第九夜 ナイトメア―オーバー・リミット―


「ぬゥゥゥッ! ナ、ナかナかやるナ……!」


 夢魔は、顔に汗をびっしりと貼り付けながら呻いた。


「だが……! ワタシに、勝てるかナ!」

「この状況でよくそんな大口を叩けるなぁ……」


 言葉は軽いが、凌ノ井しののいは油断をしない。銃を構えたまま、正面の夢魔を睨みつけた。


悪食あくじき>の生み出した巨大な思念体が、拳を振り上げる。普段ならこんな大げさな思念体は使わない。夢の世界は、いわば宿主の精神世界であり、過剰な破壊活動は宿主の中にある記憶や思い出といった要素を壊すことにも繋がるからだ。

 だが、レベル3以上の夢魔が相手となれば話は別である。夢世界のルーラーは夢魔であり、生み出されるシチュエーションやステージ、登場人物の1体1体に至るまで、すべて夢魔の思念体である。そうなれば、<悪食>は容赦をしない。更に進化した、《悪魔》としての力を十全に振るって、目の前の敵を追い詰める。


 思念体の拳は、床を砕き、残っていた敵の思念体をすべて蹴散らした。壁の砕けた先には、何もない闇が広がっているだけだ。凌ノ井は、人間ほどの大きさもある瓦礫の上を跳ねるように移動し、砂塵をかき分け敵へと迫る。


「んナッ!?」

「うおりゃっ!!」


 足を高くあげ、回し蹴りを頬骨めがけて叩き込む。よろけた夢魔の腹に、続けてもう一発ヤクザキックをお見舞いした。瓦礫の中へ倒れ込む夢魔。この距離ならば確実だ。銃口を向け、引き金を引く。


 乾いた音が響く。血がはねない代わりに、きらきらとした思念の欠片だけが飛び散った。


 夢魔は実体を持たない。言ってしまえば、その全身がヒットポイントのようなものだ。強い力をぶつけて、身体を少しずつ削り取っていく。そしてその強い力というのが、相棒の夢魔から貸与される思念体の武器であったり、あるいは強化されたエクソシストの精神体そのものであったりする。

<悪食>は強力な夢魔だ。ちゃちな拳銃ひとつとっても、思念体の怪物一体を一撃で葬るだけの力があるし、彼によって強化された凌ノ井の身体は、夢の中においてレベル2程度の夢魔であれば互角に渡り合える。


 だが相手は腐ってもレベル3。多少、銃撃を撃ちこんだ程度では倒せない。


「そう簡単に倒せるとは思わないことだナ!!」


 凌ノ井に胸元を踏みつけられたまま、夢魔はぱちんと指を鳴らした。


「マスター、飛び退いて!」

「ん? うおっ!!」


 背後から聞こえた<悪食>の言葉通り、凌ノ井は敵の夢魔から離れる。直後、まるで床がネズミ捕りのように持ち上がって、先ほどまで凌ノ井が立っていた空間を挟みつぶした。ばちん、という音がしたのち、床はゆっくり戻っていく。

 敵の夢魔は、ふわりと宙に浮かび上がり、まるでワイヤーに吊るされたような不自然な動きで距離を取った。床からは、更にモコモコと壁がせりあがってくる。更には、周囲の砕けた壁までも、徐々に修復され始めた。


 少し前まで何の変哲もない、単なる廊下でしかなかった空間。そこにささやかな迷路が建造されていく。凌ノ井は壁に向けて、引き金を引いた。乾いた音がして、壁は砕け散る。


「ちくしょおー! こんナ強いエクソシストエージェントが来るナんて聞いてナいぞ!」


 迷路の奥から、悲痛な叫び声が聞こえた。

 この夢世界のルーラーである夢魔は、自在に環境を作り変えることができる。だがたいていの構造物は、<悪食>の力の前では豆腐を積み重ねたようなものだ。凌ノ井が合図をすると、<悪食>は咆哮と共に壁にとびかかって、ひとつひとつを粉々に叩き壊していく。


「運が悪かったんだよ。諦めろ!」

「ふざけるナ!」


 壁をひとつ、またひとつと壊していく。どんどん夢魔の声が近づいてきた。


「ワタシはまだ負けたわけではナい……!」

「でもこれ、どう見たって勝ち目がないですよ」


 そう言って、<悪食>は壁に向けて猫パンチを一発。

 実際、彼女の言葉通りだ。相手は必死に抵抗し、足掻いているが、力量差は歴然である。だが凌ノ井には、少しばかり夢魔の態度が気になっていた。抗う手段が無ければ、逃げればいいのだ。どうせすぐに追いつくが、少なくとも迷路の中に引きこもるような消極的な手段よりは、よほど可能性が高い。エクソシストエージェントには、タイムリミットがあるのだし。


「<悪食>、少し警戒しろ」

「……マスターがそう言うのなら」


 それでも、足を止める理由にはならない。最後の壁を、<悪食>の猫パンチが粉砕した。


 そこには先ほど同じ、中年男性の姿を模した夢魔がいる。モデルは件の宗教団体の教組サマだ。彼は、壁にぴたりと背中をつけ、汗を掻きながら凌ノ井たちを見つめている。


「わ、ワタシを食べてもおいしくナいぞ……!」

「俺もそう思うんだが、そういうのはこいつが決めるんだよな……」

「私はまずいのもちゃんと残さず食べますので、ご心配なく」


 ぺろりと、舌で口周りを舐める<悪食>。


 だがこのさなかにも、凌ノ井は警戒を緩めなかった。逃げようと思えば、もっと遠くに逃げられたはずだ。それこそ、宿主のもとにだって。宿主が恐怖を感じれば感じるほど、欲望が絞られてそれは夢魔の力の糧となる。追い詰められた夢魔が、よく取る行動のひとつだ。


「マスター!!」


 夢魔が天を仰ぎ、叫び声をあげた。

 それは、<悪食>が凌ノ井を呼ぶときのもと、まったく同じ言葉を口にしていた。


「おお、マスター! ワタシに力を! ワタシはあナたの為に、これほどまでに尽くして戦っているッ!」

「……殺せッ、<悪食>!!」


 凌ノ井はすぐさま命じた。放置しておく方が危険だと、そう判断したのだ。

 白い毛並みを持つ、しなやかな虎が、唸り声と共にとびかかる。凌ノ井もまた銃を構え、正確な狙いと共に引き金を引いた。乾いた音。白い光が飛び散り、喉元に牙を突き立てられようと、夢魔の不気味な嘆願は終わったりしなかった。


「マスタァァー! ワタシにっ! ワタシにぃぃぃぃぃぃっ!!」


 果たして、その〝マスター〟とやらに、願いは届いたらしい。不意に天井が切り裂かれ、光が降り注ぐ。<悪食>の牙を突き立てられた夢魔に向けて、その光はまっすぐに伸びた。


「マスター!!」


 その叫びは、白い毛並みの虎から放たれた。凌ノ井は、重なる2つのシルエットに向けて銃口を向けた。


「おうよ。恨むなよ、<悪食>!」


 引き金を引く。乾いた火薬音。弾丸が飛び出す。

 思念体を一撃で消し飛ばすほどの銃撃は、まず<悪食>の身体をぶち抜いて、その奥にいる夢魔の身体を弾き飛ばした。しかしそれでも、夢魔は倒れない。<悪食>の顎を掴み返し、そのまま、床へと叩きつけた。


「っくぁ……!」


 悲鳴をかみ殺すような声が漏れる。凌ノ井は、叩きつけられた相棒ではなく、まずは敵を睨んだ。

 天井から降り注ぐ光を受け、夢魔が絞り出した力は、格上である<悪食>の攻撃を辛うじて退けている。凌ノ井からすれば、驚嘆に値することではあった。

 しかし驚くのも、状況を分析するのも、今でなくともできること。凌ノ井は銃を向けたまま、距離を詰めるように駆けだした。


「おおっと……!」


 夢魔がニタリと笑う。


「そうはいかナい……!」


 笑い皺の目立つ中年男性の身体つきが、明らかに変化していた。腕がごつごつとした、石のような肌で覆われている。床に叩きつけられ隙を見せた<悪食>の身体を、夢魔は持ち上げて盾とした。ふん、と凌ノ井は鼻で笑う。


「くだらねー真似するのはよしな!」


 引き金を引くのに躊躇はなかった。銃口から飛び出す弾丸は、再び白い虎の身体を貫通し、背後の夢魔へと届く。腹部に走る激痛に、男がわずかに顔を歪める。その隙に乗じて、<悪食>もまた姿を変えた。


「ふッ!!」


 白いスーツを着た女の姿。身体には、2つの痛々しい銃創が残る。彼女は、反撃の肘鉄砲を夢魔に見舞って、その腕からようやく逃れる。


「申し訳ありません、マスター。油断しました」

「いや、俺が慎重になりすぎたせいだ。さっさと決めとけばこうはならなかったな」


 銃弾2発を受けた程度で、<悪食>は死なない。この銃自体が、彼女の生み出した思念体なのだ。

 だが、傷を負った状態で全力は流石に出せないだろう。加えて敵の方は何か――俗な言い方をすれば、パワーアップを果たしている。彼が、〝マスター〟と呼んだ存在の手によって。


 腕が石肌のように変化した夢魔だが、口元に勝ち誇ったような笑みを浮かべて立っている。

 そのまま、こちらに攻撃を仕掛けてくるかと思われた夢魔だが、不意に、何かに気づいたように動きを止めた。


「……お前たちの相手をするのは、また後だナ」

「あ?」


 思いっきり眉をしかめ、行儀の悪い聞き返しをする。夢魔はそれ以上こちらにとり合おうとしなかった。背中に大きな翼を広げ、背を向ける。凌ノ井は一拍遅れて銃を向けるが、すぐさま夢魔は、崩れ去った廊下の向こうへと消えていってしまった。


「なんなんだあいつは」

「〝マスター〟と言っていましたね。力を与えるパトロンのようなものがいるのでしょうか」

「俺とおまえみたいな関係ってことは?」

「ないでしょうね」


 敵もまた、夢魔を飼うエクシストである。その可能性を、<悪食>はばっさり否定した。


「外側から夢魔にご飯を与えるなんて、普通の人間にはできませんよ」

「あの光はエサだったのか?」

「まあ……、そうですね。隠す意味はないので特に言っちゃいますが、あれも夢魔ですよ。組織ではレベル1と呼んでいる、我々の幼体です」

「夢魔が夢魔を食うのは別に今更驚くことじゃねぇが……。さすがに、それだけだとワケがわからんな」


 <悪食>が強いのは、単にレベル4だからだけではない。彼女が文字通りの『悪食』だからだ。夢魔の強さは食った量に比例する。窮地に陥った夢魔に、幼体の夢魔を餌として与えパワーアップを図る。その流れ自体はスジが通っている。


 だがワケがわからない。手段も、目的も。


「………」

「どうした。黙ってると気味が悪いぞ」

「いえ。『考えるのは後にしましょう。マスターの頭で知恵を絞っても結果は同じですよ』と言おうと思ったのですが、さすがに私の不手際もあって敵を取り逃がしたばかりですので、それを言うのはどうかなと迷っていたのです」

「もう言っちゃったな」


 凌ノ井はため息をつき、銃をベルトにねじ込んだ。


「おまえはそういうこと気にするキャラじゃないんだから、気楽に来いよ。まずは、追うぞ」

「はい、マスター」


 敵は明らかに、自らの意思で戦いの中断を選んだ。時間稼ぎを狙うにしては不自然すぎる。おそらく、宿主の精神に何かしらの異変が発生したのだ。つまり、放っておけば、件の田中たなか少年が危ない。


「マスター、よくないお知らせがあります」

「まだあんのか」

「リミットが近づいています……。気を付けてください」


 凌ノ井は、懐から夢時計を取り出し、確認する。


 夢の世界に留まるには、相棒である<悪食>の保護プロテクトを受けなければならない。彼女の力を引き出すには、対価として凌ノ井の精神力――彼は手っ取り早く、MPと呼んでいるモノを、支払い続ける必要がある。MPの残り具合を可視化したものが、夢時計だ。

 タイムリミットを戦いのコストにしていると言い換えても良い。リミットが尽きれば、MPを使い果たした凌ノ井の精神は死ぬ。そのリミットが近づいていることを、<悪食>は告げたのだ、


 彼女は撤退を提案している。凌ノ井はそう思った。状況は限りなく不利なのだ。だからこそ、凌ノ井はこれ以上<悪食>の方を見ず、言った。


「よし、さっさと片づけるぞ」

「……そう言うと思いました」




「最初は、楽しい夢だったんだ」


 田中が、ぽつり、ぽつりと話し始める。綾見あやみはそれを聞きながら、周囲に視線を配った。

 狭い室内、壁は書架だ。蔵書はいずれも、見たことのない背表紙をしている。目を凝らせば、『6歳の健介けんすけ』『8歳の健介』『楽しかったこと』『辛かったこと』など。アルバムかと思ったが、すぐに否定する。これはおそらく、田中健介の記憶である。

 つまり、この狭い部屋は田中の心そのものなのだ。彼は、その心の中に、閉じ込められていたということになる。


「父さんも母さんも、変な宗教をやめて。僕は部屋に閉じこもる必要なんかもなくって。家でも学校でも、楽しく過ごせてた。そんな夢を見てたんだけど。最近になって、急に……」

「悪夢になったんだ」

「うん……」


 綾見は、書架から田中へ、視線を戻した。


「悪夢って、どんなの?」

「えぇと……。こんなの、だよ」


 泣きはらした顔のまま、田中は苦笑いを浮かべる。


「あの、……言うの、恥ずかしいんだけど、さ」

「うん」

「僕、狭いところとか、暗いところとか、その……怖いんだよね。幼児、体験でさ……」

「そうなんだ」


 ぼんやりした顔で頷く綾見は、傍から見れば真剣に聞いているようには見えない。だが、今彼女は心の中で合点が行っていた。この狭い書物庫。田中の心の中に閉じ込められていたのは、まさにその恐怖心を刺激するためのものなのだ。

 子供の頃は、悪戯をするとすぐに押し入れに閉じ込められたりしたものだという。スパルタ教育だったんだな、と綾見は思う。生まれつき、両親の教育というものを受けたことがないから、それが一般的なのかどうかまでは、わからない。綾見の育った養護施設では、きちんと教育を受けた大人が正しい手順で叱ってくれたものだ。


「田中、今も怖い?」

「うーん……。この状況が、って言うなら……。そうでもない。沫倉まつくらさんが、来てくれたし……」


 後半の声は、ちょっぴりか細くなっていた。田中は恥ずかしそうに、視線を逸らす。

 まあ男の子だしな。綾見は頷いた。同級生の女子に助けられるというのは、かなり恥ずかしいことに違いない。


 そこで、綾見はふと気づいた。いつの間にか、扉をバンバン叩いていたあのおばさんの声が、聞こえなくなっている。


「田中の両親、妙な宗教にハマってるんだっけ」

「うん。2人とも、『宗教じゃない』って言ってるけどね……」

「そうなんだ」

「うん。なんだっけ。『生活意識向上セミナー』だって。でも僕から言わせれば宗教」


 あれにハマってしまってから、両親はおかしくなった、と、田中は寂しげに語った。

 彼の悪夢の象徴は、2つだ。その『妙な宗教』と、そして『暗闇と狭い場所』。これがある限り、彼は悪夢にさいなまれ、心を搾り取られていく。


「沫倉さんも、気を付けた方が良いよ。いや、沫倉さん自身はしっかりしてるから、平気だろうけど」

「気を付けておく」

「なんちゃらセミナーとか言ってる割に、そのセミナーの名前がめちゃくちゃ胡散臭いんだよね……。確か、〝むげんきょうかい〟とか言って」

「むげん」

「うん。夢を現実にするから、夢現境会」


 不吉な符牒だと、綾見は思った。〝夢現境会〟という怪しげなセミナーにハマっている夫婦と、そのセミナーを拒む息子。その息子に夢魔がとりつき、レベル3に成長するまで、両親が一切病院に連れていかなかったというのは、果たして偶然なのだろうか。


 綾見が考え込んでいた、その時だ。


 ばん、という大きな音がして、扉に何かがぶつかった。田中がびくりと肩を震わせる。綾見は彼を庇うように片腕を上げ、扉を睨んだ。すりガラスの向こうに見えるシルエットは、明らかに先ほどのおばさんのものではない。男性のものだ。

 扉の向こうで、男が腕を振り上げる。拳が、何度も何度も扉を叩く。それまで、綾見以外の手では決して開けられなかったその扉は、次第に無遠慮な音と共にひしゃげていく。綾見は、背後で必死に恐怖をかみ殺そうとする、田中の態度に気づいていた。


「(こいつ……)」


 田中の心をいたぶっている。綾見に芽生えたのは怒りと嫌悪であった。


 やがて扉がはじけ飛ぶ。向こう側に立っていたのは、鼠色のスーツに身を包んだ1人の中年男性だった。笑い皺の目立つ顔に、穏やかな表情を浮かべているが、その腕は石のように変質し、肥大化していた。

 見たことのある顔だ。田中の家で。写真にうつっていた男だ。すなわち、彼がセミナー・夢現境会の会長。おばさんが言っていた、違崎ちがさきという人物。正確には、その姿を模した、夢魔。


「いけない子ですね、健介くん」


 ねっとりと粘りつくような声で、違崎は言った。


「ご両親をあまり悲しませるようなことをしてはいけない……。あなたにはもう一度、特別な指導が必要のようだ」

「い、いやだ……」


 田中は涙声のまま、綾見の服を掴んでくる。違崎の口元が吊り上がった。彼が腕を掲げた途端、異変が起きる。服を掴んでいた田中の手が、不意に、離れた。


「いっ、やだ! いやだああああああっ!!」


 涙の混じった絶叫に背筋が凍る。綾見がはっと振り返ると、空間にぽっかり空いた暗い闇の中に、田中が吸い込まれていくところだった。あの向こう側に何があるのか、嫌でも理解できる。暗くて狭い。ただ、彼の心を恐怖で苛む為だけの空間。


「田中!!」


 綾見が手を伸ばす。瞬間、暗い闇の穴が弾けるようにして掻き消えた。伸ばした手は、助けを求める田中の手を、確かに掴み返す。彼女はぐいっと腕を引き、少年の身体を抱き留めた。


「ナ……!」


 違崎が、驚くような声をあげるのが、わかった。


「聞いて田中。あれは夢魔。きみの欲望を糧にしている。そして今は、恐怖できみの心を搾り取ろうとしている」

「む、夢魔……?」

「大丈夫。悪夢は醒める。夜は明ける。朝は来る」

「それは、果たしてどうかナ……?」


 綾見の言葉に、違崎が被せてくる。綾見は田中から視線を外して、違崎を睨みつけた。


「明けナい夜はナい。だが、夜が明ける前に死んでしまえば同じこと。意識は永遠に、闇の中だ。明けることは、決してナい」

「そうかな」


 夜が来るのは、地球が回るからだ。太陽はいつでもそこにある。夜明けを待たずに、自分で朝日を探しに行っても良い。自分から背を向けていたら、夜が明けることなんて絶対にないのだ。


「朝が来ないなら、私が田中を朝日の下まで連れていく」

「良い言葉だな」


 声と共に、一発の銃声が響いた。違崎の胸部がぱっと弾けて、光が飛び散る。

 よろけた違崎の向こう側に、銃を構えて立つ、くたびれたコートの男が立っていた。よく見た顔。よく聞いた声。その横には、白いスーツを着た女の姿。綾見はため息をついた。


 どうやら、朝日を探しに行くまでもなかったらしい。


「明けない夜の為に、太陽を届けに来たぜ。クソ野郎め」

「おっ。今日はシャレが効いてますねマスター。では、いつもの奴をお願いします」


 凌ノ井鷹哉たかやは、ふんと鼻を鳴らすと、煙草の代わりに銃口を突き付けたまま、言った。


「さあ、悪夢の終わる時間だ」




 キメセリフを吐いたは良いが、状況は混迷を極める。


 はっきりしているのは敵の狙いだ。あの夢魔は、おそらく田中少年からさらに力を搾り取るために戦線を離脱した。一時的にでも恐怖を逃れた彼に、再度悪夢を見せるためだ。だがどういうわけか、それは失敗したらしい。

 加えてそこには、


「(沫倉ちゃん、か……?)」


 そう、田中少年のすぐ近くには、綾見の姿があった。


「(……いや、そう驚くようなことでもないな)」


 だが、驚きは一瞬。凌ノ井はすぐさま、意識の範疇から彼女の姿を外す。

 綾見と田中は、クラスメイトの関係にあるはずだ。夢の中の登場人物に彼女の姿があったところで、特別、不自然なことではない。夢の中の登場人物は、様々な人間の形を取る。たまたま今回、田中少年と凌ノ井の間に、共通の知人がいたというだけの話だ。


 ただ、その綾見が、田中に何か希望を抱かせるようなことを言っていたのだけは、気になった。夢の登場人物に過ぎないなら、夢魔が自由自在に操れるはずだ。あるいは、希望を口にした彼女を無惨に殺すことで、田中にさらなる恐怖を与えるつもりだったのか。


 だが、どのみちここまでだ。夜は明ける。朝は来る。悪夢の終わる時間だ。


「マスター、言いにくいのですが、タイムリミットが近づいています」

「わかっている。すぐに勝負をかける」


 状況ははっきり言って不利だった。夢時計を確認するまでもなく、行動と時間に無駄が多すぎたのだ。

 しかしここで退くわけにもいかない。敵の夢魔は、あまりにも強力になりすぎていた。ここで取り逃がせば、次のエクソシストエージェントがダイブを試みるまでのわずかな時間に、夢魔は田中少年を殺しかねない。そうなれば、危険なレベル4の夢魔を1体、解き放つことになりかねない。


「(あんな思いは、もう二度と御免だ……!)」


 先に仕掛けてきたのは、夢魔の方だった。背中に巨大な、コウモリの翼を生やす。床を蹴り、空中で一気に加速する。鋭利な砲弾とも言うべき動きだ。

 ダメージを受けている<悪食>を盾にはできない。凌ノ井は横に跳びながら発砲した。どこに当てるかは考えなくていい。とにかく、数を当てることを考える。銃弾が直撃し、弾けて散った光が、要するに敵のダメージだ。<悪食>が安全に捕食できる程度まで、体力を削り取らねばならない。


 時間切れとなる前に。


 夢魔が支配権を握るこの空間の中では、夢時計のリミットはいつもの数倍の速度で近づいていく。時計は3時間。体感の残り時間は、20分もないはずだった。敵の体力は、銃弾にしてあと何発分だ? 何度弾を撃ちこもうと、敵は動じない。ひるむ気配すらない。

<悪食>の生み出した思念体の銃は、実に都合のいい武器だ。リロードの必要も一切ない。威力もある。だが、残り20分で敵の体力をすべて削りきれるかは。


「無駄な足掻きだナ!」


 夢魔の耳障りな笑い声が響く。このやろう。急に生き生きし始めやがって。


「知っているぞ。お前たちにはタイムリミットがあるそうだナ! ワタシを侮ったのが運の尽きだ!」

「まったくだな。もうちょい侮っときゃあ、あっちゅう間に終わったんだけどな!」


 まさか、あそこで慎重に動いたのがここまで響くとは思わなかった。敵は余裕だ。銃一丁では間に合わない。夢時計はこの間にも、刻一刻とリミットへ近づいている。


「<悪食>! 銃をもう1丁出せ!」

「マスター、それは……!」

「早く出せ! もたもたしてると先にMPが尽きるだろ!」

「………!!」



 時計の針が、ぐるりと一周する。凌ノ井の手に、もう一丁の銃が呼び出された。


「よし、良い子だ!」

「マスターは聞き分けの悪い子です……!」


<悪食>の声が張り詰めている。残り時間5分以上を犠牲にして、手にしたのは銃が一丁。凌ノ井は一気に夢魔への距離を詰め、続けざまに発砲した。鼓膜が破れんばかりの銃声が、暗闇を埋め尽くしていく。


「わ、悪あがきだナ!」

「さっきより声が震えてるぜ!」


 そこで凌ノ井は、はたと気づいた。夢魔の身体の向こう側に見える、田中少年の姿。彼の表情からは、怯えが消えていた。今、宿主は一切の恐怖と、嫌悪を感じていない。余裕がないのは、敵も同じなのだ。今、あの夢魔は、宿主からの供給源を断たれた状態にある。

 夢魔は腕を振り上げ、凌ノ井へ殴り掛かろうとする。凌ノ井はその腕に一発、銃弾を叩き込んだ。光が弾けて腕が吹き飛ぶ。


「マスター! 夢時計のリミットを!」

「こっちで確認してる余裕はねぇ! チェックはそっちでしろ!」

「なら、もう無理です! 退いてください!」


 冗談じゃない。凌ノ井は心の中で吐き捨てた。ここで退いたら、敵の夢魔はすぐにでも標的を田中少年に移し替える。ここまで肥えた夢魔であれば、すぐさま彼の心を搾り尽すだろう。それだけは、させるわけにはいかない。

 ましてこいつは、背後に〝何か〟がいるのだ。この夢魔がマスターと呼ぶ、〝何か〟が。取り逃がしたらそれこそ、そいつの思うつぼではないか。


 凌ノ井の銃撃は、明らかに効いていた。続けざまの発砲は、少しずつ夢魔の体力を削り殺していく。弾けて散った光の粒子は、再構築が間に合っていない。あと少しのはずなのだ。


「……マスターっ!!」


<悪食>の叫び声と共に、凌ノ井は後ろに強く引き戻される感覚があった。融合していた夢が切り離されていく。


 時間切れ。相棒がそう判断したのだ。致命的な手遅れになる前に、凌ノ井を彼自身の夢に引き戻そうとしている。


「ばっ、<悪食>……! 何しやがるてめぇっ!」

「こちらのセリフです! 死ぬ気ですか!」

「バカ言え! 殺すんだよ!」


 凌ノ井鷹哉の夢と、田中健介の夢。2つを隔てる境界がはっきりと浮かび上がる。壁の向こう側、敵の夢魔が、冷や汗だらけの顔で笑うのがはっきり見えた。あと1撃。あと1撃加えれば倒せたかもしれないのに。


「この子が死んだら沫倉ちゃんになんて言えば良い!」

「マスターが死んだら綾見さんになんと言えば良いんですか!」

「夢を繋げろ! 戻せ!」

「嫌です!」


 みっともない言い争いのさなか、壁を隔てる向こう側で、異変が起こった。勝ち誇った笑みを浮かべる夢魔の顔が、どす、という鈍い音と共に跳ねた。胸元から、矢のようなものが生える。何が起こったのか、凌ノ井も<悪食>も、その時は理解できなかった。

 夢魔の身体が、光の粒子へ分解されながら、ゆっくりと倒れていく。その瞬間、壁の向こう側を支配していた暗闇の世界が、綺麗に弾けた。狭苦しい壁の書架が大きく広がり、天井が吹き飛ぶ。田中少年の姿が、広く、明るい世界へと放逐されていく。


 そしてその向こう側に、沫倉綾見が立っていた。彼女はぼんやりとした表情のまま、立ち尽くしている。その片手には弓を持っていた。もう片方の手に持っている矢は、先ほど夢魔の胸から生えてきたものと、まったく同じ形をしていた。




「凌ノ井! ……おい、凌ノ井! しっかりせぇ!」


 目覚めはとにかく最悪だった。夢の中で嫌な思いをした挙句、何一つ解決しないままもやもやした結末を味わい、そして今、野太い男の野太い声に揺さぶられながら、凌ノ井鷹哉は現実の世界へと帰参する。

 目を飽きれば、目の前には鋸桐のこぎり雁之丞がんのすけの、巌のようなヒゲ面だ。目覚めは、とにかく最悪だった。


「……馬鹿力で揺さぶるなよ。気分が悪くなるだろうが」

「おう、目が覚めたな。無事で良かったわい! いやぁ、どうもマスクの方に不備があったらしくてのう。報告を受けて慌てて戻ってきたんじゃ」

「……マスクの?」


 ガンガンする頭を押さえながら、凌ノ井は尋ね返した。


「うむ。マスクじゃ。ほれ、嬢ちゃんもあの通り、煙を吸ってしまってのう」


 鋸桐が葉巻ほどもある人差し指で示す先には、綾見が転がって寝息を立てている。

 急に手配した道具だ。不備があるかもしれない、とは聞いていたが。ガスマスクの不備とは致命的である。担当職員をこっぴどく叱ってもらわねばならないだろう。棺木に。


「しかし、まあ、なんとか上手くやったみたいじゃのう。さすがは凌ノ井鷹哉じゃ」

「上手くやった……?」

「うむ。この小僧からも、夢魔の気配が消えておる。倒したんじゃろ?」

「………」


 凌ノ井の中には、奇妙なモヤモヤが残る。当然だ。確かに凌ノ井は、夢魔を倒し損ねた、はずだ。だが、今田中少年の方を見れば、鋸桐の言葉通り夢魔の気配はない。口元には笑みを浮かべ、安らかな寝息を立てている。手遅れになって殺されたわけでも、ないのだ。

 夢を切断される間際に見たあの光景を思い出す。倒れる夢魔と、その後ろで弓を構えていた綾見の姿だ。


 凌ノ井はぼんやりと呟く。


「……夢でも見てたのか?」

「いや、見てたんじゃろ。何言っとるんじゃおまえさんは」


 とにかくモヤモヤする。もちろん原因はひとつではないが。


「……おい<悪食>、勝手に夢を切り離しやがって。どういうつもりだ」

『ふん』


 ぷい、とそっぽを向く<悪食>の姿が、はっきり見えた気がした。完全にヘソを曲げている。ヘソを曲げたいのはこっちの方だというのに。徹底抗戦しても良いが、どこかで機嫌を伺わねば仕事に支障が出る。ともあれ、今は放置だ。


「ははあ」


 鋸桐がニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている。


「おまえさん、また無茶をしおったのう」

「……うるせえ」


 凌ノ井が視線を逸らし、そこでふと、部屋の中の違和感に気づいた。

 ものが不自然に動かされているように見える。ほんの細かい違いだが、誰かがこの部屋に入ってきた痕跡があるのだ。鋸桐が部屋の換気をする際に動かしたのかもしれないが、それにしては本棚の中身にまで触れているのは不自然だ。


 あの夢魔が言った、『マスター』という言葉も、今更ながらに気になった。


「ん、んん……」


 部屋の片隅で、綾見の身体が小さく身じろぎした。


「お、嬢ちゃんが目を覚ますぞ」

「ああ……」


 鋸桐の言葉を受けて、凌ノ井の思考が一巡する。つまり、夢の中で見た綾見の姿だ。

 あれに関しては既に、凌ノ井の中に結論じみたものは出ている。だがそれはあまりにも突飛な話だったし、正直なところ、また新しい厄介事を抱え込むということにもなりかねない。


 綾見はぱちっと目を開くと、ガスマスクを外した。素顔の彼女は、どこか驚いたような顔をしている。あまり表情の豊でない綾見にしては、ずいぶんストレートで、わかりやすい顔だ。綾見はそのまま、凌ノ井を見て、田中を見て、鋸桐を見て、そしてまた凌ノ井を見る。


「いやぁ、」


 そして、凌ノ井の考えを裏付けるようなことを、あっさりと言った。


「危ないところだったね、凌ノ井さん」

「(やっぱりそういうことか……)」


 夢の中で見た綾見の姿は、つまり、沫倉綾見そのものだ。彼女は夢の中に入り込んできた。

 記憶消去が通用せず、夢の中に入り込み、挙句夢魔を倒すことさえもできる少女。沫倉綾見とはつまり、そういう少女なのだ。


「(つくづく、厄介な子の面倒を見ることになっちまったなぁ)」

『……でも、良い子ですよ』


 心の中で毒づく凌ノ井に、それまで黙っていた<悪食>が一言だけ、告げた。


「……そうだな」


 凌ノ井は頷くと、相変わらずぼんやりしたままの綾見の頭を、ぽんぽんと叩いてやった。

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