第十五夜 違崎恭弥―歩き始めた欲望―

 結局、凌ノ井しののい綾見あやみは取調室で一夜を明かした。違崎ちがさきにとり憑いたレベル4夢魔のことを考えれば、むやみにここを離れるわけにもいかない。護送の準備が整うまでは、こちらの行動も縛られているようなものだ。


「違崎に憑いてる夢魔って、どのくらい強いんだろうね」


 天井を見上げながら、綾見はぼんやりと呟いた。


「レベル4っていっても、ピンキリなんだよね」

「そうだなぁ」


 同じように天井を見上げながら、凌ノ井も煙草をくわえている。


「<悪食>さんくらい強い?」

『戦ってみないと、なんとも言えませんよねぇ』


 違崎の夢魔は、現時点で他者に干渉する気配を見せていない。この静けさが、かえって不気味ではあった。

 留置された違崎には、ヒュプノス職員や凌ノ井によって何度か尋問が行われた。何を考えて夢魔と接触し、人間に夢魔を取り憑かせたのか。あっさりとっ捕まった理由は何か。行動目的をはっきりさせようという目論見ではあったのだが、結局違崎の口から語られるのは観念的な話ばかりで、雲を掴むような結果に終わっている。


 綾見は、珍しく違崎に対して強い敵意と不快感を抱いていて、尋問には同席しようとしなかった。曰く、『顔を見ればひっぱたきたくなるから』らしい。


 違崎は捕まえたが、結局それ以上の進展はない。彼を捕まえたことによって、夢現境会の活動が停止するのかどうかも、現時点では定かではない。一応の解決を見せたはずのこの件に、妙なしこりが残っている理由はそこにある。


「違崎はこれからどうなるの?」

「昨日も言っただろ。本部に護送されて、そこでいろいろな検査や尋問を受けるんだよ。ただ、違崎に憑いている夢魔がどういう処分をされるのかまでは、まあわからん」

「夢魔にも処分が下ることってあるんだ」

「まぁ、なぁ……」


 そこで、凌ノ井はやたらと苦い顔になる。


「どうしたの?」

「ん、いやな。夢魔の処分っていうのは難しいんだよ。精神生命体だからな」

『ただ殺処分するにしても労力が要りますからね。レベル4ともなれば、なおさらです』


 夢魔を殺せるのは、現時点では同じ夢魔を操るエクソシストエージェントのみだ。

 もちろん、レベル3以下であればいくらでもやりようがある。レベル3以下の夢魔は宿主の精神を離れることができないから、例えば宿主を殺してしまえば夢魔も死ぬ。例えばヒュプノスのエクソシストエージェントが暴走し、夢魔の力を悪用しようとしたことが発覚すれば、場合によってはそのエクソシストエージェントごと、夢魔が殺処分される。


「……あれ」


 その説明を受けて、綾見は首を傾げた。


「じゃあ、凌ノ井さんが暴走したときはどうするの」

「つまりそこだ」


 凌ノ井は、ふーっと紫煙を吐き出して、綾見を見る。


「レベル4の夢魔は、宿主が死んでもその精神を離れて、また新たな宿主を探すことができる。俺が暴走するなり、<悪食>が暴走するなりした場合、いまのヒュプノスの力では俺を殺せても<悪食>を殺せないんだよ」

『厳密に言えば、やはりエクソシストエージェントの力で私を倒すことは可能ですが、あくまでも理論上の話ですよね。力の差は歴然ですから』

「じゃあ危険なんだね」

「危険なんだよ。レベル3とレベル4の夢魔の間にはそれくらいの隔たりがあるわけだな」


 ヒュプノスに所属するレベル4持ちのエクソシストエージェントは、凌ノ井鷹哉たかやを含めて3人。彼らが暴走した際のマニュアルは、きちんと用意されている。極東本部の施設には、夢魔のような精神体でも通り抜けることのできない特殊な隔離設備があり、例えば凌ノ井がヒュプノスへの翻意を見せた場合、そこに投獄されるようになっている。


「多分だが、違崎もその隔離設備に投獄されることになると思うぜ」


 さらに言えば、今回違崎を護送する車両にも、同じ設備が用意されているはずだ。レベル4による精神攻撃を遮断する設備。それだ。


「でも、同じレベル4なら凌ノ井さんが退治できたりはしない?」

「わかんねーな。できるかもしれねぇが、分が良いとは言えない。負けることはないと思うんだが、勝てるかどうかは微妙だ」

『そうですね。例えば、リミットを無視して相打ち覚悟ならたぶん倒せますよ。ですが、マスターの安全を確保しつつ、かつ向こう側がなりふり構わず戦って来たら、難しいんじゃないでしょうか』

「そっか」


 どうやら綾見は、その言葉を最後に納得をしたらしかった。


 それからしばらくの間、また2人はぼんやりと過ごす。ヒュプノスから護送車に乗ったエージェントが到着したのは、それから1時間後のことであった。




「いやっほう! おっつかれぇ!」


 倉狩くらがり鍔芽つばめが元気な声で敬礼ポーズを取る。綾見もぼんやりした顔で敬礼を返し、凌ノ井はひらひらと手を振った。


「護送担当って、師匠かよ」

「おぉっと? なにその顔は。不満? あたしじゃ無理だろーって? 言うねぇ鷹哉たかや

「そこまで言っちゃいないんだが」


 視線をずらすと、運転席で病本やまもとが苦笑いを浮かべている。


「もちろんあたしたちは護送が目的だけど、一応、助っ人要員でもあるわけよ。ほら、こっちの夢現境会で夢魔憑きが数十人見つかったって言ってたでしょ? 先にそっちを済ませておこうってなってね」

「……ああ」


 忘れていたわけではない。むしろ、これから大量の夢魔退治をやらねばならないのかと思って、少しばかり気が滅入っていたところだ。確かにこの増援はありがたい。


「しかし時間外労働だよなぁ。ボーナス出るのか?」

「あー、出るって言ってたわよ。ちゃんと手当はつけるって」


 現時点で、重症の夢魔憑き患者はいない。それでも3人で数十人の夢魔憑きに対処するのだから、骨の折れる作業であることには変わりがなかった。


「一応、他の夢現境会支部でも何人か患者が見つかってたわ。もちろんあたし達が対応した大阪でもね。みんな、夢の内容はある程度画一化されてたから、1回1回はそんなに難しくもなかったんだけど、まぁ当たり前のように。疲れたわ。はいこれ資料」

「おう。ありがとよ」


 凌ノ井が手渡された紙束を確認し、横から綾見がそれを覗き込む。


 これまでに保護された夢魔憑き患者の進行状況は、いずれもレベル2。欲望は承認欲求や家族との不仲に端を発しているものが多かった。


「意外と普通だな。『高次元体と接触したい』とか『高い次元へアセンションしたい』とか、そういうイッちゃった連中がたくさんいると思ってたんだが」

「そういう人たちは幹部側でしたね。違崎の指示で直接動いていたようでした」


 護送車の運転席から降りてきた病本が言う。


 強い欲望を持つ人間に夢魔を取り憑かせ、熱心な信者にはその作業のアシストを任せていたわけだ。結局、こうやって夢魔を人間に憑かせて何がしたいのかは不透明なままだが、患者を放っておくわけにもいかない。


「とりあえず了解だ。これから3人で手分けして、見つかった夢魔憑きの対処に回るってことで良いんだな」

「そうねー。しんどい仕事だけど、早めに終わらせちゃおう」


 資料を再確認しながら、倉狩の言葉はあくまでも気楽なものだ。


「んでさ、鷹哉。この仕事終わったら、あとは自由で良いって棺木ひつぎくんが」

「んあ?」


 思わず間抜けな声で聴き返してしまう。


「どういうことだ?」

「鷹哉の仕事は、夢魔憑きの処置まで。護送はあたしと千羽朗がやるってこと。用があるなら済ませとけってことじゃない?」


 そう言って、倉狩は凌ノ井の胸ポケットに、そっと1枚の紙を丸めて突っ込んできた。


 彼女が何を言っているのかはわかる。<真昼の暗黒>の足取りについてだ。夢現境会から押収された資料に、かの夢魔が最後に消息を絶った病院の存在がわかっている。最後の犠牲者となった女性、沫倉まつくら綾那あやなの名前もだ。

 確かに時間が余ればついでに調べておきたいとは思っていたが、そこに便宜を図ってくれるということらしい。これが棺木の提案なのか、あるいは倉狩の進言によるものなのかは、わからないが。


「……わかった。ありがとよ、師匠」

「うんうん。たまにはそういう、素直なところも見してくれると、嬉しいねぇ」


 白い歯を見せて、思いっきり嬉しそうに笑う倉狩。

 一方綾見は、この会話の意味がわかっていないので、不思議そうに首を傾げていた。


 結局その日は、丸一日使って夢魔憑きの対処に明け暮れることとなる。その間、違崎は護送車の中に放り込まれたままであったのだが、あまり同情の余地はないだろう。夢魔対処には大きなトラブルも発生せず、数十人の被害者はみな無事であった。

 これだけの夢魔を、違崎がどのようにして調達したのかは謎のままだが、それに関してもこれから明らかにしていくべきところだろう。夢現境会自体が、氷山の一角ということも十分にあり得る。


 凌ノ井たちは、その夜は警察署内の取調室ではなく、ヒュプノスの用意した旅館に一泊し、のびのびと夜を明かした。

 倉狩と病本が、違崎を乗せた車で岐阜を発ったのは、その翌朝のことである。




「凌ノ井さん、これからどうするの?」


 倉狩たちを見送ったあと、綾見は凌ノ井を見上げて尋ねた。


「岐阜観光? だったら私、飛騨高山に行きたい」

「渋いなぁ沫倉ちゃん」


 短くなった煙草を携帯灰皿に押し付けて、凌ノ井は苦笑いを浮かべる。


「俺は野暮用を片付けてくる。別に高山だろうが白川郷だろうが、その間は観光しててもらって構わないんだが」

「じゃあ、私もそっちに行く」

「う」


 言われると思ったのだが、あまり言って欲しくはなかった。


 凌ノ井がこれから向かうのは、県内にある某総合病院だ。<真昼の暗黒>が最後に存在を確認された場所であり、沫倉綾見が産まれた場所でもある。が、綾見はそのことを知らない。凌ノ井の恋人・一之宮いちのみやすずめの仇である<真昼の暗黒>が、そのまま綾見の母親の仇であることも、凌ノ井は話していないのだ。


「どうせついて来ても退屈な場所だぞ、沫倉ちゃん」

「うん。そうだとは思うんだけど」


 そこを否定してこないのが、綾見のやりにくいところなのだ。


「でも、凌ノ井さんの野暮用には興味がある。もちろん、迷惑でなければの話だけど」


 きっぱり言われてしまうと、こちらから『迷惑だ』とは言いにくいところがある。

 なにしろ、綾見を遠ざけたいのはまるきり凌ノ井の勝手なのだ。


 すると、頭の片隅で『くすくす』と笑う声が聞こえた。


『ついて来てもらえばいいのではないですか? マスター』

「おまえは簡単にそう言うけどさぁ」

『綾見さんは良い子ですし、マスターが隠し事に向いているとも思いません。こういうのは包み隠さず言ってしまった方が、お互いの為ですよ』


 ちらりと綾見の方を見ると、彼女はじっと凌ノ井の顔を見上げてくる。

 ぼんやりとした鉄面皮。ぱちりとした大きな瞳は、暗い闇を見通しているかのように底が見えてこない。


 こちらをじっと見つめたまま、綾見は言った。


「凌ノ井さん。私はね」

「お、おう」

「凌ノ井さん。私はね、できることなら凌ノ井さんの力になりたいと思っている」


 いつものような、地に足のつかないふわふわとした口調。抑揚のない平坦な声音。だが、それでも地中深くに根付いた鋼のような意思を感じ取れる程度には、凌ノ井と綾見の付き合いは長いものになりつつあった。


「凌ノ井さんは私に弱みを見せないからね。たまに、すごく不安になる時がある。苦しみをわかってあげられるほど器用な性格ではないし、傷を癒してあげられるほど傲慢ではないんだけど、凌ノ井さんが私に内緒で色んなことをしたり、隠し事をしているのは、少し心苦しい」


 すらすらと澱みなく、綾見は喋る。まだ続きがあった。


「この間、高木たかぎと一緒に夢現境会の支部に潜入したとき、凌ノ井さんは私を叱ったけれど。あれはあれで嬉しかった」

「そ、そうか?」

「うん。ちゃんと叱るべきところでは叱って欲しいし、頼れるところでは頼って欲しいと思っている。私は知識も経験も浅いけど、それでも凌ノ井さんの力になれることはあると思うんだけど、どうだろうか」


 その長セリフを吐く間、綾見の視線はまったくブレなかった。焦点を凌ノ井の顔に合わせ、最初から最後まで一気にまくしたてた。凌ノ井は額を掻き、空を仰ぐ。


「つまり……。その、なんだ。沫倉ちゃんは、……どうしたいって?」

「凌ノ井さんにきちんと信頼されるようになるのが当面の目標ではある」

「そうか……」


 ふう、とため息をつく。


「信頼はしてるよ。信用もしてる。沫倉ちゃんは大した奴だよ。それは俺が認める」


 まるで愛の告白をされているようなムズ痒さが、肌の上に残っている。だいぶ前に置き去りにしてきた青春の残り香、と、言うには綾見の態度はあまりにも乾いているし、自分は年を取りすぎているが。


「俺の相棒になるにはまだ足りないものもあるけどな。そこまで言うなら、わかったよ」

「うん」

「俺はこれから、半分私的な用件で夢魔の足取りを追う」


 そう言うと、綾見は少し顔を引き締めた。


「雀さんの仇だ」

「そう。そしてだ。今まで黙っていたが、そいつは沫倉ちゃん。おまえさんのお母さんを殺した奴かもしれない」

「………」


 そう告げられてなお、綾見の表情は一切変化しなかった。


「……驚かないの?」

「驚いてはいる」

「そうか」


 ひとまず、凌ノ井は話した。


 夢現境会から押収された資料に、レベル4夢魔<真昼の暗黒>の足取りが書かれていた。ヒュプノスの記録よりもいくらか克明に記されたそれには、当該夢魔が一之宮雀の殺害後、岐阜の某総合病院で沫倉綾那にとり憑いたことが書かれていた。

 綾那は、一人娘の出産と前後して、<真昼の暗黒>によって殺害されている。


「そうなんだ。お母さんが」


 綾見は、少し目を細めて天を仰いだ。


「そういや、初めて沫倉ちゃんの夢の中に入った時、お袋さんの姿があったな」

「ああ、うん。そうだね。よく夢には出てきたかもしれない」

「夢魔が支配する夢の登場人物っていうのは、宿主が強く意識している人間に偏るんだ。だからあの時、俺の姿があって驚いたわけだが」


 あれは、あの時点で綾見が凌ノ井を『友人』と認めていた為だ。その事実にもかなり驚かされたが、こう考えると、夢の中に綾見の母親がいたこと自体、かなりイレギュラーな話だと言わざるを得ない。少なくとも、綾見の記憶の中に母親の存在が介入する余地は、ほとんどなかったはずなのだ。


「うん」


 綾見は空を見上げたまま、短く答え、そして一拍置いてから続けた。


「お母さんの記憶がほとんどない、っていうのは、確かにそうなんだけど。でもまったくないわけじゃないんだ。私、お母さんの声を聞いたことある気がするし」

「声を……」

「うん」


 生まれて間もなくに死んだ母親の声を、克明に記憶しているということなのか。

 凌ノ井は疑問に思ったが、それでも綾見の言葉の続きを待った。


「幸せに生きなさいって、そういうことを言われた気がする。人の悪意に折れない、強い人間として生きなさいって。物心ついたときからずっとそれが心に残っていて、それでまあ、今に至る」

『良い話ですねぇ』


 しみじみと<悪食>が呟いた。


「ま、まぁ、おかげで今の沫倉ちゃんがあると思えば、良い話ではあるんだが……」

「うん。それがお母さんの『欲望』だったとすれば、少し残酷な話かもしれないね」


 綾那はその願いを胸に宿していた頃、すでに<真昼の暗黒>に憑かれていた。

 彼女は悪夢を見せられ、絶望の中で死んだのだろうか。それとも、生まれた我が子の存在に、せめてもの救いを感じて死んだのだろうか。それに関してはもう、察することしかできない。だが結果として、沫倉綾見という少女が産まれ、今のように育った。それは間違いなく、沫倉綾那にとっての救いであるはずだ。


「ともあれ、その辺の事情を探りにいくわけだ。来るか、沫倉ちゃん」

「うん。行く」


 1も2もなく、綾見は頷く。


「ところで、凌ノ井さん」

「ん?」

「私が凌ノ井さんの相棒になるために足りないものって、なんだろう」


 綾見が真剣な顔をして尋ねてくるので、凌ノ井もまた真剣な顔で見つめ返し、こう言った。


「色気だな」

「なるほど」


 大真面目に頷く綾見。


「善処する」

「い、いや、しなくていいよ」


 善処した結果、綾見がどのような色気を身につけるのか。想像するだに天国の母君に申し訳なくなるような気がしたので、凌ノ井は慌てて前言を撤回した。




 件の総合病院は、夢現境会の本部や警察署からも、そう離れていない場所にあった。市内の中央部にある、ごくごく普通の病院だ。凌ノ井はコートを羽織ったまま、昨日倉狩から胸ポケットに押し付けられたものを確認する。


「凌ノ井さん、それ何?」

「偽造身分証」


 とりあえず、院内で以前の話を聞くのに、適切な身分証を用意してくれたということらしい。これは棺木の判断というよりは、やはり倉狩の働きかけによるものだろう。心の中で、とりあえず師匠への感謝を新たにしておく。

 受付で話を通し、かつて沫倉綾那を担当していた産婦人科医から話を聞けるよう便宜を図ってもらう。


「産婦人科か。そりゃそうだよね」


 綾見はぼんやりと呟いた。


 凌ノ井たちを迎えてくれたのは、初老に差し掛かった女性の産婦人科医である。突然の訪問者を少しばかり訝しがっていたが、偽造の身分証を見てひとまずは信用をしたらしかった。


「実は、17年前にこちらで亡くなった沫倉綾那さんのことについて、少しお話を伺いたくて」

「沫倉……綾那さん、ですか……? さて……」


 記憶の奥底の泥をすくうようにして、ゆっくりと首を傾げる医師。


「ええ、出産から間もなく亡くなったと伺っているんですが」

「さて……」


 凌ノ井は、ちらりと背後を振り向く。本当にこの女医であっているのかと思ったのだが、資料を確認している綾見はゆっくりと首を横に振った。どうやら間違いないらしい。

 綾那の死は特殊なものであったから、そう簡単に忘れるとも思えないのだが。<悪食>にこっそり頭の中を探らせてみたが、とくべつ、嘘をついている節はないようだった。


 しばらく悩んだ後、女医はようやく顔をあげて、手を打った。


「……ああ! 沫倉綾那さん! 確かにいらっしゃいました。とても優しくて、穏やかな方でしたねぇ」

「ええ。あの、その方の亡くなる以前のこととか、亡くなった後のこととかについて……覚えていることをできれば……」

「まぁ……。沫倉さん、亡くなったんですか?」


 こうなってくるといよいよおかしい。凌ノ井は綾見の持っていた資料を逐一丁寧に読み上げ、女医に聞かせた。医師はしばらく考え込み、『ああ』と声を発する。


「……確かにそうです。沫倉さん、当病院でお亡くなりになられたような……。どうして忘れていたのかしら」

「え、ええと。それでですね。彼女が亡くなる前や亡くなったあと、何か不審なことがありましたら……」

「………ええと」


 初老の女医は、そこからまたしばらく黙り込んでしまう。それから最後に『……申し訳ありません。思い出せることは、特にありません』と、そっけない返事だけをよこした。凌ノ井は大きくため息をついた後、綾見と顔を見合わせた。


 他の看護師や医師などにも片っ端から聞き込みをしたが、結果はどれも同じようなものだった。沫倉綾那の存在すら忘れていた節が見られる。何か不審な出来事がなかったかと尋ねても、『思い出せない』の一点張りだ。


「記憶処理でもされてるのかな」


 病院の中庭でベンチに腰掛けながら、綾見が言った。


「確かにそんな感じだったな」


 凌ノ井は、どっと疲れた様子で肩を落とす。


 <真昼の暗黒>の足取りを追うばかりか、沫倉綾那の情報すらろくに掴めないようではお手上げだ。せっかく倉狩に手配してもらった偽造身分証もフイにしてしまった形である。


「沫倉ちゃんも悪かったなぁ。お袋さんのことがわかるかもしれなかったってのに」

「ううん。あんまり気にしていない」


 綾見はぼんやりした声で答える。


「お母さんのことは、私の記憶に残っている声以上に確かなことはないと思っているし。それに、みんなお母さんのことを思い出す時は、『とても優しくて穏やかな人』って言ってくれたから、それで良いかなって」

「まぁ、沫倉ちゃんがそれで良いってんなら、良いんだけどさ……」


 生まれてまもなく綾見の母親が亡くなったのだとすれば、彼女の中にある沫倉綾那は、確かにその言葉だけだ。母親が死んで悲しいとか、母親を殺した<真昼の暗黒>への怒りだとか、そういった感情とは無縁であるのかもしれない。


「凌ノ井さんこそ、大丈夫なの。手がかりがつかめなくて、がっかりしていないかな」

「そりゃあ、がっかりはしてるよ……」


 せめて、沫倉綾那の死と前後して夢魔に憑かれた人間でもいないのかとも思ったが、そんな情報掴めずじまいだ。


「もし、<真昼の暗黒>がお母さんを殺したとしたら、そのあと次の宿主を探したはずなんだよね」

「そう。レベル4の夢魔だから新しい宿主を探して彷徨うことはある。でも、その距離は大して長くないはずなんだ。ここで急に足取りが途絶えるっていうのも、妙な話なんだよ」


 とはいえ、一之宮雀殺害後の足取りすらも、ヒュプノスでは長らく掴めなかった。行方をくらます能力に長けた夢魔であったのかもしれない。で、あるとすれば、やはり状況は八方塞がりだ。どのようにして次の手がかりを探ればいいのか、見当もつかない。


「でも、妙だよね」


 頭を抱える凌ノ井の横で、綾見が言った。


『確かに、妙ですね』


 頭の中で<悪食>が言った。


「何が」


 2人の言葉に、凌ノ井はやや不機嫌気味に返す。


「病院に夢魔憑きの患者さんがいたなら、その情報はヒュプノスに送られるはずじゃないのかなって。どうして私のお母さんのことを、ヒュプノスでは掴んでいなかったんだろう」


 凌ノ井は、はたと顔をあげた。


「……確かにそうだ。何で気づかなかったんだ」

「誰かが意図的に情報を止めていたのかな」


 そうであるとして、考えられることは2つだ。


 まずは1つ。病院側からヒュプノスへの情報を遮断していた人物の存在。夢現境会に繋がりの深い人物であった可能性が高い。その場合、夢現境会はもう17年前から活動を行っていたことになる。


『ですがその場合、夢現境会側でその後の<真昼の暗黒>の足取りを掴んでいないのが気になりますね』

「………」


 <悪食>の言葉に、凌ノ井は黙り込む。

 誰かが意図的に情報を止めていた、2つ目の可能性。


 それは、ヒュプノス側で<真昼の暗黒>に関する情報を握り潰していた人物の存在だ。凌ノ井としても、これはあまり考えたくない方向だった。身内に敵がいることになってしまう。


「凌ノ井さん」


 綾見が心配そうに声をかけてくる。


「あくまで可能性の話だ。が、考慮には入れておく必要があるな」

「うん」


 ひとまず、この2つの線で調査を進める必要がありそうだ。

 まずは病院側で怪しい人物を、改めて確認する。17年前の時点で、ヒュプノスへの情報送信を遮断していた人物が病院側にいたのなら。その人物を問い詰めることで、おのずと<真昼の暗黒>の行方も掴めてくるはずだ。


「よし……!」


 凌ノ井は膝を叩いて立ち上がった。


「方針、決まった?」

「ああ。決まったところでメシにしよう。食いたいもんあるか?」

「高山ラーメン」


 綾見が返事をした、ちょうどその時。凌ノ井の携帯が鳴る。思いっきり顔をしかめて、懐から電話を取り出した凌ノ井は、その険しい表情のまま通話ボタンを押した。


「もしもし棺木か。俺だ。間の悪い時にかけてくるなよな」

『凌ノ井様。申し訳ございません。緊急事態でございます』


 いつもと変わらぬ冷静な言葉だが、声音には有無を言わさぬ緊張感が滲んでいる。凌ノ井は黙り込み、ちらりと綾見に視線を送ってから、無言で続きを促した。

 棺木の言葉は、信じられない事実を紡ぐ。


『護送中の違崎恭弥が死亡しました』

「なっ……!?」


 思わず携帯を取り落としそうになる。凌ノ井の思考を読み取った<悪食>が、それを綾見にも伝え、綾見もまた驚いたように両目を見開いていた。


「死んだって、どうしてだ!? なんで……」

『おそらく自殺です。自身の夢魔に、精神をすべて食わせたのだと思われます』

「んな……!」


 予想だにしない展開だった。そんなことをして何になるというのか。

 だが驚愕する凌ノ井に、棺木はさらに追い打ちをかけた。


『そして凌ノ井様。死亡した違崎恭弥の肉体が、護送車から逃走しました』

「は!?」

『おそらく、夢現境会と違崎恭弥の目的そのものがこれだったのでしょう。よろしいですか、凌ノ井様。今、違崎恭弥の肉体を動かしているのは、彼にとり憑いていた夢魔本人です』




「約束通り、この身体は頂いていくぞ。違崎」


 首をこきりと鳴らして、はそう言った。


 真後ろには横転した車。運転席のエクソシストエージェントは、血を流してぐったりしていた。いっそトドメをさしてやることも不可能ではないが、それはというのが約定だ。癪は癪だが、従ってやることとする。


 しかし。


 肉体というものを通して世界を見る。


 このことの、なんとすがすがしいことだろうか。そしてそこから見える世界の、なんと澄んで美しいことだろうか。『人間の意識』という、余計なフィルターの介在しない世界。脆弱な精神生命体でしかなかった自分が、いま、初めて物質世界に根を下ろすことができたのだ。


 見たい。


 身体の奥底が、じわりとうずくような感覚があった。


 知りたい。


 とめどなく湧き上がってくる感情を、止めることは難しかった。

 この世界の総てに対し、嘗め尽くし感じ取りたいという思い。それは、今や違崎恭弥となったその夢魔が、これまでに感じたことのない思いである。これほどまでに近く、遠かったその感情が、今となっては身を焦がしよじらせるほどに近く在る。


 これがか。悪くない。


 違崎恭弥は、口元にうっすらと笑みを浮かべたまま、悠々と歩き始めた。

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