第十二夜 夢現境会―アリスと千羽朗―

悪食あくじき>が覗き込むと、夢の中に病本やまもとがおり、その横にちょこんと立つ、小さな少女の姿があった。エプロンドレスを身に着け、頭にウサギ耳を生やしたその少女は、やはり夢魔だ。病本千羽朗せんばろうの相棒。名前を<アリス>とつけられている。

 病本はいま、<アリス>の力によって、宿主となった女性の夢と接続している。彼らが今いるのは、病本の夢世界の方だ。ぼんやりした白い空間の中に、無数の本棚が並んでいる空間。凌ノ井しののいの夢が見せる『石造りの冷たい部屋』に比べると、ずいぶん広々とした場所だった。

 ひとまず<悪食>は、マスターである凌ノ井の言いつけに従って、彼らの前に姿を見せることにした。思念体をね、しなやかな四肢を持つ白い虎の姿に、形を変えていく。


「病本さん、調子は如何いかがです?」


 声をかけると、病本は驚いたように目を見開いた。


「あれ、<悪食>さん? どうしたんです」

「マスターの言いつけで、見てくるように言われました」

「ええ……、先輩、僕を信用してないんですかね。ショックだなぁ」


 見るからに優男然としたこの男は、少しばかり傷ついた様子で頭を掻く。


「マスターはああ見えて心配性なのです。許してあげてくださいな」

『おい<悪食>、余計なことを言うな』


 不意に響く声はどこからともなく聞こえてきたもので、発生源が判然としない。

 これは、凌ノ井の発言を<悪食>を媒介スピーカーにして聞かせているだけだ。現実世界では、ときおり凌ノ井が独り言を呟く、ちょっぴり不気味な光景になっている。が、それはいつものことだ。


「とまぁ、このように。私が見聞きしたことはマスターにも伝わります。直接のお手伝いはほとんどできませんが」

「はあ。頼りにさせてもらいます。……良いよね、<アリス>?」


 病本の言葉を受け、彼の相棒は頬を膨らませたままそっぽを向いていた。あからさまに不機嫌だ。病本は苦笑いを浮かべ、もう一度<アリス>に声をかけた。


「良いよね、<アリス>。ちゃんと返事をして?」

「………」


 ぷいと明後日の方を向いていた<アリス>は、ようやく、視線だけをちらりと<悪食>へ向けた。だが観念したというには態度が悪い。頬を膨らませたまま、とことこと<悪食>の方に歩いてきた。虎顔の鼻先に額をくっつけるようにして、ぼそりと一言、こう言った。


「……チョーシにのらないでよね。ここの夢魔を倒すの、アリスとセンバローなんだから」

「はあ。それはそうでしょう。マスターがいなければ、私も大した干渉はできません」

「……そういう、余裕ぶったあんたの態度、アリス、嫌いなんだから」


<悪食>が病本の方へ視線を向けると、彼は額を押さえてため息をついていた。


 以前から、気の強い夢魔なのだろうとは思っていたが、なるほど。病本千羽朗の相棒とは、つまりこうした夢魔であるらしい。今までも何度か、レベル4の特権を生かして他のエクソシストエージェントのダイブに同行したことがあるが、初めて遭遇するタイプだった。


「ずいぶん、好かれてますね。病本さん」

「ええ、まあ……。でも、<悪食>さんだって先輩のこと好きでしょう?」

「さあ、どうでしょう。もちろん、好きで憑いているわけではありますけど」


 凌ノ井に聞こえるようにはっきり言ってやるが、彼の反応はない。このあたり、可愛げのないマスターだと、つくづく思う。


「センバロー! あなたも何か言いなさいよ! あなたが弱気で情けないせいで、アリスが代わりに言ってあげてるんだから!」

「うん。ありがとう、<アリス>。頼りにしてるよ」


 病本は、にこにこ笑いながら、<アリス>の頭をぽんぽんと叩く。すると、この夢魔は腕を組み、ふんと鼻を鳴らしてから、やはりそっぽを向いた。先ほどまでとは違って、頬に少し赤みが差しているのを見て、<悪食>は内心素直に賞賛した。

 やるな、と。


『病本のやつ、大人しそうな顔のわりになぁ……』

「見せつけてくれますね。マスターは頭を撫でてもれくませんのに」

『……言えばやってやるよ』

「遠慮しておきます」

『てめえ』


 病本の装備は、一冊の古ぼけた本があるだけだった。


 エクソシストエージェントは、夢の中では最低ひとつ、武器を身に着ける。凌ノ井は銃だ。鋸桐のこぎりはメリケンサック、倉狩くらがりはバールのようなものである。実のところ、その武器の形状に、大した意味はない。マスターが強力な武器を求め、その武器のイメージを、夢魔が思念体を練って反映して出来たものが、つまり武器になる。

 そこへ行くと、病本の『本』というのは、いささか変わったチョイスだった。


 気にはなるが、そこを追及している余裕はない。


「それで、病本さん。これからどうしましょう」


<悪食>はひとまず、彼の判断を尋ねる。


「宿主の容態などからして、おそらくこの夢に巣食っている夢魔はレベル2です。本来、レベル2はあらかじめの事前調査を経て、夢のルールに予測を立てるのがセオリーでしたが。今回はその余裕もありませんでしたね」

「ふふーん!」


 病本の代わりに、自信たっぷりに答えたのは<アリス>だ。


「これだから力押ししか出来ない夢魔とそのマスターは! 呆れちゃうんだから!」

『おい<悪食>、今、俺もバカにされたのか?』

「良識ある大人として、そこは流しましょうよマスター」

「ご心配なく、<悪食>さん」


 相棒の頭をぽんぽんと叩きながら、病本は古ぼけた本のページを開く。


「僕と<アリス>は戦闘は苦手ですが、情報収集は得意です。現実世界でも、夢の中でもね」

「ほう」

「<アリス>、調べものをしよう。夢の宿主、その背景、最近の悩みについて。わかることをすべて」

「もちろん! 張り切っちゃうんだから!」


 すると、本棚に納められた蔵書が、黒い粒子状になって消えていくのがはっきりと見えた。同時に、病本の手にしている本がうすぼんやりとした光に包まれ、白紙だったページに何かが勢いよく書きこまれていく。


『この本の数が、こいつのMP総量か』

「ええ。マスターで言うところの、時計の針ですね」


 <アリス>はぴょんぴょん本棚の間を跳ねまわって、その背表紙を撫でていく。彼女の手に触れた本は、やはり黒い砂粒になって消えていった。


「なるほど。今回の被害者は、どうやらエリート家系に生まれ、大学受験の失敗をかなり気に病んでいたようです」


 病本は本のページに浮かび上がった情報を閲覧する。


「両親のプレッシャーがあったみたいですね。そこから『認められたい』という欲望を強く抱くようになった。それを、夢魔に付け込まれてしまった形です」

『承認欲求か。あるあるだな』

「つまり、欲望のキーは『認められること』ですね。これが、夢の世界のルールのベースになっているはずです」


 ほう、と<悪食>は感心した。


「素晴らしい力ですね。私でも、夢の中でそんな器用な調べ物はできません」

「そうでもないですよ。今回みたいな状況だと凄い役に立ちますけど、基本的にこういったことは棺木ひつぎさん達が調べちゃいますからね。僕と<アリス>は、戦闘能力も高くないですし」

「ちょっとセンバロー! なんで胸を張らないのよ! センバローとアリスのタッグは、すごいんだから!」

「うんうん、そうだね」


 しかし実際、<アリス>が大口を叩くのも当然だ。レベル2の夢魔と戦う時は、情報がモノを言う。<悪食>もある程度、おそらくエクソシストエージェントが相棒に求める水準以上のリサーチ能力はあるはずだが、それでも使用には大量のMPリソースを必要とする。

 病本はその後、準備のために書架の本棚をさらに消費した。古ぼけた本のページを、更に文字が埋め尽くしていく。あるいは、この白紙のページこそが、彼の『残り時間』を指し示すものなのかもしれない。


「じゃあ、行きましょうか。<アリス>、繋いでくれる?」

「まっかせて!」


 すると、何もない空間にぼんやりと浮かび上がるように、巨大な鏡が出現する。病本と<アリス>は、躊躇なくその鏡に足を踏み入れた。鏡面に波紋が浮かんで、彼らは向こう側へと移動していく。<悪食>も、それを追いかけた。


 夢の中は、どうやら夢現境会の施設の廊下のようだった。人の気配はないが、奥はがやがやと騒がしい。

 病本は本を開き、廊下の壁などを探るようにしながら、慎重に歩き始めた。


 しばらく進んでいくと、廊下の壁には額縁に入った賞状が見られるようになる。ピアノコンクールの優勝から、テニス大会、学力試験、英会話スピーチコンテンスト、町内清掃、指名手配犯の逮捕協力。ごくごく当たり前にありそうなものから、意味の分からないものまで盛りだくさんだ。

 書かれている名前は全部同じだった。考えるまでもなく、夢の宿主のものだろう。


「見てくださいマスター、写真も飾ってあります」

『ん……、あぁ。本当だ。世界平和スピーチコンクール、って書いてあるな』

「映っているのは1人ではないようですが」


 写真の中央には、トロフィーを持った女性。その左右を2人の男が固めている。

 片方は、笑い皺の目立つスーツ姿の中年。もう片方は、やけに黒光りした笑顔の眩しい、黒人男性であった。どちらにも、見覚えはある。


「これ、こっちは夢現境会の会長ですよね」


 笑い皺の男を見ながら、<悪食>は確認を取る。病本は開いた本を片手に頷いた。


「そうですね。他にも写真はありますが、すべてに映っています」

「えぇと、それで、こちらの黒人男性は」

「アメリカの大統領ですね」


 病本はあっさりと答える。


「認めてくれる権威の象徴として、のキャスティングなんでしょうね。こっちの写真には、ハリウッドスターが映ってますし。有名人博覧会みたいになっています。当然、宿主にそういった人物たちとの接触経験はありません」

『スゲーな。悪夢のような取り合わせだ』

「実際、夢魔が見せている夢ですから、悪夢です。本人にとってどんなに都合のいいものでも」


 廊下には、賞状と一緒にたくさんの写真が貼りだされている。そしてそのすべてに、宿主の女性と夢現境会の会長が映っており、そして関連性のまったくない有名人が映っていた。

 凌ノ井の声は、最初呆れた様子でひとつひとつに感想をつけていたが、やがて黙り込むと、こう呟いた。


『これ、両親らしき人物と映ってる写真が一枚もねぇな』

「そう言えば」

『欲望のきっかけが両親との不和だって言うなら、どっかにいても良さそうなもんだが』


 この言葉に頬を膨らませたのは、<アリス>である。


「なによなによ! アリスとセンバローのリサーチにケチつけるの!?」

『いやそういうわけじゃねーんだが』

「じゃーあなたやってみなさいよ! どーせできるわけないんだから!」


 そう叫びながら、<アリス>は<悪食>に詰め寄る。


「あの、私は何も言ってませんが」

「あなたのマスターでしょ! 姿が見えないならあなたに詰め寄るしかないんだから! ちゃんとしつけておきなさいよ!」

『病本ぉ、おまえの夢魔、そうとうメンドくせぇんだけど……』


 すると、病本はニコニコ笑いながら、アリスの小さな頭にぽんぽんと手を置いた。頬を膨らませた彼女と視線の高さを合わせると、優しく言葉を説いていく。


「<アリス>、先輩はね。僕たちのリサーチが間違ったと言っているんじゃないんだ。むしろ、僕たちの調べたことと、今新しくわかった事実を照らし合わせて、新しい事実を導き出そうとしている」

「ふ、ふーん。そうなの。結構、見どころあるんだから?」

「次のリサーチをしよう。<アリス>、今、宿主がご両親のことをどう思っているのか。情報が増えた今なら、もう少しはっきりしたことがわかるはずだよ」


 こうして見ると、病本と<アリス>はなかなか良いコンビのように見える。少女の姿をした夢魔は、顔を赤らめながら視線を逸らし、腕を組んで、そして最後には小さく頷いた。

 病本が本を開いたままページをめくっていく。白紙のページを、黒い文字がびっしりと埋め尽くす。<アリス>は深呼吸すると、目を閉じ、その両手をそっと空間に掲げて見せた。しばらくの沈黙の後、夢魔が口を開く。


「……宿主も欲望は変わっていない。根っこのところにあるのは、両親に認めてもらいたいという気持ち。……でも、まだ、夢の中でも両親には会えていない……みたい」

『なるほどね』


 凌ノ井が頷いた。


『言われてみりゃあ、写真の中のお嬢さんも、ずっと寂しそうな顔のままだな』


<悪食>も、その言葉に同意を示す。


「認めてもらうことで快感は得られても、根っこのところが解決していないからですね。どうやら、この夢魔は焦らすのが好きなようです」

『いつぞやの金森かなもりサンと同じパターンかと思ってげっそりしたぞ』


<アリス>のリサーチによって、夢の内部構造がかなりはっきりしてくる。


 まず、宿主の欲望は『自分を認めてもらいたい』というものであり、その根源的な部分に、両親との不和がある。だが、両親との仲直りは夢の中でもできていない。夢魔はあえてその部分を先送りにして、宿主を焦らしている。

 夢のルールは単純なもので、宿主が何かを達成し、それを認められることで欲望が達成される仕組みだ。その中に両親の姿が無いだけで、宿主を過剰に持て囃す構造は出来ている。


 なお、夢魔が扮しているのは夢現境会の会長だ。

 そこまでわかるのか、と<悪食>は驚き、それを受けた<アリス>はたいそう機嫌を良くした。


「夢魔も宿主の精神も、この廊下の先にあるホールにいるようです」


 病本は通路の奥を指して言う。


『なるほどな。で、病本』

「はい」

『お前はここからどうやって攻めるんだ? 俺と<悪食>だったら、さっさと乗り込んで、夢魔に近づけばほとんど勝ちみたいなもんなんだが』


 夢魔を射程内に押さえ、凌ノ井が『閉じろ』と言えば、<悪食>は敵の夢魔を凌ノ井の夢世界へと引きずり込む。他人の夢へ連れ込まれ、宿主という供給源を断たれたレベル2の夢魔は極めて脆弱な存在だ。あとは、<悪食>のオヤツになるのを待つばかり、となる。


 だがこの戦法は、<悪食>の夢魔としての力量の高さに依存した、力押しのものだ。多くのエクソシストエージェントと、その相棒たる夢魔は、この間に敵の力を削ぐプロセスが必要になる。

 その手法は人それぞれだ。

 鋸桐は夢魔を直接殴って力を削ぐ。凌ノ井も敵の強さによってはそうした手法を取る。

 だが、病本と<アリス>はリサーチ能力に特化したコンビであり、直接戦闘は苦手ということだった。


「欲望の供給源を断ちます」

『まぁそうだよな。師匠のやり方がそうだ』

「今回は都合のいい条件が揃っていますからね」


 焦らすのが好きな夢魔にも、長所と短所がある。

 長所は、じっくりと溜めてから根幹的な欲望を叶えるため、そこまで到達した時点で宿主を泥沼に陥れることが可能な点。短所は、溜めている期間は宿主の夢に対する依存度が高くない点だ。病本が『都合がいい』と言った理由はここにある。


「僕と<アリス>なら、夢魔に隠れて宿主に接触できます。ご両親の姿を使って、先に説得にかかります。そう長くはかからないかと」

『具体的にあと何分くらいかかる?』

「そうですねぇ……」


 病本は、本のページをぱらぱらとめくる。まだ半分近く、白いページが残されている。


「リミットまで多少の余裕はあるんですが、急いだ方が良いですからね……。10分いただけます?」

『わかった。じゃあ後は任せたぞ』


<悪食>はそこで、凌ノ井の口調に少し緊張が混ざっているのに気づいた。


「マスター、私も戻った方が良いですか?」

『ああ。戻ってこい』

「わかりました」


 現実世界側からの救援要請だ。ここであちらが騒ぎになると、夢が結合した状態で、宿主と病本が目を覚ましてしまうかもしれない。それは危険だ。


「それでは、病本さん、<アリス>さん。頑張ってくださいね」

「はい。任せてください」

「あなたに言われなくてもわかってるんだから」


 虎の姿の<悪食>はぺこりと頭を下げる。そして、急いで意識を現実世界の側へと戻した。




『お待たせしました、マスター』

「ああ」


 凌ノ井は、ずいぶん短くなった吸殻を携帯灰皿に突っ込み、返事をする。


 先ほどからずっと、扉の前に立ちっぱなしだ。意識は現実世界こちら側にあったが、夢世界あちら側の情報もずっと頭の中に入ってきていたので、ちょっとだけ気持ち悪かった。

 夢の方は、病本に任せても大丈夫そうだろう。あとは彼の仕事に現実世界側からの邪魔が入らないようにする。夢現境会に、夢魔の手引きをしている人間がいるのなら、凌ノ井たちが何をしようとしているのかも、わかっているかもしれない。


 凌ノ井が<悪食>を呼び戻したのは、通路の左右からこちらに近づく人影を察知したからだ。徐々に足音が近づいて来て、凌ノ井の目にもはっきり知覚できるようになる。彼らはみな健康そうな出で立ちをした若者で、『健康』だの『平和』だのと書かれたTシャツを着ていた。


「ちょっとあなた、そこで何をしてるんですか!」

「このあたりは立ち入り禁止エリアのはずですよ!」


 言葉遣いは丁寧だったが、明らかな敵意と警戒心が滲み出ている。凌ノ井は懐からタバコを取り出し、もう1本、口にくわえた。


「あッ! この施設は禁煙ですよ!」

「それに煙草はいけませんよ! 健康を害します。煙草に含まれる成分は体内のエーテルを乱し、精神体マナスに悪影響が出るんです」

「アセンションの明らかな阻害になります。やめましょう」

『だそうですよ、マスター』


 頭の中で、<悪食>が愉快そうに笑った。


「じゃあお前みたいな性悪な夢魔しか憑かなかったのは、煙草のせいかもしれねーな」


 凌ノ井はぼそっとつぶやいて、取り囲む若者たちを見渡す。

 病本の話では、このあたりに監視カメラは無かったはずだ。室内にはカメラがあるのだから、どのみち変わらないが。ひとまず、さくっと終わらせてしまおう。


『マスター、キメ台詞を』

「おう。ガキども、目を覚ます時間だぞ」


 そう言って、凌ノ井がパチンと指を鳴らす。直後、周囲の若者たちは、糸が切れたように意識を失った。ばたばたと重なり合うように倒れる彼らを一瞥して、凌ノ井は煙草に火をつける。


「……あっけなさ過ぎて戦ってる気がしない」

『こういうのは一方的な蹂躙じゅうりんと言うんですよ』


<悪食>による精神攻撃を受け、彼らは表情を恐怖に歪めていた。凌ノ井は煙草をくわえたまま、彼らの身体をまさぐる。


『あッ、マスター。その方、女の方ですよ。いやらしい』

「何か持ってるかもしんねーだろ」

『じゃあなんでその方からまさぐるんですか?』

「それは俺がいやらしいからだな」


 とはいえ、Tシャツに半ズボンだから持ち物を漁ると言ってもたかが知れている。気絶した全員の身体検査をして、見つけられた目ぼしいものはメモ帳がひとつだけだ。ぱらぱらと捲ってみると、夢現境会の教えについてそれっぽいことが書かれている。


『何かわかりましたか?』

「この部屋が、くだんの高次元体と接触した人間をかくまっておく部屋、っていうのは間違いないみたいだな。一応、その辺のことがちゃんとメモってある。けど、そのくらいだ」


 メモの内容は、『高木たかぎさんが高次元体と接触』『高木さんを資料室に緊急収容』とある。資料室とはつまりこの部屋のことだろう。『後日、改めて岐阜本部に搬送』ともあった。

 ここまで来ると、やはり高次元体というのが夢魔のことで間違いはなさそうだ。あとは、夢現境会の人間が夢魔という存在をどれだけ理解して接触しているのか、それを確かめたい。凌ノ井は、改めて資料室とやらの扉を眺めた。


『……夢魔の反応が消えましたね』

「病本の奴、成功したみたいだな」


 凌ノ井は、ドアノブを回して扉を開く。もわっと香が滲み出てきた。凌ノ井は香を吸い込まないようにしつつ、室内の空調を回す。しばらくもしないうちに、部屋の空気はすっかり元に戻って行った。


「で、ここが資料室ってことは、高次元体についてまとめた資料なんかもあるわけだな」


 病本はまだ目を覚まさないが、ひとまず資料をあさることにする。

 書棚には大量の紙束がファイルにまとめられていた。適当に手に取り、断片的に眺めてみても、はっきりしたことはわからない。夢魔のことについて書かれていると言えばそんな気もするが。

 資料を適当に流し見していた凌ノ井の目に、ふと、ある文字列が映った。


<真昼の暗黒>。


 はっとして手を止め、凌ノ井は資料に目を落とす。

 そこには、ある高次元体のコードネームとして、<真昼の暗黒>という個体名がはっきりと記されていた。極めて強力な高次元体であり、十数年前に一度、夢現境会の会長と接触したことがある、と。そしてその後の足取りについても、こちらの思った以上に具体的に記述されていた。


『……ここに、いつどこで、どのような人物を天導てんどうした、と、書いてありますね』

「………」

『それで、そこの、最後の方に書いてある名前は……』


 そこに記された名前に、凌ノ井はやはりはっきりと覚えがあった。日付も一致する。


『つまり、天導するというのは』

「………っ!」


 冷静に思考し、言葉を発するのは難しかった。つまり、そう。ここに記されているのは、レベル4夢魔<真昼の暗黒>による、殺害の記録に他ならないのだ。ヒュプノスのデータベースにさえ、ここまで詳細な情報は残っていない。


 その名前は、凌ノ井鷹哉たかやのかつての恋人のものだった。

 思わず資料を握りつぶし、破り捨てそうになる衝動を堪える。これは重要な証拠だった。


『しかし、この資料によっても、やはり<真昼の暗黒>は長い間行方が途絶えていますね』


 淡々と語る<悪食>の態度がありがたかった。


「夢現境会と<真昼の暗黒>に、どれくらい繋がりがあるのか知らねぇが……」


 凌ノ井は沸騰しそうになる意識を抑え込んで、ファイルを閉じる。


「この資料はちゃんと持ち帰って、じっくり読み込まねぇとな……」


 そのとき、部屋の外でがたりと物音がする。凌ノ井は資料を小脇に抱えたまま、素早く振り向いた。鋭く研いだ警戒心を突き出していると、扉からひょっこり、見知った顔が覗いてきた。


「ああ、やっぱり凌ノ井さんだ」

「……んあ?」

「夢魔と<悪食>さんの気配を感じたので、いるかなと思った。知らない気配がひとつ消えたので、確認しに来た」


 綾見あやみだ。沫倉まつくら綾見だ。いつものぼんやりした表情で平然と語るものだから、凌ノ井は熱したばかりの感情と、研いだばかりの警戒心を持て余してしまう。その後、綾見の後ろからさらにひょっこりと、今度は知らない少年が顔を覗かせた。


「……あ、どうも」

「……こういうところはデートには向かないぞ」


 そう言えば、クラスの高木とかいう少年とデートに行く、という話を思い出し、辛うじてそれだけ言うことができた。


「私もそう思う」


 その返事がこれだ。


「あのな沫倉ちゃん。俺たちは今、危険な任務の真っ最中なんだ。外に転がってる連中、見たろ」

「うん。<悪食>さんにやらせたんだよね。ちょうど良かった」

「何が」

「高木のお姉さん。夢現境会から足を洗わせたくて、良い口実を探してたんだ。あとで説得するの手伝ってくれないかな」

「別に良いけど、どこにいるんだそのお姉さんは」

「たぶんそこ」


 綾見はベッドの上に横たわる女性を指さし、高木も苦笑いを浮かべながら頷いている。なんとなくそんな気はしていた。凌ノ井はため息をついて、頭を掻いた。思わず毒気を抜かれてしまったが、ようやく、事態が呑み込めて来る。

 綾見の後ろにいるイケメン少年は、お姉さんが夢現境会にハマっていて足を洗わせたがっていた。綾見も、ヒュプノスを通して夢現境会の胡散臭さを知っていたから、2人で足を洗わせる良い口実を探しに、この施設へ乗り込んだ。そして、凌ノ井たちが偶然見つけた夢魔憑きの女性は、ちょうどその高木少年のお姉さんだったわけだ。


「わかったよ。でも沫倉ちゃん、あとで説教な」

「えっ」


 綾見は無表情のまま、しかし声だけははっきりと驚いていた。


「勝手にこんな危ないことするんじゃねぇ。今回は俺たちがたまたま来てたから良いようなもんだ」

「でも」

「でもじゃねぇ。良いか、俺たちがやってるのは合法じゃねぇし、夢現境会に目をつけられるようなことでもある。そこに無関係の人間を巻き込むな」

「……はい」


 実際、ここに高木少年が居合わせているのは、ちょっと頭が痛い話だ。2人で施設内をちょろちょろしていたのは、監視カメラにもばっちり映っているだろうし。誤魔化しの効かない範囲ではないし、今回凌ノ井たちがやんちゃをした分のついでで処理もできる範囲ではあるのだが。


「……ごめんなさい」


 状況を理解したのか、綾見は素直に頭を下げる。


「……あ、なんか。俺もすいませんでした」


 隣の高木少年も頭を下げる。


「……あのう、それで、姉は大丈夫なんですか? なんかずっと寝てますけど」

「ん? ああ、大丈夫だ。夢現境会から足を洗わせる説得も手伝うよ。ここはロクなもんじゃなさそうだ」


 何はともあれ、そろそろ撤退した方が良いだろう。長居は無用だ。棺木に連絡を入れ、事後処理を頼む。彼が手を回せば、この施設だけでも機能停止に追い込めるだろうし、今は棺木の手を動かすに足るだけの資料も入手した。詳しい話は後回しだ。

 あとは、この施設から無事に出られるかどうか。まぁそこも、棺木が警察を止めてくれるから、そんなに心配しなくていい。


 寝つきが良い、と自負していた病本は、この会話の最中にもまったく目を覚まさなかった。蹴って叩き起こした彼に事情を説明して、ひとまずこの施設から出ることにした。




「さすがに今回は、骨が折れました」


 後日、スリーピングシープを訪れると、棺木は笑顔でそう言った。


「そりゃ悪かった」

「いえいえ。仕事でございますから」


 骨を折ったと語る棺木の仕事は、実際理想的なものだった。凌ノ井たちは結果的に、不法侵入やら暴行やらを大っぴらに働いたわけであるが、通報よりも棺木の根回しの方がはるかに早かった。何のお咎めもなく施設から脱走し、そして逆に、適当な理由をでっち上げて警察を施設の中へ踏み込ませた。監視カメラの不利な映像はすべて消去。一部にはヒュプノスの職員を紛れさせ、記憶処理も行わせた。


 結果、あれだけ大げさにやらかしておきながら、すべて無かったことになっている。


 もちろん、すべてを消しきれたわけではない。こちらの動きは、夢現境会の側にマークされる形となった。表面化はしていないが、おそらくこれから、夢現境会も明確な〝敵〟がいると理解して行動を起こしていくことになるだろう。


 高木姉弟に対しても、記憶処理を施した。姉も夢現境会からは今、少し距離を置いている。両親との関係改善には至っていないようだが、家にはきちんと帰るようになった。

 ただ、夢現境会から何らかの接触がある可能性も捨てきれないので、この姉弟にはしばらくの間、ヒュプノスからの監視がつく。


 そして、だ。


「凌ノ井様が回収なさった夢現境会の資料ファイルですが」


 ここからが本題だ。


「あの後、踏み込んだ警察にも押収させたものを含めまして30点ほど。いくらかは先に処分されておりましたが、夢現境会と夢魔の繋がりをはっきりさせるのに足るものでございました」

『夢現境会が夢魔を高次元体と呼び、人間にとり憑かせている、ということですよね?』

「さようでございます、<悪食>様。夢魔によって取り殺すことを、彼らは『天導』と呼び、肉体を捨てた高次元生命体に昇華したもの、と、会員たちに思い込ませているようです。ただ、本音として何を目的にしているのかまでは、情報不足でございました」


 棺木の話を聞きながら、凌ノ井は紅茶を口に運ぶ。


 目的が何であれ、夢現境会が夢魔を利用している、あるいは夢魔に利用されている組織であることは間違いない、ということだ。そして、その行動が人間を害する方向に働くのであれば、ヒュプノスとしては対処しなければならない。

 夢現境会の本部は岐阜にある。近いうちに、ヒュプノス側から具体的な動きを起こすはずだ。そしてその中には、いくらかのエクソシストエージェントも含まれる。


「そして、凌ノ井様。<真昼の暗黒>のことでございますが」

「………」


 凌ノ井は、カップをソーサーに戻した。表情がこわばる。


「あれは、我々ヒュプノスでも把握していない情報が記載されており、その後の足取りを追うのに大きく役に立ちました」

「それは結構だ。で、どこまでわかった」

「<真昼の暗黒>の最後の足取りでございます」


 今までの時点でわかっていたのは、その夢魔が凌ノ井の恋人を殺害した後、姿をくらませたという事実だけだ。だが件の資料によれば、その後<真昼の暗黒>は、もう1人誰かを殺している。棺木はそう言った。


「その誰かが誰かっていうのは、わかったのか?」

「はい」


 凌ノ井は、空になったティーカップに紅茶を注ぎながら、淡々と告げる。


「沫倉綾那あやな様という方です」

「……は?」


 思わず聞き返した凌ノ井。棺木はモノクル越しに、優しく微笑み、こう繰り返した。


「沫倉綾那様。沫倉綾見様の、実の、母親でございます」

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