第六夜 ヒュプノス―夢解けて黄金色―

 そこは絢爛けんらんなカジノだった。猛禽もうきんじみた瞳をせわしなく動かして、内情を探る。

 登場人物は多かったが、そのいずれにも、個性がほとんど見られない。単なる〝登場人物〟だ。宿主の記憶の中にある適当な人物が、適当にチョイスされているのだろうと思われた。彼らは客であったり、ディーラーであったり、あるいは酒や食事などを運ぶバニーガールであったりする。


 そしてその中に、金森かなもり麗華れいかの姿があった。


 白いドレスに、嫌味にならない程度のアクセサリー。化粧もさほど濃くはない。お洒落にあっては上品なセンスを持っている。彼女はいま、他の客とポーカーに興じていた。金森を相手どる客の表情に余裕はなく、一方的にカネを巻き上げている状態になるのだとわかった。

 そんな金森の姿を見るにつけ、凌ノ井しののいはわずかに目を細める。

 金森は周りに端整な顔つきの男たちを侍らせていた。彼らはいずれも燕尾服に身を包んで、恭しく彼女に傅いている。男遊びが酷いなどというデータは無かったので、あれも妄想の産物だろう。よく見れば、いずれもテレビで見たことがあるような顔をしている。


「彼女の夢、けっこう、重症ですね」


 凌ノ井に、そっと耳打ちをする<悪食あくじき>。


「男性まではべらせているとは思いませんでした。そんなに飢えていたんでしょうか」

「今日び、別に28でトウが立つこともないだろうになぁ」


 バーカウンターで、煙草をふかして一服する。最近は夢の中でも禁煙の場所が多いから、こうしてくつろげるのは久しぶりだ。


 彼は今、夢魔を退治するため金森麗華の夢の中へと潜入していた。社長令嬢であったが、父親の会社が倒産してしまった彼女は、家族の背負った借金を返済するために働いていたが、夢魔に目をつけられた。夢の影響は現実の精神までむしばみ、金森麗華はギャンブルにのめり込むようになってしまった。まぁ事情としてはそんなところだ。


 なお、<悪食>は今回も人間の姿をとっている。さすがに虎の姿でカジノには入れない。今回は夢魔がどの登場人物に擬態しているか、そこから探っていかなければならないのだ。


「金森さんが必ず勝つ、という夢のルールを考えますと、やはりディーラーでしょうか」

「だろうな」


 早いところ仕事を片付けなければならないと思っていたが、思考の片隅にこびりついた何かが、凌ノ井の迅速な行動を少し、邪魔していた。


「どうしました、マスター」

「ちょっと沫倉まつくらちゃんに言われたことを考えていた」

「ああ……」


 <悪食>は合点が行ったらしい。


 現実世界側で、おそらく沫倉綾見あやみは、サポートのやり方を学んでいる。教え役の倉狩くらがり鍔芽つばめは、凌ノ井の師匠にあたる人物でもあり、信用して差し支えない人物だ。そこに問題はない。

 沫倉綾見については、少しばかり厄介な子を背負い込んでしまったなという気持ちがある。確かに、凌ノ井くらいの年齢で弟子のひとつも抱えていないようなエクソシストエージェントはいないから、頃合いとしては正しかっただろう。最近は夢魔による事件も不自然に増えて、少しでも人手を増やしたい。それもわかる。


 だが綾見は、多くのエクソシストエージェントがそうするように、自身にとりついた夢魔を克服し従えたわけではない。加えて、どういうわけか記憶消去が通じない特殊体質。さらに極め付けは、他人の夢を叶えたがる厄介な性癖である。


 別段恨んでいるわけではないし、むしろ人間として好ましいとも感じている。

 だが、彼女に過去をつつかれた時は、ちょっぴり痛かった。


「マスターの夢のこと、綾見さんに話しても特に問題はないのでは?」


 <悪食>はぽつりと言った。


「別段隠すようなことでもないでしょう」

「でも、俺の夢は沫倉ちゃんには叶えられない。まあ、沫倉ちゃん1人に限ったことじゃねぇけど」

「それは綾見さんが判断することですよ」


 凌ノ井は、少しばかり恨みがましい視線を、<悪食>に向けた。

 世界中の誰にも叶えられない凌ノ井の欲望に目をつけた、趣味の悪い夢魔に対する恨みだ。この夢魔が彼の望みを叶えてくれたかと言えば、そんなことは決してない。ずっと、悪夢に苛まれてきたのだ。


 バーカウンターの灰皿に、短くなったタバコを押し付ける。


「……無駄話をしたなぁ」

「大して時間は使っていません。平気ですよ」

「さっさと片付けよう。この夢が悪夢になる前にだ」


 そう言って、凌ノ井は再びカジノ内に視線を配った。


 どこに夢魔がいるのかは、ある程度接近すればわかることだ。だが、夢魔を探してくまなくカジノの中を歩き回っていたのでは、時間がかかりすぎるし、怪しまれる。凌ノ井たちはあくまで、夢の中の登場人物として、自然な行動を取り続けなければならない。

 簡単なのは、夢の中でエラーを起こすことだ。以前、綾見の夢の中でもやったことである。多くの場合、レベル2夢魔の作り出す夢の世界のルールとは、宿主の欲望に根差しており、欲望が達成されることで、次の欲望達成イベントが発生するという形式を取る。


 今回は単純明快だ。


 金森麗華がカジノで勝つ。ここにいる客はすべて、その為のいけにえである。

 それを阻止してしまえば良い。


「では、マスターが金森さんと対戦なさいますか?」

「それで良いだろ。保護は頼むぞ」


 夢の中では金森が絶対に勝つようにできている。そのルールから保護してもらえば、同じ条件で勝負ができるし、同じ条件でできれば凌ノ井に勝ち目がある。


「今回は、私も楽ができそうですね」

「そんなこと言って、保護をサボったら承知しねぇぞ」

「良いじゃないですか。どうせ勝っても負けても夢の中なんですし」

「その夢の中でカネを出すには、俺のMPを使うんだよ」


 現実世界ではそれなりに裕福な凌ノ井ではあるが、その金銭を夢の中に持ち込むことはできない。夢の中で道具を出すには、すべて彼の精神力を消費して<悪食>に用意させなければならない。

 今回はかなり使ってしまった。少なくとも、金森が勝負したいと思うくらいの金額を用意しなければならないのだ。<悪食>の姿を美女に変えるのにかかる精神力だってバカにはならない。


「だから、お安い料金コースもありましたのに」

「なんで候補が沫倉ちゃんと師匠なんだよ……」

「あの2人は私にとって好ましい女性ですから、化けるのにあまり抵抗がないのです」


 他には小さな猫に化けるというのもあった。カジノに猫を連れ込むというのはいかにもセレブ的であるが、遊戯中に離されると厄介なのでこれも頼めなかった。懐中時計の指し示す残り時間は6時間ほど。凌ノ井は時計を懐にしまい、バーテンダーに尋ねた。


「あの金森って人に挑戦したいんだが、どうすれば良い?」


 このバーテンダーが夢魔でないことはすでに確認済みだ。情報を引き出す。


「金森さんはどんな方の挑戦でもお受けしますよ。やめた方が良いと思いますけどね」

「そりゃどうも」


 ならば話は早い。凌ノ井はバーカウンターを離れた。<悪食>も後ろをついてくる。

 ちょうど、先ほどの挑戦者が大敗を喫しているところであった。


「マスター、ヘッズアップは多人数でやるポーカーと定石が違います。大丈夫ですか?」

「ヘッズアップってなんだ?」

「1対1でやるポーカーのことです。ところでマスター、ポーカーのルールは?」

「ロイヤルストレートフラッシュ出せばいいんだろ。任せとけ」


<悪食>の肩をポンと叩いて、凌ノ井はテーブルにつく。実際のところ、トランプゲームはババ抜きと大富豪しかやったことがない。が、凌ノ井の表情に不安は一切なく、それは<悪食>も同じであった。打ち合わせはすでに済ませているのだ。


「新しい挑戦者ね」


 金森麗華が微笑ほほえむ。


「あまりしゃっきりした装いではないけど、おカネは大丈夫かしら?」

「ご心配どうも。こういうのは、勝ちゃあ良いんだ勝ちゃあ」


 参加費として、チップをテーブル中央ポットに置く。金森が舌なめずりするのが見えた。


 ディーラーが無言のままトランプを配り始める。夢魔の気配が強くなったような気がした。

 だが、このディーラーが果たして夢魔の擬態であるのかどうかは、まだはっきりとしない。


 懐中時計の長針が、勢いを増して回り始めていた。少し離れた場所から見守っている<悪食>が、夢のルールから凌ノ井を保護している。

 回ってきた手札を確認し、金森がわずかに眉をひそめた。あまり、良い札ではなかったのかもしれない。だが彼女は手札を交換したのち、口元を吊り上げてゆがめる。


「最近ね、妙についているのよ。ここのところ、カジノで負けたことがないの」

「そりゃあ羨ましいな」

「ふふ、おカネで悩んでいたのがバカみたいだわ。お父さまの借金だって、全部返しちゃった」


 凌ノ井は、今まで何度か見回したカジノの内部を、再び確認した。

 何度確認しても、代わり映えのしない景色。個性のない客とディーラー。この夢の世界で、色を持っているのは、目の前の金森麗華、ただひとりだ。


「ベットはあなたが先で良いわ。好きな分だけ、お賭けになって?」


 言われ、凌ノ井は<悪食>へと視線をやった。彼女は無言でうなずき、大量のチップを持ってくる。その半分をポットに置くと、周囲からどよめくような声が上がった。このどよめきは、金森の心の歓声だ。

 どうせ現実世界には持って帰れないカネである。これで大勝ちしてもむなしさが募るだけだ。


「レイズ」


 金森は済ました顔をして、その倍額のチップを投入した。どよめきが一層大きくなる。薄暗いカジノの空間に、金森の得意げな顔が浮かび上がった。賭け金の確定したのち、カードをオープンにする。


「どう? フルハウスよ」

「悪いな。ストレートフラッシュだ」


 特に勝ち誇るでもなく手札を開くと、彼女の顔にさっと陰りがさした。


 当然、イカサマだ。


 凌ノ井には最初から、まともに勝負するつもりなどない。配られたトランプとまったく同じものを何枚か、あらかじめ<悪食>に用意させておいた。そこから、金森の出した役に勝てそうなものを選びとって、手札に混ぜる。

 昔から、手癖の悪さには自信があった。綾見の生徒手帳を抜き取った時に比べればいくらか難しかったが、それでも思うさまあっさりできた。


「……おやりになるわね」


 金森はわずかに冷や汗を浮かべたが、動揺はしなかった。勝負の世界であれば勝ち負けはある。当然のことだ。


「お客様」


 だが、いぶかしがっているのはディーラーである。彼はじろりと凌ノ井をにらみつける。


「不正などなさってはいないでしょうね」

「おいおい、よしてくれ。あんた、見たのか?」


 しらばっくれてみせるも、腹の中では凌ノ井もまた、ディーラーへの疑いを強くした。


 十中八九彼が夢魔だ。凌ノ井のイカサマを見破っているならともかく、ただの登場人物に過ぎないディーラーが、勝敗の結果を疑うことはまずありえない。黙って見過ごすか、あるいは、負けたはずの金森が勝利したかのように振る舞うような〝バグ〟を起こすか。そのどちらかだ。

 夢魔は、夢の中に異常が発生していることを察知したようだが、金森が勝負に乗り気である以上、ここで打ち切ることはできない。凌ノ井のことを訝しがりつつ、その正体を見破れている様子は、まだなかった。


 夢魔が見つかれば、捕まえて、凌ノ井の世界に閉じ込める。

 今まではこうしてきたし、今回もそうするつもりだ。


 だが、夢魔がこちらに注意を払っているときに行動を移すのは至難の業だ。だから凌ノ井は、勝負を続けた。手札が配られ、何枚かを交換する。その間に、凌ノ井は幾らかの小細工を仕込む。先ほどのような派手な真似はさすがにできない。

 今回は、金森がオープニングベットを行った。大量のチップを賭ける金森に対し、凌ノ井もまたレイズを宣言した。賭け額を倍に吊り上げる。夢魔とは対照的に、金森はポーカーに熱中している様子だった。


 凌ノ井はため息をつく。ため息をついて、自身の手札を開こうとした。その時だ。


「イカサマだ!!」


 ディーラーは叫んだ。叫んで、凌ノ井の右腕を掴んだ。彼がトランプのカードを取り落とすと、はらり、と何枚かのカードがまとめてテーブルに落ちる。配られたものと、あらかじめ用意していたもの。合計10枚近く。

 金森は一瞬何が起こったのかわからないという顔をしていた。


 ディーラーは腕を掴んだまま、無理やり凌ノ井を立たせる。


「お客様、当カジノではイカサマを禁止ししております。発覚したからには相応の罰を受けていただきますが、覚悟はおありですか?」

「存外にバカだな」


 勝ち誇った顔で言うディーラーに、思うことを正直にぶつけてやった。


「なんだと?」

「あんたは捕まえたんじゃない。捕まったんだ」


 夢魔の運営するカジノでイカサマをする奴が、ただの登場人物なわけないだろう。

 肥えてる割には頭の悪い夢魔だ。貧すれば鈍すると言うが、どうやらこいつに限っては逆らしい。


 周りくどい真似をしたのは、夢魔を決して逃がさないようにするためだ。イカサマをちらつかせれば、敵はその瞬間を見逃さない。ここまであっさり網にかかるとは、思っていなかったが。

 ハナからポーカーで勝負する道理なんて、凌ノ井にはない。


「閉じろ、<悪食>」


 掴んできた夢魔の腕を、空いた腕で逆に掴み返し、凌ノ井はまだ状況を理解できていない夢魔と金森、両方にこう告げた。


「夢からめる時間だ」





 閉じ込めてしまえばあとは早いものだった。凌ノ井の夢へと招待された夢魔は、力を保つことができず、彼の望むままに消滅する。消える間際に、<悪食>の小腹を満たす間食となる。いつも通りの仕事を、いつも通りにこなし、そして凌ノ井鷹哉たかやはいつも通り、現実世界に帰ってきた。


 病室の換気扇が勢いよく回っている。目の前に、沫倉綾見の顔があった。


「……沫倉ちゃん、近い」

「お疲れさま、凌ノ井さん」

「大して疲れちゃいない。今回は楽なもんだったよ。沫倉ちゃんの時に比べればな」


 ぽん、と綾見の頭を叩いてやる。


『ちょっと賢い夢魔ではありませんでしたね。ただ、たっぷり肥えていたので、それなりに美味しくはありました』

「<悪食>ちゃん、相変わらず夢魔の残りカスなんか食べてるのね。そのうちおなか壊すわよ?」

『こればっかりは食の好みですから、やめようとは思いませんねぇ』


 そう、楽な仕事ではあった。だいたいすべて、予想通りの展開だった。

 もうちょっと思い通りにならなくても良かったのにな、と綾見の顔を見て思う。


<悪食>とくだらない会話をしていた倉狩が、不意に元気な声でこちらへ向き直った。


「沫倉ちゃーん! 最後の仕上げよ。記憶消去やるわよ。使い方は説明したわよね!」

「あ、うん。っていうか、私、使われたことあるしね」


 綾見は頷いて、装置からペンライトのような道具を取り外す。

 少し前の映画に出てくるような、ちゃっちい記憶消去装置だ。この先端部から放たれる光を網膜にあてることで、対象の事件に関する一切の記憶を消すことができる。嘘臭い小道具だが、これがちゃんと効いているので不思議な話だ。

 効いていない人間も1人知っているが。


「それ、俺がガキの頃からずっとその形だよなぁ」

「あら、ちゃんと日々進化してるって話よ? 鷹哉、ちゃんと棺木ひつぎくんに配られた資料読んでるの?」

「どうせ何グラムの軽量化に成功したとか、そんなのばっかだろ。たまにはもうちょっと劇的な進化を期待したいもんだが」

「組織の技術陣はちゃんと頑張ってるわよ。このアプリだってすっごい便利」

『あー、それ良いですよねぇ。早く私にも対応するようにならないかなぁ』


 おまえ黙っていても頭の中に語り掛けてくるだろ、と凌ノ井がぼやくと、スマホの画面に自分の姿を投影できるのが良いんですよ、と<悪食>が答えた。私も女の子ですからおしゃれもしたいですしね、とも続けてきたので、それに関しては鼻で笑ってやることにした。


 綾見は、眠っている金森のまぶたをそっと開け、記憶消去装置の光を当てている。


「私、こんなことされてたんだ……」


 当てながら呟く言葉には妙な実感がこもっていた。


「ひとまず、これで一連のお仕事はおしまいだ。おつかれだったな、沫倉ちゃん」

「私は別に……。ほとんど見ていただけだったし」

「最初はそんなもんだ」


 凌ノ井はそう言ってタバコを取り出すが、綾見にじっと見つめられ、気まずそうにそれをしまった。


「……助手って奴は、本当は並行して夢魔を制御する訓練とかもするんだが、沫倉ちゃんの場合はそれもできないしなぁ」


 凌ノ井がタバコをしまったことを確認し、綾見は再び、金森の方を見ている。被害者はこの病室に運び込まれた時と同じ、じっと眠りについたままだ。口元に浮かび上がるわずかな笑みも、変わった雰囲気はない。

 夢魔を退治した、記憶を消去したといっても、綾見から見れば何も変わっていないのだ。不安があるのかもしれない。


「もう終わったんだよ。気にすることはないさ」

「うん」


 頷く綾見。


「これで全部元通りになるのかな。金森さんの生活も」

「そいつはどうだろうな」


 凌ノ井もまた、綾見と同じように金森を見る。


 彼女の見た夢の世界。夢の中での彼女の姿。いずれをとっても、凌ノ井は綾見のようには考えられなかった。この仕事に就いて以来、何人もの人間を夢魔から救ってきたその経験は、あまり良くない結果を彼に提示していた。





 あの時、凌ノ井の口にした言葉に引っかかりを覚えて、数日。綾見はスリーピングシープに呼び出された。棺木から、前回の事件について報告を受けるらしい。

 出勤ではないので、望めば書類で送ってくれるとのことだったが、綾見は凌ノ井と共に直接顔を出すことにした。


「金森麗華様はあの後復職なされましたが、すぐに仕事を辞められました。最近はまたギャンブルに手を出すようになったとのことでございます」


 淡々と資料を読み上げる棺木の言葉は、綾見にとって少なからず衝撃をもたらした。


 いつものぼんやりした表情に変化は見られない。だが、綾見はきゅっと唇を噛む。

 夢魔は退治されたはずではなかったのだろうか。記憶だって消したはずである。金森麗華がギャンブルに手を出していたという事実そのものが無くなった。それなのに、なぜ被害者は、再び同じような過ちに手を出してしまったのだろうか?


 凌ノ井はさもありなんという表情で紅茶を飲んでいた。

 棺木は他のエージェントに指示を出すため、一時退席している。彼がいなくなった後、クラシカルな個室の中で、凌ノ井と綾見は話をつづけた。


「だから言ったろ。そいつはどうだろうな、って」

「うん」

「夢魔は人間の欲望を後押しするだけだ、って話はしたよな。暴走した欲望が別の形に変わっていくことはあるが、それでも大本は、本人の望みだ。金森さんの望みが、『カネを儲けること』だったのか、『借金を返済すること』だったのかは知らんが」


 父親の会社が倒産したことで、金森麗華は今までの生活を奪われた。おそらく、社長令嬢としての彼女は何不自由なく暮らしていたことだろう。だがその生活を奪われたのだ。

 金森のような状況に陥ったのであれば、父親の会社が元通りになる夢であるとか、バラバラになった家族がまた一緒に暮らせるようになる夢であるとか、そういった望みを抱いたとしても不思議ではなかった。


 しかし彼女が見た夢は、あくまでも金銭に終始するもの。


 本質的に優先するものがそこにあったということだ。


『それだけで判断するのは気が早いですが、夢の中には金森さんの知り合いと呼べるような人を、見かけませんでしたしね』


 途中から口を出してくる<悪食>。


『もちろん、家族の姿の、影も形もありませんでした。だからまあ、そういうものなのです。よくあることですから、気にしてはいけません』

「そうなんだ」

『ショックを受けていますか?』

「多少は」


 でも、人間色んな欲望があるからね、と。綾見は言った。そこを否定するつもりはない、とも。

 綾見は、家族を優先する夢が、金銭を優先する夢よりも尊く価値のあるものだとは、一切思わなかった。カネが大事ならばそれで良い。人が抱く欲望というものに、貴賤など存在しないと思うからこそ、『友達の望みを叶えたい』という、人によっては違和感すら覚えるような夢を抱いてきたのだ。


 だから、綾見にとってショックだったのは、金森麗華がそういった望みを抱いていたことというよりは、単純に夢魔を取り除かれた後も彼女が身を持ち崩してしまったという、その事実一点のみであった。


「やっぱり、バレないゴトの方法を教えてあげるべきだったね」


 ぼそっと言うと、凌ノ井はいささかギョッとした顔でこちらを見る。


「沫倉ちゃん、本当に変わった考え方するな」

「そうかな。やめた方が良い?」

「いや、やめた方が良いとまでは言わねぇけどさ」


 そんな凌ノ井の顔をじっと見つめ、綾見は彼の持つ夢のことを考えた。


 ずっと前に、恋人を夢魔に殺されたという。彼の望みは、かたき討ちなのだろうか。彼の夢がどんなものであっても、綾見は協力するつもりでいた。


「ねえ、凌ノ井さんの夢は、どんな夢なの」

「だからもう、夢なんて持ってねぇって」


 吐き捨てるように言う凌ノ井だが、綾見の極端に光を返さない瞳にじっと見つめられていると、やがて居心地が悪そうに頭を掻いた。

 夢を持っていない、というのが真実ではないことは、既に綾見は見抜いている。単に、言いたくないだけだ。その言いたくないことを、綾見は無理に聞き出そうとしている。やがて、凌ノ井は観念したように告げた。


「昔持ってた夢は平和なもんだったさ」

「うん」

「好きな女とずっと一緒に過ごしたかったが、まあ、無理だったんだなぁ」

「うん」


 恋人を夢魔に殺されたという一件だ。


 正直なところ、夢魔が人間を殺すという経緯が、綾見にはまだよくわからない。夢魔は人間に良い夢を見せて、そこから欲望を吸い取るというだけではないのだろうか。まだ、綾見の知らない何かがあるのだろうか。


「沫倉ちゃん、夢はな。人を頑固にするんだ」


 病室で倉狩が言ったのと同じことを、凌ノ井も言う。


「凝り固まった夢はほぐれない。もう叶わない夢なんだが、新しい夢に切り替えが聞くわけでもない。心の中に、重しとしてずっと残るんだよ。だからさ、そいつが、俺の夢なんだ」


 そう言って虚空を見やる彼の横顔は、ひどく虚ろなものだった。


 凌ノ井鷹哉の夢は、かたき討ちなどではなかった。同時に、彼が自分に憑いた夢魔に<悪食>と名付けた理由も理解する。彼の夢はもう叶うことがないのだ。恋人を夢魔に殺されてしまったあの日から、永遠に。


 しかし、夢は人を頑固にするという。凝り固まった夢は解れないという。

 だからこそ、沫倉綾見は、確かな決意と覚悟を胸に、彼にこのように告げた。


「その夢、いつか叶うと良いね」


 返事があるまで、しばらくの間があった。

 怒られるかもしれないと、綾見は思った。あるいは無言のまま退室されたとしても、仕方のないことである。


 天井を見上げたまま返ってきた凌ノ井の返事は、このようなものだった。


「……ああ、そうだな」

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