第二十夜 真昼の暗黒―歪んだ望み―

 いつの間にか、雨が降り始めていた。検査衣のまま、裸足のまま、降りしきる雨の中をただ1人で走る。

 逃げてみたは良いが、どこまで逃げればいいのか、綾見あやみには皆目見当もつかなかった。できることなら、どこかに息を潜めて、凌ノ井しののいと接触できるタイミングを待ちたい。さすがに家は抑えられているだろうから、家に帰ることはできない。


「………」


 やがて走り続けるのにも限界が来て、綾見は立ち止まる。膝に手を置いて、荒い呼吸を繰り返しながら顔をあげた。


「(……私がヤバい奴かも、って、どういうことだろう)」


 自分には、他の人間と違うところがある。


 それくらいのことは、綾見にだってわかる。だからヒュプノスでは何度も綾見に対する精密検査が行われてきたのだ。ある日急に判明した新事実があって、それによれば綾見はかなりの危険人物という扱いになる、らしい。

 何もわからないままとっ捕まって、ただ監禁されるのは御免だ。せめて状況を知りたい。


 いつものぼんやりした顔には、焦燥も悲壮も浮かばないが、内心かなり焦っている。状況を掴めないし、何より腰を落ち着けられる場所がないのは、相当つらい。

 人通りのあまりない町中であるから、検査衣のままうろつく不審な少女を気にかける目はほとんどなく、そうした中を、綾見は雨に打たれながらとぼとぼと歩いていた。


「……あやみん?」


 訝し気な声が、綾見を後ろから呼び止める。聞き覚えのある声だった。


「……ああ、ユミ」

「ど、どうしたの!? そんな恰好で、しかもそんなびしょ濡れで!?」

「話せば長くなるし、詳しく言えないこともあるんだ」


 クラスメイトの高梨たかなしユミだ。至極当然のことを尋ねられたので、神妙な顔をして答えてみたのだが、ユミは数拍置いてその眉を大きく吊り上げた。


「何言ってんの! もう、バカなんだから! まさか病院から抜け出したの!?」

「だから話せば長くなるし、詳しく言えないこともあるんだけど……」


 まさかヒュプノスのことをはっきり教えてやるわけにもいかないだろう。

 綾見が珍しく口ごもっていると、そんな彼女の腕を、ユミがぐいと引っ張った。


「あっ」

「もう、あたしの家行くよ! ほら、女の子がそんな恰好でうろつくんじゃありません」

「ん、う、うん……」


 一瞬、綾見の頭をよぎったのは、ユミに迷惑をかけてはいけないという思いだった。だが、予想以上に強く自分を引っ張るユミを見て、その考えを取り払う。きっと、彼女は迷惑に感じないだろうと思ったのだ。


 ユミが、と思ってやったことならば、綾見はそれを推奨する。沫倉まつくら綾見という少女は、生まれた時からずっとそのようにしてきたのだ。




「祐介ッ! 祐介ぇッ……!」


 物言わぬ亡骸にすがりついて泣く女性職員の姿を見て、凌ノ井鷹哉たかやは感情を持て余していた。湧き上がる感情は怒りに似ているが、同時にどこか実感が薄い。果たしてそれをどこに向ければいいのかすら、凌ノ井にはわからなかった。


 沫倉綾見は、職員4名を殺害した後に逃走した。


 恐れていたことが、予想よりも早く現実になってしまったと、職員たちが囁き合う。


 綾見の中にあった、夢魔としての本能がそうさせたのだ。彼女がこちらを騙していたにせよ、あるいは本人が忘れていたにせよ、あれは確かに<真昼の暗黒>だった。残忍で冷酷、人の心を弄ぶことに長けた、あの夢魔が、少女の正体だった。


「(沫倉ちゃんが……やったっていうのか……?)」


 当たり前のように、事実として話されるそれを、凌ノ井は今一度反芻する。


 この殺戮劇自体は、監視カメラの死角で行われた。だが別のカメラは、職員のIDカードを手に地上行きエレベータに乗り込む、綾見の姿を映し出している。また、その職員はIDカードだけではなく、護身用の拳銃も奪われた形跡があり、状況証拠は綾見による犯行であることを裏付けていた。


「その……こういう時は、何と言えば良いのかのう。凌ノ井」


 鋸桐のこぎりが険しい顔をして、凌ノ井の肩を叩く。


「鋸桐も、沫倉ちゃんがやったと思うのか」

「まぁ、のう」


 やや言いにくそうにではあるが、鋸桐は肯定の意を示した。


「まさか凌ノ井、お前さんは、あの嬢ちゃんの仕業じゃないっちゅう考えでもなかろう」

「……わかんねぇよ」


 ぶっきらぼうに、吐き捨てるように。凌ノ井は言う。


 まだ、綾見のことを信じようとする気持ちがどこかにある。だが、凌ノ井にとって、その気持ちは邪魔なものでもあった。<悪食>の言う通り、沫倉綾見が血も涙もない夢魔であったとすれば、凌ノ井にとって

 それに、綾見の仕業ではないと考えるこの思考こそが、凌ノ井にとっては一方的なバイアスがかかっているものかもしれなかった。綾見を信じようとする気持ち、彼女と過ごした時間が、今の自分の目を曇らせている可能性は、十分にある。


「あたしはまだちょっと懐疑的ねぇ」


 小さな顎に手を当てて、倉狩くらがりが言う。


「沫倉ちゃんの仕業だって言うのなら、ちょっと心境の変化が唐突すぎる気がするんだけど」

「そりゃあ、あれじゃろ。眠らせていた本能が覚醒したとかじゃろ」

「それならそれで、ちゃんとした切欠があって然るべきじゃない? ねぇ、鷹哉」

「……かもな」


 倉狩の言葉は確かに正論だ。だがそれは、どうとでも説明がつけられる部分な気がした。少なくとも、綾見が犯人ではないと決定づける証拠にはならない。彼女が<真昼の暗黒>であるという事実が、ほぼ確定的なものであるならば、今回の件も綾見によるものだと考える方がはるかに容易い。


 そして物事とは、得てして容易く、単純に出来ているものだ。


「じゃあ、鷹哉」


 倉狩は目を細めて、凌ノ井を見上げる。


「鷹哉は、沫倉ちゃんがあたし達を裏切って、職員の山口くんとかを殺していたとして、もしそうだったら鷹哉はどうするの? あの子とちゃんと戦える?」

「………」

「それが出来ないなら、鷹哉は今回の件から手を引いた方が良いわ。あたしから棺木くんの方に言って……」

「いや」


 心配そうに続ける倉狩の言葉を、凌ノ井は片手で遮った。


「気遣いには及ばねぇよ師匠。この件ばっかりは、俺がやらにゃ意味がねぇんだ」

「無茶をしちゃダメよ?」

「……ああ」


 約束はできないな、という言葉は、口の中で飲み込んだ。


 倉狩鍔芽つばめの言葉は、かえって凌ノ井の背中を後押ししていた。そうして彼は、自分の吐いた言葉の意味を、改めて反芻する。


 相手が<真昼の暗黒>ならば、自分がやらなければ意味がない。因縁の相手なのだ。そしてそれが、沫倉綾見という少女と同一の存在であるならば、なおさらである。もしも、あれが本当に人の心を失って、職員たちを殺害していたのだとすれば。その時は本当に、戦わねばならない。その結果、無茶をすることもあるだろう。


 ではもし、ではなかったとしたら?


 今回起きた悲しい事件が、何かの手違いであり、綾見が凌ノ井の知る綾見のままであるとしたら?


 その時、凌ノ井鷹哉は、沫倉綾見を殺せるのか。

 あるいは、<真昼の暗黒>を赦せるのか。


「(……考えるのは、やめだ)」


 凌ノ井鷹哉は、自らの思考に蓋をした。見たくないものから目を逸らし、見たいものを見る為だけに。

 自分の知っていた綾見が、自分の知っていた綾見ではないと、そう思い込むことこそが、彼にとって一番の近道だった。もしも、沫倉綾見が夢魔としての本能に目覚め、凶行に及んでいたのだとすれば、凌ノ井のやるべきことはただひとつ。本当の悪魔になってしまった彼女に、裁きを下すだけのこと。


「(……そうだ。本当に、それだけの可能性だってある)」


――もし仮にそうだったら、どんなにか気楽な話でしょうよ。


 <悪食>の言葉が頭蓋の内側に反響する。凌ノ井はやがて、その言葉にすら、自ら蓋をしてしまった。




 凌ノ井鷹哉がヒュプノスに入ったのは、一之宮いちのみやすずめの件があってから、しばらくもしないうちのことである。拉致監禁に過失致死、凌ノ井少年を留置場に縛り付けておく罪状は多く、しかし面会者は少ない。親に連絡が行っているのかどうかすら、凌ノ井にはわからなかった。


 雀が死んでから、凌ノ井もまた、ただの屍のように日々を過ごしていた。


 あの、自分の頭の中にこだましていた声、あれほど馴れ馴れしく話しかけていた声は、もう聞こえない。残ったのは、自分が雀を殺す手伝いをしたという事実だけだ。恐怖の中で死んでいった彼女のことを思えば、いっそ自分も命を断とうかと思えたが、いざ死を選ぼうとすれば足が竦んだ。結局のところ、自死すらままならない臆病者であった。


 やがて彼は悪夢を見るようになった。


 ささやかな幸せが崩壊して、黒く塗りつぶされたあの日々を、鮮烈に鮮明に、幾度となく繰り返し見せられるようになった。雀を殴りつけた時の拳の感触がまざまざと蘇る。どれだけ目を逸らそうとしても、やめろと叫んでも、夢の中の自分は、辿った軌跡を忠実に遂行した。

 夢は日々鮮明に進化を続け、より悪趣味な方向へと変わっていく。ただ衰弱して死ぬだけだった雀は、夢の中でやがて、凌ノ井を罵るようになった。ベッドに縛り付けられたまま、首だけがじっと凌ノ井を見つめている。青白い顔が悪鬼のごとく吊り上がり、聞くに堪えない呪詛を吐いた。


『あなたずいぶん頑丈ですね』


 ある夜、頭の片隅でそんな声が響いた。


『普通ならとっくに死んでいますよ。こんな悪夢を何回も見るなんて、マゾなんですか?』


 聞いたことのない声だったが、凌ノ井は感覚的に理解する。この声の主は、雀が死んだ時に頭に聞こえていた声と、おそらく同質のものだ。


『てめぇ、何者だ。どこにいやがる』

『私は夢魔ですよ。あなたの頭の中にいます』


 女の声はそのように告げる。

 どうやらそうとうおしゃべり好きと見えて、声の主はぺらぺらと話を続けた。


 夢魔は人の欲望を喰らう生き物である。成体となった夢魔は、宿主がもっとも望まない悪夢を見せることで、欲望を搾り取る。やがて心がボロボロに食いつぶされて、宿主は絶望の中で死んでいく。そうすると、次の宿主を探してまたどこかへ旅立つ。夢魔は成長すれば、宿主以外の精神にも働きかけることが、できるようになる。


 話を聞けば、すぐに『あれ』が夢魔であることもわかった。わかった途端、『おや、謎の活力がみなぎりましたね』と、声の主が言った。


 それからも、悪夢が止むことはなかった。凌ノ井は止めろとは言わなかったが、聞いてもいないのに、『生理活動だから止められないんですよ』と言われた。


 それからさらに数日した後、留置場に1人の面会者が訪れる。


『なるほど、これは憑かれてるわ』


 コート姿の小柄な女性は、凌ノ井の姿を見るなりそう言った。


『あんたは?』

『あたしは、君の病気を治しに来たボランティアのおねーさん』


 病気が、頭の中に住み着いてる夢魔のことを指しているのは、すぐにわかった。


『別に要らないよ。俺はこいつを消して欲しいわけじゃない』

『バカなこと言ってんじゃないの。放っておくと、あんた殺されちゃうわよ』

『それでも……、』


 膝を抱え込んだまま、凌ノ井はコートの女性を見上げる。


『それでも、忘れちまうよりはずっと良い』

『強情ねぇ』


 女性は呆れた声を出した。


『その様子だと、夢魔のことは知ってるみたいね。じゃあこういうのはどう? あたしと一緒に、夢魔を退治する側に回るっていうのは』

『………』

『レベル4相手にそこまでもってるなら、十分素養はあると思うんだけど』


 しゃがみこんで、目線の高さを合わせ、凌ノ井の目をじっと見る。小柄で童顔のその女性は、意見の切り替わりも子供のように早い。あるいは、実は最初からそのつもりでここに来ていたのかもしれなかった。

 だが、その夢魔を退治する、という言葉が、その時の凌ノ井には妙な魅力を孕んで届いた。夢魔を倒せる。あの、雀にとり憑いて自分をそそのかした、声の主を倒せる。


 雀の仇が討てる。


 相手の言葉を信用する謂れはどこにもない。だが、話に乗る価値は十分あるように思えた。


『どうやら、乗り気みたいね?』


 女性が――倉狩鍔芽が、そう言って笑う。これこそが、凌ノ井鷹哉がヒュプノスに入る、最初のきっかけだった。




 あの時、凌ノ井の腕を引っ張り、こちらの世界に引き込んでくれたのは倉狩だった。感謝している。そうでもなければ、凌ノ井はただ腐っていくだけの毎日だっただろう。いつか本当に、自ら命を絶っていたかもしれない。

 雀の仇を討つというのが、単なる独りよがりでしかないことは、彼自身もわかっていた。だが、倉狩はその目的を否定しなかったし、自分の中にいる夢魔――凌ノ井によって<悪食>と名付けられたそれもまた、否定しなかった。


 そんなことをしても、自分の本当の望みが叶うはずがないと、わかっていてもだ。


 凌ノ井は、あの日の自分に対する憤りを忘れたことはない。

 その日の夢魔に対する怒りを忘れたことはない。


『あのう、マスター』


 いつもに比べ、えらく消極的な<悪食>の声が、脳内に響いた。


「どうした、<悪食>」

『いえ、マスターは本当に戦うつもりなんですか?』

「……今更、何を言いだすんだ」


 凌ノ井は今、地下施設の一室で書類の閲覧をしている。都内の各所に設置された防犯カメラの記録映像。そこから、沫倉綾見の逃走経路を割り出しているところだ。もちろん凌ノ井だけではなく、他のエクソシストエージェントも綾見の追跡を行っている。


 迷いは致命的な遅延を生む。凌ノ井は一度、それをすべて頭の中から取り払う覚悟を決めた。


「……大人に必要な決断って奴だよ。お前だって見ただろ。職員が4人、殺されてる」

『まぁ、そうなんですけど……』


 <悪食>の言葉はどうにも要領を得ない。


 凌ノ井だって信じたくはない。今までに沫倉綾見と過ごした時間が偽りだったなどとは、思いたくない。だがあの状況では、彼女がやったのだと考えるのがもっとも自然なのだ。


『〝裏切り者〟が、いるかもしれないじゃないですか』

「沫倉ちゃんを逃がすことで、その〝裏切り者〟にどんなメリットがあるんだよ」


 <違崎恭弥>の最期の言葉を思い出しながら、凌ノ井はぼやく。


「沫倉ちゃんを逃がしたってことは、沫倉ちゃんの存在がその〝裏切り者〟にとってメリットってことだろ」

『えぇと、綾見さんが、<真昼の暗黒>だから、というのは……』

「……結局、そこに行きつくんだよ」


 そう。例え、職員を殺害したのが〝裏切り者〟であったとしても。


 それは沫倉綾見という人間ではなく、<真昼の暗黒>という夢魔を逃がしたと考えるのが妥当だ。逃走したのは<真昼の暗黒>。それを野に解き放つことが目的であるとしたら、結局同じことだ。凌ノ井は彼女を捕らえなければならないし、そのためには、彼女と戦わなければならない。


『マスター』


 <悪食>の声が、わずかな緊張を帯びて尋ねる。


『まさかとは思いますが、マスターは、綾見さんが4人の職員を殺していることを、望んではいませんよね?』

「……なんだと?」

『そうなればマスターは、敵討ちを果たす大義名分を得る。少なくとも、綾見さんを殺すか、<真昼の暗黒>を赦すかの二律背反で、苦悩する必要はなくなります』

「てめぇ……!」


 凌ノ井が声を荒げて立ち上がったとき、ちょうど部屋の扉が開く。勢い、衝突しそうになった2人は、毒気を抜かれる結果となった。


「お疲れさまです、先輩」


 小さく一礼をして、入ってきたのは病本やまもと千羽朗せんばろうである。


「……病本、おまえも調べものか?」


 内心の気まずさを誤魔化すために、凌ノ井は尋ねた。


「ええ、まあ。ちょっと気になることがありまして。先輩は?」

「……ちょっと、沫倉ちゃんの件でな」

「彼女の携帯にかければいいのでは?」

「出るとは思えねぇんだけど……」


 追われていると知って、わざわざこちらの通話に応じるほど間が抜けてはいないだろう。

 それに、そもそも綾見は検査衣のまま脱走した。携帯なんか持っているとも思えないのだが。


「先輩は、やっぱり信じてるんですか? 沫倉さんのことを」

「……っ」


 病本の何気ない言葉に、一瞬反応が出遅れる。素直にそうだ、と首を縦に振ることは、できそうになかった。

 信じていないのだ。そしておそらく、


 <悪食>の言う通り、凌ノ井は、それを、望んでしまっている。


 自分自身の中で、どろどろと渦巻く感情に目を瞑ることはできない。凌ノ井は持て余した気持ちの向かわせる先を失う。

 不意に、そんな彼の携帯が鳴った。もったりとした動作で懐から取り出してみると、見慣れない番号からの着信。怪訝そうに眉を顰め、通話ボタンを押して応答する。


「……もしもし?」

『凌ノ井さん、私』

「……ッ!」


 思わず、息を飲んだ。


『急にごめん。携帯がないから、覚えていた番号でとりあえずかけてるんだ。話は聞いてるかな』

「あ、ああ……」

『うん。凌ノ井さんに会って、聞きたいことがあるんだ。私と会える? 大丈夫かな』


 抑揚と感情の起伏に欠けたその喋り口が、なぜかあの<真昼の暗黒>の口調と被る。これまでまったく意識したことがなかったのに。電話の向こうにいるのが、単なる沫倉綾見であると断定することに、凌ノ井の中に大きな躊躇があった。


「……俺も、」


 やっとの思いで、その言葉を吐きだす。


「俺も、沫倉ちゃんに聞きたいことが、ある……」

『? そうなんだ。じゃあ、ちょうどいいね』


 沫倉ちゃん、と名前が出るのを、病本が鋭く聞きつけ、視線を向けてくる。凌ノ井はあえてそれには反応しないで、綾見との会話を続けた。

 待ち合わせ場所と、待ち合わせの時間を、綾見が指定する。凌ノ井は2言、3言頷いて、約束はそれで交わされた。硬くなった凌ノ井の反応を不審に思ったのか、沫倉綾見は少しばかり、訝し気に尋ねる。


『……凌ノ井さん、どうかしたかな』

「……いや、なんでもねぇ」

『そっか。じゃあ、また後でね』


 お前は<真昼の暗黒>なのか。


 4人の職員を殺したのはお前なのか。


 今までお前は、俺たちを騙していたのか。


 ぶつけたい疑問を飲み込む自制心は、彼女の心を慮ってのものではない。ただ、凌ノ井の望む回答が得られなかった時、おそらく心の迷宮から抜け出す術を見失ってしまうから。永久に繰り返される自問自答に、正解を見つけることができなくなってしまうから。

 だから凌ノ井はこの時、ただ約束だけをした。


『……マスター』

「黙ってろ」


 凌ノ井は、苦い顔をしたまま部屋を後にする。出た直後、病本に口止めをするのを忘れていたと思いだす。だがそれでも、たった数歩の距離を引き返すようなつもりに、凌ノ井はなれなかった。




「あやみん、本当になんともないの?」

「なんともないわけじゃないんだけど」


 ユミの貸してくれた服に袖を通す。サイズは全体的に、ややキツめだ。


「でも今はちょっと、ユミに事情を話せないから」

「そっか」


 ユミの家は、両親が共働きをしているとかで、留守にしている時間が長いのだという。綾見も何度か遊びに来たことはあるが、彼女の親と顔を合わせたのはたった1度だ。それでも、ユミが寂しそうにしているところは見たことがないし、家族関係は良好なのだろうなと思う。


 彼女に対して事情を話せないことには、微妙な罪悪感がある。そのまま、ユミの好意に甘えてしまっていることにも。


「ごめんね。私、今、ユミしか頼れないから」

「ううん。良いよー」


 ユミは、手をぱたぱたと振ったあと、こらえきれなくなったように『ふふふ』と笑う。


「……どうしたの」

「えー、あやみんが頼ってくれるなんて嬉しいなーって思っただけ」


 ベッドに腰かけたユミの顔は、とろけたように形を崩したままだ。


「……頼られるのが嬉しいの?」

「うん」

「そっか」


 ユミはそういう子だ。綾見も、よく知っている。


「あやみん、クールで自立してるからさ。こうやってあたしを頼ってくれることなんて、滅多にないでしょ。だから、ずっと頼って欲しいなーって思ってた」

「うん」


 その言葉を聞くだけで、溜まった疲労が消散していく。比喩表現などではない。綾見の身体は、本当に軽くなるのだ。誰かの望みを叶えられた時、誰かに喜びを与えた時、沫倉綾見の身体は明確に充足感を覚える。

 もう少し休んでいこうかと思ったが、これならすぐにでも出られそうだ。


「じゃあ、ユミ。少し出かけてくるよ」

「さっき電話かけてた人? 大丈夫? あたしもついく?」

「ううん。平気」


 ユミの頭を、ぽんぽんと叩いてやりながら、綾見は言った。


「そう言えば、最近あまり遊んで無かったね。今度、一緒にどこかに行こうか」

「え、ほんと!? やー、最近あやみん冷たいからさー。そう言ってくれると思わなかったなー!」

「ごめんね。まぁ、いろいろあったんだ」


 これからも、ちょっといろいろありそうではあるが。


 約束をしてしまったから、それを易々と破るわけにもいかない。このあと、綾見の身柄がヒュプノスに拘束されるようなことがあっても、この約束だけはきっちり守らなければならない。綾見は自分自身にそう言い聞かせる。


 傘を借りて、家の外に出る。外は酷い土砂降りだった。

 凌ノ井と約束をした公園は、ユミの家からそう離れた位置にはない。しばらく歩いていくと、道路脇によく見慣れた車が停まっているのを目撃した。先についていたらしい。


「……うん」


 綾見はひとりで頷いて、公園の中に入っていく。雨で視界が遮られる中、傘を片手に立ち尽くす男の影を見つけた。


「凌ノ井さん」


 安堵が声に混じって口から出る。だが、傘をさしたその人影は、すぐに返事をすることはなく。黙り込んだまま、じっと綾見の方を見つめてきた。


「……凌ノ井さん?」


 不審な態度に、綾見の表情も曇る。


「凌ノ井さん……。どうしたの。何か、私に言いにくいことでも、あるの」


 そりゃあ、言いにくいことだらけだろうけれど。


 でも、言ってくれなければわからない。結局、今自分を取り巻く状況はどうなっているのか。なぜヒュプノスは綾見を監禁しようとしたのか。

 目の前にいる男は、凌ノ井鷹哉は、絶対に自分の味方でいてくれるという思いが、綾見にはあった。だから躊躇もせずに彼と連絡を取り、警戒もせずにここで会う約束をしたのだ。だが、降りしきる雨の向こう側で、綾見を睨む凌ノ井の眼は、今までに見たことのない感情を宿していた。


「……凌ノ井、さん?」

「沫倉ちゃん、なのか」

「? ……うん、私だけど」


 凌ノ井がぎり、と歯を噛むのがわかる。


「……何も覚えていないのか」

「何をだろう」

「本当に! 何も覚えていないのか!?」


 彼のすがるような目を見ても、綾見の混乱は増すばかりだ。


 覚えていないって、何の話だ。今まで凌ノ井から向けられたことのない感情と態度。憎悪と訴求。綾見は、今、目の前にいるのが本当に凌ノ井鷹哉であるのかすら、その一瞬わからなくなってしまう。こんな目をして自分を睨みつける凌ノ井のことを、綾見は知らない。

 だが、すぐに心の中で否定する。目の前にいるのは凌ノ井だ。自分の呼びかけに応じて来てくれた、凌ノ井鷹哉なのだ。その彼がこんな態度を取るからには、理由があるはずだ。


 そこで綾見は、目の前の男のすがるような瞳を、もう一度見る。

 凌ノ井は、綾見にそれを覚えていることを、だった。綾見は、困惑しながらも記憶の中を必死に探る。自分の中のある薄暗い領域、今まで存在すら認知していなかった黒い領域にまで手を伸ばしていく。覚えていることを望んでいるのなら、


 重厚な鎖で雁字搦めにされた箱がある。

 二度と開かれぬよう丁寧に梱包された箱がある。


 その存在を認知したとき、綾見はそれを、開かずにはいられない。


 


 沫倉綾見が記憶の封印を解くのと、凌ノ井鷹哉が耐え兼ねて禁句を口にするのは、ほぼ同じタイミングであった。


「……おまえが! 俺に雀を殺させたことをだよ! <真昼の暗黒>!」

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