第十七夜 デイドリーム―変質する欲望―
「そんなこと、可能なのか?」
電話口の向こうの
運転席でハンドルを握ったまま通話する凌ノ井を、隣で
「どう考えても今までの夢魔の能力から飛躍している気がするんだが」
『思念体が実体化するわけではありません。広範囲に幻覚を見せるようなものです。言ってしまえば白昼夢ですね』
棺木からの連絡は、人間の身体を乗っ取った夢魔が持つ特殊能力についてだ。
肉体を得た夢魔は、現実世界側に夢の世界を顕現させることができる。それこそがつまり、夢と
夢の世界を現実に引きずり出す。そうはいっても、物理法則を無視して実体化するわけではないという。棺木の言葉を借りれば〝白昼夢〟のようなもの。つまり、起きながらにして夢にダイブしたときと同じような状態になる。
「とにかくわかった。気を付ける」
『はい。現在、<
「
顔をしかめたまま、電話を切った。
『初耳なことばかりで驚いていますよ』
頭の片隅で、<
「白昼夢なんか見せて夢魔にメリットはあるのかな」
綾見もぼんやりした顔で首を傾げていた。
『生態上のメリットはほとんどないと思いますよ。考えられるのは自衛手段としての能力ですかね』
「自衛」
『夢魔は基本的に、エクソシストエージェントが夢に侵入してこない限り、彼らと戦うことができませんからね。もっとアクティブに、先手を打てる手段として、白昼夢を獲得しようとしているのかも』
「そうなんだ」
『いや、あくまで想像ですよ?』
レベル4以上の夢魔の精神攻撃は、エクソシストエージェントならば通用しない。自身の夢魔に、精神を守らせることができるからだ。精神干渉を遮る特殊な構造物も開発されている。反面、エクソシストエージェントは夢魔の潜む夢の中に、万全の準備を整えた上で突入することができる。非人道的な手段に訴えるのならば、宿主を殺すこともできるし、夢魔ごと施設の中に閉じ込めておくこともできる。
彼らが人類の天敵であると言っても、人間たちが手段を選ばなければ夢魔に脅かされることもほとんどないのだ。少なくとも現実世界において、夢魔と人間では人間の方が圧倒的に優位性を保っている。
凌ノ井の頭の中に、ふと、違崎恭弥の言葉が思い出された。
――よく考えてみてください。あなた方が人類の外敵として駆除している彼らの存在を。
夢魔としての<
――彼らは精神面において我々より遥かに優れている。ですが肉体を持たないという点では我々よりいくらか脆弱な生き物です。我々は共存するべきだとは思いませんか?
「バカバカしいな」
吐き捨てるように、凌ノ井は呟いた。
あんなものは詭弁だ。それを口にした違崎が何をしていたかと言えば、人間の魂を夢魔に食わせることだった。少なくとも行為を正当化できるようなものではない。
「うん、そうだね」
綾見もぼんやりと頷いた。
『まぁ、そうですよね』
<悪食>も同調する。
「おまえの立場からしたら微妙な話なんじゃないのか、<悪食>」
『そんなことはないですよ。私は夢魔が人間より可哀想な生き物だとは思っていませんし。マスターこそどうなんです?』
話を振られたので、凌ノ井はハンドルを握ったまま険しい顔を作る。
『マスターは、私たちのことを可哀想な生き物だと思いますか?』
「冗談じゃない。俺は夢魔が嫌いだ」
口をついて出た言葉は、思ったよりも攻撃的だ。それが果たして本音だったのかどうかは、凌ノ井自身にもよくわからない。だが、出てきた言葉はひっこめようもなかった。
『なら、良いじゃないですか』
特に気にした様子もなく、<悪食>はそう重ねた。
今まで、夢魔というものを好きや嫌いで考えたことはなかった。<悪食>のことは嫌いではない。<真昼の暗黒>のことは、嫌いという言葉では片付けられない。<違崎恭弥>のことは、おそらく嫌いだ。
「あー……」
凌ノ井は頭を振り、余計な考えを追い出した。続いて、助手席に座る綾見の方へと視線を向ける。
「とにかくだ
「行く」
想定していた答えとはいえ、間髪入れずに返されると少し面食らった。
「棺木からの話、聞いてただろ。敵は白昼夢を見せてくる。起きている相手を夢の世界に引きずり込むようなもんだ。沫倉ちゃんには、夢魔がいない」
「うん。知ってる」
綾見が夢魔の力を借りずして夢の中にダイブする力があることを、凌ノ井は忘れたわけではない。記憶消去が通用しないという、その特異性についても。そして何より、
あれは未だに原因が解明されていない不可思議な現象である。前回上手くいって、今回も上手くいくとは限らない。その上での問いかけだ。
「役に立つよ。私は」
「仕方ねぇな。信じるぞ」
凌ノ井はため息をつき、覚悟を決める。
できることなら綾見を、あまり巻き込みたくはなかった。彼女は他のエクソシストエージェントとは違う。身体の中に夢魔を飼っていないなら、他の人間と同じように社会の中で生活していたって良いはずだ。
その彼女が、『自分を頼れ』と言っていることが、凌ノ井には歯がゆくて仕方がない。
「それとも凌ノ井さん、私にはまだ色気が足りない?」
「それは忘れろ。良いか、行くぞ」
ふと、沫倉綾見の欲望とはなんだろうか。と、考えた。
かつて夢魔が綾見にとりついた時、彼女の夢世界を構築していたのは綾見自身の夢ではなかった。あれだけぼんやりして感情を見せない綾見が、妙に我儘に振る舞って見せることに、凌ノ井は漠然とした不安定さを感じずにはいられなかった。
「の、
「狼狽えるな、
周囲の景色が不自然に変形していく中、鋸桐は叱咤を飛ばす。
とはいえ、目の前で<違崎恭弥>が引き起こしている現象は、とうてい理解しがたいものであった。ゲームセンターに並ぶ様々な筐体が歪み、たわんで、別のものへと変化していく。
変化は目の前の<違崎>自身にも起きていた。スーツ姿の中年男性の肉体は不自然に隆起して、額から卸し金を思わせるような小さな角が生えそろっていく。瞳孔は拡散し、眼球の色合いが反転する。その変貌は、<違崎>の内側から、ゆっくりと外側へと染み出すように起こっていた。
「
ひんやりとした涼しい女の声が響く。同時に、鋸桐の身体から、しゅるりと何かが這い出してきた。
「……なんじゃぁ。儂は夢でも見とるんかのう?」
「その通りだ雁之丞。目の前の夢魔は、雁之丞やそちらのお嬢さん。おそらく半径数十メートルの範囲内にいるすべてに、夢を見せている。白昼夢、という奴だな」
「ほぉーう。それで、お前さんが儂の中から這い出してきたっちゅうわけか、<くろがね>」
<くろがね>と呼ばれたのは、全身が磨き上げた鉄のような光沢を放つ、すらりとした佇まいのアンドロイドであった。そこかしこにボルトを打ちこまれており、口元をきゅっと結んでいる。ミラーシェードのサングラスのせいで、表情を窺い知ることは難しい。
まさしく、鋸桐雁之丞の相棒とする夢魔であった。
自身の夢魔が顕現していることこそが、彼女の語る言葉が事実であるという証左か。
「どうやら、そうみたいですね……」
すっかり素の声に戻った絶脇の声が、緊張に張っている。
「まさか、起きたまま夢魔と戦うことになるなんて……。――やれるよね、<名剣無銘>」
「――――」
言葉を発する代わりに、しゃらんという音が鳴る。彼女の手にした一振りの日本刀が、刀身を鋭く光らせた。あの装飾のない1本の刀が、絶脇
「余計な御託は抜きにしよう」
こちらの理解を待つかのようにじっとしていた<違崎>が、そこでようやく声を発する。
彼の出で立ちは、まるで伝承にある悪魔の姿を再現したかのようだ。これが夢魔としての<違崎恭弥>の姿。彼がまだ、人間・違崎の精神に巣食い、名前すら与えられていなかったときの姿なのかもしれない。
そして彼はこの期に及んでまだ、脇にぬいぐるみを抱えていた。
「ここが俺の夢の世界。そう、俺の夢の世界だ。俺の欲望のままにあり、そして俺の思うがままにある世界。いい加減逃げるのも飽いてきたので、ここで貴様らを殺すことにした」
そう言うと、爪と鱗の生えそろったごわごわした手で、そっとぬいぐるみの頭を撫でる<違崎>。
「これがあいつの欲望の世界」
涼やかな声で、小さく。<くろがね>が鋸桐に聞こえるくらいの声量で、反芻した。
「(これがあいつの夢の世界……。欲望の世界じゃと? これが……?)」
それは、色鮮やかに広がるゲームセンターの光景に他ならない。いくらかの筐体は、すべてクレーンゲームに差し替えられ、その中にはラッコのような薄気味悪いマスコットが山積みにされていた。どこからともなく、香辛料のかぐわしい芳香が漂ってきて、鼻孔とすきっ腹を刺激する。見れば、店内の奥の方にはカウンター席があり、そこに腰かけた一人の女性が、真剣にメニュー表を睨みつけていた。
あのおぞましく、おどろおどろしい夢魔の見る夢がこれだというのか。
これでは、まるで。
「さぁ、死ね!!」
<違崎>の高らかな攻撃宣言が、鋸桐の思考を中断させた。彼の両手から、思念体を凝縮した光弾のようなものが発射される。一拍出遅れた鋸桐の前に、絶脇が飛び出してきた。
「えィやァァァァァ――――――ッ!!」
振り下ろされた日本刀が、光弾を縦に切り裂く。ふたつに分かたれたそれは、見事に鋸桐の左右へと着弾した。
しゃらん、と音が響き、<名剣無銘>の刀身が鋭く輝く。その控えめな自己主張から彼の意思を読み取ったのか、絶脇は相棒を携えたまま身を低くして駆けだした。
「<くろがね>! 絶脇を援護するぞい!!」
「
鋸桐の両腕に、巨大なメリケンサックが装着される。同時に<くろがね>は、自らの思念体による武装を、その身体に増設させた。ミサイルポッドやらガトリングガンやら。背面のブースターを噴かせて宙へと舞い上がり、上空から<違崎>へ向けて掃射を開始する。
「むッ……!!」
弾丸の雨、ミサイルの嵐が、次々と<違崎>や、その周囲のクレーンゲーム筐体へと降り注ぐ。この世界は夢魔の見る夢の世界だ。ならば、普段のように細かいことを気にして戦う必要はない。ここにあるものはすべて、夢魔の思念体によって構成された風景なのだ。
一拍遅れて、絶脇が<違崎>へ斬りかかる。鋸桐もまた追撃を仕掛けた。
<名剣無銘>の刀身が、<違崎>の肉体へと食い込む。いわば夢魔そのものである日本刀の一撃を、思念体で防ぎきることは叶わない。刃は深く深くえぐり込んで、<違崎>の身体からは思念体が飛び散り、霧散していく。
だがそれでもなお、<違崎>が怯むことはなかった。彼は斬り込んできた絶脇の首を、逆に掴み返す。声にならない小さな悲鳴が漏れた。そして<違崎>は、絶脇の身体そのものを盾にして、突っ込んできた鋸桐の拳を受け止める。
「っ……!!」
「むぉっ! た、絶脇ッ!」
叩きつけられる直前、鋸桐は拳を引こうとつんのめる。その隙を狙いすまして、<違崎>は至近距離から、鋸桐に光弾を撃ちつけた。
「ぐおっ!」
「雁之丞!!」
<くろがね>が鋸桐の名前を呼ぶ。
「狙いは良かったが、むなしい努力だ」
勝ち誇った声で、<違崎>は嘲笑した。彼は未だ、絶脇の首を掴んで持ち上げたままである。
例え首を切断されても、夢の世界では死ぬわけではない。だがこうしている間にも、おそらく確実に消耗しているものがある。同僚である凌ノ井の言葉を借りればMP、他の同僚がコザールだとかマナだとか呼んでいる、アレだ。ここで長々戦うわけにもいかないのである。
あそこまで深々と刃を突き立てられて、平然としているのは予想外だった。
「俺は違崎の身体を頂いた。肉体だけではない。
「ず、ずいぶんとモノを喋るのう……」
鋸桐は苦笑いを浮かべ、その後<くろがね>にアイコンタクトを取る。彼が『意識の電送』と呼ぶこのアイコンタクトは、言わば鋸桐と<くろがね>の間でのみ有効なプライベート通信だ。
先ほど<くろがね>は、この白昼夢の効果範囲が半径数十メートルだと言った。ならば、その範囲から外に逃れることができれば、この状況から脱することは可能だろうか。つまり、『敗走』という選択肢を取り得るかという疑問を、鋸桐は相棒に送った。
だが戻ってきた回答は芳しいものではない。ここで白昼夢の効果範囲外に逃げることは可能かもしれないが、その間、鋸桐の肉体は現実世界を認識しないまま歩き回ることになる。危険だし、そもそも<違崎>が追いかけてくれば、結果無関係な人間が白昼夢に巻き込まれる可能性もある。
このまま戦うしかない。
結局、鋸桐はそう結論を得た。
「……それで? お前さんはなんでそんなに親切にヒミツを教えてくれるんかのう」
「心地よいからだ」
寒気のするような声で、<違崎>は答える。
すると同時に、この夢世界の片隅に変化が起き始めた。黒いシミが、各所にじんわりと浮かび上がり、そこかしこから怨嗟や苦悶の声が響き渡り始める。世界が薄暗く、不気味なものへと変容していく中、<違崎>だけははっきりと笑っていた。
「圧倒的な力で敵対者を蹂躙すること……。そしてその力の差をひけらかし、絶望感を味わわせること……。それがこんなにも、『心地よい』ものだとは知らなかった。人間が夢中になるはずだ! そうは思わないか? なぁ……!」
言うなり、<違崎>は絶脇の身体を、思い切りクレーンゲーム筐体のガラスへと叩きつける。
「がはっ……!」
ガラスの向こう側に積まれていたぬいぐるみが、苦しみ、呻き、許しを請う人間のような何かに姿を変えていく。ガラスにべたべたと手を這わせ、人間たちは助けを求めていた。ガラスに顔を押し付けられた絶脇は、同様に苦悶の声をあげながら身をよじっている。
「これが支配欲! これが征服欲! 破壊衝動! 蹂躙欲求! 力を見せつけ、恐怖を教え、絶望を教授する! ははは! なるほどなぁ……!! なぁ、女! 今すぐ俺に許しを請うてみろ!! この俺の欲望を叶える為にな! さあ泣け! 助けてくださいと言えぇっ!!」
絶脇の目じりに涙が浮かぶ。その時、鋸桐の耳元に<くろがね>がそっと耳打ちをした。鋸桐ははっと顔を上げ、そしてすぐに顔を引き締める。メリケンサックをぐっと握りしめ、咆哮をあげた。
「儂を忘れるなよ、<違崎>ィ!!」
「忘れてはいない!!」
哄笑に変貌した<違崎>の顔が、鋸桐を向く。彼が片手をあげると、クレーンゲーム筐体のガラスケースが派手に砕け散った。怨嗟の声をあげる人間たちが中から這い出てきて、鋸桐の身体へとまとわりつく。
「だが貴様のようなむさくるしい男より、こちらの女をいじめていた方が気分が良い!」
「ゲッスいのう……!!」
「欲望とはそういうものだ! 俺は今、ようやく理解した。こんなものを、人間だけが独り占めにしていたとはなぁ!」
一切の身動きが取れなくなった鋸桐から、<違崎>は<くろがね>へと視線を移す。
「どうだ、そこの夢魔の女も! その金属じみた身体は好みではないが、美しい声で啼けば俺の気も変わるかもしれんな!」
「お断りする」
ぴしゃりとした声で、<くろがね>は応じた。
「それに、いじめるなら私よりももっとおあつらえ向きの夢魔がいるぞ」
「ほう! それは……」
誰だ、という言葉は、轟音によって掻き消された。ゲームセンターの壁が崩れ、瓦礫と破片が飛び散っていく。濛々と湧き上がる砂塵の中、獣の唸り声と共に、白い影が飛び出した。
「がおーッ!!」
いささか気の抜けた咆哮。だが、鋭い爪と牙は、予想外の乱入を予知できなかった<違崎>の不意を見事に突く。しなやかな身体を持つ白虎に襲われて、<違崎>はとうとう、絶脇の身柄をその手から放した。
「けほっ……」
床に転がり、喉をおさえて立ち上がる絶脇。白虎は彼女の離脱を確認すると勢いよく飛び退いて、宙に浮かぶ<くろがね>をじろりと睨みつけた。
「ねえ、<くろがね>。そのおあつらえ向きの夢魔って、私じゃあないですよねぇ」
「さあな。あのような幼稚な欲望の持ち主なら、猫をいじめた方が楽しめるだろうと思っただけだ」
「猫! 猫ですって! 私は虎ですよ! 他の誰になんと言われようが気にしませんけどね、あなたにだけは猫だなんて……」
思わず噛みつきそうな白虎を、砂塵の中から伸びた手が制した。
「口喧嘩はそこまでにしろ、<悪食>」
「でもでもだってマスター!」
「こんなムキになる<悪食>さん、初めて見た」
その声を聞き、鋸桐はようやく『ほう』とため息をつく。
「美味しいところを持っていくのう。凌ノ井」
「そういう主義だからな」
崩壊した瓦礫の上に平然と立つ男は、口元に煙草をくわえていた。予期せぬ敵の増援に、<違崎>は先ほどまでのテンションを潜めてしまっている。警戒しながら様子を伺い、中でも男を、凌ノ井
「話を聞いてりゃガキ丸出しだな。生まれて初めて色んなものに触れた赤ん坊みたいだぜ」
「そうだとも……!」
皮肉をかます凌ノ井の言葉を、<違崎>は肯定する。
「俺はようやくこの世界に生まれ落ちた。人間の肉体を得たことで、〝欲望〟のなんたるかを知った。これほどまでに心地よく、狂おしい程に甘い感情の発露を、俺は他に知らない! 抱いた欲望をすべて叶える! カレーを食い、クレーンゲームを遊び、友人を作り、そして敵対するものをすべて蹂躙し、征服し、支配する! 人間が今までそうしてきたように! 人間に今までそうさせてきたように!」
「夢がでっかいのは良いことだよ。ガキの間はな」
そう語る凌ノ井の言は、どこか乾いたような自嘲を孕んでいた。彼は感情を感じさせない、どこまでも虚ろな瞳の奥に、わずかな怒りを揺らめかせる。口にくわえた煙草を手に取ると、それを<違崎恭弥>に突き付けて、言った。
「教育してやるよ、お坊ちゃん。そろそろ、夢から醒める時間だ」
身動きの取れなかった鋸桐を<くろがね>が救出し、その頃には絶脇もようやく落ち着きを取り戻す。夢の中だというのに目元が腫れているあたり、割とガチで恐怖を感じていたらしい。妙なキャラづくりをするようになったけったいな娘、というのが凌ノ井の抱いていた印象だったが、これはこれで可愛げがある。
こちらはエクソシストエージェントが3人、夢魔が3人、そしてプラスアルファが1人。うち、1体の夢魔は絶脇の武器として運用されているから、実際のところを言えば6対1だ。それでも数の利は十分こちら側にある。
「沫倉ちゃん、無理をするなよ」
「うん」
綾見は、いつの間にかその手に光の弓のようなものを持っていた。まだ追加でアドバイスをしてやろうと思ったが、そんな暇もなく、<違崎>が攻撃体勢に入る。
「俺の欲望の邪魔はさせん!!」
両腕を開き叫ぶと、室内にあったクレーンゲーム筐体すべてのガラスが砕け、中から助けを求める亡者の軍団が這い出してきた。同時に床が砕け、先のとがった鉄骨が次々と生えてくる。凌ノ井たちはまず散開して、的を散らした。
この世界が夢世界と同じならば、思念体を削りきることで夢魔を倒せるはずだ。そうすれば白昼夢も解け、おそらく違崎恭弥の肉体だけが残る。そうすれば、この件も終了となるはずだ。
「この亡者どもは儂と<くろがね>に任せい!」
鋸桐が叫んだ。その横で、全身にミサイルポッドを装着した<くろがね>が、素早く宙へと舞い上がる。
「広範囲殲滅には慣れている」
「まあ。普段からどんな大雑把な倒し方をしてるんでしょ」
「私はともかく、雁之丞を馬鹿にするのは許さんぞ<悪食>」
<悪食>と<くろがね>の罵り合いは、今に始まったことではない。が、少しばかり頭が痛くなる。
凌ノ井は銃を、絶脇は<名剣無銘>を構えながら<違崎>に肉薄する。その間、背後から綾見による援護射撃が行われた。光の矢は、放たれたその何本かが<違崎>の身体に突き刺さり、そしてわずかに動きを止めたところへ絶脇が斬りこんでいく。
「恐れずに突き込んでくるとはなぁ! 嬉しいじゃないかぁ!」
<違崎>が歯を剥き出しにして笑う。びくりと絶脇の肩が震えた。動きの止まりかけたところに、<違崎>が手を伸ばす。凌ノ井はそこに至近から銃弾を叩き込んだ。
「絶脇のことが気に入ったのか?」
「何かを演じていた女の皮を剥がして、素の恐怖を引きずり出す! これに勝る征服欲の満たし方はない!」
「良い趣味だ! 最低だな!!」
拳を固め、<違崎>の横っ面を殴りつける。『良い趣味』も『最低』も、どちらも本心から出た言葉だ。
「でもなぁ、そういうのはイメクラかフィクションで満足しとくもんだろうよ!」
凌ノ井が指をぱちんと鳴らすと、咆哮をあげて<悪食>がとびかかる。爪を深くえぐり込ませると、<違崎>の身体から思念体が飛び散った。
この一連の流れでかなりのダメージが入ったはずだが、それでもなお<違崎>は倒れない。それどころか、<悪食>を組み伏せ、力比べに入ろうとするほどの余力を残していた。長期戦に入ればこちらが不利になることを、あるいは<違崎>は知っているのかもしれない。
「……まずい」
腰にぶら下げた徳利の中を覗き込んで、絶脇が言う。
何がまずいのか、聞かずとも理解できた。鋸桐の方へと目をやれば、やはり同じように顔をしかめている。この2人はリミットが近いのだ。2人が安全に白昼夢の範囲外に逃れるには、凌ノ井がここまでくるのに使用したルートを使えば良い。だが、それを<違崎>が易々逃すかというと。
このわずかな思考が、隙を招いた。
「し、凌ノ井さぁんっ!」
絶脇の声にはっとする。<違崎>が眼前へ迫り、その腕がこちらの喉元を掴み上げた。
「ぐッ……!」
「貴様のような男は好みではないが、先ほどの暴言は撤回してもらわねばならん!」
「暴言だあ……?」
多少の皮肉をぶつけてやったつもりだが、まさか気にしているとでも言うのだろうか。あの厚顔無恥そうな違崎恭弥の
「その顔だぁッ……!」
「だからてめぇはガキなんだよ……!」
視線を左右に向ける。この瞬間、<違崎>の意識は完全に凌ノ井へと向けられていた。
「いィィやァァァァァァァッ!!」
「……っ!」
右から絶脇が肉薄し、左で綾見が弓を射る。光の矢が続けざまに<違崎>の身体へと突き立ち、その反対側から<名剣無銘>が<違崎>を切り裂いた。瞬間、凌ノ井の喉を掴む力が緩み、落下する。<悪食>が食らいつき、そして最後に、鋸桐が叫び声をあげながら突撃してきた。
「どォォリャァァァァァ――――――ッ!!」
「あっ、バカ!!」
メリケンサックを握った拳が、<違崎>の身体を吹き飛ばす。だがその方向がまずかった。凌ノ井は思わず叫ぶが、間に合わない。吹き飛んだ<違崎>の身体はゴムボールのように跳ねて、弓を持った少女の、沫倉綾見の足元に転がった。
「ぬおっ! いかん!」
慌てた声をあげるが、もう遅い。<違崎>は立ち上がり、次の標的を目の前の少女に定めていた。
「捕まえたぞ!!」
これまでと同様、<違崎>は綾見の喉元を掴み上げる。
「さぁ、恐怖し、絶望しろ! 俺の為に許しを請え!」
「それが、あなたの望みなの」
恐怖を感じることも、絶望を垣間見ることもなく、沫倉綾見の反応は淡々としたものだった。
「そうだ! 貴様のような女を叩き伏せ、屈服させる! 征服欲だ! だがそれだけじゃない! 俺は、俺の抱いたすべての欲望を叶える!」
「無理だよ」
綾見の声はどこかぼんやりとしながら、荒涼さをもはらんでいる。彼女はもう一度寂しげに『無理だよ』と呟いた。
「あなたは大事なことを忘れている。欲望は、すべてが叶うわけじゃないんだ」
「なんだと、バカな……!」
「あなただって、今までたくさんの悪夢を紡いできたでしょう。人間が自分の欲望を蔑ろにされ、それでもなお希望に縋りつこうとする姿を糧としてきたんでしょう。欲望はね、人を頑固にするんだよ。凝り固まった欲望は解れない。そしてそれが叶わなかった時にも、蔑ろにされた時にも、心の奥底に沈殿していく。それはとても辛いことだけど、とても大切なことなんだよ。欲望は叶えても叶えても新しいものが生まれてくるけど、その欲望がすべて叶うことなんてないから、どこかで打ち止めになってしまうんだ。心の奥底に、その人なりの悲劇を堆積するためにね。あなたは、それを忘れている」
「―――」
朗々と語る綾見の声に、<違崎>はわずかに言葉を失う。そして、その夢魔がさらした隙は、まるで道化のように滑稽で、どこまでも致命的な空白だった。暴走した欲望に歯止めをかけるべく、<違崎恭弥>の背中に、夢魔の刃が突き立てられた。
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