真昼の暗黒

第十九夜 真昼の暗黒―追憶―

病本やまもとさん、だっけ」

「ああ。急に押しかけてごめんね」


 沫倉まつくら綾見あやみは、いつものぼんやりした顔で青年に尋ねた。


 なんでもヒュプノスで検査があるということだから、迎えに来たという。凌ノ井しののいさんは来ないのか、と聞いてみたところ、彼は先輩は忙しいから、とだけ答えた。

 検査があるというのなら断る理由もない。玄関前で待っていると言う病本に準備すると告げて、いちど部屋の中へと戻った。


 先日、ヒュプノスに呼び出されて行ってしまった凌ノ井は、結局戻ってこない。電話をかけても応答してくれない。まだあれから2日なのだから、そう焦ることもないと思っていたが、長引くようなら棺木ひつぎに話を聞きに行く心づもりもあった。検査があると言って迎えに来るのが、凌ノ井ではなく病本というあたり、ますます話が奇妙になってくる。


 綾見は腰に手を当てたまま、部屋の中をぐるりと見渡した。


 ベッドの周りに置かれたぬいぐるみ。丁寧にクリーニングした絨毯。本棚には雑多な内容のものがずらり。

 何度か招いたことのあるユミに、『思っていたより女の子らしい部屋』と言われる程度には、ものの揃った部屋だ。親を失い、養護施設を出てから、施設の奨学金で学校に通っている綾見だが、この部屋自体は親の遺してくれたものである。税金とかの面倒くさいいろいろは、施設に任せているのでよくわからない。


 とりあえずパジャマを脱ぎ捨てて、学校の制服に着替える。鞄の中にはノートが何冊かと、筆箱、財布、小物入れなんかを入れておく。忘れ物がないことを確認して『うん』と頷いた。


 最後に綾見は、机の上を見る。


 写真立てには、もうかなり古い一枚が飾られていた。綾見は今まで一度も、彼女が動き、笑い、喋っているところを見たことがないが。それでもいつも、出かけの挨拶をすることは変わらない。きっと、写真に写っているその女性は、沫倉綾見が健やかに育つことを、心から願っていたであろうから。


「行ってきます、お母さん」


 写真の母親は返事をしない。だが、綾見にはそれで充分だった。




――母親ではありません。


 凌ノ井の問いに対し、その時棺木は確かにそう答えた。


――よろしいですか凌ノ井様、沫倉綾那あやなの娘、本来、は、母親よりも先に殺されているのです。


 だから、今まで自分たちが沫倉綾見として接してきた人間は、人間ではないと。

 肉体は間違いなく、沫倉綾那の娘のもの。だが、心は人間のものではないと。


 綾見の精神が、夢魔の呪縛からあっさりと解き放たれたのも。

 一切の記憶処理が通用しなかったのも。

 夢の中に入り込むことが可能であったのも。


 すべては綾見が夢魔であったから。


 薄々、そうではないかという感覚はあった。違崎恭弥の肉体を夢魔が乗っ取ったあの事例を目の当たりにしたとき、ひょっとしたら綾見もそうかもしれないという予感は頭をよぎった。

 だが彼女には自覚がない。それに、母親の記憶はないにしても、出生だって明らかになっている。綾見の母親は、<真昼の暗黒>に殺されていて、それは凌ノ井の恋人だって同じこと。、意図的に可能性を排除していた。


 そうしなければ、あらゆる前提条件が狂ってしまうから。


 凌ノ井鷹哉たかやは忘れない。あの日の無念を。

 凌ノ井鷹哉は忘れない。あの日の後悔を。

 凌ノ井鷹哉は決して忘れない。無力感に苛まれ、後悔が身を焦がす地獄のような日々を。


『ねぇ鷹哉、鷹哉は何になりたいの? 鷹哉は何をしたい人なの?』


 凌ノ井鷹哉は忘れたくても忘れられない。

 あの日から永遠に失われた、一之宮いちのみやすずめの笑顔を。


 自室でいつしか微睡んでいた凌ノ井の脳裏に、幾度となくあの日の幻影が去来する。心に繋がれた鎖が、彼が最も後悔した日の記憶へと、凌ノ井の意識を引き戻す。慙愧の再現に対して、やめろと呟くことはいつしかしなくなっていた。


『別になりたいものなんてねぇよ』


 夢の中の自分はそう呟く。


 当時の自分は、手の付けられない悪童だった。店での万引きなどしょっちゅうで、鍵開けの技術だって立派なものだ。そんな凌ノ井鷹哉少年が出会ったのが、一之宮雀という、まさに深窓の御令嬢であったわけである。

 雀は病弱だった。今にして思えば、それは夢魔に憑かれたことによる精神の衰弱だったのかもしれない。何を見ても、何を話しても新鮮な驚きを露わにする雀の態度がおかしくて、凌ノ井はよく彼女をからかった。からかわれても、雀が怒ることはなかった。いつも彼女は笑っていた。


 雀の家族が、それを良く思うはずもない。だから、凌ノ井と雀が会うのはいつもこっそり隠れてのことだ。学校帰りであるとか、習い事に向かう途中であるとか、そんな小さく些細な時間。それは古臭い言い方をすれば逢引と言って良いものだったし、年老いた運転手だけはそれを黙っていてくれた。


 とてもよくある、陳腐な話かもしれなかった。


 雀の病状が徐々に悪化していく中、会う機会は減った。雀自身が出かけることが少なくなっていた。年老いた運転手は、いつもすまなそうに頭を下げてくれた。凌ノ井は、家の外から彼女の部屋の窓を眺めるだけになって、それでもいつか病気は治るはずだからと思いこんでいた。


『果たして、どうかな』


 心の中に、そんな囁きが反響する。

 雲ひとつない真昼の空に、真っ黒なシミが出来たような気持ちがした。


『彼女が本当に治ると思うのかな。もし治らなかったら、あの狭いお屋敷の中で、ずっと苦しんで死んでいくことになる。可哀想だと思わないかな。ねぇ。外に連れ出して、広い世界を見せてあげるのも、ヒーローの務めって奴なんじゃない』


 ひどく名案であるように思えた。


 心に芽生えた囁きは、やがて白を黒で塗りつぶしていく。声の主が誰か、という疑問は抱かずに、凌ノ井はその囁き通りのことを実行に移した。囁きは、屋敷の警備や忍び込み方などのことを教えてくれて、彼はあっさりと部屋の中に入ることができた。

 凌ノ井の姿を見た雀はまず驚き、そして、外に出ることをひどく嫌がった。


『お父さんが明日、良いお医者さんのところに連れて行ってくれるって言うの。だから行けない』

『そんなことしたら、もっと会えなくなっちゃうだろ』

『病気が治れば会えるよ。だから鷹哉、今は帰って。このことは秘密にしておくから』


 やけに理不尽なことを言われているような気がした。その時凌ノ井を突き動かしていたのは、真っ黒い熱意だ。溶岩のように煮えたぎるそれは、出所がわからないまま凌ノ井に命じ、そして彼は説き伏せるように語る雀を殴りつけた。小さな悲鳴と共に倒れ、訳もわからず呆然とする雀を、凌ノ井は無理やり連れ出していく。


 夢がここまで来ると、凌ノ井はいつも悲鳴をあげる。早く終われと叫ぶ。だが、最高潮クライマックスに達した悪夢は、まさにこれからだと言わんばかりに凌ノ井の心に過ぎ去った現実を突き付ける。


 石造りの壁。硬いベッド。凌ノ井は、彼がよく利用する小さな山小屋のひとつに、雀を運び込んだ。

 青あざの浮かぶ顔を押さえてすすり泣く雀。それを見た時、凌ノ井の中から黒い熱意がすうっと抜けていくのがわかり、同時に震えが止まらなくなった。


『ここまでやったら、今更連れ帰るなんてこと、しない方が良いよね』


 囁きがそう告げる。


『連れ帰ってしまったら、それこそあなたはもう、彼女と会わせてもらえないかもしれない。それなら残された時間を彼女と過ごすと良いよ。まず手を握ってあげたらどうかな』


 言う通りにしようとすると、存外に強い力で、握った手を払われる。燕が涙を溜めた瞳で、凌ノ井を睨みつけた。


『あらら、反抗的な子だね。あとは、あなたがどうしようと、私の知ったことではないけど。でも家には連れて帰らない方が良い。うん。彼女を縛り付けて、その辺でじっとしていると良いんじゃないかな』


 これにも、言う通りにした。嫌がる雀を無理やり押さえつける。自身の行動に、一切の疑問を感じなかった。ただこの囁きに従うのが正しく、自分を悪夢から逃す唯一の方法だと信じ切っていた。

 本当はもう一度、手を握ってあげようとしたのだが、か細い声で『どうして』と呟く雀の声を聞いて、それをするのがとても良くないことな気がしてしまい、やめた。


 それ以降、日に日に雀が弱っていくのを、凌ノ井はじっと眺めていた。


 たまに山を下りて食べ物を買ったり、盗んだりして、雀に食べさせようとしたが、彼女は受け付けなかった。初めて食べた時、あれほど驚いていたハンバーガーにだって興味を示さなかった。途中、街頭テレビなどで、雀が行方不明になっているニュースを見た。老いた運転手に声をかけられ、何か知らないかと聞かれたが、知らないと答えた。

 あくる日、凌ノ井がベッドの上の雀に声をかけると、返事がない。もう一度声をかけても、返事がない。肩を揺すってみると、ぞっとするほど冷たかった。


『死んだよ』


 囁きが言った。


『あなたが殺したんだ』


 抑揚はなかったが、やけに嬉しそうな響きを孕んでいた。

 そう言われた時点では、凌ノ井は自分の感情に靄がかかってしまったようで、何かを難しく考えることはできなかった。『ああ、死んだのか』とだけ思う凌ノ井だが、やがて心の上に被さっていた何かが取り払われると、突如として心の底から湧き上がる無数の感情を、対処しきれなくなる。


 感情の発露は、絶叫を伴う。亡骸を前にして、凌ノ井鷹哉は頭を押さえ、避けんだ。


 自分は、今まで何をしていた?

 自分は、今までに何をした?


『可哀想に。もっと生きたかっただろうね。たぶん、あなたと一緒に過ごすために、病気を治そうとしたんじゃないかな。無駄なことだったけどね。仕方がない。そういうこともあるよ』

『ふ、ふざけんな!』


 やっとの思いで、意味のある言葉を叫び返す。


『てめえが俺にさせたんだろ!』

『そうかも。でもそれは責任転嫁だと思う。私もここまで上手く行くとは思ってなかったし。あなたの独占欲が思ったより強かったからじゃないかな』

『な、なんで……! なんでこんなことを! 言えよ!』

『愛していた人の豹変を目の当たりにして、絶望に落ちた彼女の悪夢はとても美味しかった。このままあなたを苛めても良いけど、あなたはこのまま放置して眺めていた方が楽しそうだね』


 囁きは哄笑へと変化する。


『じゃあね』


 その言葉を最後に、囁きの気配は消える。

 凌ノ井は嘆き、叫び、そして自らの絶叫によって


『おはようございます。マスター』

「ああ……」


 毎夜、これを見せられる。忘れたくても忘れられない、忘れられるはずがない。


 当然ながら凌ノ井鷹哉は罪に問われ、すべてが発覚した後、留置場へと入れられた。家族の無い凌ノ井に面会人はなく、唯一姿を見せた、あの老いた運転手は、彼に酷い罵声を浴びせた。日によっては、そこまでこともある。

 今まで百回も千回も万回も、幾度となく繰り返されてきた記憶の再現。要するに悪夢だ。<悪食>はいつもこれを見せる。彼女自身に悪意はない。だがそれでも、寝起きの凌ノ井は、<悪食>に対してぶっきらぼうになる。


 今朝は特に、最悪だった。


が沫倉ちゃんとか、出来の悪い冗談だろ……」


 心に囁くドス黒い声。あれが<真昼の暗黒>だ。雀に憑き、そして凌ノ井の心にまで侵入した。彼に囁き、そして自儘に操った。凌ノ井は自分の罪を忘れない。だがそれでも、いつか自分へのけじめとして、あの夢魔との決着をつけるつもりでいたのだ。


『マスター』


 <悪食>は尋ねる。


『マスターは、綾見さんを、殺しますか?』

「俺が殺したいのは<真昼の暗黒>だ」

『ですが、綾見さんは<真昼の暗黒>です』

「わかってんだよ!!」


 凌ノ井は壁を叩いて叫び返す。


「わかってんだよ! でも、じゃあどうして沫倉ちゃんにはその素振りがねぇんだ! あの子が今までずっと俺たちを騙していたとでも言う気か!?」

『もし仮にそうだったら、どんなにか気楽な話でしょうよ!』


 <悪食>もまた叫んだ。


『可能性に甘えないでくださいマスター。我々の盛大な勘違いだという可能性はもちろんあります。ですが、その時はバカだったと笑えば良い。綾見さんが我々をずっと騙していた可能性だってあります。その時は怒りに任せて対決すれば良い。でもね、最悪の可能性だってあるんです。綾見さんが<真昼の暗黒>だけど、その事実をまったく認識していない可能性。今までの総てが真実である可能性です。その時あなたは<真昼の暗黒>を赦すんですか? それとも綾見さんを赦さないんですか? どっちなんですか!』


 この期に及んでまだ現実を直視できない凌ノ井に対して、<悪食>は珍しくその声を荒げていた。


 まったくもって彼女の言う通りだ。悔しくて憎たらしいくらい彼女の言う通りなのだ。もし、綾見が<真昼の暗黒>であった事実をまったく知らなかったとしても、2つの存在が可分であったとしても、凌ノ井の下す決断は表裏を同じにすることだ。


 綾見を赦し、<真昼の暗黒>を赦さない。


 そんな都合の良いことを言うのは簡単だった。だが綾見を赦せば、凌ノ井はあの日の幻影に自らを追いつかせることは、永遠になくなる。憎悪が消えることはなく、そして罪も消えることはないのだ。


「どうすりゃ良いんだよ……。畜生」


 行き場を失った凌ノ井の感情は、ただただ陳腐な呪詛となって、その口から溢れた。




「沫倉綾見さんの護送が完了しました」

「お疲れさまです。病本様」


 執事喫茶スリーピングシープでの一幕。2人の男がテーブルをはさんで対峙する。


 <違崎恭弥>の一件が終わって後、すぐに今回の件が発覚したのだから、心の休まる暇もない。ひとまずヒュプノスでは、沫倉綾見に対してどのような処遇を用意するべきか、ひとまずの結論が出ていた。言ってしまえば禁錮である。


 沫倉綾見が<真昼の暗黒>だというのは、あくまでも可能性の話だ。だが抹消された情報にその記載があった以上、信憑性は高い。で、あるとすれば、危惧されるのは当然、綾見が夢魔としての本性を現した瞬間だ。

 <真昼の暗黒>が、残忍で狡猾な夢魔だということはすでに知られている。綾見がその記憶を失っているにせよ、実は今までの行動がすべて演技であるにせよ、彼女が<真昼の暗黒>として行動を起こした時に発生しうる影響は、無視しがたい。


「それに、以前僕が調べてきた夢現境会むげんきょうかいの情報も気になりますね」


 病本がぽつりと言う。


 確かに、夢現境会では<真昼の暗黒>との接触に成功したという情報があった。果たして接触がいつのことなのかはわからない。現状を見るに、遥か以前の可能性が高い。で、あるとすれば、夢現境会はどの状態の<真昼の暗黒>と出会ったのか。


「もうひとつの問題は、こちら側で情報を握り潰した何者かの存在でございます」


 紅茶を注ぎながら、穏やかな口調で棺木が告げる。


「先代棺木の時代に、何者かが沫倉様や<真昼の暗黒>に関する情報を隠蔽した。わたくしはそのように考えてございます。ついては、病本様にはそのお手伝いをしていただきたいのです」

「良いんですか? 僕が裏切り者という可能性もありますよ」

「裏切り者はそのようにおっしゃらない……。というのは冗談でございますが、少なくとも病本様は、当該情報が隠蔽された時点では、ヒュプノスとゆかりのない方でございましたので」


 ともかく、そういったアレコレを調べるために、病本と<アリス>はうってつけだ。棺木が他の、例えば絶脇たてわき憑内つけないなどに声をかけなかった理由は、そのあたりにあるだろうと推察された。


「あの、それで今、沫倉さんはどうしてるんですか?」

「検査という名目でお連れしておりますから、まずは検査を受けていただいております。これで何がわかる、というわけでもございませんが」


 綾見は今までに何度か、ヒュプノスで検査を受けてはいる。


 まず、彼女に記憶消去が効かなかった件、そして、彼女が夢の中に入り込んだ件でだ。綾見に憑いている夢魔がいる可能性はもちろんあったが、結果は陰性だった。綾見自身が夢魔であった場合、この検査は何の意味もなさなかったということだ。


「兆候はございましたね」


 なんでもないことのように、棺木が呟く。


「もちろん沫倉様のことでございます。沫倉様の行動原理や思想は、確かに夢魔に近いものがございました。夢魔である、と言われてしまえば、納得でございますね」

「でも、ただの夢魔じゃないんでしょう。<真昼の暗黒>って、先輩の……」

「はい」


 棺木は頷き、それ以上の言葉を語らない。


「ひとまず洗い出しを、病本様にお願いいたします。こちらでも、過去の情報を今一度確認してみますので」

「……わかりました」




 ちょっぴり妙だな、と綾見は思い始めていた。


 ヒュプノスの検査を受けるのはこれが初めてでもないのだが、どういった検査なのか尋ねてもはぐらかされるばかりだし、今までに受けたことのある検査を適当に流しているような感じがしてならない。とは言っても、特に断る理由もなくて、綾見は言われるがままにされていた。


 綾見を見る他の職員の目が、今までとは何かが違う。


 ありていに言ってしまえば、少し距離を感じるのだ。今までもどう接して良いのかわからなそうにしていた職員たちだったが、そこはそれ、綾見が距離を縮める為の努力をし続けてきたのだ。それなりに打ち解けて、職員の名前も全員覚えた。

 だがそれが、今日は妙によそよそしい。


「検査結果が悪かったんですか?」


 検査衣のまま、いつものぼんやりとした口調で綾見が尋ねた。


「あ、いや、その……」


 職員の1人はびくりと肩を震わせ、しどろもどろになる。


「その……詳しく見てみないとわからないんですが、えぇと……再検査が必要な可能性があります」

「それって、私に夢魔が憑いてるかもってことですか」

「ええ、まぁ……」

「それならエクソシストエージェントの人を連れてくればすぐにわかるんじゃ……」


 会話もこのような具合で、いまいち要領を得ない。


 今回は検査が長引くので、できれば泊まり込んで欲しいとも言われた。これも、断る理由はない。ヒュプノスの本部にいれば凌ノ井にも会えるだろうし。ただ、早く終わらせて学校に行きたいという気持ちも、ちょっぴりあった。

 検査衣のまま、次の部屋へと案内される。しばらく進んでいくと、今まであまり来た事のない区画へやってきた。


 ヒュプノスの本部は、広大な敷地の地下に建造されている。入口はスリーピングシープだが、おそらく横面積はそれ以上。綾見は地下3回くらいまでしか行ったことがないが、深さもそれ以上あるから、本当の規模はもうわからない。

 それに比して働いている職員の数は、実はそこまで多くない。綾見が名前を知っているのは10人ほど、顔を知っているのは30人ほどで、それ以外にもたくさんの人員が働いてはいるが、多分200人よりは多くない。それでも、それだけの人数が秘密を一切口外せずに人類の平和を守っているのだから、大したものだった。


「この先にはどんな検査室があるんですか?」

「あ、ああいや。実は検査室ではなくて、その、今日泊まっていただく部屋でして……」

「もう? ずいぶん早いですね」


 職員は、やはり気まずそうに眼を逸らした。


 何度目かの扉をくぐった時点で、綾見はふと立ち止まる。


「………」

「ど、どうしました?」

「今の扉、ここから先は厳重注意って」


 やけに重そうな鉄の扉、その向こうは殺風景だ。続いていた白塗りの壁が途切れて、重苦しい金属製の板張りが続いている。まるで牢獄だ。綾見はどうしても、そこから先へ足を踏み入れるつもりにはなれない。


「ねえ」


 綾見が尋ねようと顔を向けると、職員は小さく悲鳴を漏らす。


「どういうこと? 私、隔離されるような状態なのかな。言ってくれないとわからないんだけど……」

「そ、それはその……」

「沫倉ちゃん、あなたはね、疑われてるのよ」


 不意に後ろから声が聞こえる。振り向くと、真っ白な通路を叩く靴の音がして、長いコートを翻した小柄な女性が、いつになく真剣な表情のまま歩いてきた。


「あ、倉狩くらがりさん……」


 エクソシストエージェント・倉狩鍔芽つばめの登場を前にして、職員たちは安堵のため息をつく。対照的に、綾見はその滅多に変えることのない鉄面皮を、わずかに歪ませて、尋ねた。


「疑われてるって、どういうこと……?」

「それはまーちょっとまだ言えないわね。ヒュプノスは沫倉ちゃんを厳重に監禁しようとしている。いろいろ資料が出てきた結果、沫倉ちゃんがヤバい存在なんじゃないかって説が出てきちゃったのね」

「待って。わからないよ」


 倉狩の言葉にかぶせるように、綾見はやはり、いつになく早い口調で割る。


「わからない。私が、人の夢に入れるから? 記憶消去が効かないから? どういうことなのかな」

「理不尽だと思う?」

「うん」

「そうよね。まぁ理不尽よね」


 倉狩はにっこり笑うと、その小柄な身体をかがめて勢いよく前に踏み込んだ。ふわり、とコートが跳ねあがって、職員1人の鳩尾に、全体重をのせた肘の一撃が当てられる。ぐぉっ、と重苦しいうめき声をあげ、男の身体は転がった。


「く、倉狩さん、何を!」


 悲鳴じみた声をあげたのは、別の職員だ。倉狩は有無を言わさず、倒れた職員の懐から拳銃を抜き取り、職員たちに向ける。エクソシストエージェントが見せた突然の翻意に、白衣の職員はいっせいに動きを停止した。


 わけがわからないのは綾見も同じだ。

 倉狩は自分を助けてくれたのか。それすらもわからない状態だ。


 瞬く間に職員の動きを封じ込めた倉狩は、ちらりと綾見の方を見て、こう言った。


「沫倉ちゃん、この通路をまっすぐ行って右に曲がると、地上行きのエレベーターがあるわ。特定の職員のカードキーがないと使えないけど、はいこれ」


 拳銃と一緒に白衣から抜き取っていたのか、一枚の電子カードを、綾見にパスする。


「……ありがとう」


 何がなんだかわからないが、ここにいると良いことはなさそうだ。ひとまず、逃げよう。

 綾見はカードキーを懐にしまい、職員たちに頭を下げてから、通路をまっすぐに走り出した。逃げてどうにかなるとも思えないが。ひとまず姿を隠すか。それとも、凌ノ井に連絡をするか。


 凌ノ井鷹哉だってヒュプノスの人間だ。もしかしたら、綾見を捕まえようとしてくるかもしれない。だが、もし凌ノ井が大人しく捕まってくれと言うのなら、ひとまずそれを承諾するのは構わない。

 凌ノ井なら大丈夫だ。彼の言うことなら、信用しても構わない。彼の望みなら、聞いてあげても構わない。


 だがこんな、何がなんだかわからない状況で捕まってしまうのだけは、なんとなく嫌だ。


 逃げ出した綾見を後ろから追ってくるような気配は、今のところなかった。




「……どういうつもりですか!」


 綾見の足音が遠ざかり、姿が見えなくなって、しばらく。職員の1人が、倉狩に食ってかかる。


「あなただって聞いているはずでしょう! <真昼の暗黒>なんですよ、彼女は!」

「そーねぇ。そうらしいわねぇ」


 倉狩はすっとぼけたことを言って、銃を下ろした。


 綾見はもう逃げ出してしまった。今頃はきっと、倉狩の言った通りエレベーターに乗って地上に出ているはずだ。地上に出てからしばらくの足取りはすぐにでも終えるだろうが、ヒュプノスの存在を知っている人間が、ヒュプノスから逃れようと潜伏した場合、見つけ出すのは少しばかり厄介だ。

 これから少しの間だけでも、沫倉綾見は無事だろう。


 状況の確認を終えた倉狩は、ふうとため息をつく。わざわざ監視カメラの作動していないところまで移動するのを、待った甲斐があった。


「でもねぇ、山口やまぐちくん。沫倉ちゃんの人となりはもうわかってるでしょ?」


 片手で拳銃をもてあそびながら、倉狩は綾見の逃げた通路を眺める。


「あんな良い子なのよ? 仮に<真昼の暗黒>だったとしても、あんな暗いところに閉じ込めるなんて、心が痛まない? 迷ったりしなかったの?」

「それは、そのう……」

「でしょう?」


 沫倉綾見と<真昼の暗黒>が同一の存在であったとしても、少なくとも今の彼女は限りなく善性に近い存在だ。演技をして、こちらを騙しているなどとはとても思えない。だから職員たちだってあれほど困惑した態度を見せていたのだ。

 だが同時に、レベル4夢魔<真昼の暗黒>の対する恐怖はぬぐえない。エクソシストエージェントなら、まだ自分の精神を守ることはできる。だが彼らは、ただの人間だ。


「まぁ、きっとねぇ、あなた達だけじゃなくって、鷹哉も凄い迷っていると思うのよね。沫倉ちゃんと、凄い信頼しあっていたと思うから。あの子と戦ったり、捕まえたりするのを、躊躇うかもしれないじゃない」

「まぁ……。そうでしょうね、特に、凌ノ井さんは……」

「それじゃ困るのよね」


 倉狩は突然振り返り、拳銃を職員の1人に向ける。


「え?」


 乾いた銃声が立て続けに響き渡り、通路には血の花が咲いた。

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