違崎恭弥

第十三夜 違崎恭弥―それぞれの―


違崎ちがさき会長」


 灯かりの無い部屋で、男に声がかけられる。笑い皺の目立つ男は、部屋の入口に立つお男に向けて、ゆるりと振り返った。


「いよいよヒュプノスが我々を嗅ぎ付けたようです。各地の支部も摘発されています」

「そのようですね」


 男の名は違崎恭弥きょうや。自己啓発セミナー〝夢現境会むげんきょうかい〟を運営している。


 もちろん、実態は単なるセミナーではない。会員に対する教えの中にはデタラメも混じっている。

 だがすべてが嘘というわけでもない。夢現境会が掲げるのは、人々の精神的な救済であり、違崎はその点において一切の虚偽を語ったことはない。自分自身の行いは、いずれ多くの人類を救うことになる。少なくとも彼はそうした使命感のもとに動いている。


 そして、その活動に邪魔だてをする組織があるということも、違崎は知っている。


『思ったよりも、勘付かれるのが早かったな』


 違崎の頭の片隅で、不意に声が響いた。


「いえ、私はそろそろだろうと思っていましたよ」


 頭の中の声に、そう返事をする。


 そう、そろそろ気づかれるだろうとは思っていた。活動を広げていけば、いずれ彼らの網に引っ掛かる。ヒュプノスという組織は、少なくとも歴史と規模においては夢現境会われわれで太刀打ちできるようなものではない、というのが、違崎恭弥の認識だ。

 彼らと対立せざるを得ない理由はただひとつ。夢現境会が、彼らが夢魔と呼ぶ精神生命体を活動に利用しているためだ。ヒュプノスの目的は、すなわち夢魔の駆逐にある。人類に仇なす存在である夢魔を、彼らは放置しない。


「違崎会長、我々はこれからどうすれば……」

「そうですね。今まで通りにしていてください」


 背後からかけられる声に、そう答える。


「ですが、資料や被験体の持ち出しは少しずつやっていきましょう。どうやら、夢現境会もあまり長くはないようですし」

「そ、そんな……」

「長く持った方ではありませんか。彼らの目を欺き続けるのはそれなりに骨でした」

「しかし我々は、まだ目的の半分も達成できていません……!」

「いいえ、十分すぎるほどです。必要なものはおおよそ揃いましたからね」


 違崎は、にこやかな笑みと穏やかな声を絶やさない。


 そう、必要十分だ。夢現境会の活動は、当初の想定よりはるかに優れた結果を達成した。ならば、現時点での組織の形に拘る必要は、もうほとんどないのだ。あとはその成果が、ヒュプノスに渡らなければ、それで良い。


「近日中にヒュプノスの手はこちらまで回るでしょう。確かな筋から仕入れた確かな情報です。それまでに、資料の整理はしておいてください。優先順位については、追って連絡をします」

「は、はい……。わかりました……」


 背後で歩き去る足音。違崎は、再び薄暗い部屋に1人取り残される。


『ずいぶん落ち着いているではないか。いよいよ絶体絶命だというのに』

「私がこの自分の状況を危機だとは思っていないのですよ」


 これで、話し相手は頭の中に響く声だけになった。


「為すべきことを果たした身ですから、危機感はありませんね。私が計画の一端末に過ぎないことは、あなたもご存じのはずだ。それに、」


 光の差し込まない窓辺に歩み寄る違崎。いや、ほんのわずかな隙間から白が漏れていることだけは確認できた。外はあくまでも白昼で、この窓ガラスが黒く塗りつぶされているだけの話だ。

 違崎は、窓の縁をそっと指でなぞった。


「それに、彼の目覚めも近いと聞きますよ。確かな筋の、確かな情報です」

『ほう』

「彼が、<真昼の暗黒>が目覚める時にはぜひともお近くにいたいものですが。それが叶いますかどうか」


 黒塗りのガラスを愛おしそうに眺める違崎の目には、どこか諦観じみたものがあふれていた。




 大阪府某市。


 怪しげな建物の怪しげな簡易ベッドの上で、病本やまもと千羽朗せんばろうは目を覚ます。ずきずきと痛む額を押さえ、気だるい身体を無理やり起こす。さすがに、日に何度目かのダイブは負担が大きい。


『センバロー、大丈夫? 無茶してない?』

「大丈夫……だよ、<アリス>。無茶は、そこそこしてるけどね」


 室内をぐるりと見渡すと、同じような簡易ベッドが並べられ、その上には老若男女様々な人間が寝かされている。


 ここは夢現境会の支部のひとつだ。ヒュプノスが組織をあげての一斉摘発に乗り出し、警察の協力を得てから、十数時間前にこうして施設へ立ち入った。そこで、夢魔にとり憑かれた大量の被害者を見つけ、こうして対処を行っていたというわけだ。

 この支部で発見された夢魔の宿主は、実に10人。いずれも進行度はレベル2に抑えられているが、やはり連続しての対処はかなり疲れる。まだ半分ほどしか済んでいないが、インターバルを挟むために、一度目を覚ますことにした。


 換気扇が回されて、室内に充満していた薬品が外へと吐き出されていく。ガスマスクをつけた職員が、病本に栄養剤を手渡してくれた。


「やっほーう、千羽朗」


 そんな折、扉が開いて小柄な女性が顔を覗き込む。


 ずきり、と頭が痛んだ。これは<アリス>の反応によるものだ。病本の相棒である夢魔は、病本に近づく女性に対してあまり良い顔はしないのだが、彼女に対してはとりわけそうだ。


「師匠、どうでしたか。捜索の方は」

「うーん、ダメねー。めぼしい資料はほとんどなかったわ。持ち出されちゃったあとだったのかもしれないわねー」


 倉狩くらがり鍔芽つばめは、ぱたぱたと手を振る。


 この大阪の施設に派遣されたエクソシストエージェントは、病本と倉狩の2人だ。極東支部のエージェントは現在、片っ端から日本各地の夢現境会施設へと赴いている。当然、シフトは無視、休日出勤上等という無体な話だった。

 ヒュプノスが出動を急がせたのには理由がある。他ならぬ病本の頭痛の原因がそれだ。夢現境会は夢魔に憑かれた宿主を隠し匿っている。もしこれを放置すれば、いずれ日本中にレベル4へ進化した夢魔が解き放たれることにもなりかねなかった。


 同時に、ヒュプノスの職員らが夢現境会の活動に関する情報を探しているのだが、それについての資料は目ぼしいものが見つからなかったと、倉狩は言った。


「代わるわよ千羽朗。あなたはちょっと休んでらっしゃいな」

「わかりました、師匠。お願いします……」


 病本は簡易ベッドから身体を下ろして、よろよろと出口へ向かう。倉狩は小さな身体を子供のように跳ねさせて部屋に踏み込むと、すぐさまベッドに身体を預けた。元気な人だ、と病本は思う。


『それにしてもセンバロー』


 頭の中で、ずっと黙り込んでいた<アリス>が口を開く。


『ムゲンキョーカイはこんなことして、何がしたいのかしら。まったくわからないんだから』

「うん……。僕もちょっと、そこが引っかかっている」


 栄養ドリンクの蓋を開けつつ、病本も難しい顔で答えた。


 夢魔を人間に憑かせ、それを世間の目から遠ざける。つまり夢魔の育成に近いことをやっているのが夢現境会だ。それは事実として認識できる。

 問題は、それをする理由だ。夢魔を育ててメリットを被る人間の存在に、病本は心当たりがない。

 トップの人間が夢魔に良いように利用されているということなのか。あるいは、病本の想像もつかないような何かが、理由として存在しているのか。


『ま、深く考えることないわよ。どーせロクなことじゃないんだから』

「……そうだね」


 力なく笑って、病本は頷いた。




 福岡県某市。


 ヒュプノス職員を交えてのガサ入れは、ここでも行われていた。やはり何人かの夢魔憑きが発見され、鋸桐のこぎり雁之輔がんのすけはその対処で半日を消耗した。ぼりぼりと頭を掻きながら、廊下のベンチに腰を下ろす。

 警察とヒュプノス職員が、慌ただしく走り回っている。夢現境会の活動に関わる幾らかの資料が押収できたらしく、捜索の甲斐もそれなりにあったということだろう。なんにせよ、夢魔憑きの対処も済んだことだし、ここまでくれば鋸桐の仕事もほぼ終わりだ。


「………」


 ベンチでぼんやりしている鋸桐の隣に、別のエクソシストエージェントが座り込んだ。鋸桐と手分けをして夢魔憑きの対処に当たっていたのだが、どうやらこちらも用が済んだらしい。


「おう、絶脇たてわき。おまえさんも、ご苦労さんじゃったのう」

「仕事だ。苦労という苦労もない」


 ベンチの上で胡坐をかく絶脇獅ヅ琉しづるは、かなり奇天烈な装いの女である。衣服は男物の着流しで、黒い髪を後頭部で大きく結い上げている。常に木刀を持ち歩き、両目を瞑っている。時代劇に出てくる浪人みたいな恰好をしているが、数年前までは立派な女子大生だった。


 鋸桐と絶脇は、ヒュプノス極東支部の中でもきっての武闘派である。どちらも契約している夢魔はレベル3であるが、同レベル帯の敵を相手にしても引けを取らず、安定した戦いを見せる。その代り、こまごまとした情報収集や細工が苦手で、特にレベル2の夢魔と戦う時は念入りな情報収集が欠かせない。今回も、被害者1人1人の個人情報を確認するところから始まったので、かなり骨ではあった。


 目を瞑ったまま、眠ってしまったのかと思えるほど静かにしていた絶脇だが、不意に声をあげた。


「鋸桐」

「呼び捨てか。まあ構わんが」

「……最近、夢魔事件の頻度が上がっているような気がするのだが、どう思う……思いま……」

「急に敬語に戻さんでもええわい」

「どう思う、鋸桐」

「んー、そうじゃのう」


 確かに、ここ1、2ヶ月の夢魔事件の発生頻度は異常だ。現時点でのシフトは、本来ではかなり余裕を持って組まれているはずだったが、それでもぎりぎり回らなかったことも多い。1ヶ月、1週間あたりの発生件数が、最近は飛躍的に増加しているのだ。


「この夢現境会とやらが絡んでるっちゅうんか? 絶脇は」

「それはまだ何とも。だがひょっとしたら夢現境会の登場は、ほんの予兆に過ぎないのかもしれぬ」

「ほほう。なぜそう思うんじゃ」

「……武士の勘だ」

「おまえさん数年前までフツーの女子大生じゃったろうに」


 だが鋸桐は知っている。絶脇の言う『勘』は、たいてい都合の悪いものに限ってよく当たるのだ。


「……シフト、出勤日が増えるかもわからんのう」

「うむ……」


 ぼんやり天井を眺めながら、2人は適当に言葉を交わした。




 東京都内某所。


「あ……、あの、高木たかぎくん」


 高木はその日、クラスメイトの田中たなかに声をかけられた。


 田中はクラスでも大人しい、どちらかと言えば日陰者の少年だ。一方高木は持ち前の社交性で数多くの友人をこしらえる身であり、そんな高木に田中の方から声をかけてくるというのは結構珍しい。

 珍しいが、だいたいどのような用件か、高木には察しがついていた。


沫倉まつくらさん、今日も欠席してるけど……。どうしたのか知らない?」

「それなー。俺も何も聞いてないんだよね……」


 案の定、クラスメイトである沫倉綾見あやみについての話題だった。


 綾見はこの数日、学校に来ていない。彼女の一番の親友であるユミにも聞いてみたが、ユミもやはり知らないと言う。家に行ってみたが、反応もない。ただ、欠席の連絡だけはきちんと学校側に行っているらしい、という状況だった。

 高木は先日、綾見と一緒に何かをした。ような記憶があるのでが、具体的に何をしたのかはさっぱり思い出せずにいる。なんとなくそこに原因があるような気がして、妙に座りの悪い気分なのは確かだ。


「そう言えば田中、親御さんとの関係はどうだ」

「え? あ、ああ……。その、まあまあ、かな……。高木くんは?」

「うちもまあまあだよ。だんだんマトモに戻ってきた気がする」


 高木と田中には共通点がある。家族が妙な宗教にハマってしまったという、大して嬉しくもない点ではあるが。夢現境会とかいう自己啓発セミナーで、田中の家は一時期かなり深刻だったし、高木の方も姉が家を飛び出すような騒ぎになった。

 結局、夢現境会というものがいったいどのような団体なのかはわからないままだ。だが、最近はあまり近づかない方が良い気がして、深入りは避けている。少なくとも高木の方は、姉が戻ってきたので深入りする理由もなくなったのだ。


 聞けば、田中の両親も、以前ほど夢現境会にのめり込むようなことは無くなったという。先日、東京の支部に警察が立ち入る騒ぎがあった。さほど大きなニュースにはならなかったが、結果として、夢現境会の関東での活動は沈静化したらしい。田中の両親も、その日を境に急に夢現境会への熱が冷め始めたという。


「なんだったんだろうな。夢現境会って……」

「よくわかんない……。わかんないし、覚えておいても、あんまり良いことは無いと思う」


 小さな呟きに答える田中。結局のところ、高木も同意見だ。少なくとも、もう自分たちの日常にはあまり関わりのないであろうもの。そのように認識していた。


「それよりあの、高木くん」

「ん? ああ、そっか。沫倉のことか。どうしような」

「最近その、見られてる感じがするんだけど」


 いきなり田中がそのようなことを言うので、首を傾げてしまう。


「おまえが? 誰に?」

「それがその、誰だかわからなくって……」

「心当たりないなぁ……」


 腕を組んだまま、教室をぐるりと見回す。ひょっとしたら、これは田中に訪れた春という奴なのだろうか。そこを突っついてやると、彼は真面目な顔で『そんなもんじゃないと思うんだけどなぁ』と言った。




「気づかれてるみたいだぞ」


 双眼鏡を覗き込みながらそう呟いたのは、まだ10歳前後といった年頃の少年である。背中にランドセルを背負っているが、彼が今いるのは小学校ではなく、渋谷区にそびえるタワーマンションの一室だった。そのベランダからは、高校の教室がよく見える。


「だ、だから言ったじゃないか……。やっぱりこういう覗きみたいなことするのはよくないんだ。もうやめよう隼太しゅんたくん。もっと別の手を考えようよ」


 室内で膝を抱え、びくびくと肩を震わせているのは、やたらと長い髪で顔全体を隠した、陰鬱な印象の男である。隼太と呼ばれた少年はベランダで双眼鏡を覗き込んだまま、呆れたような声で言った。


「別の手って何さ、怨堂えんどうさん」

「た、た、例えばホラ。あの、学校に……教師として潜り込むとか、ど、どうかな……」

「教師役が怨堂さんに務まるとは思えないんだけど……」

「隼太くんがやればいいよ」

「バカ言うんじゃないよ! オレ小学生だっつの!」


 この部屋は、ヒュプノスが用意したセーフハウスのひとつである。そして、この室内でくだらない言い争いに終始しているのは、やはりヒュプノスのエクソシストエージェントだ。憑内つけない隼太と、怨堂つぐみ。極東本部に所属するエージェントの大半が出払っている今、夢現境会に接触される可能性のある人物を監視するのが、彼らの役目だった。


「なんでオレ、怨堂さんと一緒に監視任務なんだろうなー……」

「そ、それはホラ……。隼太くんが、なるべくちゃんと学校に行ける時間を増やすために……」

棺木ひつぎのにーちゃんも余計な気をかけなくても良いのに……」


 高木や田中、及びその周辺の人間には、夢魔がとり憑く可能性もあった。どのみち夢現境会の目的や出方がわかっていない以上、万全の警戒を怠る理由はない。だがどうやら、そのあたりは杞憂に終わりそうだ。


 現在、凌ノ井しののい鷹哉たかやと沫倉綾見が、岐阜にある夢現境会の本部へ向かっている。本部を潰したところで事件のすべてが沈静化するわけでもないだろうが、それでもこの一連の人騒がせな出来事は一応の解決を見るはずだ。


「じゃあ、怨堂さん。オレ、今から学校行ってくっから」


 双眼鏡を首から下げ、隼太は部屋に戻る。


「う、うん……。気を付けてね……」

「怨堂さんも、ちゃんと監視続けてくれよ」

「む、難しいな……。俺なんかがあの……高校生活なんか見ていたら、眩しくて目が潰れ……」

「ねーよ。ブツリ的にそんなことはありえねーの。学校で習ったから。じゃな」


 双眼鏡を投げ渡すと、手を振って廊下を走りだす隼太。やがて重い扉の開け閉めされる音がして、室内には怨堂噤が1人だけ取り残される形になった。すだれのようになった髪の隙間から、ぎょろりとした目が動き、手元の双眼鏡を眺める。


「………」


 怨堂は、まったく気乗りしない様子でとぼとぼとベランダの方へ歩いていくと、双眼鏡を覗き込んで監視任務を引き継いだ。




「………」

「………」


 しばらくの間、車内では沈黙が続いていた。


 現在、凌ノ井の運転する車は中央高速道を西に向かって移動している。本日中に岐阜に到着し、現地の警察やヒュプノス職員らと合流する予定だ。

 既に各地の支部を摘発するため、大多数のエクソシストエージェントが動いている。有力な手がかりを得られたところもあれば、なしのつぶてに終わったところもある。だが、どの支部にも共通して夢魔憑きが数人以上発見されており、夢現境会が組織ぐるみでそれを隠蔽しているのは、疑いようもないということだ。


「………」

「………」


 凌ノ井と綾見の間に会話が生まれないのには、いくらかの理由がある。


 まず綾見だが、彼女は先日凌ノ井に叱られたことをまだ引きずっている様子だった。綾見の独断専行でクラスメイトを危険にさらしたことを、凌ノ井はそれなりに強めに怒った。綾見はきちんと反省したし、別にそのことでへそを曲げるようなことも無かったのだが、口を開く機会が半分くらいまでに減ってしまった。


 一方の凌ノ井は、綾見以上に内面がとっ散らかっている。自分の中で整理できない事柄が多すぎて、内面を持て余している状況だ。おかげで、綾見に気の利いたことのひとつでも、言ってやることができない。

 やはり一番大きいのは<真昼の暗黒>の存在だ。長らく所在の掴めなかったこの夢魔が、どうやら夢現境会と関係があるらしく、かつ綾見の母親の死にも関与していた。立て続けに判明した事実は、ただそうであると飲み込めば、胸やけを起こしそうなほどである。


 こんな時、頼りになりそうな<悪食あくじき>も、何かを言ってくれるわけではない。


『話題は提供できますけど、それでマスターの心が晴れるわけでもないでしょうし』


 心の内を見透かして、<悪食>がそう言った。


「……凌ノ井さん」


 沈黙を破ってきたのは、綾見の方である。


「ん? おう」

「……いや、沈黙に耐えかねた」

「ああ……。実は俺もなんだ」


 ステアリングを握って、凌ノ井もぼやく。バックミラー越しに映る綾見の表情は、やはりいつものように眠たげでぼんやりしていた。なぜか、頭の片隅に笑いをこらえる<悪食>の声が響く。


「……反省はしてるよ」


 綾見は、会話が途切れないように無理やり言葉を繋げた。


「……へそを曲げたわけでもない。ただ、その、私はあまり怒られたことが、なかったからね」

「良い子だったんだな」

「そうだね。それにそう、人の喜ぶことをしたいと思っているから、これからどうすれば凌ノ井さんが喜ぶのかな、とか、そういうことを考えている」

「別に普通にしてりゃ良いんだよ。普通にさ」


 既に中央自動車道は東京を離れ、山梨に入っている。左右に広がる青々とした山の斜面を、綾見がぼんやり眺めているのはわかった。


「沫倉ちゃんさ、沫倉ちゃんのお母さんのことって聞いても良いの?」

「ん? うん。別に良いけど」


 外を眺めながら、綾見が答える。


「でも、私も詳しいことは知らない。私が生まれた頃に死んじゃったらしいよ」

「そうか……」


 この様子だと、やはり<真昼の暗黒>のことは知らなそうだ。それどころか、自分の母親が夢魔によって殺されたことも、知らないだろう。ならば、これはまだ告げるべきことではない。余計な混乱を招くだけだ。


「そう言えば、私、生まれてからすぐに施設に引き取られたんだけど」

「おう」


 話にはまだ続きがあるらしいので、凌ノ井は適当に相槌を打つ。


「私が生まれた病院、岐阜県にあるらしいよ」

「……なんでそんなこと、今まで黙ってたの?」

「今思い出したから。そんなに重要な思い出でもなかったし」


 また急にもやっとすることを。凌ノ井の表情が曇る。


 綾見の生まれた病院が岐阜にあるからと言って、それが夢現境会の本部と関わりがあるとは限らない。そもそも近くにあるかだってまだわからないのだ。だがそれが符牒の一致であると言うなら、そんな気もしてきてしまう。


「(ともあれ、後で棺木に調べてもらうか……)」


 沫倉綾見には謎が多い。その謎がひとつふたつ増えたところで、そうそう関係が変わることはないだろう。何より、それらの秘密が幾ら重なっていようと、綾見の内面にはなんら影響を及ぼさない。凌ノ井は知っている。彼女は、良い子だ。

 どちらかと言えば凌ノ井は、綾見の母親を殺したのが夢魔であり、そしてそれが凌ノ井の恋人を殺した夢魔と同一の存在である、と露見することを恐れていた。綾見がそれを知った時、普段は鉄面皮である彼女の心にどのような変化が怒るのか、まったくもって想像がつかないからだ。


「ねぇ、凌ノ井さん。良かったら、凌ノ井さんの恋人の話を聞きたい」

「は?」


 不意にそんなことを横から言われて、思わず聞き返してしまう。


「ダメなら良いんだ。でも聞きたいので、聞いた。不愉快なら謝るけど」


 助手席に座る綾見の横顔だが、バックミラー越しでしか確認できない。彼女は相変わらずぼんやりと、窓の外の景色を眺めていた。


「……もう、だいぶ前のことだからな」


 凌ノ井はどこか遠い目をしながら答える。


「実はもう、あんまり覚えていないんだ。優しい人だったのは覚えてる。でも、それだけでさ……。あいつを失った辛さだけは、きちんと毎日更新される。そんな感じだ」

「名前は?」

一之宮いちのみやすずめだ。それなりに、良いところの子だった」


 もうあまり覚えていないと言いつつ、すらすらと言葉が出てくる。


 そう、彼女は良いところの子だった。それに身体も悪かった。対照的に凌ノ井は育ちの良くない悪ガキで、本来であれば出会うようなこともなかった関係だ。

 雀が、あの時から<真昼の暗黒>に憑かれていたのか。それとも、凌ノ井が彼女を連れ出したあの日にとり憑いたのか。それは定かではないし、今となってはどうでも良い。


「連れ出したの……?」


 綾見が恐る恐る、尋ねてくる。


「ああ、もうきっかけは覚えてないけどな。雀はお嬢様で、身体が弱かったから、あまり外を見たことがなかったんだ。数日、小さな小屋で過ごしたんだ。ちょっとした冒険のつもりだった。ここで終われば、ちょっとした青春漫画みたいな話だろ」


 だがそうはならなかった。


 雀には夢魔が憑き、彼女の精神は凄まじい勢いで衰弱していった。凌ノ井は連れ出した一件の発覚を恐れており、その心の隙を、夢魔に利用された。弱っていくだけの彼女を見ていることしかできず、結果、一之宮雀は死んだ。

 雀の死は、結局一之宮の家に知れ渡り、その後のことは、よくわからない。家族に酷くののしられた気もするし、葬儀で門前払いを食らった記憶もある。だが、それからしばらくもしないうち、凌ノ井鷹哉は夢魔に憑かれた。それが<悪食>だ。


「そうなんだ」


 いつものような抑揚のない相槌を、綾見は打った。


「……辛かったよね」

「辛かったな。まぁそれは間違いない」


 だが正直なところ、それ以上の感想は、もう無い。


 あの時に抱いた夢は叶わないままだ。叶わないまま、辛い記憶だけが上書きされていく。一之宮雀が優しかったということだけは覚えていて、彼女と過ごした思い出は、もうかなり昔に朽ち果ててしまったような気がしている。


「凌ノ井さんは、その夢魔のことを許せないんだ」

「別にかたき討ちを望んでるわけじゃないんだが……。まぁ、許せないだろうなぁ」


 ただ、これは自分の問題だ。できることなら、綾見を巻き込みたくはない。

 例え、沫倉綾見の母親を殺したのが、同じ<真昼の暗黒>であったとしても。少なくとも綾見自身は無関係であるべきだ。凌ノ井鷹哉はそう考えている。


 じきに車は、山梨を抜けた。

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