第十四夜 違崎恭弥―沫倉綾見の回答―
「本当に警察がいる……」
ぼんやりと呟く
現地にはヒュプノスの職員たちも先行していて、そこに幾らか警察官たちが混じっている。警官たちは得体のしれない連中を前に、ずいぶん複雑そうな顔をしていた。
気にしていないのは凌ノ井で、少し前のサービスエリアで買った牛串を、冷めたにも関わらず平然とついばんでいる。
「この人達は、なんて説明されてここにいるんだろうね」
「さぁなぁ」
綾見の疑問にも、凌ノ井は取り合わない。
「そういうのは全部棺木の仕事だ。俺たちの仕事は夢魔を退治すること。で、夢現境会が夢魔を匿ったり育てたりしてるんだったら、そいつを潰すこと。だな」
「凌ノ井さんのそのセリフこそ、紋切り型のお役所仕事っぽいよね」
「うぐ」
やや手痛い指摘である。頭の片隅で<
凌ノ井自身、あまりピンと来ていないことだが、ヒュプノスという組織自体は世界規模で展開している。で、日本における活動を統括するのが、あの
組織そのものが持つ力なのか、あるいは棺木個人のコネなのか。ヒュプノスの権力は公的機関にもかなり根深く食い込んでいて、今回のように警察を動かしたり、あるいは病院の一室を好き放題に改造したりできる。
「棺木さんって幾つなのかな」
『そうとうお若いと思いますよ』
<悪食>が答える。
『ですが、有能な方なのは間違いありません。彼が極東の本部長になってから、ずいぶん動きやすくなりましたし』
「あ、そうなんだ。ずっと棺木さんだったワケじゃないんだ」
「そりゃあ
『極東本部長は〝棺木〟の偽名を使うそうですから、そういう意味では、ずっと棺木さんだったと言っても間違いではありませんが』
おそらくだが、棺木は凌ノ井よりも幾らか若いはずだ。突然、本部長に就任した男なので、それ以前に何をやっていたのかは全く知らない。当然、本名も知らない。
先代の〝棺木〟はぶっきらぼうで偏屈な老人だった。頬がこけて鷲鼻が異様に目立ち、妖怪のような風体をしていたのをよく覚えている。だいぶ前に急死して、その後、今の棺木がやってきた。先代棺木は、少なくとも今回のように公的機関を動かすのがあまり上手ではなかったので、その点においては、確かに今の棺木は有能だ。
「あー……あの」
凌ノ井たちがそんな会話をしていると、横からヒュプノスの職員が声をかけてくる。
「おう、おつかれ。どうした」
「あ、はっ。お疲れ様です。いえあの、警察の方の準備ができたらしいので」
「おうおう。そうか」
凌ノ井が竹串を指ではじいて捨てると、後ろから綾見がそれを拾って折りパーカーのポケットにしまった。ポイ捨てはダメということなのだろうが、無言のままやられるとかえって決まり悪い。
「沫倉ちゃん、強制捜査と立ち入り検査の違いってなんだ?」
「強制捜査っていうのは令状を提示してやる奴だよ」
「よく勉強してるなぁ。えらいえらい」
「バカにされてる気がする」
本日警察にやってもらうのは、その強制捜査の方だ。まともに考えれば棺木はその令状を裁判所に用意させたことになる。何かしらの要因をでっち上げているのだろうが、それにしたって大胆なやり方だ。おかげで助かると言えば助かる。
だがやはり、そこに得体のしれない自分たちのような人間が同行することには、警察も動揺を隠せていない。こちらをじろじろ見る視線、その後、交わされる会話。あまり居心地の良いものではない。
「で、俺たちはどこまでやって良いって?」
「あ、はい。一部の物証の確保と、責任者の勾留です。
「気前のいい話だなぁ」
ますますもって、どんな話で通っているのか気になってしまう。ただ歓迎されていなさそうなのは事実だから、あまり波風は立てないようにしておきたい。
責任者らしい刑事のもとへ歩いて行き、凌ノ井は頭を下げた。
「どーも、お世話になります」
「……どうも」
熟年の刑事は、ちらりと凌ノ井を見ただけだ。凌ノ井はそのまま綾見に目を向け、肩をすくめて見せた。相手方の態度はあまり良くないが、それを責める気にはなれない。元から無茶をさせているのはこちらの方だ。
綾見も、凌ノ井の真似をして小さく肩をすくめた。
強制捜査と称して夢現境会の本部に踏み込んだのは、それから間もなくのことだ。
元から簡単に済むわけがないと考えていたが、トラブルはすぐに発生した。
警察が見せた捜査令状に対し、反抗しようという意思は相手に見られなかった。なので立ち入り自体はスムーズだったのだが、問題はその後だ。何が起こったのかわからず狼狽する受付の人間を押しのけ、中に入る。清潔感のある通路が、どこまでも続いているようなつくりは、東京の施設とまるきり同じだった。
人の気配はあまりなく、がらんとした印象。しばらく進んでいくと、ひときわ大きな部屋に、その異様な光景は広がっていた。
ずらりと並べられた簡易ベッドに、寝かされる大量の人。人。人。
その有様を一言で表すなら、〝病的〟だ。まかり間違ってもこれは、決して健全な光景ではあり得ない。
パッと見でも50人は下らないだろう。彼らは一様に目を瞑り、深い眠りに落ちていた。そのうち何人かは顔中に汗をびっしり貼り付け、うなされている。だが、多くの人間が部屋に踏み込んでなお、彼らには目を覚ます気配がない。
まるで隔離病棟のようなそれを目の当たりにし、警官たちが言葉を失っているのがわかる。
「全員、夢魔が憑いてるね」
ぼそりと放った綾見の言葉に、凌ノ井が頷く。
「この数はちと想像してなかったな……」
凌ノ井たちの後ろでは、ヒュプノスの職員がすばやく棺木に連絡を取る。今は出払っているエクソシストエージェントに出向いてもらう形になるだろうか。さすがに凌ノ井と<悪食>でもこの数は処理しきれない。
「私も手伝おうか」
ぼんやりした声で、綾見が言う。
「私も、夢の中、入れるよ」
「ダメだ」
前髪を持ち上げでデコピンをかましてやる。
「俺は沫倉ちゃんを、〝入れる〟にカウントしちゃいない。自分にそういう力があることは、この際さっぱり忘れるんだ。って、前に言ったよな」
「言われた」
「だから忘れろ。良いな」
「うん」
とは言え。
これだけの夢魔を、1つ1つ潰していくのは相当な骨だろう。夢魔の成長段階だって無視できない。うなされている宿主がいるということは、その数だけレベル3の夢魔に成長しているということだ。
「凌ノ井さん」
ヒュプノスの職員が、背後からこっそり声をかけてくる。
「ひとまず収容する病院の手配はできたそうです」
「わかった。ご苦労さん」
警官たちも電話をかけている。救急車を呼んでいるようだった。目つきの悪い熟年刑事が、異様な光景にうろたえる警官たちにてきぱきと指示を下している。
『マスター、どうしますか』
「この状態じゃ治療もできねぇだろ。違崎をとっ捕まえるのが先だ」
<悪食>の問いにきっぱりと答えて、凌ノ井たちは廊下へ出た。それを追うようにして、先の熟年刑事も飛び出してくる。
「あんたがた、さっきのあの光景、何か御存知だったみたいですが」
「いやぁ。まぁね」
速足で廊下を進む凌ノ井に、刑事が追いすがる。
「どういうことなんです、あれは。あんたがたが捜査に食い込んできた理由と、何か関係あるっていうんですか?」
「手っ取り早く言えば、そうっすね」
「彼らは無事なんですか?」
「今のところは無事です。だがすぐにはどうしようもない。先に責任者を取り押さえたいんで、協力してもらっていいですかね」
熟年刑事は難しい顔をしていたが、すぐに頷いた。判断が早くて助かる。
少なくともこの異常事態に際して、こちらが専門家であると理解してくれたわけだ。オカルトな説明を延々としようとは思わないが、ある程度こちらに主導権が移るだろうから、楽になる。
通路を進んでいくと、奥に大きな扉が見えてきた。あれが違崎恭弥の部屋だ。まだ逃げていなければ、すぐにとっ捕まえることができるはずだ。多少の抵抗はされるかもしれないが。そこは織り込み済みである。
次の異変が起こったのは、扉の前までやってきたときだ。
不意に凌ノ井の頭の裏側を、釘で打ったような激痛が走った。
「……っ!?」
額を押さえ、ぐらつく身体を制止する。同時に視界がちかちかと点滅し、脳幹のあたりから、じわっと『嫌な記憶』が染み出した。〝彼女〟が死んだその瞬間の思い出がリフレインする。ほんの刹那の間に、何回何十回という追体験を、凌ノ井
「う、あ……」
光景は目の前に、確かに再現された。
ベッドの中でうなされる彼女。
誰にも救われず、ただ苦しみ続ける彼女。
金切り声をあげる彼女。
呪詛を吐き散らす彼女。
目から血を流してどろどろに溶けていく彼女。
『たかや……』
どろどろになった何かが声を放つ。とっくに思い出せなくなっていたはずの彼女の声が、罵詈雑言を伴ってはっきりと脳裏に再生された。
頭の裏側に釘が何本も何本も打ちこまれていく。呼吸ができなくなる。意識を手放しかける。
『マスター!』
同時に、頭の裏側から響く声。手放しかけた意識をはっと引き戻す。
『マスター、しっかりしてください』
「ん、お、おお……?」
頭を押さえながら、凌ノ井は返事をする。
「なんだ、今の……」
「ああああああああああああああああああッ!!」
呆然とした呟きに被さるように、悲鳴が通路を揺らした。思わず肩をびくりとさせ、振り向く。するとそこには、頭を押さえてのたうち回る、熟年刑事の姿があった。白目を剥き、口元から泡を吹いて、何かから逃れたがるように必死に身をくねらせている。傍らには、困惑した綾見がなんとか彼を落ち着けようと組みついている。
「どうした!? 沫倉ちゃん!」
「あ、いや。なんか急に大声をあげて暴れだして……」
綾見が顔をあげて言った直後、暴れる刑事の腕が勢いよく彼女の顎に激突した。
「あだっ」
顎をおさえてうずくまる綾見。刑事は、糸が切れたようにふっと動かなくなる。気絶したのだ。
「<悪食>」
『私じゃありませんよ』
「だよな」
これは、凌ノ井が<悪食>の力を借りて行う精神攻撃の一種だ。相手の心の内側に潜り込んで、嫌な記憶を増幅し、悪夢を見せる。本来の記憶を越えて増幅された悪夢には激痛が伴い、精神に多大な負荷をかけ、気絶させる。
自分自身が受けたものも、たぶんそれだ。実際喰らってみるのは初めてだった。嫌な気持ちだ。
『悪夢を見せるんだから、嫌な気持ちなのは当然ですよ』
「ここまでえげつないとは思わなかったんだよ……。あー、沫倉ちゃん」
気絶した刑事の身体をゆすっている綾見を見て、凌ノ井は額を掻く。綾見はきょとんとした顔で凌ノ井を見た。
「なに?」
「その人は眠らせとこう。思った以上に面倒くさいことになりそうだ」
少なくとも今、凌ノ井とこの刑事は精神攻撃を受けたのだ。
他者への精神干渉の出来る夢魔は、ヒュプノスの定義で言えばレベル4以上のものに限られる。
「沫倉ちゃん、平気だった?」
「あ、うん。私は平気だった」
「そうか……」
その理由について考えるのは後にしよう。今問題なのは、敵側にレベル4の夢魔がいる、というその事実だ。
「<悪食>さん、レベル4夢魔ってあまりいないんだっけ」
『少なくともここ最近は私しか見ていませんね。ヒュプノスでは、レベル4夢魔と契約したエクソシストエージェントは全部で3人いるそうですが。アーカイブに残っている個体や、討伐済の個体を含めても、全部で10体いるかいないかではないでしょうか』
「そうなんだ」
ぼんやりと頷く綾見。
凌ノ井が考えたのは、<真昼の暗黒>のことだ。その夢魔は、夢現境会との繋がりが示唆されている。この先にいるレベル4の夢魔が、それである可能性は、やはり十分にあった。
綾見は<真昼の暗黒>のことを知らない。だが、その夢魔は凌ノ井の恋人である
「あー、沫倉ちゃん」
彼女は素直な少女だ。退けと言えば、退いてくれるだろう。
そう思っていたのだが。
凌ノ井が何かを言うよりも早く、ぎぃ、という重苦しい音が軋む。扉の開く音だった。開いた扉の先には真っ暗闇。凌ノ井と綾見は、同時にそちらへ視線を向けた。
「……なに? 凌ノ井さん」
「あ、いや。なんだ。危ないから下がってろって言おうとしたんだが」
「それはちょっと嫌だな」
綾見は存外にはっきり、拒否を口にする。
「私がどうしても足手まといだと言うのなら諦めるけど。私は、今まで他人を巻き込もうとして迷惑をかけたことがあっても、凌ノ井さんの行動を邪魔したことはない。はず」
参ったな。凌ノ井は頭を掻く。
少なくとも凌ノ井自身も、綾見が自分の足手まといになるとはまったく思っていないのだ。頭は良いし、運動神経もある。咄嗟の判断力だって大したものだ。少なくとも、こうして任務に連れまわす程度には、単なる助手以上の信頼を置いている。
だからこそ、綾見をこの場から下げる正当な理由が思いつけなかった。
「そこで嘘をつけないあたりが、凌ノ井さんの限界だと思うんだけど」
『綾見さん、そこは美点って言ってあげないと』
「そうだね。でも美点と欠点は表裏一体だし」
結局、凌ノ井は諦めた。諦めは口から思いっきり吐き出された。
「わかった。ついて来いよ沫倉ちゃん。だが俺の言うことには従えよ」
「うん」
目先の目的は、違崎恭弥の身柄を確保することだ。最悪のケースはそこに<真昼の暗黒>もいること。もっと言えば、違崎が<真昼の暗黒>と契約関係にあることだ。エクソシストエージェント以外に、夢魔を使役する人間と出会ったことが、凌ノ井にはない。
「(実際、夢魔憑きと戦うってなったら、どうすりゃ良いんだ……)」
『私が相手方の夢魔を抑え込みますから、その間に本人の身柄を押さえてもらうしかないんじゃないでしょうか』
「……そうだな」
凌ノ井は覚悟を決めて、ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れる。
するとずいぶんと澄んだ、よく通る声が、こちらまで聞こえてきた。
「ようこそ、お待ちしておりました」
聞き覚えのある声だった。
だが、直接聞くのはこれが初めてだ。耳に残るがいやらしいベタつきのない、清涼感のある声だった。
「待ってたんなら明かりを点けてくれねぇか。客を迎える部屋じゃないぜこりゃあ」
「申し訳ない。私は暗いのが好きなものでして」
暗闇の中から、かつ、かつ、と足音だけが近づいてくる。
「私が違崎恭弥です。初めまして」
「凌ノ井鷹哉だ」
「あ、沫倉綾見です」
『<悪食>です』
近づいてきた気配が立ち止まる。徐々に暗闇に目が慣れて、黒い世界に輪郭がぼうっと浮かび上がるのがわかった。決して痩せているわけでも太っているわけでもない。小奇麗なスーツに身を包んだ中年の男だ。
「そっちの夢魔は名乗らねぇのか。うちの<悪食>は名乗ったんだが」
「申し訳ありません。彼には名前がないもので」
闇の中でも、違崎がニコニコと笑っているのが、はっきりわかった。
「<真昼の暗黒>とか言うんじゃねぇのか」
『違う』
カマをかけるつもりで言ってみたが、夢魔の声できっぱりとした否定の言葉がかえってくる。
『私は新参だよ。おまえの恋人を殺したわけじゃあない。なあ、凌ノ井鷹哉』
「っ……!」
『そう身構えるなよ。私もこの男も抵抗しようってわけじゃないんだ。どうせ抵抗したってかないっこない。そう思っているからな』
饒舌に語る夢魔だが、信用できない。しろと言う方がどうかしている。凌ノ井は警戒を解かず、空気がピリピリと張り詰めはじめる。<悪食>も、敵の夢魔が仕掛けてくる精神攻撃にいつでも対応できるよう、気を張っていた。
「じゃあ、ちょっと良いですか」
そんな中、いつも通りのぼんやりした声を出し、沫倉綾見が片手を挙げる。
「なんですか。沫倉綾見さん」
「さっきの広い部屋にたくさん人が寝てました。あの人たち夢魔を憑かせたのは違崎さんですか」
「はい、そうです。私と彼で、夢魔を誘導しました」
おだやかな声で、違崎が答えた。
「そんなこと、できるわけねぇだろ」
吐き捨てるように言う凌ノ井。だが、『くつくつ』と夢魔が笑った。
「我々は、彼らに関する研究ではあなた方より優れているという自負がありますよ。その生態やメカニズムについてもね。ただ利用し、駆除するだけのあなた方とは違います」
あくまでも温和な態度を崩さずに答えるのは、やはり違崎の役目だ。
「じゃあ、引き剥がすことはできるの?」
「それはできません。できたとしてもしませんよ。我々の目的に反します」
「目的って?」
「お答えできません。いずれわかります」
「じゃあ……」
綾見はそこで言葉を区切り、そのぼんやりとした瞳をいくらか細める。
ただでさえ光の反射が極端に少ない綾見の瞳は、この薄暗い部屋の中で、本当の暗黒を宿しているかのようであった。
「じゃあ、高木のお姉さんと田中に夢魔を憑かせたのは」
「我々です」
「そうなんだ」
その時に綾見が発した、『そうなんだ』は、それまでに凌ノ井が聞いたことがあるものと、明らかに温度が違った。その黒い瞳が、温度さえも吸い込んでしまったかのような感覚。言葉を直接向けられたわけでないにしても、凌ノ井の背筋にも寒気が走る。
それだけではっきりと、いつものように抑揚なく喋るこの少女が、明確な怒りを、敵意を、害意を抱いたことがわかる。いつものようにぼんやりした瞳で、沫倉綾見ははっきりと、違崎恭弥を〝睨んで〟いた。
「じゃあ、あなた達は、私の敵だね」
「何を持って敵と言うのですか?」
違崎は相変わらず、にこにこと笑っている。
「よく考えてみてください。あなた方が人類の外敵として駆除している彼らの存在を」
暗闇の中で、男のシルエットが両腕を広げる。
「彼らは精神面において我々より遥かに優れている。ですが肉体を持たないという点では我々よりいくらか脆弱な生き物です。我々は共存するべきだとは思いませんか? 私はその手助けをしたい。あなたにだって、彼らと同じお友達はいるでしょう? それどころか、」
「ごちゃごちゃうるさい」
違崎の言葉を、綾見が遮る。いつもより早く、そして低い声だった。
遮り、黙らせた違崎に向けて、綾見は一本の人差し指を立てる。
「例えば、ここがサバンナで、私は弾の入ったライフルを持っているとする」
「………?」
「目の前に、親からはぐれてサバンナを彷徨う、小さなガゼルの子供がいて、それをつけ狙う手負いのライオンがいたとする。ライオンはやせ細り、飢えて、ガゼルの子供を狙っている。その時、そのライオンが世界に生き残っている最後の一頭だったとして、」
その場にいる全員が、綾見の言葉に耳を傾けていた。彼女は違崎に劣らず通りの良い声で滔々と語り続ける。そして、人差し指を、不意に銃の形へと変えた。
「それでも私はライオンを撃つ」
「どういうことですか?」
「私にとって、正しさというのはその程度のものでしかない、ということ。あなたが何を目的にしていても、〝今は〟、知ったことじゃない。後で知って、もしかしたらあなたが正しかったと後悔する日が来るかもしれないけど、少なくとも、今は知ったことじゃないんだ。わかるかな。あなたは私の友達と、友達のお姉さんを傷つけようとしたんだ。今大事なのは、そこなんだよ」
綾見は、目の前の男を見据えて、はっきりとそう言った。
許せないものが許せないという、ただ当たり前のことを、いつものように抑揚のないぼんやりとした声で、それでも一語一句はっきりと告げたのだ。その当たり前のことが、大人になれば受容できなくなっていくものであることを、凌ノ井はよく知っていたが。
それでも、心の中で、綾見に賞賛を送った。
「そういうわけなんだ、違崎。これからあんたを勾留する」
『抵抗はしないでいてくれると、助かるのですが』
懐から逮捕状を出すが、この状況では大した意味を持たないだろう。レベル4の夢魔と契約を交わした人間には、この程度の法的拘束力は脆弱すぎる。
だが、違崎恭弥は小さな笑みを浮かべると、こう言った。
「抵抗するつもりなどありませんよ。最初から」
「あ?」
「エクソシストエージェント以外の方と話したくなかったので、先ほどご無礼を働きましたが。私もヒュプノスという組織の強大さは知っているつもりです。例えあなた方が愚鈍で無知で蒙昧な人間の集まりであったとしても、私と彼だけで対抗できるものではありませんからね」
にこにこと笑って両手を突きだす違崎恭弥の表情が、闇の中でようやくはっきり見えてくる。
敗北宣言と言うにはあまりにも尊大なその言葉だが、凌ノ井たちに探りを入れることはできない。実際、彼は負けを認めているようなものだったのだ。彼を勾留し、夢現境会という組織も消滅する。そのはずなのだが、彼の温和な笑みはやはり、不気味だった。
「本当はひっぱたいてやりたかったんだけど、我慢したんだよ」
警察署の一室で、綾見がそう言った。
「褒めて欲しい」
「えらいえらい」
一室といっても、気の利いた部屋は空いていないので取調室を借りている。凌ノ井と綾見がいて、そこに時折、ヒュプノス職員が忙しそうに報告に来る。凌ノ井は紫煙をくゆらせながら天井を眺め、綾見はせっかく取調室に来たのだからと、出前のカツ丼を注文していた。
数十名の夢魔被害者は病院に運ばれて、本部からもエクソシストエージェントがこちらに向かっているという。本来であれば凌ノ井たちも病院に向かい、対処に当たらなければならなかったが、そうもできない事情があった。
言うまでもなく違崎恭弥だ。
違崎に憑依しているレベル4夢魔は、他者の精神にまで干渉する力を持つ。大人しく投降してきたは良いが、同じレベル4である<悪食>による監視下でないと、どんな悪さをするのかわからない。結局、凌ノ井はこの場を離れることができない、というわけだ。
あるいはそれ自体が違崎の目的なのかもしれないが、それを問い詰めたところで動けない事実に変わりはない。というわけで、凌ノ井は今、警察署内に拘留された違崎を<悪食>の干渉有効圏内に置いておくため、こうして取調室でだらだらしているわけだ。
なお、あの気絶した熟練刑事も病院に搬送されている。見舞いに行きたい気持ちもあったが、やはり凌ノ井はこの場を動けない。
「これからどうするの?」
出前で届けられたカツ丼の蓋を開け、綾見が尋ねる。
「違崎は、本部に護送することになった」
『本部の壁は、夢魔の干渉波を遮断するようにできているんですよ。外から夢魔が入ってこれないようにするためです』
「あとは、レベル4以上の夢魔が暴走した場合に備えてだな」
「そうなんだ」
「そうなんだよ」
護送の間もずっと付き添わねばならないかと思うと憂鬱だ。時間があれば、綾見の生まれたという病院のことも調べておきたかったのだが、それも叶いそうにない。
「沫倉ちゃんはここにいなくても良いんだぞ。むしろ俺の為に牛串と五平餅を買ってきてくれ」
『私は奥美濃カレーというのを食べてみたいですね』
「おまえが食べるんじゃないだろ。俺の胃袋に入っていくんだぞ」
などとくだらない会話を続けてはいるが、やはり凌ノ井の心のもやもやは晴れない。
夢現境会の事実上のトップをとらえたにも関わらず、事態のほとんどは明らかになっていないのだ。せいぜい、違崎たちがなんらかの方法を使って、人間に夢魔を取り憑かせていた、という、その事実だけである。
<真昼の暗黒>のことも、わからないままだ。明らかに彼らはそのことを知っているが、情報を聞き出すことはできなかった。今、ヒュプノスの職員が取り調べを行っているので、そこに期待するしかない。
「(まだ、この話は終わってねー気がするんだよなぁ……)」
凌ノ井は虚空を睨む。煙草のやにが天井を汚していく。
だが結局、それは予感以上のものではなく。凌ノ井はただ焦燥感に時間を浪費していくだけであった。
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