デイドリーム

第十六夜 デイドリーム―欲望のカタチ―

「おつかれ、鷹哉たかや


 執事喫茶スリーピングシープ。いつもの一室に入ると、壁に背中を預けた倉狩くらがりがこちらを見て、軽めの挨拶をした。言動にいつものようなテンションの高さは見られず、コートもところどころ煤けたり破けたりしている。何より折れたらしい右腕を吊っている姿と、笑顔の見られない表情が痛々しい。


「師匠、病本やまもとの奴は」

「命に別状はないけど、とりあえず酷い怪我をして病院」


 狭い室内には、現在動ける極東本部のエージェントが何人か集まっている。どうやら、集まれるメンバーの中では凌ノしののい綾見あやみが最後であったようだ。倉狩のように立ったまま背中に壁を預けるもの、地べたに座り込むもの、行儀よく椅子に座るものなどさまざまだが、凌ノ井と綾見の姿を認めると、それぞれ軽く手を挙げるなどの挨拶をしてくる。

 ヒュプノス極東本部の本部長である棺木ひつぎは、全員分のお茶を注いだ後、改めてぐるりと見回した。


「事態は現在、想定外の方向へと展開しています。いったん、皆さまに押収していただいた夢現境会むげんきょうかいの資料をもとに、状況の再整理をしてみましょう」


 急を要する事態ではあるが、棺木の言葉はいくらか落ち着いていた。


「夢現境会の会長、違崎ちがさき恭弥きょうやとその夢魔に何があったのか。まず、護送車の中で何が起こったのか、倉狩様にもう一度説明していただきたいのですが。よろしいですね?」

「うん、任せて」


 腕を吊ったまま頷く倉狩の小柄な身体に、その場の一同の注目が集まる。


「まず、鷹哉から違崎恭弥の身柄を引き継いだあたしと千羽朗せんばろうは、彼を専用の護送車で岐阜からこの東京の本部を目指したのね」


 彼女が説明を開始すると同時に、壁の一部が左右に開いて大きなディスプレイが出現する。そこに映し出された地図に、おそらく倉狩たちが使用したと思われる自動車道がマーキングされていた。


「護送車はこの極東本部で使用しているもの。レベル4夢魔を扱うエージェントが暴走した時の為に用意されているアレね。外部への精神干渉をシャットする特殊機構が用いられている奴」


 運転は病本、違崎の監視は倉狩が行ったという。倉狩は後部座席で違崎と共に座っていた。

 異変が発生したのは大月を通り過ぎたあたりだ。


「まぁ黙っているのも気まずかったし、あたしは違崎と会話をしてたのよ。たまに千羽朗も交えたりして。内容は録音されてるはずだけど、まあ他愛のない話よね」

「奴の悪事について突っ込んでみたりはしなかったのか」


 同席しているエージェントの中からそんな声があがる。


「まーねぇ。一応してみたんだけど、暖簾に腕押し糠に釘よ。で、途中で違崎はこう聞いてきたのよ。『私はこれからどうなるのでしょうか』って。答えづらい質問よねぇ」


 その場には、わずかに気まずい沈黙が流れる。


 違崎が生きていた場合、どうなったか。おそらくヒュプノス本部の地下に長い間幽閉されることになったはずだ。棺木が関係機関に手を回して、違崎自身は行方不明になった扱いとして、表側で処理される。レベル4夢魔と契約した人間の処分には、ヒュプノスも困っているくらいだ。


「正直に答えたの?」

「言葉を濁したわ」


 綾見の質問に、倉狩はかぶりを振る。


「でもまぁ、その後よ。違崎が顔をあげて、『では契約を完遂しましょう』って言ったの。違崎の夢魔は、その言葉をきっかけにして、あいつの精神を貪り始めた。違崎は笑っていたわ」


 ここで凌ノ井は、綾見にもう一度説明をしてやる。

 凌ノ井がMPと呼ぶ概念がある。エクソシストエージェントが夢魔に食わせてやる精神力の一種だ。いわば、〝精神の肉体〟と呼ぶべき精神体マナス、〝精神の脳〟と呼ぶべき高我エゴがあって、その2つを繋ぐ〝精神の血液〟がMPだ。人によって呼び方は異なる。凌ノ井がわかりやすくMPと呼んでいるだけだ。


 MPが尽きると、この2つの繋がりが失われ、精神的な死に至る。

 その人物の人格を形成しているのは主に高我エゴであり、これが消滅するのだ。精神的な脳死に近い状態となる。


 綾見は、倉狩の言葉と凌ノ井の言葉を、どちらも真剣に聞いて頷いていた。


「止められなかったの?」


 綾見が尋ねると、倉狩はかぶりを振る。


「こちらから、違崎の夢魔に干渉する方法はないもの。それこそ夢の中に入るくらいじゃないと。悔しいけど、見てるしかなかったわ」

「そうなんだ」


 こうして、違崎恭弥は自殺にも近い形で死亡した。倉狩は護送車を停めず、棺木に連絡を取った。

 違崎が死亡しても、護送車の中に夢魔が閉じ込められている形だ。これを逃がすわけにはいかない。ひとまず判断を仰ぐための連絡だったが、その直後に信じられないことが起こった。


「死んだはずの違崎恭弥が目を覚ました、というわけですね」


 倉狩は頷く。


 目を覚ました違崎は、それまで浮かべていた穏やかな笑みから、表情を一変させていた。電話をかけていた倉狩に襲い掛かり、気絶させた。その後のことは倉狩にもわからないわけだが、おそらく状況から判断するに、彼は気絶した倉狩の身体から手錠の鍵を奪い、さらに運転席の病本にも襲い掛かった。

 結果、護送車は横転して、病本と倉狩は怪我を負った。その後、違崎は逃走。というわけだ。


「棺木」


 凌ノ井は話が一通り終わったあと、尋ねる。


「おまえ、違崎の身体を夢魔が奪ったって言ってたけど、そんなこと本当に可能なのか? <悪食>に聞いても知らねぇって言ってるんだが」

『はい。知らねぇって言いました』

「我々も実証実験を行ったわけではございませんが」


 棺木は手元の資料を確認しながら答える。


「今までに夢現境会の各支部から押収された資料を読むに、可能性は高いでしょう。ここには6人のエクソシストエージェントの方がおり、まぁ、6人の夢魔の方がこのお話を聞いていらっしゃるわけですが……」


 棺木は改めて、ぐるりと部屋の中を見回す。


「夢魔が人間の身体を乗っ取るのに邪魔なのは、高我エゴだけであるそうでございます。逆にそれさえなくなってしまえば、夢魔は自分自身の高我エゴで人間を操ることが可能になる」

『棺木さん棺木さん、それって、精神体マナスはそっくりそのまま夢魔のものになるってことでしょうか』

「はい、<悪食>さま。精神体マナスに蓄積された知識や経験などは、そのまま乗っ取った夢魔の精神体マナスに吸収されます。夢魔の方にとっては、単純な自身のアップグレードを行い、物質世界で行動するためのハードウェアを入手する、手っ取り早い手段、というわけですね」

『なるほど……』


 何やら妙に納得した様子の<悪食>の声を聞いて、凌ノ井は虚空を睨みつけるハメになる。


「おい<悪食>てめぇ」

『いやいやマスター。そんな不遜なこと考えてはいませんよ。確かに、肉体の無い私はカレーを食べることも味わうこともできませんけどね。だいたい、マスターの許可なしにMPはいただけませんからね』


 棺木の説明は、いったんここで終了する。


 だが、夢現境会という組織の目的が、ここにきてようやく見えてきた。これこそが連中のもくろんでいることだとするのならば、ひとまずの筋は通る。彼らは人間の精神を夢魔に食わせ、その身体を夢魔に与えることを目的に活動していたのだ。

 それが果たして彼らにとってどのような得があったのか。さすがにそこまでは理解が及ばない。だが、少なくとも違崎の行動を見る限り、彼は自身の損得勘定の為に動いていたわけではない。


「より高次元の生命体にアセンションする、って、こういうことだったんだね」


 綾見がぽつりと呟く。


「魂をひとつにする、とかも。自分自身の意識は消滅するけど、少なくとも精神体マナスの蓄積された経験や知識は、夢魔の中でひとつに吸収されていく。って考え方なのかも」

「ロクな考えじゃねぇな」


 凌ノ井は吐き捨てた。


「さて、」


 棺木は改めて話を再開する。


「あの夢魔を、暫定的に<違崎恭弥>と呼ぶことにいたしましょう。現在、<違崎>は都内で姿を確認されています。人間の肉体を持っているとはいえ、レベル4夢魔でございますから、かなり厄介な存在です。既に何人かのエクソシストエージェントには、捜索を開始していただいております」


 この場には、鋸桐のこぎり絶脇たてわきといったリアル武闘派の姿が見当たらない。おそらくはそういうことなのだろう。


「皆さまには申し訳ございませんが、引き続き、<違崎>の捜索を続行していただきたい」

「それは良いが、<違崎>が違崎恭弥の肉体を捨てて、精神体として逃走する可能性はないのか?」

「これも申し訳ございませんが、現時点でははっきりしたことは申し上げられません」


 エクソシストエージェントの1人から浮かんだ質問に、棺木は小さく頭を下げて謝罪した。


「肉体を得た夢魔が、その肉体を捨てて離脱できなくなる。という可能性は、確かに十分ございます。ですが、わたくしもまだ資料をすべて確認しきれたわけではございませんので……」

「ひとまず<違崎>を見つけてトッ捕まえるしかないってわけか……」


 なにぶん、これは初めてのケースなのだ。肉体を得た夢魔、という存在がどれだけの特殊能力を発揮するのかさえも、今はまだわからない。


「棺木のにーちゃん、オレは? オレはどーすればいい?」


 そう言って手を挙げたのは、エクソシストエージェント最年少の憑内つけない隼太しゅんただ。小学生の彼にだけは、紅茶ではなくオレンジジュースが注がれている。

 確かに、大の大人を捕まえるというのは、小学生には少々荷の勝ちすぎるミッションだ。棺木はにこりと笑って言った。


「憑内様は、まずお母様の言いつけをきちんと守って塾に行かれると良いでしょう。その後、怨堂えんどう様とご一緒に護衛対象に監視を」

「まだ監視する必要ある?」

「少なくとも、<違崎>を捕らえるまではお願いいたします」

「へーい」


 憑内はランドセルを背負いなおして、手をひらひらと振る。


「他の方からご質問などありませんでしょうか。そのようでしたら、皆さま、引き続きご協力をお願いいたします」


 棺木の言葉に、挙手する者の姿はない。注がれた紅茶のカップが空になった者から、ぞろぞろと部屋を出ていく。最後に倉狩鍔芽つばめがちらりと凌ノ井を見たが、凌ノ井は軽く手を挙げるだけで彼女を見送った。

 最終的に、部屋の中には棺木と凌ノ井、そして綾見が残る形になる。


「おや、凌ノ井様。どうなされましたか?」

「いやな、棺木。ちょっと他の面子の前じゃ言いづらい相談があってよ」

「お伺いしましょう」


 棺木はテーブル上の資料を集めながら、嫌な顔ひとつせずににこりと笑う。


「<真昼の暗黒>のことなんだけど」


 横から綾見が口を突っ込んでくる。棺木はぴくりと動きをとめ、表情を正す。


「私と凌ノ井さんで、私の生まれた病院を調べてきたんだけど、お母さんのことをちゃんと覚えている人がほとんどいなかったんだ。それに、田中たなかの時や、凌ノ井さんの恋人――一之宮いちのみやさんの時と違って、きちんと病院に収容されていたにも関わらず、ヒュプノスに記録が残っていなかった」

「どっかで情報を差し止めてる奴がいた」

「ふむ」


 棺木は両目を閉じて頷く。


「お二人は、組織内の内通者の存在を疑っていらっしゃる?」

「端的に言えばそうだ。あと、おまえを頼らざるを得ないから相談してるが、ぶっちゃけお前のこともちょっとだけ疑っている」

「なるほど」


 棺木は、表情を緊張させるどころか、むしろ少しだけ苦笑いを浮かべた。


 そう。ヒュプノス内部に内通者を疑うなら、まず棺木は間違いなく筆頭に挙がる。それだけのことができる立場にいるし、先代棺木の死後、急に頭角を見せてきたという点も不自然だ。今まで凌ノ井も綾見も口にはしなかったが、少なくとも内通者のことを考えた時、まっさきに棺木の顔が浮かんだのは確かである。


「信じて頂ける証拠もありませんから、弁明のしようもございませんね。ですがその上でわたくしに相談されたということは、何か調べて欲しいことがある、というわけでございましょう?」

「まぁ、ぶっちゃけなぁ」


 凌ノ井は頭を掻く。仮に内通者でなかったとしても、実に頼みにくい内容ではある。

 だが、言葉に詰まる凌ノ井とは対照的に、綾見はずばりと言ってのけた。


「差し止められた情報のことを調べて欲しい。病院か、ヒュプノスか。そのどちらの、どこで情報が止められたのか。過去の情報をすべて洗ってほしいんだけど。できるかな」

「できるか、とおっしゃられましても」


 棺木は苦笑いを浮かべたまま、大量の資料の束に視線を落とす。


「できない、とは申し上げないことにしている身の上でございますので。承りましたと答えましょう」

「ありがとう」

「お安い御用でございます。沫倉まつくら様」


 慇懃な態度の本部長は、いつものように慇懃な態度で敬礼をした。

 既に今回の件で大量の仕事を抱えている棺木にこれ以上大変な調査を押し付けるのは気が引けるところだったのだが、綾見はあっさりとそれを言ってのけた。今度は凌ノ井が苦笑いをする分である。


「沫倉ちゃん、案外グイグイ行くのな……」

「まずかったかな」

「いや、頼もしくて助かるよ」


 正直な感想を伝えると、綾見は控えめに鼻を鳴らす。

 力になりたい、と言っていた先日の宣言、その覚悟の先走りなのかもしれない。正直なところ、凌ノ井にはそこまで誰かに協力を申し出られたことがないので、戸惑いと小さなムズ痒さがあった。


 そのムズ痒さを誤魔化すために懐から一本の煙草を取り出すと、脇に立っていた綾見が素早く、その一本をかすめ取る。


「凌ノ井さん、禁煙」

「あ、はい」




 鮮やかな世界は、頭がくらくらするほどだった。

 賑やかな世界は、まるで目眩がするほどだった。

 匂いたつ世界は、魂が抜け落ちるほどだった。


 なるほど、肉体を持つとは、五感を持つとはこういうことか。

<違崎恭弥>はいま、スクランブル交差点の真ん中で、灰色の空を見上げていた。いそいそと歩く人々の肩が、こちらの身体にぶつかっていく。聞こえよがしに打たれる舌打ちすらも、耳に心地よい。雑多で猥雑な喧しさ、排気ガスの悪臭でさえ、今の彼にとっては新鮮な刺激であった。


「(これだけ刺激のある世界であれば、人間が〝欲望〟を抱くのも仕方がない)」


 心の底からそう思い、同時に今は亡き違崎恭弥がどれだけ奇特な人間であったのかを実感する。

 いや。<違崎>は笑い、かぶりを振った。


 あれはただ死んだわけではない。少なくとも本人は死んだと思っていないはずだ。彼の知識や経験といったものは、すべて精神体マナスに蓄積され、<違崎>の中で息づいている。今ならばはっきりわかる。違崎がどれだけ無私に、自分たち夢魔のことを考えてのかを。今や、<違崎>こそが違崎だ。


 そうだ、飯を食おう。


<違崎>の心の中に、不意に衝動が芽生えた。

 これまで彼は、人間の味覚を通して何かを味わったという経験がない。以前の彼に届いていた食事の味とは、結局人間の頭の中で処理され、主観化された味だ。フィルターを通していない、剥き出しの〝味〟を、まだ知らない。


 この渋谷の雑踏の中に、既にヒュプノスの職員が紛れ込んでいることに、気づいていないわけではない。彼らはこちらを尾行つけけている。本来であれば姿をくらますのが正しいはずだ。そして、違崎の記憶を頼りに夢現境会の残党と合流する。人間・違崎恭弥の理想が体現されたことを、夢魔<違崎恭弥>の口から語るべきなのだ。


 だが、彼は心中に生まれて初めて芽生えた感情には抗いがたかった。

 この感情が今まで自分が糧とし貪ってきたもの。すなわち〝欲望〟であることを、<違崎>はよく知っていた。


 自分自身の〝欲望〟の、なんと甘美なことだろうか!


 自分自身の〝欲望〟を、自分自身で叶える。それは、人間の本能と夢魔の本能が混じり合い、強烈な欲求となって<違崎>の中を渦巻いていた。ただ食事を摂り腹を満たすというその行為だけであっても、心の中で猛り狂う熱量は凄まじい。


 あてどもなくふらふら彷徨っていると、排気ガスの悪臭に交じって空腹をくすぐる香ばしい匂いが漂ってくる。<違崎>は、口元に微笑を浮かべ、ふらふらと移動を開始した。その中でひときわ良い香りを放っていた店に見当をつけると、その前で看板を確認する。


「……ふむ」


 ここにするか。


 決まれば、店内に入るのに躊躇は必要なかった。既に背後から追い掛けてくる無粋な人影の存在など、一切気に入らない。悠遊店内へ入り、<違崎>は好きな席へと着く。なんとなく、美しいと感じた女性の近くの席が良かった。


 女性と軽い会釈を交わすと、彼はそのまま、メニュー表を広げた。




 渋谷区で違崎恭弥によく似た男が発見された。


 連絡を受けた時点で、現地に一番近かったのは鋸桐雁之丞がんのすけと絶脇獅ヅ琉しづるである。鋸桐のサイドカーで移動していた2人は、顔を見合わせ、視線だけで意思疎通を済ませる。鋸桐はすぐさま、進路を渋谷方面へと変更した。


「……どうやら、カレー屋に入ったらしいな」


 絶脇が、無理して作った渋い声でぼそりと呟く。鋸桐は、ヘルメットの中でその巌のような顔面を大きく歪める。


「解せん話だのう。夢魔が人間の食事を摂るということか?」

「それ以上に、逃走中にもかかわらず都内でのんびりしているのも妙な話だ」


 宮益坂を一気に下り、高架線下を潜り抜ける。そのあたりで、またヒュプノス職員から連絡が入る。運転中の鋸桐は携帯を取れないので、先ほど動揺、絶脇が対応する。


「わた――拙者である」

『絶脇さん、<違崎>が移動を開始しました』

「む、承知いたした。次の移動先は――」


 ヒュプノス職員は、神妙な声でこう答えた。


『ゲームセンターです』

「へ?」


 思わず間抜けな声を出し、(キャラ付けの一環で)閉じっぱなしにしていた両目を開いてしまう絶脇。鋸桐の視線に気づき、すぐに顔を真っ赤にして我に帰る。


『妙な話なんです。カレー屋でも、隣の席の女性と談笑して、普通に食事だけして、代金も支払って出ていきました。姿かたちは似てるんですが、あれが本当に<違崎>なのかは、こちらでも自信がなくなってきている次第でして……』

「い、委細承知いたした。鋸桐にも伝えておく」


 携帯を切って、その後職員から送られてきた位置情報を鋸桐にも伝える。


「ど、どう思う。鋸桐」

「解せんのう」


 鋸桐は巌のような顔を歪めたまま、そう答えるだけだ。


「どうにも解せん。解せん話ばかりじゃ。が、どのみちその男に会えばはっきりするわい。<違崎>なら捕まえる。そうでないなら放置じゃ」

「しかし、現時点では悪いこともしていないし」

「しとるじゃろ。レベル4じゃぞ。違崎恭弥を含めて最低でも2人は殺しとる」

「あ、そっか……」


 やがてサイドカーは連絡にあったゲームセンター前へと到着する。困惑した表情のヒュプノス職員が数人おり、彼らの指し示す先には1人でクレーンゲームに興じる、違崎恭弥によく似た男の姿があった。確かにあれが本当に<違崎>なのかは、はた目にはわからない。


「というか、夢魔の気配がしない……」

「うむ。そう、じゃのう……」


 呟く絶脇の言葉に、頷く鋸桐。


 しかし、人間の肉体を乗っ取った夢魔、という存在自体が既にイレギュラーだ。ここで判断するのは早計である。鋸桐はヘルメットを外し、愛車のハンドルバーに引っかけた。首をこきりこきりと鳴らしながら、<違崎>と思しき男に近づいていく。


「あっ……! ちょっと、鋸桐さん……!」


 後ろから、慌てて絶脇もついてきた。着流し姿の彼女の姿は、この渋谷だとかなり浮いている。自然、注目が集まった。


「ヒュプノスか」


 クレーンゲームの操作を続けながら、振り返ることなく男は言った。


「ほうじゃ。お前さんが、<違崎恭弥>……。夢魔、で、ええんかのう」

「そうだ。だが少し待て。せめてこれくらいは取らせろ」


 何を取ろうとしているのかと思えば、ラッコのような形状をしたやけに不気味で薄気味悪いマスコットキャラクターのぬいぐるみである。胸のあたりには桜の花のようなマークがついていた。おおよそ欲しがる人間のセンスを疑うシロモノではあるが、<違崎>は真剣そのものだ。


 鋸桐は、背後のヒュプノス職員たちに目配せをする。人払いをさせる必要があった。渋谷のど真ん中では難しいが、せめてこのビルの中と、周辺十数メートルくらいは無人状態にしておきたい。職員たちは鋸桐の意図をくみ取ったのか、頷いて散っていく。


「どうして逃げんかったんじゃ。儂らなんぞ相手にならん、っちゅうことか?」

「当然それもある」


 ガラスケースの向こう側で、クレーンアームがぬいぐるみを持ち上げる。が、つるりとそれはアームの間から滑り落ちた。<違崎>は懐から小銭入れを取り出して、100円玉を投入した。


「しかしもっと正確な理由を言えば、抗いがたかったのだ。この世界はすばらしい刺激に満ちている」

「刺激?」

「体内に夢魔を飼っているエクソシストエージェントと言っても、これは知るまい。俺たち夢魔の見る世界というものは、お前たち人間が見る世界より幾らか乾いている。結局、お前たちが見聞きした情報を、伝聞という形で摂取しているに過ぎないからだ。ところで小銭が尽きた。両替機はどこだ」

「………」


 絶脇が無言でずずいと前に出ると、懐から小銭入れを取り出し、大量の100円玉を<違崎>の前に積み上げる。<違崎>は100円玉の枚数を確認すると、財布から取り出した千円札を3枚、彼女へと手渡す。絶脇はそれをひったくるようにして受け取ると、また鋸桐の横に戻ってきた。


「絶脇……。お前さん、なんで小銭を三千円分も持っとるんじゃ……」

「100円玉と500円玉は常に多めに持ち歩いているだけだ」


<違崎>はその後も、悪趣味で気持ち悪いぬいぐるみを取ろうと悪戦苦闘を続けていたが、最終的にはしびれを切らした絶脇の的確なアドバイスで、とうとう1つを取り出し口へと落とすことに成功した。


「見ろ」


 出てきたぬいぐるみを高く掲げ、<違崎>は笑う。


「いや、見ろと言って見えるものではないか。この胸の奥底から湧き上がる感情。欲望を達成するというのは、例えそれが小さなものであっても燃え上がるものなのだ。その魅力には、この俺であっても抗いがたい」


 目の前の夢魔の言葉の意味を、鋸桐は考えないようにした。深読みすることは幾らでもできるし、心中を察そうと思えばそうすることもできる。だが、そんな試みは現状で何の役にも立ちはしない。彼の心の中に暮らす夢魔もまた、鋸桐の冷徹な判断に賛同を示していた。


 彼は巌のような肉体をずずいと動かし、呟く。


「じゃがここまでじゃ。申し訳ないがのう」


 図らずも<違崎>が悪戦していたおかげで、ヒュプノス職員による人払いは済んでいた。ゲームセンターの従業員や客たちは裏口から逃がされ、周囲十数メートルが封鎖される。おおかた、<違崎>が脱獄中の極悪殺人犯とでも説明したのかもしれない。いつの間にか、警察も来ていた。


 この状態なら、いくらか暴れたとしても無理やり<違崎>を抑えつけることは、可能だ。絶脇も、柄に『日光江戸村』と書かれた愛用の木刀を手にしている。

 だが、<違崎>は余裕の態度を崩さない。


「俺は貴様の問いにこう答えなかったか? 貴様たちなど相手にならん、と」


 脇にぬいぐるみを抱えたまま、<違崎>はもう片方の手を掲げた。


「だが、貴様の精神攻撃で崩せるほど拙者たちは……」

「なるほど、勉強不足だな」


 絶脇の言葉を遮る。緊張に空気が張り詰めるのがわかった。


「我々が人間の肉体を得るということがどういう意味か。まだ完全に把握していないと見る」


 鋸桐は唇を噛んだ。現時点で棺木が見落としていた〝何か〟が、まだ敵側にはある、ということなのか。

 だが、結局のところ彼らは、ここで<違崎>が語る言葉の意味を、身をもって知ることとなる。


「では教えてやろう。夢とうつつの境界線というものを」


 ぞわり、という背筋の粟立つ感覚。それは、本来物質世界こちらがわにあってはならないものが、ゆっくりと這い出して来る音に他ならなかった。

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