第十八夜 デイドリーム―夢から醒めて―
「ち、ちくしょう……」
夢魔の口から洩れた
致命傷に思われた傷を受けてなお、夢魔の精神は朽ちていない。<
「俺はまだ、死にたくない……。死にたくないんだ……! わかるか! まだ、やりたいことが、たくさん……あるッ……!」
「そうか」
対する
「欲しいものが、できたんだ……! 食べたいものも、やりたいこともできた……! 貴様らにわかるものか! この彩られた世界がどれだけ素晴らしいものか! 俺はまだ、味わい足りない……!」
勝手な了見だ。その欲望を喰らい、奪ってきた夢魔の言葉ではない。白昼夢の光景は、主の身勝手で際限ない欲望を表すかのように、さまざまに形を変えていく。それは自分の可能性に限界を設けない、幼児の万能感を目の当たりにしているかのようでもあった。
凌ノ井は、片手に握った銃の口を、<違崎>へと向ける。
「
「……くそったれ!!」
ぱん、と乾いた音が響いて、それが最後のとどめとなった。
思念体を削られすぎた夢魔は、
「おまえさん、今回あんまり良いところなかったのう」
どろどろに崩れ落ちていく夢世界の中で、
「さして有効打も与えられていなかったな。レベル4夢魔が聞いて呆れる」
マスターがマスターなら夢魔も夢魔と言ったところで、<悪食>へのあからさまな当てこすりを口にするのは、鋸桐の横で済ました顔をしている<くろがね>だ。
「はぁ!? なんですって? あなたみたいな攻撃一辺倒の可哀想な夢魔とは違うんですよ」
「つまり腕力では私の方が上だと思って良いのか?」
「あ? 試してみますか?」
「そこまでにせい、<くろがね>」
鋸桐は頭をぼりぼりと掻く。
「いやすまんな。別に嫌味を言ったわけではないんじゃ。おかげで助かったわけじゃしのう」
あっさり倒すことができたようにも見えるが、エクソシストエージェントが3人がかりで夢魔を倒すということ自体が、前代未聞だ。うち2人は生粋の武闘派であり、1人はレベル4の夢魔持ちである。この手ごわさが、肉体を得た夢魔特有の強さであるのか、白昼夢という空間内でのみ起こり得るものなのか、あるいは単に<違崎恭弥>という夢魔個人のものであるのか。それすらもよくわかっていないままだ。
白昼夢の世界が溶けていく。夢の終わりだ。<違崎>の望み、掴むことのできなかった夢のひとつひとつが朽ち果てていくのを、沫倉綾見がぼーっとした顔で眺めていた。
「どうした、沫倉ちゃん」
「うん……。夢魔、って、なんなのかな、って思って」
ぼんやりと応える綾見。その言の葉には、いかなる感情も滲み出てこない。
「まさか、人間の方の違崎の言葉を真に受けてるんじゃないでしょうね」
凌ノ井の後ろから、ぬっと顔を出して<悪食>が尋ねる。
「私たちのことを、可哀想な生き物だと思ってます?」
「わかんない」
「しっかりしろよ沫倉ちゃん。あの時、ちゃんと違崎に啖呵切っただろうが」
「そうだね。でも、口から出てきた言葉だから、後悔するかもしれない、とも言った」
もしかしなくとも、綾見は<違崎>という夢魔に憐れみを感じているのだ。自分自身というものが希薄に見えて、綾見はしっかり、『誰かの望みを叶えるのが望み』というけったいな欲望を持っている。今わの際に叫んだ<違崎>の言葉に、感じ要るものがあったのかもしれない。
だがこれは悪癖だ。夢現境会の本部で、『目の前のガゼルを助けるためなら躊躇せずライオン最後の一頭を撃ち殺す』と言った沫倉綾見は、自覚のある近視眼である。それは時に美徳であり、時に悪徳にもなり得た。
なんと言葉を続ければいいか迷っているところ、不意に哄笑が響き渡る。崩れ落ちる白昼夢の中で、一同ははっと顔をあげた。
「てめぇ、<違崎>! まだ生きてやがるか!」
『いいや、死ぬ。死んださ。そしてもうすぐ最後の意識もなくなる』
霞がかかったようにはっきりしないその声は、断末魔を改めるにしては妙に生き生きとしている。
『違崎から引き継いだ記憶の中に、とびきり面白いものがあったので教えておこうと思ってな』
「わざわざどういう風の吹き回し……」
『ヒュプノスには裏切り者がいるぞ』
唐突な真実の告白に、凌ノ井はもとより、その場の一同は言葉を失っていた。
『ははははは! 良い反応だな! それだ、そいつを見たかった……! はは、最期の最期に、ひとつだけ望みが叶ったじゃないか!』
「だ、誰だ。教えろ!」
『嫌だね。俺はこの満足感と優越感を抱いたまま消滅する……。さようならだな』
その言葉を最後に、白昼夢はすべて砕け散った。それぞれの夢魔もまた姿を消して、現実世界、無人のゲームセンターに、4人の人影が立っている。クレーンゲームの筐体に寄りかかるようにして、1人の男が息絶えており、そしてその口元には満足げな笑みを浮かべていた。
「……くそっ!!」
凌ノ井は拳を握り、クレーンゲームのガラスを叩く。
「ま。まぁまぁ。なんじゃ凌ノ井。別にあの男が最期にかました出まかせかもしれんし……」
「ああ、かもな……。だが……」
少なくとも凌ノ井は最初から疑っていた。<真昼の暗黒>の一件において、ヒュプノスに届けられるはずだった情報を、握り潰した誰かがいることを。すべてが杞憂で、<違崎>の出まかせだった可能性だって捨てきれないはずなのに、心に刺さった疑惑の棘を抜くのは容易なことではない。
「………」
綾見は何も言わないまま、そっと違崎の死体へと歩み寄る。そして、彼がその手に抱きしめていた、大きなぬいぐるみをそっと撫でた。
「それに、夢の中で動き回った分、現実世界ではそこら中に身体をぶつけたようじゃしのう。ちょいとばかり手当てが要りそうじゃ」
鋸桐は自らの手の甲を眺めながらつぶやいている。そこで初めて気が付いたが、確かに鋸桐の手の甲は大きく腫れて傷だらけになっている。夢の中で<違崎>を殴りつけていた分、そこらじゅうのゲーム筐体に片っ端から手をかけていたようで、その痕跡はそこかしこで発見できた。
鋸桐ほとではないが、凌ノ井や絶脇にも幾らか切り傷やアザが残っている。白昼夢というやつは、存外に迷惑な能力だ。
そう言えば、ここまで絶脇が言葉をひとつも発していないのに気が付いた。見れば、彼女は着流しの袂に両の手を突っ込んだまま目を瞑り、何やら険しい顔をしてうんうん唸っている。おおかた、ブレまくったキャラをどういう方向で是正するのか悩んでいるのだろうから、放っておくことにした。
その後、
夢現境会は、夢魔が現実世界で活動するための肉体を用意するための組織だった、というのが今のところの結論だ。だがそれでも、違崎がそのような活動を組織するに至った動機や、姿をくらましたと思われる夢現境会の他の幹部の行方は、わかっていない。更に後味の悪いことには、夢魔に殺され、身体を乗っ取られてしまったと思われる行方不明者が、何人か報告されていることだ。
「ともかく、お疲れ」
凌ノ井と綾見は、渋谷のカレー屋に来ていた。<違崎>が目撃されたカレー屋とは、別の店だ。あそこは良い店だが、なんだかしばらく行く気がしない。
「うん。凌ノ井さんも、お疲れ」
一連の事件が収束した後、エクソシストエージェントの日常はいつも通りのものに戻った。月に20日近い休日が与えられ、出勤日の夢魔事件も以前ほどの数は見られない。できればこれが一時的な小康状態でないことを祈るばかりだ。
「その後どうだ。学校の、えーっと……
「うん。どっちも普通」
綾見は貼り合いの無い返事をしたあと、これではいけないと思ったのか、やや慌てて付け足した。
「田中の両親も、高木のお姉さんも、夢現境会のことはすっかり忘れてる……。もちろん、それと家族仲がもとに戻るかは、また別の問題なんだけど」
「そりゃあそうだ。でもまぁ、良かった」
夢現境会の実質的な壊滅に伴って、彼らの護衛監視も解除された。それを主に請け負っていた
「そう言えば気になっていたんだけど」
綾見がふと顔をあげて言った。
「どうした」
「<悪食>さんと、鋸桐さんの夢魔、すっごい仲悪かったね」
『仲が悪いわけじゃありませんよ。向こうが私にケチをつけてくるんです』
いつになく棘のある声で、呟く<悪食>。
「じゃあ仲が良いの?」
『とんでもない! 気味の悪いことを言わないでくださいよ!』
「まぁ子供のじゃれ合いみたいなもんだよ。そんな気にするな」
凌ノ井は苦笑いを浮かべて、煙草を口にくわえる。最近は禁煙の店が多いが、ここは灰皿があるので安心して吸える。
<悪食>と<くろがね>の不仲については、凌ノ井も詳しいことはよく知らない。鋸桐も心当たりがないそうなので、真実は闇の中だ。<悪食>はともかく、レベル3の<くろがね>は鋸桐以外の人間にとり憑いたことはないはずだから、以前にどこかで顔を合わせていたとも思えず。まぁ妙な話だ。
灰皿の縁で煙草の灰を落としながら、凌ノ井は少し遠くを眺める。
「なぁ沫倉ちゃん。俺からもちょっと聞きたいことがあってな」
「なにかな」
「沫倉ちゃん、夢ってあんのか」
その言葉を受けて、綾見はしばらくの間、黙り込む。凍り付くほど多彩な表情を持っていないから、動かない鉄面皮の下で如何なる感情が交錯しているのかは、ようとして知れない。
「以前、俺に同じこと聞いたろ。俺も聞いとこう、と思ってな」
「夢というか」
スプーンでカレー皿をひっかき、綾見は答える。
「欲望ならある。友達と仲良く暮らすこと。友達の望みを叶えてあげること。だから、私は凌ノ井さんの役に立ちたいと思っていて、今はまぁ、そんな感じ」
「そうか」
「でも私、言うほど役に立たなかったよね。ごめんね」
気にしてたのか、と凌ノ井は思った。
確かに、<違崎>との戦いの場についてきたのは綾見の意思だ。そして、彼女は『役に立つ』と言った。実際、彼女の言葉が<違崎>に大きな隙を作ったのは確かだが、それを『役に立った』と言って良いのかは、少しわからない。
「足手まといにならなかっただけ、上等さ」
凌ノ井は下手に慰めるではなく、素直なところを口にした。
「<真昼の暗黒>のことにしてもさ」
「………」
綾見が目を伏せたまま言葉を繋いだので、凌ノ井は黙って聞くことにする。
「私が役に立てるかわからないけど、すごく手伝いたいと思ってる」
「なんでそんなことを思うんだよ」
「だって。凌ノ井さん1人でやろうとしたら――」
と、言いかけて、虚空へと視線を移す。
「――<悪食>さんもいるけど。でも、凌ノ井さんは絶対無茶をするから。田中の時みたいに」
手痛い指摘に、眉をしかめた。
現時点でも、<真昼の暗黒>の絡む事件に対して、凌ノ井が冷静でいられている自信はない。今後、もしかしたらあるかもしれない直接対決の場において、確かに凌ノ井は無理や無茶をするかもしれなかった。
田中少年の時は、<悪食>の強制遮断によって命を永らえたし、それでいて夢魔を撃ち漏らさずに済んだのは綾見のおかげだ。あれより強大な敵に対して、凌ノ井は果たして戦って無事でいられるのか。
「……わかったよ」
凌ノ井は苦笑いを浮かべて、言った。
「俺は思っているほど大人じゃない。確かにブレーキ役は必要だ。今までは<悪食>にばっかりそれを任せっきりだったが」
『大変なんですよ』
「沫倉ちゃんにも、それを任せるよ」
「うん」
「良い子だ」
ぽん、と頭の上に手をのっけてやると、今度は綾見が思い切り顔をしかめる。
「子ども扱いはやめて欲しい」
「そう言うってことは、まだまだ子どもって証拠なんだぜ」
このまま綾見をからかって遊ぶのも悪くないと思いかけたところ、急に携帯に着信が入る。発信者の名前は、既に薄々そんな予感はしていたが、『棺木』とある。あいかわらず間の悪い奴だと思った。
「申し訳ありません。出勤日でもない日に急にお呼びだていたしまして」
「構いやしない。どうせ難用を押し付けてたのは俺だ」
凌ノ井が席につくと、棺木は紅茶を淹れてくれる。カップに注ぎながら、棺木はその後、ヒュプノスの総本部からあった返答の内容や、違崎恭弥の亡骸の処分について事務的な説明をした。調べたところ違崎に家族はなく、その死体はヒュプノスで手厚く葬ることになったという。
単なる死体では夢魔が乗り移ることはできないが、さすがにそう言った問題でもないだろう。
「<違崎>の能力の高さについても、幾らか仮説が立てられました」
穏やかな笑顔で言う棺木を見て、凌ノ井は目を細める。
<違崎>が最期の最期に放った言葉を、忘れたわけではない。『ヒュプノスには裏切り者がいる』。あの件は、その場で一度他言無用の約束をした。鋸桐や絶脇がうっかり口を滑らせていない限り、その情報が棺木に伝わっていることもないはずだ。
正直なところ、凌ノ井はまだ棺木を疑っている。『話したいことがあるから』と凌ノ井を呼びつけ、そこに綾見の同席を遠慮させたというのも、奇妙だった。
結局あのあと綾見をカレー屋に置き去りにせざるを得ず、彼女はあまり気にした風を見せなかったが、少し申し訳ないことをしたと思ってしまう。
「……<違崎>は、人間の方の違崎の
思考にいったん区切りをつけ、棺木の話に合わせる。
「それも間違いではないのですが、夢現境会の資料を漁っていくうち、幾らか思い当たる節が見つかったのでございます」
「ほう」
「エクソシストエージェントの方々が、夢魔の方々に精神エネルギーを食べさせるのは、いわゆる夢の中で力を借り受けるため。それはまずよろしいでしょうか」
「ん? あ、ああ……」
いまさら何の講釈だろうと思いながら、続きを促す。
「夢魔が嫌がる内容ほど、対価は大きくなるものです。逆に言えば、精神エネルギーをすべて食べさせるつもりであれば、多少無茶な要求を押し通すことも可能でございます」
『ああ、なるほど』
頭の中で<悪食>が頷いた。
『違崎恭弥は、自分の夢魔に身体を差し出す時、ただMPをすべて食わせたわけではなく、そこに付随する命令をしたということですか』
「命令、と申し上げるべきかは難しいですが、左様でございます」
MPを食わせて夢魔の強化を図ることが可能なのかは、凌ノ井自身試したことがないのでわからない。
「これは仮説の域を出ませんので、近いうちにテストが必要でございます。夢の中で、夢魔の方に対して『パワーアップしろ』という命令を下すことは可能なのか。他のエクソシストエージェントの方々にもお聞きしましたが、彼らに憑くすべての夢魔の方から『可能である』という解答を頂き、絶脇様と<名剣無銘>様に関しては『いつもやっている』とおっしゃっておいででした。失礼ながら、<悪食>様は?」
『まあ……。できるんじゃないですかね?』
<悪食>の返事は、案外無責任なものである。
「……で、棺木、わざわざ俺を呼んで話したいことって、それか?」
「いえ。もちろん違います」
棺木の笑顔は、ほんの少しばかり困った風を帯びる。
「以前、凌ノ井様からご相談いただきました件につきまして、調査結果が出ましたので、そのご報告を」
「だよな。そっちだよな」
凌ノ井は済ました顔で紅茶を口に運んだ。
「そうですね。それでは、本題に入らせていただきましょう」
そう言って、棺木の声色がわずかに変化する。その変化は、『緊張を帯びた』と言うべきか、『冷淡なものに変わった』と言うべきか、判断に迷うものではあった。
「結論から申し上げましょう。過去20年近くのヒュプノス極東本部に寄せられた資料を確認いたしました結果、」
さらりと凄いことを言ってのける。
「いくらかの資料に、改竄された痕跡を発見いたしました」
「マジか」
「はい、左様でございます」
この時点で、棺木が『裏切り者』である可能性を、凌ノ井は捨て切れていない。だが、仮にそうであったとして、この場でこのような形の嘘をつく理由は見当たらないから、すぐに飲み込むことができた。
資料改竄の痕跡。それは、残念ながら凌ノ井の懸念が事実に限りなく近いことを意味している。
だが、その確認はこれからだ。
「それで……。<真昼の暗黒>についての情報は?」
「ございました。そして、凌ノ井様がおっしゃられた、あの病院から送られてきた情報も」
「………」
凌ノ井の表情も、徐々に強張ってくる。空気の緊迫した執事喫茶の一室。棺木は言葉を続ける。
「改竄された資料を完全に復元するのは、かなりの労力を要しました。痕跡も巧妙に隠蔽されていたのでございます。ですが、夢現境会から押収された資料と照らし合わせることで、予想以上に素早く、凌ノ井様のお求めになっていた情報を入手することができました」
「俺の求めていた情報っていうと……」
「<真昼の暗黒>の、足取りでございます。かの夢魔が、今、どちらにいるのかも」
鼓動が、徐々に早鐘を打ち鳴らす。紅茶を飲んだばかりだというのに、喉が渇いてくるような感覚があった。手の震えが隠しきれない。
凌ノ井はわずかに自嘲した。奴の行方が判明しようとしているだけで、これだ。案外、思っていた以上に、綾見の心配は正鵠を射ていたらしい。彼女がああいうのだって、無理からぬ話であった。
「それをお話する前に、少し、衝撃的なご報告をしなければなりません」
「なんだ、焦らすな」
「それが、沫倉様のことでございますので」
そうまで言われて、凌ノ井はようやく、棺木が綾見を遠ざけた理由がわかった。だが、続きを促して、そして彼の口から飛び出してきたのは、凌ノ井が思っていた以上に衝撃的で、かつ、呑み込むのに手間のかかる内容であった。
「沫倉綾那様のご息女は、生まれるまえに亡くなっています」
「……は?」
「沫倉綾那様のご息女は、胎児の時に亡くなっていると、そう申し上げました」
「待て」
前菜として聞くにしては、あまりにも重すぎる情報だ。頭が理解に追いついていかない。
「じゃあ、あの沫倉ちゃんはなんなんだ? その、沫倉綾那との間に、血縁関係は……」
「ございます。沫倉綾見様は、沫倉綾那様のご息女に相違ありません。――少なくとも、その肉体については」
ここまで聞いて想像が及ばないほど、凌ノ井の頭は愚鈍ではない。だが、いっそ愚鈍ではないことを、凌ノ井はあからさまに後悔しかけていた。彼の頭は、遅れて追いついてきた理解を拒む。思考の埒外へと追い出そうとする。
根本的な勘違いをしていた。棺木は、別に前菜として綾見の話を提供しようとしていたわけではない。これは立派な、そしてどこまでも悪質な、凌ノ井の知りたかった
「バカな」
凌ノ井はそう吐き捨てるのがやっとだった。
「沫倉ちゃんは何も知らなかったぞ。あの子は良い子だ。嘘なんかついてない……」
「ええ、わたくしもそのように感じます。それは、間違いないでしょう」
「じゃあ、なんで!」
拳がテーブルを強く叩く。行き場をなくした感情が、苛立ちを交えてまろび出た。
「沫倉ちゃんの中に、あいつがいるって言える!」
「それは違います。凌ノ井様」
だが、棺木の声は冷ややかで、凌ノ井が辛うじてしがみつこうとした最後の間違いを、無慈悲に訂正しようとした。
「先ほど申し上げました。沫倉綾那様のご息女は、既に死亡しております。そこにあえて情報を添加するのであれば、生まれる前に、<真昼の暗黒>の手にかかって。あの夢魔は、母娘と同時に蝕んでいたのでございましょう。で、ある以上、沫倉綾見様は、血縁上はそうであったとしても、沫倉綾那様のご息女ではあり得ない。よろしいですか?」
「やめろ」
「沫倉綾見様の中に、あれがいるのではありません」
「やめろ……!!」
知りたくない。真実を許容したくない。
すべてを、嘘にしてしまいたい。
心の中に芽生えた、あまりにも幼稚な欲望。しかし凌ノ井は知っている。決して叶えられない欲望があることを。先日、<違崎>に投げた言葉は、あまりにもあんまりな、冷酷な形で凌ノ井のもとへと帰ってくる。
棺木は、ただ淡々と、その言葉を凌ノ井に突き付けた。
「沫倉綾見様が、<真昼の暗黒>なのです」
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