ナイトメア

第七夜 ナイトメア―そっと這い寄る影―


「お疲れさま、凌ノ井しののいさん」


 病室で目を覚ました凌ノ井に、横から缶コーヒーが差し出された。顔を上げれば、そこにはいつも通りぼんやりした顔つきの少女が立っている。相変わらず感情を一切滲ませない声をしているが、それでも労いの言葉に嘘はない。

 凌ノ井が目を開いたのはベッドの上ではない。彼はパイプ椅子に腰かけて、腕と足を組んでいた。よく同僚に『カッコつけた寝方』と言われるこれは、師匠たる倉狩くらがり鍔芽つばめの直伝である。


 ベッドの上で寝ているのは、50代前半の男性だ。つい先ほど、彼の夢の中で夢魔を退治してきたばかりである。口元には微笑を浮かべ、それでいて少しだけ寂しげでもある。


「かなりしんどそうだね。大変だったの?」

『大変でしたよ。いえ、内容は思った通りのものだったんですけどね』

「そうなんだ。それはかなりやりにくそうだね」


 綾見あやみと<悪食あくじき>の会話を横に、凌ノ井は男の横顔を眺める。


 彼の夢は最近妙に冷たくなった娘さんと仲良く食事をするというもので、これは予想の通りである。だが子供はいないが同じ男として思わず共感してしまいそうになって、凌ノ井としては正直今回はかなりやりにくい案件であったと言える。娘さんに扮した夢魔が男に手料理を振る舞う光景など、事前調査によって現実の娘さんの人柄を知っていただけに、かなり心に堪えた。


 凌ノ井は缶コーヒーを開けながら、綾見を見やる。


沫倉まつくらちゃん、さっさと記憶を消してやってくれ。あれを残しとくのは忍びない」

「うん」


 これで、彼の中から娘さんと過ごした幸せな時間は消滅する。あとは現実側で上手く仲直りしてもらうしかないが、そこにヒュプノスとエクソシストエージェントは関与しない。


 男に記憶処理を施す綾見の手つきは、既にかなり手慣れたものだ。

 綾見がサポートにつくようになってから1ヶ月以上。凌ノ井のサブ出勤に付き合った回数も含めれば、これで6回目である。何度となく見てきた病室の外の景色だが、窓の外では桜が満開の花を咲かせ、散らし、今は青々とした葉をつけている。


 奇妙な夢は山ほどあった。

 鋸桐のこぎりのサブについた時は、好きなものを山のように食べたいという夢だった。あのむくつけき大男は、相棒の夢魔を連れ、お菓子の国を駆けずり回ったという。

 宇宙旅行に行きたいという夢もあった。これに対応したのは倉狩であり、彼女は自分の相棒にスペースシップを作らせて敵の夢魔と宇宙大戦争を行った。これほど破天荒な立ち回りをするのは極東支部でも彼女くらいのものであろう。

 ゲーム大会で優勝したいという少年の夢は、夢魔によって暴走させられ夢そのものがゲームの世界に変貌していた。これに対処した絶脇たてわきは、極東支部きってのガチンコ武闘派である。寡黙な相棒を片手に武闘大会で空気を読まず勝ち進み、準決勝で当たった夢魔をそのまま叩き斬った。


 そこで行くと今回の夢はかなりまともな方である。先週など、ここ数年凌ノ井が対処した夢の中ではもっとも極まったモノであってかなり途方に暮れた。被害者が大物政治家の先生だというのもかなり焦ったが、夢の中でのその政治家は、隠された女装癖と露出癖と被虐癖を余すところなく発揮していたのだから溜まらない。

 一国の行政を預かる立場となればストレスも溜まろうなぁと思うのだが、あの時ばかりは自分に記憶処理を施して欲しかったくらいである。以来、まともな顔でくだんの政治家がテレビに映るところを見れない。


「でも、大変と言いつつ特に危なげはなさそうだったね」


 すべてを片付けて帰り道。病院を出て駐車場に向かう道すがら、綾見が言った。


『まあそうですね。倒すと覚悟を決めてしまえば早いものです』

「それは、凌ノ井さんが強いから? それとも、<悪食>さんが強いから?」

『ふふふ……。それはね、綾見さん。両方ですよ』


 何やらもったいぶって言う<悪食>である。特に嘘を言っているわけではないので、ツッコミは入れないでおく。


「沫倉ちゃん、帰りに飯でも食ってくか?」

『マスター、なんで私には聞いてくれないんですか?』

「おまえは飯を食えねぇからだよ」


 夢魔、すなわち精神寄生体である<悪食>は、宿主の美味いと感じた感情をそのまま受け取ることができる。だから凌ノ井が美味いと思う食事をとることは<悪食>にも嬉しいことである。

 という理屈はわかるのだが、<悪食>はよく店にまで注文を付けてくるのだから凌ノ井も辟易とする。なんでも、店によって変わる些細な感情の変化が<悪食>にとっては味わい深いのだがそうだが、そんなことはいちいち構っていられない。この夢魔は、悪食だがグルメなのだ。


「凌ノ井さんの奢りなら行くよ。今月ちょっと苦しいから」


 綾見がぼんやりとした声で言ったので、凌ノ井は夢魔との言い合いを止める。


「そっか、沫倉ちゃんって一人暮らしだよな」

「そう。バイトもせず施設からもらってる生活費と奨学金だけで食いつないでる苦学生。グレなかったことを褒めて欲しいし、良かったら御飯を奢る程度の援助はしてほしい」

「俺が沫倉ちゃんにカネ出させたことなかっただろ。行くぞ」

「うん」


 車のロックを解除すると、綾見はするりと助手席に滑り込む。凌ノ井も運転席に座り、キーを差し込んだ。


 綾見のことは、まだ謎が多い。組織の記憶消去が一切通用しない少女。謎らしい謎と言えばただそれだけだが、凌ノ井からすれば、彼女がどうして他人の夢を叶えるなどという厄介な望みを抱え込んでいるのかもわからなければ、今の生活スタイルや家族のことだって知らない。母親の死因だって知らないのだ。

 綾見の母は、彼女を産んですぐに亡くなった。それは恋人を亡くしている凌ノ井との共通点であるように思えるし、まったくの相違点であるようにも思える。だが、結局、『自分の夢』を打ち明けて以来、凌ノ井と綾見は互いにそれ以上踏み込むようなことはしなかった。


「ねえ、凌ノ井さん」

「うん?」

「ずっと黙っていたことがあるんだけど」


 助手席に座った綾見が、じっとこちらを見つめてくるのに、ようやく気づく。


「私、カレーはさらさらしてる方が好きかも」

「俺はどろっとしてる方が好きだ。残念だったな」


 そう言いつつ、ちょっぴり残念そうにうつむく綾見が珍しかったので、今日は彼女の好みに合わせた店に連れていくことにした。





「あやみーん! おはよー! おはよーおはよーおはよーっ!」


 エクソシストエージェントの出勤日は月に7日ほど。他はすべて公休だ。必然、綾見の出勤日も凌ノ井と重なり、それは学業に影響を及ぼすようなことでもない。学校生活も然りであって、彼女は相変わらず、クラスでは多くの友人たちと親しい交流を続けていた。


「おはよう、ユミ。今日も元気だね」

「あやみんは相変わらずだね。でも元気だよね。見ればわかるよ!」

「うん」


 胸元に飛び込んできた親友の頭を、ぽんぽんと叩く。これが昇降口での出来事。そのまま2人で適当な会話を交わしながら、教室を目指した。

 ユミはよく、部活の話をする。彼女が所属しているのは弓道部で、その理由も自分の名前がユミだからというひどく適当なモノであったが、どういうわけか成績は良い。ただ最近はサボりがちだ。綾見も一度お邪魔しにいくついでに、触らせてもらったことがある。筋が良いとは言われたが、入部はしなかった。


 教室にたどり着くと、いつもの面々とも挨拶を交わす。その後、綾見は窓際にある机に、目をやった。


田中たなかは今日も欠席なんだ」

「みたいだな。この時間まで来てないってなると」


 クラスメイトの1人が相槌を打つ。


 あの席の持ち主である田中健介けんすけは、ここ1週間近く休みっぱなしだ。そこまで仲が良いわけではない生徒だが、少し心配になる。おとなしいイメージのある少年だが、身体が弱いという印象もない。


「見舞いにでも行こうか?」


 男子グループのリーダー格にあたる高木たかぎが言う。


「うん。かなり心配」

「だよな。俺もなんだよ。噂だと、眠ったまま目を覚まさないって話だし」


 バスケ部所属の高木は、背の高いイケメンだ。勉強も運動もできるタイプだが、それを鼻にかけることはなく、こうして友達思いなところもある。他人に対する思いやりという点では綾見とウマが合うので、かなり話しやすい相手だ。


 このとき綾見は、高木の言葉に確かな引っかかりを覚えた。


「目を覚まさない……?」

「うん。いや、確かな話じゃないんだけど。眠ったままずっとうなされてて……だから心配でさ」

「高木くん、なんでそんな話知ってるの?」


 綾見の袖を掴んだまま、ユミが首を傾げる。


「ああ……。アレだよ。俺の姉ちゃん、最近ヘンな宗教にハマってるって話したろ。それさ、田中の両親も入ってるらしくって。その繋がり。心配と言えばそこもなんだよな」

「それは確かになんかヤだねー。病院とか連れてってもらってるのかなぁ」


 目を覚まさない、と聞いて綾見が思い出すのは、やはり夢魔だ。だが、うなされているというのが気になった。自分の知る限り夢魔とは宿主の望む夢を見せるもので、それには快楽を伴う。これを夢魔の仕業と断定すると妙な話になってしまう。

 しかし綾見はまだ夢魔のすべてを知っているわけではない。悪夢を見せるような夢魔、というのも存在するのかもしれない。


 綾見は考え込んだまま、頼れるクラスメイトの方を見やった。


「高木、見舞いには行こう。私も行く」

「うん。姉ちゃんの名前出せばたぶんするっと入れるよ」


 一度、折を見て凌ノ井に連絡を入れることにしよう。

 ひょっとしたら、単なる杞憂かもしれないが。





「ずいぶん、腑抜けた顔しちょるのう。凌ノ井」


 いわおのような顔面の男が、こちらを見て笑っている。


 畜生、地獄だ。と、凌ノ井は思った。なんだって休日に、こんな暑苦しい男と顔を突き合わせねばならんのか。いや答えはわかっている。他にやることがないからだ。家にいたって惰眠を貪るだけであったので、『休みなら茶でもしばかんか。良い店を見つけたんじゃ』という誘いに、ついつい乗ってしまったのだ。


 それがこんな、女の子であふれている妙にきゃぴきゃぴした空間であるとは思わなかった。


 凌ノ井だって、この世にスイーツバイキングというものがあることは知っている。だが、それに自ら足を運ぶことになるとは思わなかった。それも、こんなムサい同僚に連れられて。


 190センチを超えるむくつけき巨漢は、名を鋸桐雁之丞がんのすけという。

 極東支部においては凌ノ井とは一番歳の近いエクソシストエージェントであり、プライベートでつるむことの多い男でもある。一癖も二癖もある同僚たちの中では、これでも極めてまともな方だ。凝り性であり、興味を持ったことには我を忘れて没頭する傾向にあるが、それはたいてい裁縫であったり編み物であったり料理であったり片付けであったりする。体格のわりに、こまい男なのだ。


 今回のスイーツバイキングも、おおかた先日の仕事で遭遇した夢に影響されてのことであろうと、凌ノ井は推察していた。


「おう、ほら、食え食え凌ノ井。食わにゃ損じゃぞ」

『そうですマスター。食べましょう。マスターが食べないと、私も食べた気にならないじゃないですか』


 どうやら<悪食>は、今まで凌ノ井があまり食べたことのない『スイーツ』というものに興味津々である。本当に食に関しては節操がなく、その上で口うるさい夢魔であった。テーブルに突っ伏しながら、凌ノ井はスイーツをフォークで突き刺し、口に運んだ。


『行儀悪いですよマスター』

「うるせー。ったくこんなところまで連れてきやがって、鋸桐」

「どうせ暇なんじゃろ。それにほれ、こういうところに来ておけば、あとであの嬢ちゃんも連れてこれる。どうせお前さんのことじゃ。カレー屋にしか連れて行ってないんじゃろ」

『さすがですね鋸桐さん。実にまったく、その通りなんですよ』


 最近は、同僚から綾見のことでイジられることも増えたのだから溜まらない。

 綾見は何を考えているかわからない表情ばかり浮かべているが、それでも言葉遣いは丁寧だし、一生懸命なので同僚たちとはすぐに打ち解けていた。それは良い。


 凌ノ井がいじられるのは、今まで助手を抱えてこなかったからだ。目の前の鋸桐は夢魔を宿した少年を1人助手としていたし、その助手は去年の秋から晴れて一人前のエクソシストエージェントになった。

 早い話が、『遅れて嫁を取った親戚のおじさん』みたいな扱いである。

 凌ノ井だってかつては見込みのある1人の少年を捕まえたことはあったが、彼は結局海外留学に伴って別の本部へ移動し、そこでエージェントデビューを果たした。本格的に助手を取るのは綾見が初めてで、しかもそれが女子高生というのだから、格好のイジられ具合だ。


 うんざりした顔でスイーツをもぐもぐやっていると、<悪食>は頭の中で幸せそうなため息をついている。こいつへの嫌がらせに、チューブワサビでも飲み込んでやろうと思うこともしばしばだ。


 ポケットに突っ込んだ携帯へ着信があったのは、ちょうどその時だった。見れば『沫倉綾見』とある。鋸桐がニヤついた顔でこちらを覗き込んでくるので、これ見よがしのため息をついてやった。


「はい、もしもし」

『凌ノ井さん。私。ちょっと、聞いてほしいことがあるんだけど』

「愛の告白ならまた今度にしてくれや」


 やけっぱちのついでに口から出た言葉だ。それを聞いて、鋸桐と<悪食>が、今のは無いのう、だの、ないですねぇ、だの話している。

 綾見に罪はない。なるべく紳士的に応対しようと心がける凌ノ井に、妙な話が告げられた。


 クラスメイトの話から始まったそれを聞いていくうち、表情はこわばっていく。

 こちらの変化を感じ取った鋸桐が、ニヤついた顔を止める。<悪食>は彼に、凌ノ井の聞いている電話の内容を直接伝えた。


『……ってことなんだけど。どうだろう。夢魔なのかなこれ』

「たぶんな」


 凌ノ井は短く頷く。


「沫倉ちゃん、その子の住所と情報、教えてくれ。あと見舞いに行くのは良いが、早めにお友達を帰すように」

『うん。わかった』


 こういう時、理由をいちいちほじくり返そうとしないのが、綾見の美点だ。今は詳しく説明するときではないし、あとできちんと事情は話す。彼女との会話を短く打ち切った後、凌ノ井はさらにアドレス帳を開いた。


「ナイトメアか」

「たぶんな」


 鋸桐との短い会話。電話をかける先は、当然棺木ひつぎである。2コールもしないうちに、涼やかな男の声が向こう側から聞こえてきた。


『どうなさいましたか、凌ノ井様』

「レベル3だ。情報は来ているか?」


 告げた瞬間、受話器越しにはっきりと、空気が張り詰めるのがわかる。


『どちらでございましょう』


 メモを開き、綾見から言われた通りの住所、そして氏名を告げる。

 夢魔による被害は、あらゆる兆候などを集積してヒュプノスで管理、観察する。通常であれば、夢魔は発生を確認してからすぐにその存在を感知される。綾見の件などは、偶然凌ノ井が見つけたので初期症状に内に片付けることができたが、もし彼が発見していなくても、そう遠くないうちに組織が動いていたはずだ。


 レベル1と呼ばれる段階から、レベル2になった段階で、夢魔は初めて観測が可能になる。だがそのため、多くの場合はレベル2で退治される。レベル3の夢魔が発見されることは極めて少ない。


『……いえ、当方では確認できておりません』


 それでも例外はある。

 例えば、夢魔による異常症状の発現が極めて小さい場合。だがそれ以上に多いのが、異常症状の発現した被害者を隔離するなどして、そもそも観測を不可能にしてしまった場合だ。今回も、その可能性が高そうだった。


「棺木、今日は誰を動かせる?」

『それが、本日出勤されているエクソシストエージェントの方は、すべて別の任務にあたられています』

「まーたそのパターンかよ……」


 最近やけに多いからのう、と、真剣な面持ちで鋸桐が呟いていた。


「わかった。俺たちが行く」


 棺木はその言葉を引き留めたり、聞き返したりはしない。これが本当にレベル3の夢魔による仕業であるならば、事態は逼迫しているのだ。動ける人間がすぐ動かなければならない。ただ、


『はい、よろしくお願いします』


 とだけ言った。


「その田中くんちっていうのが、どうも病院に子供を入れようとしない可能性があるから、場合によっては強硬手段で乗り込む」

『かしこまりました。その手配をしておきましょう』


 電話を切った凌ノ井は、皿の上に載っているスイーツをひっつかんで口に突っ込み、そのまま紅茶で強引に飲み流した。


「行くぞ」

「んむ」


 鋸桐は食べかけのスイーツを名残惜しそうに眺めてはいたが、頷きに迷いはなかった。


「しかし凌ノ井、おまえさん、急に生き生きしだしたと言うか……。ワーカホリックじゃのう」

「言ってる場合か。ガチでレベル3なら、結構まずいぞ」

「それはまぁ、そうなんじゃが……」


 2人の男は、女子たちのひしめくスイーツバイキングを後にし、綾見から報告のあった田中少年の家へと向かった。





 見舞いを終えた綾見は、凌ノ井たちと駅前で落ち合う。鋸桐とも挨拶を交わし、情報の交換を改めて行う。

 クラスメイトの高木が言った通り、どうやら田中の両親は妙な宗教にハマっているらしく、だがその宗教には高木の姉も名を連ねているということで、見舞い自体は割と警戒されずに行うことができた。噂通り、田中はベッドの上でうなされており、目を覚ます気配もない。

 ユミが病院に連れていくことを提案したが、両親は聞く耳を持ってくれず、苦しむクラスメイトの姿を見ていられなくて、綾見たちはそうそうに退散してしまった。


 そんな事情を告げると、凌ノ井と鋸桐は大きくため息をつく。


「まあ、たまにあるのう。こういうことは」

「だな。発見できただけ、みっけもんだよ」


 その言葉は、『手遅れ』になる可能性も多々あることを、暗に示していた。


「凌ノ井さん、夢魔っていうのは、人に良い夢を見せるんじゃないの?」

「それがそうとも限らんのじゃ」


 代わりに鋸桐が、大きな顎を撫でながら答える。


「嬢ちゃんは夢魔のレベルについてどれくらい聞いておるかのう」

「1と2は説明してもらった」

「うむ。まあたいていの夢魔はレベル2じゃ。キューブスという。じゃが、組織では夢魔の成長段階を、5段階で評価しておる。厄介なのは、3以降でのう」


 レベル2の段階で、必要量の欲望を糧とした夢魔は、更に新たな段階へと進化する。

 それがレベル3、ナイトメアと呼ばれる段階だ。彼らは夢の世界を完全に掌握し、ルールを自分の良いように改変し始める。宿主の意識を夢の中に閉じ込めることもできるし、そうなれば宿主の欲望に媚びる必要もなくなる。一転して、夢魔は宿主に悪夢を見せるようになる。

 レベル2までの時点で見せてきた夢は、宿主の欲望を肥大化させる。その大きくなった欲望を、今度は悪夢で搾り取るように潰していくのが、ナイトメアのやり方だ。


 精神をすり潰し、やがて夢魔は宿主の心を食い殺す。


 宿主を殺した時点で、夢魔はその肉体を離れ新たな宿主を探しに行く。これがレベル4だ。こうなってしまった夢魔は、手をつけるのが難しい。複数の宿主に同時にとり憑き、現実世界側で操ることも可能となる。


 ここまで聞いたとき、綾見にはふと、思い当たることがあった。


「……じゃあ、凌ノ井さんの恋人は」

「まあ、そういうこった」


 少し離れた先の喫煙スペースで煙草をふかしながら、凌ノ井が答える。


 凌ノ井の恋人は夢魔に殺された。それがレベル3のものだったのか、レベル4のものだったのかは、わからない。だが、やがて夢魔はその恋人の心を食い殺した。そして、別の宿主を求めてどこかへ巣立って行った。

 夢魔の発見が『手遅れ』になるというのは、つまりそういうことなのだ。凌ノ井の恋人にとりついた夢魔が、なぜ発見されなかったのか。そこまでは、わからないが。


「今回の田中くんをそうするワケにもいかねぇ。だから急ぐんだ。わかるだろ?」

「うん」


 凌ノ井の言葉には微かな憤りが滲んでいる。その意味を問うほど、綾見は野暮ではない。


「レベル3以上の夢魔を相手にするとなると、だいたい勝負はガチンコだ。2の時みたく、せこせこ事前調査をする必要は薄い。相手も回りくどいことをしないからな」


 なお、多くのエクソシストエージェントが夢魔を克服し、契約を結ぶのは、レベル3の時である。と、鋸桐が付け加えた。


「それで、どっちが夢魔を退治する?」

「そりゃあ、お前さんの方がええじゃろ。お前さんの方が強いからな」


 凌ノ井と鋸桐の会話。綾見は、ぼんやりした顔で、またいろいろなことを思い出していた。

 ついこの間の事件で、強いのは凌ノ井と<悪食>なのかと尋ねた時、<悪食>はさらりと『両方です』と答えた。そのずっと前には、倉狩が<悪食>のことを指して、『あの子は特別』と称した。それがどう特別なのか、今更ながらに気になってくる。


「<悪食>さんは、レベルいくつなの?」


 尋ねる。凌ノ井は煙草をくわえたまま空を見上げており、鋸桐は難しい顔を作った。


『それがなんと、レベル4なのです』


 あっさり答えたのは、その夢魔本人である。


「そうなんだ」

『おや、あまり驚きませんね?』

「今の話聞いてたら、そうかなって思った」


 レベル4の夢魔は、複数の宿主に同時に寄生できるという。つまり、複数の人間に対して同時に干渉ができるということだ。携帯のアプリがなくとも会話ができるし、その理由を倉狩が『特別』と言ったのも、それなら合点が行く。


『当然ですが、制御する夢魔が強ければ強いほど、消費する精神力も大きくなります。レベル4の私を押さえきれるマスターは稀有けうなのですよ。ヒュプノスという組織は世界規模ですが、それでも、レベル4の夢魔と契約しているエクソシストエージェントは、3人しかいません』

「そんなに凄かったんだ」

『そんなに凄かったんです。強いのは私とマスターの両方だと言った理由、理解していただけました?』


 雑な言い方をすれば、いま、綾見の目の前にいるしょぼくれたエクソシストエージェントは、世界で最強の3人の、1人ということになってしまう。まったくそんな風に見えないし、実感も沸かない。そもそも、綾見は比較対象を持たないのだから当然だ。


 だが、<悪食>がレベル4であるという、その事実は……、


『まあ、そんな稀有な素質を持つマスターですから、私はこれでも尊敬してるんですよ。私、人間は好きですけど、強い心を持った人はもっと好きです』

「くだんねぇこと言ってんなよ」


 凌ノ井はぼやきながら、火の憑いた煙草を灰皿に押し付ける。


<悪食>はレベル4の夢魔だ。レベル3の夢魔が宿主の心を食い殺し、その肉体を離れた個体が、レベル4になるのであるとすれば。それは、彼女がかつて一度、人間をあやめたことがあるという事実を示しているものだった。

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