第八夜 ナイトメア―ドリームダイバー―


 田中たなかの両親は、怪しげな新興宗教に加入している。


 人様の信仰をあげつらって怪しいだのなんだのとレッテルを貼るのは品の良いことではないが、そのあたり慎重な綾見あやみに言わせても、これはかなり怪しいモノであった。家の中には様々なツボや絵画が置かれ、親戚でもなんでもない男の写真が額縁に入って飾られていた。部屋の片隅には、これまた怪しげな健康食品の詰め込まれた段ボールが積み上げられている。

 平日の昼間だというのに両親ともに在宅で、見舞い客病院の部屋へ通すまでの短い間、これらのいわくや薀蓄うんちくについてイヤというほど語られた。ユミや高木たかぎ、その他綾見の愛すべき友人たちは、控えめに言ってドン引きしていた。


 クラス随一のイケメン男子、高木の姉も、この両親と同じ宗教にハマっているという。その心労たるや大層なものであろう。

 その話を凌ノ井しののい鋸桐のこぎりにすると、『変な夢魔に憑かれるきっかけにならなきゃいいなぁ』とのことであった。まったく同感である。現に、田中は変な夢魔に憑かれてしまったようだし。


 ともあれ、そんな両親であるから、家に入り込むのだって容易なことではないはずだ。彼らは田中を病院に入れようとしなかったし、それがきっかけで夢魔の発見が遅れている。どのような手段で、田中の夢の中に入るのだろう。と思っていたら、住宅街の一軒家に訪れた時点で<悪食あくじき>が『任せてください』と言った。

 それから数分後、凌ノ井はなんでもないことのように懐からハリガネを取り出して、ドアのカギ穴に突っ込んだ。カチャカチャという音の後、あっさりと解錠される。


「凌ノ井さん、スリもピッキングも、妙に手慣れてるよね」

「昔取った杵柄だな……。いや、そんな目で見るなよ」

「私はいつもこんな目つきだけど」


 ぼんやりした顔で凌ノ井を眺める綾見。当の凌ノ井は、かなり気まずい様子で、針金を懐にしまう。


「俺だって更生したの。でも使えるもんは使う。特にこういう仕事だからな」


 綾見は凌ノ井の過去のことを考えてみた。考えてみたが、あまりピンと来なかった。

 昔は悪ガキだった、みたいなことを、彼の師匠である倉狩くらがりが言っていたはずだ。だから、スリの技術もカギ開けの技術も、少年の頃に身につけたものだろう。


「おい、沫倉まつくらちゃん」


 ぼんやり考えていると、玄関に入り込んだ凌ノ井が綾見を呼んだ。


「行くぞ」

「あ、うん」


 リビングの方まで踏み込んでいくと、田中の両親が倒れていた。どちらも白目を剥き、とても恐ろしいものを見たような、引きつった表情のまま気を失っている。


「これ、<悪食>さんがやったの?」

『そうですよ』


 なんでもないことのように、夢魔の声が頭の中に響いた。


『レベル4の面目躍如といったところです。ちょこっと怖い白昼夢を見せて、きゅっ、とね』

「なーにが。『きゅっ』だ。殺してねーだろーな」

『加減はしますよ。つまみ食いもしてません』


 そうか、と。綾見は納得した。


<悪食>は、他の夢魔と違って他人の頭に直接語り掛けることができる。これはレベル4夢魔の特性であると聞いた。力を悪用しようとすれば、他人の意識に直接干渉して〝悪夢〟を見せたり、眠りに落としたりすることも可能だということだ。

 ここまで考えて、思った以上に冷静に分析できている自分に気づいた。元から動じない性格だという自負はあったが、<悪食>のやったことを非難しようという気持ちも、特にわかない。


「落ち着いとるのぅ、嬢ちゃん」


 鋸桐が驚いたような声をあげる。


「こういうのは、文句を言ったり怒ったりするところじゃぞ。なんもないと、それはそれで調子が狂うというか」

「非常事態だからかも」


 綾見はそれだけ言って、気絶した田中の両親をソファの上に座らせた。1人だけだと持ち上がらないので、鋸桐が手伝ってくれた。


「なんでもない時にやったら、さすがに怒るよ」

『なんでもない時にやったりなんか、しませんよ』


 頭に響く<悪食>の声。


『でもあまり、綾見さんの前ではこういうこと、したくなかったですね』

「いまさら良い子ちゃんぶるタマでもないだろうが」

『言いぐさですねぇマスター。綾見さんとはもうちょっとデリケートなお付き合いをしたかったのです。まぁその、いずれバレることは、たくさんありますけどね。段階を踏みたいというか』


 彼女の声は、なんだか悪戯がバレてしまった子供のようだ。


 確かに、ここは<悪食>に恐怖や怒りといったなんらかの感情を抱いたり、あるいはそれを平気で見過ごした凌ノ井に対してけちをつけたりするのが、人間としては正しいのかもしれない。

 だが綾見は、ソファの上でぐったりする田中の両親を見て、そのような感情が芽生えることはなかった。非常事態というのもある。だが、もうひとつ付け加えるとすれば、自分はこの両親のことがあまり好きではないのだろうな、と、結論付けた。彼らが息子を病院に連れていかないせいで、状況は悪化しているのだ。


「しかしなんだこの家。妙なものばっかあって気味が悪い」

「宗教にはまっとるっちゅう話じゃったのう。その少年も可哀想じゃわい」


 それからしばらくもしないうち、組織から機材が届いた。受け取る際、急に用意させたものなので不備があるかもしれないと言われた。そんなもんがあっちゃ困ると、凌ノ井が思い切り顔をしかめていた。


「さて、儂はちと席を外す」


 鋸桐は首をこきこきと鳴らしながら、鋸桐が言う。


「並行調査と、まあ周囲への根回しじゃな。そっちの方は任したぞ」

「おう」


 凌ノ井は、早く行けとでも言うようにひらひらと手を振る。綾見もぼんやりと鋸桐に手を振った。彼が出ていき、外からはバイクの走り去る音がする。彼の乗ってきた単車が、なんだか怪物のように大きかったのを思い出す。


「さて、沫倉ちゃん。俺たちも仕事にかかろうか」

「あ、うん」

「沫倉ちゃんは見たか、その、田中クンの容態って奴を」

「……うん」


 綾見は、つい先ほど訪れたばかりの田中の部屋に、凌ノ井を案内した。


 空気が澱んでいると言えば、この家全体がそんな雰囲気ではある。だが、田中の部屋に入り込む直前、綾見は特にそれを強く感じた。ドアの向こうから、わずかに聞こえるうめき声。それでも、部屋の主、綾見の友人たる少年が、目を覚ましていないことは、綾見にはよくわかっていた。

 田中は学校では大人しい少年だった。それを象徴するように、部屋の中もさほど個性的ではない。小学生の頃から使っていると思しき学習机があり、その上には少ないながら趣味物と思しき人形が並んでいた。アニメのキャラクターだと思われるが、綾見はあまり詳しくない。少し離れた棚には、謎の男の写真が恭しく飾られているが、こちらはリビングにあったもの違って埃をかぶっている。棚に並んだ、ありがたそうなタイトルの本にも、しばらく触れた形跡がない。


「なるほどなぁ」


 凌ノ井は部屋を見回して頷いた。


『これは確かに、なるほどですね』


 <悪食>も同意する。


「うん。なるほど、だよね」


 玄関から入り、リビングを通ってこの部屋に来る。一連の動線で、田中の置かれている状況が、理解できるような気がした。だからこその『なるほど』だ。


『で、こちらがその、眠り姫というわけですね』

「男だぞ」


 カーテンを閉め切った部屋の隅には、ベッドが置かれている。無視することのできないうめき声は、確かにそこから発せられていた。

 春先だというのに、少年にかぶせられた布団は厚手である。だが、顔中にびっしょりと汗を貼りつけているのは、暑さのせいというわけではなさそうだった。苦し気な声をあげ、何かから逃れようとするように、必死で身をよじっている。閉じた双眸から、涙が落ちていくのが見えた。


 ユミや高木たちと最初に訪れた時、彼らは絶句した。もちろん、綾見もだ。


 この様子はただ事ではない。すぐさま両親に病院へ連れていくよう提案したが、彼らは穏やかな顔で首を横に振るだけだった。いわく、信頼できる大先生に指示を頂いているので問題ないということ。別に神頼みやオカルトでもなんでもなく、科学的に正しい処置をきちんと施しているので、しばらくすれば立ちどころに良くなるとも言われた。

 その信頼できる大先生が信頼できないのは間違いない。高木を筆頭にみんなで抗議し、争いが嫌いなユミはいつもの活発さを失ってオロオロしていた。だが結局は暖簾に腕押しである。綾見たちはやんわりと追い返され、無力感のうちに住宅街の道路へ放逐された。


「これが……レベル3の、夢魔が見せる夢……ってことなんだよね」

「ああ。レベル2までの時点で膨れ上がった欲望を、悪夢で搾り取る。こうなると精神世界は完全に夢魔によって制御されるから、こいつらもネコを被って主人に都合のいい夢を見せる必要がないと、まぁそういうこったな」

「………」


 綾見は、ベッドの中でうなされている少年のことを、じっと見つめた。


「凌ノ井さん、田中を助けて」

「おう。まぁ任せとけ」


 凌ノ井は綾見の頭をぽんと叩くと、学習机の椅子を引っ張り出してその上に腰かけた。

 彼はこれでも足が長いし、田中はと言えば綾見に比べてもやや小柄なくらいの少年なので、椅子はサイズが合っていない。窮屈そうに足を組んで、そして、腕も組んだ。


 綾見はガスマスクをつけて、組織から届けられた機材を機動させる。ここはヒュプノスの息がかかった病院の一室などではないから、煙が外に漏れないよう注意を払わねばならない。窓はしっかり締めなおして、ドアの下の隙間をガムテープなどで密閉した。

 やがて、妙にレトロな機械がゴトゴトいって、煙を吐き出す。機材を届けにきた組織の職員が気になることを言っていたが、特に故障した様子もなく、普通に動いてくれた。室内に煙が充満する。凌ノ井は、もう夢の中に落ちただろうか。


「<悪食>さん」


 ぼそっと、綾見は呼んでみた。ガスマスク越しにくぐもった声が響く。


『はい、なんでしょう』


 返事は、すぐにあった。


「凌ノ井さんは、もう寝てる?」

『はい。いまちょうど眠りにつかれているところです』

「でも、<悪食>さんは返事ができるんだね」

『ええ、まぁ。そうなんですよ。レベル4ですから』


 レベル3の夢魔は、宿主を取り殺した時点でその宿主の精神を離れる。〝巣立つ〟わけだ。

 巣立った夢魔のことをレベル4といい、彼らのことは夢魔ではなく悪魔デモンと呼ぶこともある。覚醒状態の人間に干渉したり、複数の人間の精神に働きかけたり、できることの幅は極めて広い。だから、ひょっとして凌ノ井が眠っている間も声をかけられるのではないか、と思ったのだが、実際その通りであった。

 組織の区分だと夢魔はレベル1からレベル5に分類されるという。多くのエージェントが制御しているのはレベル3だというのだから、<悪食>は頭ひとつぬけた力を持っていることがわかる。


 しかし、同時にそれは、<悪食>に関してある事実が存在することを示している。


「<悪食>さんって、人を殺したことがあるの?」


 凌ノ井の前では、ちょっぴり尋ねにくいことだった。

 レベル3の夢魔は、巣立つ時点でレベル4になる。巣立ちの条件は宿主の殺害だ。ロジックとしては単純だが、意味するところは恐ろしい。


『ありますよ』


 案外あっさりと、<悪食>は答えた。


『あ、先に言っておきますが、マスターの恋人ではありません。私がとり憑いたのは、恋人を亡くして悲嘆にくれるマスターの心でした。とても美味しそうに見えたのです』

「でも、<悪食>さんはレベル4だから……レベル3と同じで、悪夢を見せるんだよね」

『そうですね。ですから、マスターにはとても酷い夢を見せましたし……。今でも見せます』


 その悪夢を、凌ノ井は克服したわけだ。その言い方は、もしかしたら正しくないかもしれないが、とにかく<悪食>の見せる悪趣味な夢を、精神力でねじ伏せた。きっと、想像できないほどの苦しみがあったのだろうな、と、綾見は思う。


『ねえ、綾見さん』

「なに」

『私のことを、嫌いになりますか?』


 天井を見上げていた綾見だが、その声を聞いて、ふと凌ノ井の方を向いた。

 そこに<悪食>の姿はない。ただ、腕を組んで眠る、コート姿の男がいるだけだ。


『こういうのは、いずれ話すことではあるのですが、綾見さんにはどうにも……言いにくいのです。あなたは、〝いいひと〟のようですから』

「いいひと」

『限りなく善性に近い方です。だいたい、エクソシストエージェントになる人間というのは、我欲が強い方ばかりですので。あまり、綾見さんのような方と接したことがなくてですね……』


 綾見は、一度夢の中で見た、<悪食>の姿を思い出した。スーツを着た、きりっとした印象の美人だった。その彼女が、こんなねだるような声で戸惑いを漏らすのは、ちょっと珍しいし、愉快である。


『私は人を殺したことがあるんですよ。どうでしょう、私を嫌いになりますか?』

「ううん。ならないよ。<悪食>さんは私の友達だし、私は<悪食>さんが思ってるほど、いいひとじゃないから。だから大丈夫」

『そうですか』


 頭の中に響いてきたのは、ほっとしたような声だった。


『それでは、私は夢の中でマスターのお手伝いをしてきますので』

「うん。がんばってね」


 それっきり、<悪食>は綾見に語り掛けてはこない。綾見も、彼女には声をかけなかった。


<悪食>に対して語ったことに嘘はない。綾見はあの夢魔を嫌いになったりはしない。

 だが、例えばいま、田中に対して憑いている夢魔。その夢魔のことは嫌いだと断言できる。まだ人を殺しているわけではないが、綾見にとっての線引きは、つまりそこだ。


「(田中、無事かなぁ。凌ノ井さん達は、大丈夫かなぁ)」


 ぼんやりそんなことを考えていた綾見は、ふと違和感を覚える。意識がぐらつくような感覚だ。


「(あれ……)」


 ガスマスクを押さえた綾見は、すぐに気づいた。そっとなぞると、つるつるとした表面に、亀裂が入っているのをはっきりと確認できる。そこから、意識を夢心地にさせる例の煙が、マスクの内側に入り込んでいたのだ。


「(あ、不備って、こっちか)」


 呼吸を止めようと思ったが、当然無理である。綾見は、煙を吸引した。ガスマスクを片手で押さえたまま、頭からゆっくりと、床の上に倒れ込んだ。




「マスター、友達って、良いものですね」

「なんだおまえ藪から棒に。気持ち悪い」


 いつもの薄暗い小部屋で、凌ノ井は<悪食>とそんな会話を交わした。

 今回の彼女は、白い毛並みの美しい虎だ。最近は美女の姿をとらせることが多かったから、この形態の<悪食>を見るのは久しぶりである。さすがに、レベル3の夢魔を相手取るにあたってそんなお遊びをさせる余裕はないが、それにしても今の<悪食>は相当な上機嫌であった。


「今は気分が良いので、どんなアイテムでも半額でお出ししますよ。相手はレベル3です。万全の体制でいきましょう」

「そりゃありがたいな」


<悪食>はレベル4だ。格下の夢魔相手になにをわざわざ、と思うかもしれないが、凌ノ井だって油断をしてロクな目に遭ったことがない。万全の体制を整えることに、異議はない。

 レベル3以上の夢魔と戦う際、そのセオリーはレベル2の夢魔を相手にするときとは全く異なる。

 悪意に満ちた夢の世界は、いわば夢魔の独壇場だ。精神世界の主導権を握っているのが、つまり夢魔の方になるのだ。夢の世界のあらゆるルールは、寄生者によって掌握される。こちら側は、<悪食>のプロテクトを常に受け続けなければならない。早い話が、制限時間が、いつもより短い。


 反面、夢魔も強力になっているので、わざわざ逃げたりするような個体は少ない。闖入者を積極的に排除しようとする。つまり、直接対決になる。


「武器と能力上昇はこんなものでいいですか?」

「ああ」


 銃をベルトにねじ込んで、凌ノ井は頷く。煙草を口にくわえると、ちょうど<悪食>が夢の接続を開始するところだった。虚空に波紋が広がった後、空間が焼け焦げるように切り替わっていく。やがて、薄暗く冷たい、不気味な廊下が、その姿を現した。


「なんだ?」

「廊下でしょう」

「そりゃわかってる。なんの廊下だ?」

「建物でしょう」


 凌ノ井は、じろりと横に立つ白い虎を睨みつけた。


「バカにしてんのか」

「滅相もない」


 だが、実際それは、建物の廊下としか表現できないものだった。


 レベル3の作り出す世界は、宿主を苦しめるための世界だ。恐怖や嫌悪などを引き出すための構造をしている。だから、この建物も、きっと宿主である田中少年のトラウマを誘発するものであるはずだ。

 とすると、ある程度察しはつく。


「まあ、ご両親が加入している宗教団体の施設でしょうね」

「ま、そうだな」


 暗くて冷たい印象があるのは、田中少年の主観がそのまま反映されているためだろう。


 凌ノ井は銃を抜いて、廊下をそっと進み始めた。最初は抜き足差し足だったが、どうやっても足音が消えないので、あきらめて普通に歩く。


「本当に宗教団体なのか? 怪しいお経とかまったく聞こえてこないぞ」

「そんなん時代遅れですよマスター。田中くんのおうち、見たでしょう? 根拠のない科学に基づいた健康食品を売りつけて、根拠のない自宅療法を押し付けていれば、それだって立派な悪徳宗教ですよ。コラーゲンとかマイナスイオンとかと同じです」

「おまえ結構言うね……」


 まあ、あまつさえ創始者と思しき男の顔を額縁に入れて飾るのだから、これはもう病的だ。もっともらしい科学で人を信じさせ、そのあと徐々に電波な内容を吹き込んでいったということだろうか。田中少年にとっては、その光景こそがまさに悪夢だったのかもしれない。


 板張りの廊下はどこまでも続いていく。見れば、壁の装飾は意外と豪華なものだった。気づくのが遅れたのは、やはり鬱屈と澱んだ空気のせいだろう。

 不意に、横を歩いていた<悪食>が立ち止まる。凌ノ井も足を止めた。

<悪食>は首をもたげ、周囲を警戒する。どこまでも続いていく廊下の真ん中だが、彼女ははっきりこう言った。


「マスター。囲まれています」

「マジか」


 直後、壁がはじけ飛んだ。凌ノ井は振り向くより早く銃を向け、躊躇なく引き金を引いた。


 ぱん、という軽い破裂音がして、腕に反動がかえる。見れば、そこでは人の姿をした何かが、額に穴をあけて倒れ込むところだった。それよりも早く、それははじけ飛ぶように霧散して、その場には痕跡すら残さない。


「思念体か! おい、ずいぶん育ってるみたいだぞ!」

「みたいですね」


 思念体は夢魔が生み出す力の分身のようなものだ。例えば、今凌ノ井が手にしている銃だって、<悪食>の生み出した思念体である。こんな安っぽいデザインの、おもちゃのような拳銃だが、夢の世界では相当の破壊力がある。力の主である<悪食>自身が、極めて強力な夢魔であるという証左だ。


 こちらを取り囲む人影は、当然ながら1体ではなかった。『囲まれた』という相棒の忠告通り、相当な数がある。

 人の姿をした何か、と言ったが、思念体は明確に人の姿をしていた。穏やかな微笑を浮かべ、しかし与える印象はどこか冷ややかで人間味がない。おそらく、件の宗教団体の信者だろう。彼らは、手に斧やハンマーを持っている。


「田中くんが、宗教団体の人にこんなイメージを持ってるってことでしょうか」

「う、うん……。相当辛い目にあってるんだなぁ」


 懐中時計は、いつもより早く長針を回していた。このペースでいけば、3、4時間といったところか。<悪食>の力を使うことを考えれば、リミットはもっと早い。


 思念体を消していけば、夢魔もこちらの存在に気づくだろう。ここは、暴れておいた方が良いかもしれない。敵の力を削ぐという意味でもある。


「さぁ、怖がらずにこっちにおいで」

「僕たちと一緒に語り合おう」

「魂をさらけ出すことができれば、きっと私たちは分かり合えるわ」

「そして、魂の家族になるのよ」


 不気味なことを言いながら、思念体たちはじりじりと距離を詰めてくる。この言葉は、きっと田中少年が実際に言われた言葉なのだろう。だが、その笑顔はどうみても笑っていない笑顔だし、手に持っているものが怖すぎる。


「魂の家族ですって。どうします、マスター」

「もちろんお断りだ」


 あっさり言って、銃を向ける。引き金を引く。乾いた音がして、思念体が消し飛ぶ。思念体たちは、それでも数にものを言わせて、じりじりと近寄ってくる。


「こういうゲームやったことあるぞ。ゲームセンターにたくさんある」


 そうぼやくと、<悪食>は口元を大きく歪めて笑った。


「ゾンビの文脈は恐怖の演出として有効ですが、ちょっと陳腐すぎますね。この夢魔はわかっちゃいませんよ」

「それ、夢魔の先輩としての苦言?」

「まさか、一般論です」


 理性的に話していた<悪食>だが、その言葉を最後に一転。咆哮をあげると、廊下を蹴って思念体に向けてとびかかった。華奢な人間の身体は、笑顔のまま押し倒され、顔面に虎の爪がえぐり込むと同時に、やはりはじけて消滅する。

 思念体たちは、あくまでも田中少年の夢の中の、恐怖の象徴として作られた存在だ。戦闘能力は大したものではなかった。銃弾を受ければ消し飛ぶし、<悪食>のパンチ一発で、やはり消し飛ぶ。


 すると、だ。


「どうやらネズミが入り込んだようだナ」


薄暗い廊下に、そのような声が響き渡った。


「お出ましか」


 凌ノ井は煙草をくわえなおして、呟く。


「まだ田中くんを見つけられていないのが気になりますね」

「なに、巻き込まずに戦えるなら越したことはないさ」


 やがて廊下の向こうから、足音が聞こえてくる。かつん、かつん、という、固い靴の音。次第にそれは、闇の中でぼんやりと形を作り出した。その男は、宿主である田中少年の、恐怖の象徴として夢の中に君臨している。今やこの悪夢の、絶対的な支配者と言える存在だ。


「(やっぱりあの男か)」


 田中少年の家で、何度か見た顔。写真の男だった。


「ヒュプノスのエージェントだナ。かぎつけられるとは思わなかった」

「さっきの言葉を返すが、ネズミはあんたの方だぜ」


 凌ノ井は銃を構えてうそぶく。


「こっちのデカい猫に食われる哀れなトムはあんただ」

「マスター、私は虎ですしネズミはジェリーの方です」

「そうだったか」

「……ずいぶんと余裕そうだナ」


 イントネーションは奇妙だが、男の声は冷たいものだ。


 とりたてて精悍でもなければ、理知的というわけでもない。どちらかと言えば、平凡な顔だちをした中年男性だ。怪しげなローブに袖を通しているかと思えば、ずいぶんと立派なスーツを仕立てている。宗教団体の創始者というよりは、どこかの会社の部長さんといった出で立ちだが、得てして詐欺師とはこのようなものかもしれない。

 だが、纏う空気は極めて異様で、恐ろしげだ。笑い皺の目立つ顔なのに、すぐにでも人を殺せるような雰囲気がある。恐怖をつかさどる夢魔であるという、何よりの証拠だ。


「しかし遅かったナ、私はずいぶんと肥えてしまった」


 夢魔は、にんまりと笑って片手をあげる。すると、砕け散った壁の向こう側から、何かがゆっくりと持ち上がるのを確認できた。それは、とても大きな、四肢を持った何か。シルエットは人間に似ているが、手足は異様に長く、縫い目のようなものが全身に目立つ。乾いた包帯を巻きつけて、黄ばんだ布には血のような赤がこびりついていた。


 およそ10メートルはあろうかというそれは、両手をつき、上からこちらを覗き込んでくる。途端に異臭が立ち込め、口のあたりに開いた空洞から、怪しげなうめき声と液体が垂れてきた。

 怪物がわずかに手を動かしただけで、凌ノ井と<悪食>をそのままぺちゃんこにできそうだ。これが、あの夢魔の思念体であるということは、疑いようもない。


「このようなものも、今の私には作り出すことができる……。残念だったナ」

「そうだナ」


 男のイントネーションを真似して、凌ノ井は引き金を引いた。ぱん、という軽々しい炸裂音がして、頭上で真っ赤なザクロが弾ける。ずしゃあ、と血が雨のように降り注ぐが、それはすぐに、弾けて消えていった。


「ナ……ナ……」


 男はわなわなと震え、凌ノ井を見る。


「ずいぶんと空っぽな思念体をおつくりになるのですね」


 今度は冷ややかな声で、<悪食>が告げた。


「相手の〝格〟を見極められなきゃ、生き延びてもどうせ先はありませんよ」


 白い虎の背後から、何か恐ろしく巨大なものが、持ち上がる気配がする。男が息を飲むのが、凌ノ井にもわかった。


「ナ……!」

「せっかく恐ろしい思念体を作れるのでしたら、これくらいは……していただきませんと」


 先ほどのものとは、比べものにならない臭気が、周囲に立ち込めた。怪物の不気味なうめき声が、地の底から響き渡るように夢の世界を揺らしていく。凌ノ井は振り向いたりしなかった。どんなものを作り上げているのか、目の前の男を見ればわかる。

 その上で、なぜ振り向かないのかと言われれば、少し答えに窮す。だがまぁ正直に言えば、答えはこんなところだ。


「(だって怖いんだもん)」




「……ん」


 綾見が目を覚ました時、そこは薄暗い空間だった。どこまでも無限に続いているような、板張りの床。壁には豪華な装飾が設えられていたが、どうにも温度を感じない。ひどく冷たい場所だ。頭を押さえて立ち上がり、改めて確認するが、見覚えはなかった。


「確か、私は……」


 ぼんやりした目つきで虚空とにらめっこする。


「私は、そう。寝ちゃったんだ。ガスマスクに不備があって……」


 となると、ここは夢の中ではないか。綾見は手を打った。これはいけない。早く目を覚まさなければ。腕を組んでうんうんと唸ってみるが、夢の中の意識はずいぶんと明晰であった。意識が夢から離れる気配はない。

 そもそも現実世界の自分の肉体は。睡眠作用のあるあの煙を吸引してしまっているはずだ。それが目覚めることなどあるのだろうか。機材は無限に煙を吐き出すわけではないので、時間が経てば効果は切れるはずだが、ひょっとしてそれまで目が覚めなかったりするのだろうか。


「……ああ、バレちゃったら、怒られるなぁ。凌ノ井さんに」


 頭を掻きながら、綾見はいまいちど周囲を見回した。


 薄暗い廊下だ。やはり見覚えはない。これが夢だとすれば、見るのはずいぶん久しぶりな気がした。具体的には、凌ノ井と出会ったあの時以来である。


 どうせ目覚めないのなら、少しばかり探索してみよう。


 そう思い立って、綾見は廊下を歩きだした。

 自分の服は、気絶した当時のもの。学校の制服だ。靴は履いているが、鞄は持っていない。


 しばらく歩いていると、廊下の向こう側から、ゆっくりと歩いてくる人影に気づいた。

 誰だろう、と思って目を凝らしてみたが、知らない人間だった。顔に穏やかな笑みを張り付けた、中年女性だ。ずいぶん優しそうな人だな、と思った直後、綾見はぎょっとした。沫倉綾見、たいていのことには動じない性格であるが、このときばかりは、確かにぎょっとしたのだ。


 その女は、手にナタを持っていた。


「あら、あなた!」


 ナタを持った女は、綾見に声をかけてきた。


「あ、はい」

「あなた、自分に正直に生きてる? 自分に正直にならなきゃね、他人に対しても正直になれないの! 大切なのは、相手に対して心を開くこと。そして素直に言葉を聞くことよ! あなたも会長さんのセミナーにいらっしゃいな。すばらしい世界が待っているわ!」

「いや、良いです」


 綾見はたじろいだ。1歩、2歩と後ろへ下がる。おばさんは、じりじりと距離を詰めてきた。


 逃げよう。綾見はそう決意した。


 きびすを返し、脱兎のごとく走り出す。振り返ると、ナタを持ったおばさんは同じじりじりとした動きで、しかしそれでいて綾見に迫るほどの高速で追いかけてきた。めちゃくちゃ怖かった。沫倉綾見が恐怖を感じることなど稀であるが、怖かったのである。


「待ちなさい! 素晴らしい世界よ! あなたも会長さんの! 違崎ちがさきさんの話を聞いて! そして私たちと、魂の家族になりましょう!」

「いや、良いです……!」


 しばらく廊下を走っていると、扉を見つけた。助かった、あそこへ逃げ込もう。そう言ってドアノブに手をかけるが、あいにく鍵がかかっていた。なんとなく、そんな気はしていた。無駄だとわかっていながら、ガチャガチャとドアノブを回し、扉をバンバン叩く。


「その逃げ腰な姿勢が、あなたを不幸にしているのよォォォッ!!」

「ひええ」


 おばさんは満面の笑みを浮かべながら、ナタを振りかぶった。綾見は叫んだ。


「開いて!!」


 開いた。それまで鍵がかかっていたのが冗談であったかのように、あっさりと。

 たたらを踏み、それでも勢いを殺しきれず、綾見は扉の向こうへと文字通り転がり込む。どんな部屋か確認している余裕はなかった。振り返れば、廊下からまさに飛び込んでこようとする、ナタおばさんの姿。扉を閉めている余裕はなかった。


 綾見は叫んだ。


「し、閉まって!!」


 閉まった。扉に、おばさんのぶつかる激しい音がした。

 ふう、と、綾見はため息をつく。私としたことが。ずいぶん取り乱してしまった。


「まったく、変な夢だなぁ……」


 そう呟いた時、部屋の奥から、すすり泣くような声が聞こえてきた。綾見はぎょっとするより先に、首を傾げた。聞き覚えのあるような声だったのだ。

 部屋は薄暗く、光源がない。ちょっと灯かりが欲しいなぁ、と思った時、ちょうど蛍光灯が点いたので助かった。ぱっと明るくなった室内に、やはり、見たことのある少年が膝を抱えて座り込んでいる。


「田中」


 呼びかけると、少年は肩をびくりと震わせ、振り向いた。


「あ、え、あ……。えっ……と。確か、クラスメイトの」

「沫倉」

「あ、うん。沫倉……さん?」


 あまり接点のないクラスメイトだが、夢の中でまで名前を忘れられているとは思わなかった。しかし夢にまで見るとは、よほど彼のことが心配らしい。

 と、そこまで考えたあたりで、綾見の頭に、ふとよぎるものがあった。


「ずっと、閉じ込められてて……。心細かったんだ。沫倉さん、ここがどこだか、わかる?」

「………」


 ひょっとしたらここは、自分の夢の中では、無いのではないだろうか。


 では誰の夢の中かと言えば、簡単だ。いま目の前でうずくまりないていたこの少年の。すなわち、田中健介の夢である。田中は綾見の名前を知らなかったし、今この状況が何なのかもわかっていない。そして何より、ただ夢を見るにしては、綾見に意識ははっきりしすぎていた。


 しかし、どうして。なぜ自分が他人の夢の中に入り込めているのか?


「ちょっと、開けて! 開けなさい!」


 ちょうどその時、扉をガンガンと叩く音がした。田中がびくりと肩を震わせる。


「あっ、田中さんちの息子さんもいるのね!? さあ、一緒に幸せな世界を見に行きましょう! ね!? あなたの病気もすぐに治るわ!」


 田中は、小柄な身体を抱え込みながら、ただひたすらにカタカタと震えていた。彼は怖がっているのだ。これが彼の夢の世界であるとするなら、すべては、恐怖や嫌悪の象徴である。すべてが彼の心に対して牙を剥き、悪夢で欲望を搾り取ろうとしているのだ。


「怖がっちゃ、ダメだよ」


 綾見はしゃがみこんで、田中の顔を覗き込んだ。


「怖がれば怖がるほど、相手の思うつぼだから」

「沫倉さん……?」

「ねえ田中、田中は何を怖がっているの? 良かったら、私に教えて」


 泣きはらしたその双眸を、じっと見つめる。


 どうして夢魔の力もなしに他人の夢に入り込めたのか。そもそも、ここが本当に田中の夢の中なのか。綾見には事情がさっぱり呑み込めない。だがそんなことは、沫倉綾見にとっては、割と些細なことだった。

 目の前に友達と認める人物がいて、彼が何かに怯えているのであれば、綾見がやることはひとつだ。

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