが取れるはずだ。だがそれすらも、今の棺木が言うべきことではない。
この病本の仮説にはまだ穴が多い。その裏切り者が凌ノ井を殺そうとする目的がまだ不明瞭だ。それでも、聞くだけの価値は十分にあったと、棺木は思う。
「感謝のあまり言葉もございません、病本様。後日、この件についてご連絡できることがあるかと思います」
それが、その価値に対して今の棺木が払える、精一杯であった。
「しかし、何故その話をこの棺木に?」
「え? いや、他に話せる人、いないじゃないですか……。まさか、師匠に言うわけにもいかないですし」
「なるほど。おっしゃる通りです」
棺木はおおいに頷いた。
病本はその後、引き続き調べものがあると言って部屋を去る。棺木は凌ノ井との相談に備えて、資料の準備などを整えた。最後にティーセットを用意して、執務室を出る。スリーピングシープの、いつもの部屋に向かうエレベーターに足を踏み入れると、
そこには、先客が、いた。
「や、棺木くん」
表情が、かすかに強張る。
壁に背中を預けて、その女性は笑っていた。年齢を感じさせない柔和な顔。小柄な体躯を覆うコートはまったく似合っていなくて、その長い裾は床についてしまっている。普段であれば、まったく脅威を感じる必要のないその出で立ちを前に、棺木は、固まった。
「倉狩様、如何なさいましたか?」
「うん。どうも、棺木くんと千羽朗が話をしていたみたいだったから、ちょっとね」
エレベーターの扉が閉まるまで、棺木はその場を動くことはできなかった。
病本が執務室に入る、あるいは出ていくのを、見ていたということだろうか。
明言こそしなかったが、彼が仮説と断ったうえで告発しようとしていた人物は、まさしく今目の前にいる倉狩鍔芽本人である。彼はその論拠を口にしなかった。だから単に、病本の懸念だけで終わる可能性もある。
エレベーターが、ゆっくりと地上に向けて上昇を開始する。
にこにこと笑う倉狩の真意を、棺木は掴み損ねている。
本当に病本が執務室に入るのをたまたま見かけて、世間話をしに来ただけという可能性もある。だが病本の懸念が真実であり、棺木に対して明確な害意を持って接触しようとしてきた可能性だってあった。どちらかわからない以上、棺木の方からは動けない。
どちらであったにせよ、倉狩は棺木と病本の会話を聞いてはいないはずだ。棺木が動じさえしなければ、彼女に対して疑いを持っていると、倉狩は気づかない。棺木は内心の混乱とは裏腹に、表面上ではポーカーフェイスを保ち続ける。
倉狩はこうも言った。
「そして今から棺木くんが鷹哉と会うって言うから、ちょうどいい機会だなと思ってね」
「……!!」
それは、まだ誰にも話していないはずの情報だった。
棺木の部屋にある電話が盗聴される可能性は、万に一つもない。それを目の前にいる倉狩が知っている理由が、棺木にはわからない。
「まどろっこしいことはナシにしましょ、棺木くん。きみが、千羽朗と話した通りなのよ。師匠のあたしも驚いてるんだけど、千羽朗の予想は本当によく当たるわよねぇ」
わからないが、理由を考えている猶予はない。病本の予感は的中していた。棺木は抱えた資料とティーセットを放り捨てる。自らの懐に手を伸ばす。自動拳銃を引き抜いて、目の前の女性に向けて発砲する。一切の躊躇はない。殺害のリスクを秤にかける時間も、明らかな害意を甘んじて受ける理由も、棺木には存在しなかった。
ぱん、という乾いた音がする。音がして、そして、エレベーターは地上へと到着した。
いつも通り、受け付けで合言葉を告げると、いつもの部屋に通される。凌ノ井は約束の時刻きっかりに、執事喫茶スリーピングシープへと到着した。シックな店内には女性客の姿が幾らかあるが、彼女たちからの奇異の視線にさらされるのも、いい加減慣れてきたような気がする。
この執事喫茶は全部、棺木の趣味だ。けったいなもんだと、凌ノ井は思った。
「棺木ー、来たぞー」
いつもの個室に入る時、凌ノ井はノックをしない。いつものように、無遠慮に扉を開けて、部屋に入る。
1時間後に、という棺木の言葉は、凌ノ井にはありがたかった。この1時間、彼はゆっくりとこちらに向かいながら、思考を整理するだけの時間を得られたからである。今、凌ノ井はそれなりに落ち着いていた。
『……マスター、妙です』
扉を開けてすぐ、違和感には気づかなかった。<悪食>に言われて、目を細める。
明らかな異常事態を前にしたとき、人間はかえってそれを異常と認識できないことがある。特にそれが、変化しつつあるものではなく、致命的な変化をした後のものであるならば、なおさらのことだ。
部屋の中には棺木がいた。だが彼は、いつものように直立不動で凌ノ井を出迎えたりはせず、いつものように慇懃な言葉で歓迎を示すようなこともしなかった。テーブルの上にはいつものティーセットはなく、棺木が普段から愛用していた如何にも高級そうな陶磁器の欠片は、床に散らばっている。部屋の中に灯かりはなく、やや雲間から覗く、傾きかけた陽が、閉じたカーテンの隙間から辛うじて光源の役割を果たしていた。
棺木はいた。しかし彼は動かない。
棺木はいた。しかし彼はしゃべらない。
「ひつ、ぎ……?」
棺木はいた。しかし彼は壁に背中を預けるようにして座り込み、ぐったりとしていた。床を染める黒い液体の存在に気づくまで、凌ノ井はかなりの時間を要した。
「おい、棺木。どうした……! しっかりしろ!」
凌ノ井はしゃがみこんで、彼の肩を揺さぶる。その身体は驚くほど重く、首は支えを失ったかのように不気味に揺れた。燕尾服のシャツは真っ赤にそまっていて、口元からは同じ色の液体が垂れている。
「う、あ……」
『マスター、気を確かに持ってください』
<悪食>の言葉は、凌ノ井の頭に入ってこない。残された棺木のもう片方の目はどこまでも虚ろで、そう、凌ノ井のよく知る少女の瞳よりもはるかに深い闇を湛えていた。生者の持つべき目ではないことは、嫌でも理解できてしまう。
棺木はいた。いたというよりは、ただそこに、あった。
「おかえりー、鷹哉」
「……!!」
場にそぐわない能天気な声が聞こえて、凌ノ井は振り返る。
半開きになったエレベーターの扉に背を預けて、彼女はいた。凌ノ井の脳はその時、彼のすぐ近くに転がる棺木の骸と、後ろで能天気に笑う倉狩鍔芽との間に、関連性を見出すことを強く拒否した。今この瞬間に限って、凌ノ井はあらゆる疑念を放棄したのだ。
裏切り者であるかもしれない倉狩ではなく、彼にエクソシストエージェントのイロハを叩き込んでくれた、師匠としての倉狩を求めた。
「し、師匠……! 棺木が……棺木が……」
「うん、棺木くんが死んでるねぇ」
「どうして……なんで、誰がやった……!? <真昼の暗黒>か……!?」
『しっかりしてくださいマスター! そんなはずないでしょう!』
<悪食>は声を荒げたが、凌ノ井はそれを無視する。
そんなはずはないとわかっていても。目の前で起きたことを許容しきれない。今、この瞬間、凌ノ井にとってもっとも楽な道とはつまり、すべての責任を<真昼の暗黒>に押し付けることだ。取り戻した理性は砂上の楼閣に過ぎなくて、親しい知人の死を前にしてあっさりと瓦解する。
目をそむけたくなるほどの醜態、痴態を、凌ノ井は演じた。いや、今の凌ノ井はどこまでも醜く、
そんな凌ノ井の姿を、倉狩は愛おしげに見つめている。
「師匠、教えてくれ! 棺木を殺したのは……」
「あたし」
痴態と醜態にとどめを刺したのは、意外にも倉狩本人であった。
「な、なにを……そんな……」
彼女のその言葉は、凌ノ井から最後の逃げ場を奪う。
「あたしなんだよ、鷹哉。棺木くんを殺したのはあたし。沫倉ちゃんなんかじゃないよ」
「な、なんで……」
「沫倉ちゃんが思ったより頑固だったから、かな? 鷹哉のことだから、てっきりあっさり暴走してくれると思ったんだけど。もっと、我を失うくらいの憎しみがあった方が良いかな、と思って」
何を言っているのか、よくわからない。
凌ノ井は呆然と立ち尽くして、ただ倉狩が言葉を放つのを聞いている。
「あとは単純にきみの味方を減らしたかったのよね。ヒュプノスが敵に回れば、きみの暴走を止める人間の数はぐぐっ、と減るじゃない?」
『この罪をすべてマスターに擦り付けられるとでも?』
<悪食>が鋭い声で尋ねる。
「できるんだなー。だって、棺木くんと鷹哉がここでこの時間に話をするって、誰も知らないはずだもん。棺木くんの部屋の通話記録を確認して初めて、今日この時間、ここで棺木くんと会っていたのが鷹哉だと判明する」
倉狩はそこでふう、とため息をついて、また凌ノ井を見た。
「わっかんないかなー鷹哉。わかんないなら、無粋だと知ったうえで、ストレートに真実を教えてあげる。良い? 鷹哉、あたしはねー、きみを裏切ったんだよ。きみだけじゃい、棺木くんを、ヒュプノスを裏切ったんだ。いや、その言い方は正確じゃないかな? 棺木くんとヒュプノスに関しては確かに裏切ったけど、鷹哉に関しては最初からあたしの掌の上だった」
「ふっっ……ざけんなぁぁぁァァァッ!!」
激昂と絶叫。凌ノ井は喉が裂けんばかりに吼えて、倉狩の胸倉を掴み上げた。
「おお、良いねー。その憎しみ。それを忘れないで欲しい」
「殺してやる……! 師匠ッ!」
「あたしをまだ師匠と呼ぶのかー。まぁ、他の呼び方を知らないものねぇ」
凌ノ井の憤激を前にしてなお、倉狩の態度は一切変わらない。
「そんなに怒ってもらえるなんて棺木くんも幸せものだぁ」
「―――――ッ!!」
凌ノ井の罵声は、もはや意味をなさない。拳を握り、それを倉狩の顔面へ叩きつける。彼女はその一撃をまず受けた。2発目、3発目と振り下ろされるそれを、やはり避ける素振りがない。
『マスター、このままでは相手の思う壺です』
<悪食>の言葉はあくまでも冷静だった。
「黙ってろ<悪食>!」
『黙っていられるわけないでしょう!』
叫び返してきた<悪食>に、凌ノ井の腕が止まる。
『良いですか、倉狩の目的はマスターを孤立させることなんです。このままだといずれヒュプノスのエージェントがマスターを拘束する。今のあなたを止められるのは私だけなんです。絶対思い通りになんかさせませんよ!』
「ぐ、う……ぐ……!」
凌ノ井の手が緩む。倉狩は口元を拭いながら笑った。
「良いねー、<悪食>ちゃん。前から思ってたけど、きみはマスター想いの夢魔よね」
『その口を閉じなさい。怒ってるのは、私も同じなんです』
この時点でなお、凌ノ井の身体は動かない。理性では<悪食>の言葉を聞き入れようとし、だがそれを感情が許さない。凌ノ井を突き動かしているのは、少なくとも正当な怒りなどではなく、ただただ憎しみ一色であったのだ。
だが、憎しみに染まって隙だらけとなった凌ノ井の精神を御するのは、夢魔である<悪食>にとっては容易かった。彼女はこの瞬間、主従の契約と垣根を越えて、凌ノ井の
「………っ!」
凌ノ井の身体が跳ね、瞬間、目が虚ろになる。次の瞬間、彼は頭を押さえ、何かに突き動かされたかのように、部屋を飛び出した。倉狩はそれを追いかけない。ただ部屋の中で、口元に笑みを浮かべ、逃げる背中を眺めている。
倉狩が見逃してくれたのは、単なる余興か、計画のうちか。だがこの時、<悪食>からすれば、こうする以外の選択肢は鼻から存在しなかった。
『こんなボロボロの精神状態じゃ、私を使役するなんて、無理ですよ……!』
<悪食>の言葉は、この時の凌ノ井の頭には、届かなかった。
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