第十一夜 夢現境会―罪の記憶―

 今でも夢に見る。暗い石造りの部屋の中。硬いベッドの上でうなされる彼女の姿を。


 当時はただ無知だった。何も知らないがゆえに、苦しみながら少しずつ弱っていく彼女のことを、眺めていることしかできなかった。思い出すたびに自分を責める。なぜ自分は、あの時何もしてやれなかったのか。

 当時の自分は悪童だった。誰か大人に知らせれば、きっと足がつく。それまでの楽しかった日々が終わってしまう。彼女と過ごした幸せな時間は、二度と、永遠に返ってこない。


 愚かだったと思う。結局、大切なものを失うのは、いつだって自分の愚かさのせいだ。


 ベッドの上で衰弱していく彼女の姿を眺めながら、頭の中にはずっと声が響いていた。

 いつかきっと、容態は回復する。彼女はすぐに良くなる。目を覚まして、いつものように微笑みかけてくれる。ここで大人に知らせてしまえば、また元通りだ。そうだろう。引き離されて、もう二度と会えないかもしれない。そんなことは、彼女だって望んでいない。

 頭蓋の中を反響するその声音は、まるで自分のものではないようだった。

 つまりそういうことだ。その声は自分のものではなかった。


 惰弱だったと思う。結局、大切なものを守れないのは、いつだって自分の弱さのせいだ。


 白昼だというのに、夜のとばりが落ちたかのように、部屋の中は暗い。心の中にも、頭の中にも、ただ黒い影が落ちていた。


 ある朝、目を覚ます。ベッドの上に絶えず留まっていた彼女の苦悶は、聞こえなくなっていた。頭の中に反響していた誰かの声も、心に重くのしかかっていた、暗くて黒い影も、なくなっていた。

 ほっと溜息をつく。悪夢は過ぎ去ったのだ。峠は越えた。これですべてが元通りになる。


 自分の弱さと愚かさを知ったのは、その直後だ。


 恐怖と絶望に歪んだ表情が、恋人の死に顔だった。


 直視した瞬間、再び心に影が這い寄ってくる。笑い声が頭蓋の内側に反響した。苦しむ恋人を前に、彼をこの石造りの部屋に縫い付けていた、あの誰かの声と同じもの。勝ち誇ったような哄笑が総てを物語っていた。

 笑い声をかき消すほどの慟哭が、自らの喉笛を引き裂いた。石造りの部屋を揺らした。自らの弱さを、愚かさを、醜さを嘆く。それでも、頭の中にこびりついた笑い声が消えることはない。


 それが、凌ノ井しののい鷹哉たかやが毎日見る夢であり、消し去りがたい罪の記憶だ。




「……だから、あいつが死んだのは俺の責任だ。それを転嫁しようってわけじゃない」


 ハンドルを握りながら、凌ノ井鷹哉はぼそりと呟いた。


「でも、あいつを殺したのはその夢魔だ。だから、そいつだけは見つけ出して俺が殺す。贖罪でもない。敵討ちでもない。そいつを殺したところで、俺の悪夢が晴れるわけでもない。ただそれでも、そいつは俺が殺す。ずっと、そういうつもりだった」

「先輩……」

「理由としてはそんなところだ。納得したか?」


 凌ノ井鷹哉と病本やまもと千羽朗せんばろうは、つい先ほど喫茶スリーピングシープを出た。


 病本が持ち帰ってきた情報。それは、夢現境会と夢魔<真昼の暗黒>の繋がりを思わせるものだった。<真昼の暗黒>は、かつて凌ノ井の恋人を殺害した夢魔だ。ヒュプノスにおいても退治されたという情報がなく、ここ数年、その足取りはまったく掴めていない。

 凌ノ井が毎日見せられる悪夢は、その<真昼の暗黒>に恋人を殺された日のものだ。あの時、凌ノ井自身の意識もまた、半ば夢魔に操られた状態にあった。レベル4夢魔である<真昼の暗黒>は、宿主以外の人間や、周囲の空間に対しても干渉ができる。彼女が死ぬまでの間、凌ノ井は膝を抱え、石室でじっとしているだけだった。助けを呼びに行こうとしなかったのである。


「……でも、先輩の意識を自由に操るなんて」


 助手席で病本は難しい顔をしている。


「<悪食あくじき>さんと出会ったのは、そのすぐ後なんでしょう? でも、先輩はその時点で<悪食>さんの支配をねじ伏せるだけの精神力があったんですよね?」

『私よりも<真昼の暗黒>が脅威、という話ですかね?』


 横から、当の<悪食>本人が首を突っ込んできた。


 エクソシストエージェントの絶対条件は、自分の力で夢魔の精神支配を脱する精神力だ。事実、凌ノ井は<真昼の暗黒>と同じレベル4夢魔の支配を退け、彼女を従属させることに成功している。そうして名前をつけられたのが<悪食>だ。

 凌ノ井の精神力は、ヒュプノスのエクソシストエージェントの中でも最高格である。修行前とはいえ、レベル4の支配をねじ伏せるだけの力を持つ彼を、自由に操れたのだとすれば。病本の言葉にはそういった懸念が含まれている。


 だが、<悪食>はこう続けた。


『もちろん、<真昼の暗黒>の支配力は恐るべきものです。が、マスターが良いように操られていたのは、力そのものよりも、精神支配の巧みさによるものでしょう』

「巧みさ、ですか」

『マスターは、恋人さんと一緒に暮らしていたその隠れ家を、誰かに知られたくない理由があったのです。そこに付け込まれたわけですね。欲望の間隙をつくやり方は、レベル2のやり方ですが、<真昼の暗黒>には、そこを使い分けるだけの巧妙さがあった、と』

「さすが、毎日あの夢を見せてくるだけあって詳しいな」


 吐き捨てるような凌ノ井の言葉に、鼻白んだ様子を見せたのは病本の方だった。凌ノ井もすぐに、自分の失言に唇を噛む。


「すまん。今のは当てつけだ」

『いやぁ、良いんですよ。生理現象とはいえ、趣味が悪いのは自覚してますからね。だからマスターも、こんな名前をつけてくれたんでしょう?』


<悪食>の言葉は、責めるようなものではない。


 毎日のように、あの日の夢を見る。夜が来るたび、恋人の死に顔を鮮烈に思い出す。

 二度と叶わない凌ノ井の夢を掬い上げ、それを反転させた悪夢を見せるのが、すなわち<悪食>の食事だった。


「……とにかく、今回の調査に先輩が同行したがる理由は、わかりました」

「悪いな。迷惑はかけないようにするよ」

「いえいえ。僕だけだと荒事は苦手ですからね。むしろ心強いですよ」


 やがて、凌ノ井の運転する車は、都内のオフィス街に鎮座する、巨大なビルの前にたどり着いた。


『ここが夢現境会の本部ですか?』

「支部ですね。本部は岐阜にあります。まぁ、関東では一番大きな支部ですよ」


 駐車場に車を入れ、改めてビルの前に立つ。


「……で? これから、どうするって?」

「中に入って調べます。盗聴器をしかけたり。必要なら、入れそうにないところにも忍び込もうかと。どうせ先輩と<悪食>さんもいますからね。やれることは、できるだけやっときたいかな」

『お任せください病本さん。邪魔者ははっ倒してあげますよ』


 すると、そこでやかましいバイブ音が、病本のコートの内側からがなり立ててきた。病本は、それに気づくと苦笑いを浮かべて、スマートフォンを取り出す。耳に当ててぺこぺこと謝り始めた。


『<アリス>さんがお怒りのようですね』

「みたいだな。ご苦労なことだ」


 病本の夢魔は嫉妬深い。病本もこんな性格だから、イニシアチブを握られっぱなしだ。それでも、きっちり主従関係は成立しているらしい。


「すみません、先輩」


 相棒からの御小言が終わり、病本は改めて、頭を下げてくる。


「いや……。お前も大変だな」

「はぁ。その……まぁ」


 苦笑いを浮かべて頬を掻く病本。


「それで? これって勝手に中に入って良いのか?」

「基本的にはオープンみたいですよ。興味があると言えば奥まで入れてくれるみたいですから……。あ、ちょっとすいません!」


 病本は、そのまま建物の中へ入って行こうとする中年女性に声をかけた。訝し気な顔で振り向く女性だったが、病本と何度か言葉を交わすうち、すぐにその表情を綻ばせる。若い男の甘いマスクに絆された。そんな様子だった。


「気の弱そうな顔して、あいつ結構やるな……」


 また相棒の夢魔に叱られるのではないかとヒヤヒヤしたが、どうやらこれは許してもらえるらしく、<アリス>はアプリ越しの自己主張をしてこない。病本はその後も少し中年女性と会話をしたのち、こちらに振り返って言った。


「先輩! こちらの女性が案内してくれるそうですよ!」

「ん、ああ……。わかった」


 建物に入るだけなのに、わざわざ会員に声をかける必要はあったのか?


 凌ノ井は頭を掻きながらそう思ったが、疑問はそのあと、すぐに晴れた。


「この人、一応幹部会に出入りしている人なんですよ。だいたいいつも、この時間にこの建物に来るそうで」


 女性に連れられて建物に入り、しばらくして。病本は凌ノ井にそっと耳打ちをした。


「だから、声をかけたの?」

「はい。幹部会の人と一緒に入れば怪しまれないし、情報を引き出せるかもしれないでしょ?」

「おまえのそういうところ結構好きだよ」


 施設の内部は、凌ノ井にも見覚えのある通路が続いていた。よく思い出すまでもなく、これは、あの田中たなか少年の夢の中で見たものだとわかる。あの時は、彼の心の中にある恐怖を反映してか、かなり薄暗く、おどろおどろしい雰囲気だったが、こうして実際に歩いてみると清潔感のある上品な廊下だ。


「あなた達、お若いのに感心よね。このセミナーに興味があるなんて!」


 おばちゃんは先を歩きながら、揚々とした声で言った。


「このセミナーはね。怪しい宗教とかとは全然違うのよ! さっき渡したパンフレットを見てくれればわかると思うけど、母体がとても大きな会社なの。人間の精神とか心理とかを科学的に解明して、これから私たちはどう考え、どう生きていくべきかを教えてくれるとても素晴らしい会なのよ!」

「なるほど、科学的に、ですか」


 凌ノ井はパンフレットを開く気にもなれなかったが、病本はニコニコしながら話を聞いている。


「そうなの。人間の精神っていうのはね。いくつかの大きなカテゴリーに分類できるらしいのよ。科学的に。私たちの意識を司っているのが高我エゴ、そしてその高我エゴが統率しているのが精神体マナスというの」

「人間の脳と肉体みたいな関係ですね」

「そうなの! 事前勉強もちゃんとしているのね! 感心しちゃうわ!」


 高我エゴ精神体マナス。元は神智学用語だったが、ヒュプノスでも意味を変えて用語として使っている。使い方は、今この中年女性が口にしたものとほぼ同じだった。気取ったような言い方が、凌ノ井はあまり好きではないが、意味はわかる。

 実際、高我エゴが脳で、精神体マナスが肉体だ。この2つは人間にもあるし、夢魔にもある。そこに、血液のように循環している精神力コーザルがあり、これを凌ノ井はMPと呼んでいる。


 夢魔の主食はMPだ。MPが切れると、精神体マナス高我エゴの繋がりが切れ、やがて高我エゴが朽ち果てる。これが精神的な死と呼ばれる状態なのだ。


「(この辺も、いつかちゃんと沫倉まつくらちゃんに説明しねーとなぁ)」


 天井を眺めながら、凌ノ井は懐からタバコを取り出そうとし、そしてやんわり病本に止められた。この施設は禁煙らしい。もっと言えば、タバコは精神力コーザルの流れを鈍化させ、精神体マナス高我エゴの結合を著しく鈍化させるというのが、夢現境会の教えらしい。そんなわけねーだろ、と精神力コーザル=MPをしょっちゅう相棒に食わせている凌ノ井は思った。


『偶然なんでしょうかね』


<悪食>が言った。


「使い方が同じってことか? まあ偶然ではない、とは言えないのがなぁ……」


 凌ノ井たちが知りたいのは、夢現境会と夢魔事件の関連性だ。そして、病本の盗聴内容にあった<真昼の暗黒>という単語が、凌ノ井の探している夢魔と同一の存在であるという確証も欲しい。

 だが、この中年女性の話からは、確たる証拠は得られそうになかった。


「大事なのは精神体マナスの結合。そして高次元体との接触なの。高我エゴをより一段階高い場所へ進めるためには必要なのことなのよ」

「出会ったことはあるんですか? その高次元体に」

「残念だけど私はまだなの。でも、既に接触に成功した会員は何人かいるわ。そういう人たちはね、望めばこの施設の中でアセンションを待つことができるの。高我エゴの次元上昇に成功した会員が増えれば、彼らがひとつ上の次元から私たちを導いてもくれるのよ」


 この、高次元体という言葉が、夢魔であるのか、あるいは単なる妄言の産物であるのか。そこが問題だ。


『気になることを言いましたね。接触に成功した人は何人かいる、と』


<悪食>の言葉に、凌ノ井は頷いた。


『そういう人たちが、施設の中にいる、とも』


 凌ノ井は、もう一度頷いた。


 もし、その高次元体との接触というのが妄言の類でなく、実際に夢魔という精神生命体に寄生される事実を指しているのだとすれば、この施設の中には夢魔の反応があるはずだ。凌ノ井は、少し前を歩く病本に視線を送り、病本も、こちらを見て小さく頷いた。


「そうだ! あなた達、運が良かったわ! 今日はね、違崎ちがさき先生のおはなしが聞ける日なのよ! せっかくだからホールにいらっしゃいな! すごく感動できるお話が……」


 陽気な声でまくしたてながら、中年女性はこちらに振り向く。


「悪いな、おばちゃん。あんたに罪はないんだが」


 凌ノ井はそう言って、人差し指を女性の顔に突き付ける。


「え?」

「あんたの望む高次元体って奴を見せてやる」


 ぱちん、と指を鳴らす。瞬間、<悪食>が中年女性の精神に襲い掛かった。瞬間的なトラウマを誘発し、肥大化させ、高我エゴ精神体マナスを麻痺させる。女性は悲鳴を上げることなく、白目を剥いて気を失った。倒れかかった女性の、割とふくよかな身体を、病本の細い腕が受け止める。


「そういうことだ。病本、夢魔の気配を探す」

「わかりました。それが良さそうです」


 病本は、そっと女性の身体を廊下に寝かせた。


「廊下には監視カメラがあります。僕は設置場所を把握していますから、見つからないように動きます。ついて来てもらっていいですか?」

「こういう状況だと、本当に頼りになるなお前……」




『つまりねあなた達。世界は今、穢れに満ちている。いやね、私は別にスピリチュアルな話をしているわけじゃないんですよ。でもこれが何も知ろうとしない人間からは同じに見えるらしいんだよね』


 どっ、と会場で笑いの渦が巻き起こる。ツボがまったくわからない。


『でもあなた達は知っている。これはオカルトでも宗教でもない。立派な科学なんです。我々のきちんと学術的にも証明されている。我々は肉体と精神の2つを持っている。肉体や物質に縛られることがどれだけ愚かなことはみなさんは知っている。そうじゃないですか?』


 沫倉綾見あやみは、今、薄暗いホールの中で、胡散臭い男の話を聞いていた。男には見覚えがある。笑い皺の目立つ、福耳の中年男性。まず田中の家の中で写真を見、そして夢の中で夢魔の扮した姿を見た。違崎という男、夢現境会の創始者である男だ。

 今日はホールで違崎という男のありがたい話が聞けるというので、とりあえず高木と一緒に拝聴することにした。これが週に一度しかないイベントだというからどんなものかと思ったら、違崎は実際に登壇することはなく、スクリーンに映像が映し出されるだけというのだから、まずたまげた。


 そして今、矢継ぎ早に繰り返される胡散臭い話に、たまげたを通り越してドン引きしていた。


『世界は今、穢れに満ちている。政治家や大企業の汚職。環境汚染。物質も精神もみんな汚れてしまっている。残念だけど皆さんもそうです。そして私もそう。これだけ汚染された世界で生きているのだから、どうしても穢れからは逃れられない。我々の肉体は、もう我々の力ではどうにもならない状態になってしまっているんです。ですが希望を捨ててはいけません。まだ皆さんには汚れていない部分がある。どこだかわかりますよね? ……そう、精神体マナスです。だからこそ我々は肉体を捨てる覚悟が必要なのです。垣根を取り払い、精神体マナスをひとつのものに結合する。それによって我々は魂の家族となることができる。ですが我々はまだ、肉体を捨てて生きることはできません。これは科学でも証明されている。だからね、大事なのはアセンションなんです。高い次元に上昇することができれば、我々は合一化した精神体マナスのもとで、生きていくことができる。それを忘れてはいけないと思いますね。そのためには、』


「沫倉、俺もう出たい」


 高木たかぎがげっそりした顔で言った。


「そうだね」


 綾見もぼんやりした顔で頷いた。ありがたそうに話を聞いている会員や、滂沱ぼうだの涙を流している会員たちの横をすり抜け、綾見と高木はホールの出口へ向かう。途中、なぜ退席するのかと引き留められもしたが、『あっ、会長が素晴らしいことをおっしゃっている!』と気を逸らさせた隙に脱出した。塾があるからとか、体調が優れないからとか、そういった真っ当な言い訳で出られる気は、最初からなかった。


「凄かったなぁ。ここまで胡散臭い会だとは思わなかった」


 クラス一のイケメンは、苦笑いまで爽やかだ。装飾は煌びやかだが、窓のない壁に背中を預け、綾見は首を傾げる。


「そうかな。私は最初からこんな気がしていた」

「マナスだの魂だの言ってるのが?」

「うん。科学科学って言いつつ何の信憑性もないのは、田中んちの時点でわかってたし」


 凌ノ井鷹哉は、この夢現境会と夢魔の繋がりを疑っていた。綾見も同じ疑いを抱いている。


「姉ちゃんの姿、ざっと見てきたけど、無かったな……」

「この建物に来てないのかな」

「うーん。まったく別の理由の家出とか、それはそれで心配だけど……。でも、この建物も広いから、もうちょっと探してみたい。良いかな」

「ん」


 それにそう。高木の姉のことも心配だ。こちらは単純に、高木の友人として。


「付き合ってくれてありがとな、沫倉。さすがに、俺ひとりじゃ不安だったよ」

「約束守ってくれるなら別に良いよ。あと、高木」


 さっそく、通路を歩きだそうとした彼を、綾見は後ろから引き留める。


「ん? どうした?」

「そっちは嫌だ。先にこっちから調べよう」


 袖をぐいと掴んで、引っ張る。


「え? な、なんで? そっちはさっき歩いてきた方……」

「付き合ってあげてるんだから、これくらいのわがままは聞いてほしい」

「え、ええ……?」


 いきなり困惑を露わにする高木を、綾見は強引に連れていく。


 仕方のないことだ。


 高木が進もうとした方向からは、はっきりとした気配を感じる。以前まで感じることのできなかった、明確な存在の気配。つまり夢魔の気配。そして、3つあるうちの1つが、あの<悪食>であることも、綾見には知覚できていた。

 凌ノ井が夢魔退治に来ているというのであれば、ここで高木を連れていくのは明確な足手まといである。ひとまず、あちらを探すのは、夢魔の気配が1つ消えてからにするべきだ。


「沫倉、おまえ、なんかヘンだぞ?」

「私は、もとからヘンな奴なんだよ。知らなかったの?」


 やり込めるつもりはなかったが、グウの音も出ないと言った様子で、高木が黙り込んでしまう。

 綾見としては、それはそれで、割と不満であった。




 探索からしばらくもしないうちに、夢魔の気配を感知する。その部屋というのが、病本の話では監視カメラの設置されている部屋のようで、ますます疑いを強めた。外にいてもしょうがないので、監視カメラに映るのは覚悟のうえで、部屋に足を踏み入れる。


 部屋の中は病室のようになっていた。白いベッドの上に女性が寝かされ、戸棚には本や薬品が並べられている。明らかに夢魔が憑いている。うなされている様子はなく、まだレベル2の段階だと思われた。

 机の上には、カルテが置かれている。ちらりと確認してみると、それは夢魔に憑かれた女性の経過報告のようであった。『安全にアセンションへ至るため、当施設での収容を決定』という記述もある。ここまでの要素を繋げていくと、さすがに疑いようもない。少なくとも夢現境会の中に、夢魔の寄生を手引きするか、そこまで行かなくとも夢魔への迎合を促す人物がいるのだ。


 疑いようもなくなった時点で、問題はこの女性をどうするかである。


「どうする? 機材もないし、監視カメラで見られてるから、そのうち誰か来るぞ」


 病本は、女性の顔から眼を離さないようにしつつ、答えた。


「ちゃちゃっと片付けちゃいましょう。僕が潜ります。寝つきが良いんで」

「まぁ、お前の寝つきに関係なく、そうせざるを得ないよなぁ」


 夢の接続中に叩き起こすのは厳禁だ。2人の精神が混濁する可能性がある。

 となれば、起こされないようにどちらか片方が待ち受けるしかないのだが、そうなると荒事が得意で<悪食>による精神干渉攻撃ができる凌ノ井が、サポーターを務めることになる。


「一応、少量ではありますが機材で使ってるのと同じ香があるんで、これを焚きましょう」

「ガスマスクは?」

「無いです。ですから、先輩には外で待機してもらうことになりますね」


 ま、そうなるか。コートから小さな袋を取り出す病本を見て、凌ノ井は頷いた。

 彼はこう言った準備を怠らない。ただ少量の香を焚くだけでは長い間催眠状態を保てないが、どのみち長時間のダイブを許すような状況でもない。


「……あ、先輩。ライター借りて良いですか?」

「そういうのは忘れるんだな……。ほらよ」


 手前のジッポライターを投げて渡す。病本は、テーブルの上にあった小さな皿の上に、乾燥した草を並べ、そっと火をつけた。ぶすぶすと煙が上がり始める。凌ノ井は、自分で香を吸い込まないように、一度部屋の外へ出た。


「<悪食>、おまえ、病本について行ってもらっていいか?」

『構いませんよ。とはいえ、精神の接続をするわけではないので、あまりお力になれるかはわかりませんが』

「病本は情報集めは得意だが実戦はそうでもない。できれば俺もついていきたいんだが」

『無理です。マスターの意識はひとつしかありません。半分に分けて片方持っていくとかはできませんよ』


 レベル4夢魔である<悪食>は、同時に複数人に対して干渉を行うことができる。ここで凌ノ井と会話をするのも、他人の精神に干渉するのも、マルチタスクとして同時並行で行えることだ。<悪食>が夢魔単体で夢の中に潜り込むのは、単なる精神干渉であって、不可能なことではない。

 ただ、凌ノ井の意識を連れていくとなると別だ。これは夢の接続を通して行うことである。


「まあ、俺を連れて行かなくても良い。ただ、おまえを通して、病本と連絡が取れるようにしておきたい」

『それくらいなら簡単です。任せておいてください』


 凌ノ井は腕を組んだまま、背中を扉に預けた。


 かなり大事になってきた気もする。これは事後処理が相当面倒くさくなりそうだ。まぁ、それは自分の仕事でないにしても。

 どのみち、これで夢現境会と夢魔の関連性を、ヒュプノスに報告できるようになる。そうすれば、組織から本格的な捜査のメスも入るだろう。


<真昼の暗黒>に関する情報も、手に入るかもしれない。


 凌ノ井はひと目につかなくなったところで、懐からタバコを取り出す。そして、ライターを病本に貸しっぱなしだったことを思い出して、すぐさま舌打ちをした。

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