第五夜 ヒュプノス―夢魔に憑かれた者は―
「被害者は
『あらあら』
棺木の報告を聞いて、<
彼らは、薄暗い室内でブリーフィングの真っ最中だ。本部の白い壁や天井は清潔感があってシンプルだが、凌ノ井としては、スリーピングシープの客室の方が好きではあった。変わらないのは、
「ここまでわかりやすいパターンもなかなかねぇな」
『
映写機によって壁に投影されているのは、一人の女性の姿だ。さほど下品ではないが、金をかけているとひと目でわかる装い。育ちの良さと同時に気の強さを感じさせる目元。鼻っ柱の強そうな女であった。これが、今回夢魔に憑かれていると判明した金森嬢である。
報告によれば、ここ最近、金森にはあからさまな睡眠時間の増加が見られているという。レベル2夢魔の症状の中でも、かなり進行した段階だ。
最初に持っていた望みは、家族のためにも借金を返済したいとか、そういった程度のものであったかもしれない。そこに目を付けた夢魔が、夢の中で一攫千金を達成させ、徐々に欲望を暴走状態に追い込んでいく。夢魔が見せる夢はあまりにもリアルで、それ故に目が覚めた後も尾を引きずる。次第に、そのギャップを容認できなくなり、現実世界でも夢と同じ状況を求めるようになる。
「病室の手配はすでに済んでおりますので、あとは金森様を搬送するだけです。今日中には終わるでしょう」
「おう。まあ、さっさと済ませちまおう」
夢魔の見せる夢は、やがて現実側の人間の行動にも影響を及ぼすようになる。ここまで症状が進行しているなら、かえって夢の内容も特定しやすいというものだ。
『サポートはどうするんです? 綾見さんがやるんですか?』
「
紅茶に口をつけて、眉をしかめる凌ノ井。棺木は、モノクル越しに穏やかな笑顔を浮かべると、空になったティーカップに再び茶を注いだ。
「沫倉様にもサポートのやり方を学んでいただかねばなりませんので、同席していただきます。実際にサポートを担当されるのは別の方です」
「ふーん……」
気のない返事をして、凌ノ井は何の気なしに壁を見た。壁には、エクソシストエージェントの出勤シフト表が掲示されている。極東本部に籍を置くエージェントの数は12人。それが、代わる代わる出勤し、夢魔の対策に従事している。今日の日付では、メイン出勤が凌ノ井。サブ出勤が
倉狩。倉狩
凌ノ井は嫌な予感がした。
「おっじゃまー!!」
景気よく扉が開け放たれ、快活な女性の声が響く。思わず、耳を押さえた。
「やーやー!
大声でまくしたてる倉狩鍔芽の隣で、沫倉綾見がぼんやりした顔で突っ立っている。凌ノ井は棺木を睨むが、棺木はにこにこした顔で立っているだけであり、さらには頭の中で<悪食>のくすくす笑う声がする。綾見は状況が飲み込めていないだろうし、つまり今凌ノ井の周囲に味方はいない。
凌ノ井は、自分より一回り程年下に見える倉狩の笑顔を、正面から睨みつけた。
「
「あらー、相変わらずつれない返事ねー。敬意を持って師匠と呼びなさい、師匠と!」
姐さん? 師匠? と、綾見が首を傾げている。当然の反応だと、凌ノ井は思った。
『綾見さん。鍔芽さんはね、マスターの師匠にあたるエクソシストエージェントなのです』
「えっ。そうなの?」
<悪食>の説明を聞き、綾見はぼんやりした声にわずかな驚きを滲ませた。
「でも、倉狩さんの方が年下に見える」
『そうですね。見えるだけです』
「おー。<悪食>ちゃんも言うようになったわねー!」
にこにこ笑う倉狩を見て、凌ノ井は鼻を鳴らした。
「俺がガキの頃からずっとこの見た目だぞ。とんだバアさんだ。それが……あっ、あだだだだっ」
倉狩が真横に立ち、耳を思いっきりねじりあげてくる。情けない悲鳴が上がった。
「鷹哉の方は相変わらず口が減らないのよねー! 沫倉ちゃん、こうなっちゃダメよ?」
「見た目が若いのは良いことだと思う」
「飲み込み早すぎだろ! もっと驚けよ!!」
「十分驚いている。顔に出ないんだ、私」
そう言って、綾見は椅子のひとつに腰かけて、まじまじと倉狩の顔を見つめた。
「本当に若いんだね。私よりちょっと上かと思っていた」
「若さを保つにもいろいろ秘訣があるのよ。まま、沫倉ちゃんが素直で良い子なのはわかったわ」
「素直なところが美点だと言われているので」
にしても動じなさすぎだろ、と凌ノ井は思う。
そう、倉狩鍔芽は、凌ノ井鷹哉の師匠だ。エクソシストエージェントの中にも個人ごとの流儀のようなものがあって、凌ノ井のやり方は倉狩直伝のものである。だから、倉狩が綾見にサポートのやり方を仕込むというのは、それはそれで理屈に合ってはいるのだ。
良い師匠か悪い師匠かで言えば、まあ、良い師匠だった。当時の凌ノ井は、大切な人を失って自暴自棄になっていたし、そんな自分を優しく
だが、それでも見た目の年齢が追い越してしまった今では、正面切って話をするのにも調子が狂うし、そもそも倉狩は、凌ノ井の知られたくない秘密を大量に知っている数少ない人物だ。それを初対面の相手にも愉快犯的に喋るので、始末に負えない。
「……沫倉ちゃん」
「なに?」
「師匠に、何も言われなかっただろうな……?」
その問いかけに対し、綾見はぼんやりした瞳で虚空を見つめるにとどまった。
「昔、ピーマン食べられなかったって話を聞いた」
「おいババア」
「だって事実じゃなーい? いまはどうなの?」
『ピーマンは大丈夫ですがセロリがまだです』
「おい<悪食>」
『だって事実じゃなーい? ですかー?』
凌ノ井は頭を抱えてしまう。そう、<悪食>の性格も半分くらいはこの師匠の影響なのだ。2人が出くわすと途端に生き生きしだして、嬉々として過去の傷をえぐろうとしてくるのだから溜まらない。そばに新人がいるとなるとなおさらだ。
「凌ノ井さん、元気出して」
真横に座った綾見が、夜のように真っ暗な瞳でじっと見つめてきた。
「どんな過去があっても、私は凌ノ井さんの味方だよ」
「……棺木、もう話を進めてくれ」
「かしこまりました」
にっこりと笑って、話を再開する棺木。綾見と倉狩が来たので、再度、簡単なおさらいから入る。
それでもしばらくの間、綾見はじっと凌ノ井を見つめていた。ひょっとしたら、彼女は倉狩からもっと余計なことを聞いているのかもしれない、と凌ノ井は思った。だが視線を無視して棺木の話に耳を傾けるうち、綾見もまた、報告に集中するようになった。
「……夢魔を退治しても、借金とかは残るんだよね?」
話を聞き終えた時、綾見が真っ先に口にしたのはそこだ。
「もちろんです。ギャンブルによって増えた借金は、私どもの方でそれとなく誤魔化していきます。これは夢魔被害のうちですから。復職の斡旋なども、ヒュプノスが行うアフターケアの一環です」
「そうなんだ」
綾見の声はほっとしているのか、そうでないのか。
続いて、金森がよく姿を見せるという競馬場やパチンコ屋などの資料が提示される。
夢は現実世界での人間の行動に影響を及ぼすが、現実世界もまた夢に影響を与える。今回の場合は、特にわかりやすい。現実世界での負けを、夢で取り返す。夢の中では満たされるが、それが、現実とのギャップをより著しいものにしていくのだ。
凌ノ井が資料を見ることで、精神に寄生している<悪食>にも情報が伝わる。しばし、凌ノ井と<悪食>は、作戦の相談をする。どういった夢を見ていて、舞台はどこか。夢魔は何に化けていると考えられるか。いくつかの憶測を立てる。
「倉狩さん、サポートする人は、何をすればいいの」
「この段階で出来ることは、まあ正直あまりないわね。慣れてきたら作戦の相談に混ざってもいいのよ」
隣では綾見と倉狩の会話。それをちらりと耳に挟みながら、凌ノ井は<悪食>に尋ねる。
「じゃあ、やっぱりカジノだな」
『ええ。パチンコ屋や競馬場の可能性もありますが。夢魔が化けているのは、彼女の親しい人などではなさそうですね。むしろディーラーや店員などの立場の人間です』
「同意見だ」
『マスターほどのろくでなしなら、競馬場やパチンコ屋のイメージにも事欠かないのでは?』
「もう何年も行ってねぇよ。わかるだろ。付き合い長いんだから」
ともあれ、これ以上は夢の中に入ってみないと何とも言えない部分だ。
「では、このまま病院に向かっていただきます。場所は都内ですので、時間もさほどかかりませんでしょう」
「にしても急ねぇ。明日メインの憑内くんに引き継いだ方が良いんじゃない?」
「残念ながら、憑内様にはすでに別件で愛知へ向かっていただいております」
凌ノ井は、再び壁に掲示されたシフト表を見た。極東本部最年少エクソシストの憑内は、今日はサブでの出勤となっている。名古屋で発見された夢魔に対処するため、他の本部職員と共に今朝東京を発ったのだそうだ。今日と明日の2日がかりで、夢魔を退治するスケジュールなのだろう。
「休みは多いけど、出勤日はずいぶんハードなんだね」
綾見がぽつりと漏らす。凌ノ井は目を細め、かぶりを振った。
「普段はこんなんじゃねぇんだ。最近多いんだよな」
「そうねぇ。1ヶ月くらい前から? 急に件数が増えたわよねー」
月に多くて10件程度。夢魔の発生時期が被ることなど、今までは皆無に等しかった。
それが今は倍近く。ほぼ毎日、何かしら夢魔の情報が舞い込んできて、同じ日に国内で2件報告が上がってくることも増えてきた。極東支部の管轄は、この縦に長い日本列島全域だ。おかげで発生場所によってはとんでもなくハードなスケジュールが組まれることもある。
「おかげで我々も人手が足りていない状況でございます」
にこやかな笑みを崩さずに言う棺木。
「じゃあ、私も頑張らないと」
「あらー。言うわねー沫倉ちゃん、良い子ねー! 鷹哉も見習いなさいよー!」
「うるせぇ」
倉狩が、わしゃわしゃと綾見の髪を撫でまわす。凌ノ井が視線を向けると、綾見のぼんやりした視線と、目があった。
「沫倉ちゃん、師匠に何聞いたんだ」
車の運転席に乗り込みながら、尋ねる。助手席でシートベルトを締める綾見は、ぼんやりした顔でバックミラーを眺めていた。
「だから昔、ピーマンが食べれなかったという話」
『今でもセロリは食べられませんよ』
「話の腰を折るんじゃねぇ<悪食>」
綾見は感情をあまり表に出さないタイプのようだが、それでも考えていることがまったく見えないわけではない。むしろ、視線がせわしなく動くタイプなので、何に興味を持っているのかははっきりしている。
倉狩鍔芽と一緒に、ブリーフィングルームに入ってきた綾見は、しばらく凌ノ井を見ていた。ピーマンが食べられなかった男をそこまで注視していたわけではないだろう。
しばらくバックミラーを眺めているだけだった綾見だが、車が動き出すと同時に、こう答えた。
「凌ノ井さんが、エクソシストエージェントになる前のことを聞いた」
「あー」
やっぱりか、と凌ノ井は思う。
隠し立てしていることではなかった。だから、バレて困る話でもない。しかし、蒸し返したい話でもなかった。
凌ノ井鷹哉は、恋人を夢魔に殺された経験がある。彼がまだ少年と言える年齢の頃だった。
彼が今<悪食>と呼ぶ夢魔に出会ったのは、それからすぐのことだ。彼女は恋人を失った凌ノ井少年の欲望に同調した。あまりにも趣味の悪いその夢魔を
悪食。
この夢魔は偏食家ではない。おおよそ、どんな欲望でもぺろりと平らげる。
だが、凌ノ井少年は、よりによって自身の欲望に目を付けたこの夢魔に辟易としたものだ。
「ねえ」
不意に綾見が声をあげる。
「もし現実世界で、夢の中よりはっきり願いが叶えられたら、夢魔に憑かれた人はどうなるの? 夢と現実のギャップのせいで、夢に依存するようになるなら、現実の方が幸せになれば問題ないんじゃない?」
「なんだか夢魔みたいな発想をするな」
『そうですね。そんなことがあれば、実際には、呪縛から解き放たれるかもしれません』
正直な感想を漏らす凌ノ井のあとを、<悪食>が続けた。
『でもそんなことは起こり得ませんから、前提として無意味ですよ』
「そうなの?」
『そうです。夢に果てはありませんから。例えば現実の方で願いを100%叶えられたら、夢魔は夢の世界で200%の叶え方をします』
「そうなんだ……」
綾見の呟く『そうなんだ』は、いつものものに比べて、いくらかトーンが低かった。
「今回の被害者の金森さんを、どうやって助ければいいのか、考えてた」
「どうせそんなこったろうと思った」
「私は夢の中に入れないから、夢魔を退治できないし。金森さんを助ける方法がわからない」
「その金森さんは、別に沫倉ちゃんの友達じゃないだろ」
この少女にはいささか困ったところがある。『友達の夢を叶えてあげる』ことを、自身の夢として掲げているところだ。その利他的な性格からして、こういった状況で自分が何もできないことに歯がゆさを感じているのかもしれない。
「……友達じゃないけど、何かしてあげたいなぁ、という気持ちはあった」
唇を尖らせる綾見。ハンドルを握ったまま、凌ノ井は尋ねる。
「何とかって、何するんだよ。金森さんは借金を返すためにカネを稼ごうとした。凌沫倉ちゃんに、何ができるって?」
「うーん……」
ちょうど赤信号で、車を停止させる。懐からタバコを一本取り出して、口にくわえた。
「絶対にバレないゴトの方法を教えるとかどうだろう」
思わずタバコとライターを取り落としそうになった。
「沫倉ちゃん、それ本気で言ってんの?」
「もちろん、本気で言っている」
ゴトと言うのは、パチンコやパチスロなどにおいて、不正な方法で出玉を稼ぐ手段のことだ。磁石を使うような古典的なものから、針金を挿入して基盤をショートさせるものまで、やり口は様々である。当然だが犯罪だ。
まさか、何の臆面もなく犯罪幇助を提唱してくるとは思わなかった。
『……おもしろい』
脳内の片隅で、<悪食>が不穏なつぶやきをした。
『実におもしろい発想です。綾見さん、私もぜひ参考にしたいものですよ』
「おもしろいのは良いが、沫倉ちゃん絶対にバレないゴトなんて知ってるのか」
「そこが問題だよね。私はパチンコ屋に入ったこともないし」
ちょっとだけほっとした。言ってみただけであったらしい。沫倉綾見は不良少女ではなかった。
その発想自体に、だいぶ、怪しいものはあるが。
「それに、結局ゴトを教えたって根本的な解決にゃならんだろう。カネを稼げるのは結構だが、ギャンブル狂いに変わりはない」
「でも当面の問題は解決される」
「そりゃあ、夢魔の考え方だよ。沫倉ちゃん」
「そっか」
信号が青になり、再び車が動きだす。港区の大病院が、ようやく見えてきた。
「それは良くないね」
『そうですね。おもしろいけど、良くありません』
「まあ、これから夢魔を退治するんだ。沫倉ちゃんはその手伝いをしてくれりゃあいい。そうすれば、問題だって解決される。かもしれん」
「されないかもしれないの?」
「そりゃあな」
じっとこちらを見つめてくる綾見に、凌ノ井は頷いて返す。
「されないこともある。夢魔は人間の欲望を後押しするだけで、その欲望は結局人間のもんだからな」
車を、病院の駐車場へとつける。先日、綾見の一件で訪れたばかりの場所だ。
今回の被害者である金森嬢も、この病院に収容されている。組織がどのようなやり口を使ったのか、定かではない。被害者に対して、多少強引な手段を用いて収容することも多々あるのだ。
駐車場には倉狩の車も停まっていた。先に到着しているらしい。
「凌ノ井さん」
曇天の下、隣に立った綾見が凌ノ井を見上げる。
「どうした」
「凌ノ井さんの夢って何?」
「夢なんてもう持ってない。でも望みはある」
喉から出てきた言葉は、自分でも驚くほどに乾いていた。
「でもまぁ、秘密だよ」
沫倉綾見は、ぼんやりした表情のまま、凌ノ井についていく。先日、自分も収容されたばかりの大病院だが、何やら雰囲気が違って見えた。天気もあの時と同じ曇天であるというのに、今回はことさらに重苦しく感じる。
病室に向かうと、倉狩が先に到着していた。ベッドの上には、寝かされた金森麗華。
どうやら金森はすでに眠っているようだった。口元には微笑が浮かんでいる。さぞかし、幸せな夢を見ているのだろう。だがそれは、夢魔によって作り出されたいびつなものであることを、綾見は知っている。
かなり症状の進行したレベル2。綾見は、金森についている夢魔のことをそう聞いていた。夢の中で望みを叶え、欲望を加速させ暴走させる。一定以上の糧を得ると、次の段階へと進む。そうなる前に、さっさと倒しておかねばならないわけで。
「さってー、さっさと潜っちまうかー」
病室の中だというのに、凌ノ井は呑気に屈伸運動などをしている。
「師匠、沫倉ちゃんをよろしく頼んだぜ」
「まっかせといてー!!」
親指を立てて思いっきり笑う倉狩。
「さーて、沫倉ちゃん。サポートの仕事は、主にエクソシストと被害者の催眠状態の維持と、安全確保よ! 夢へのダイブは凄くデリケートなの。具体的には、2人の夢を融合するわけだから、当然よね! 精神が混ざり合った状態だから、そこで目を覚ますと大変なことになるのよ!」
「どうなるんですか?」
「ここにオレンジジュースとリンゴジュースがあるわ! 混ぜるとどうなる!?」
「おいしい」
「そう、おいしいわ」
倉狩は、ひとつのコップに2つのジュースを注ぐ。
「この混ざったジュースを元の2つのジュースに戻すことはできないわけだけど、それを実際にやっちゃうのが、夢魔の力なわけ。でもそれは、両者が催眠状態にないといけないのよ。だから、途中で目を覚ますと、ジュースが混ざったまま、戻っちゃうの。危ないわよね」
「危ないですね」
「そこで、催眠状態を維持する必要が出てくるわけなの。オッケー?」
「オッケーです」
倉狩の背後には、妙に大きな謎の機材が置かれている。拡声器やラッパを思わせる口が2つついていて、その上には何かを取り付けるスロット。他にもごちゃごちゃした機械がたくさん。あまり洗練されたデザインではなく、どちらかと言えば、古臭いSF映画に出てきそうな外見だった。
「これを使って、催眠状態とトランス状態を促す薬品を、空気中に散布するの。あとは、効きが甘い人のために催眠音波を流すとか、そういうこともできるのよ」
「あまり、おおっぴらにできない装置ですね」
「できないわね。記憶消去装置もついてるしね」
そう言って、倉狩が取り出した道具には、綾見も見覚えがあった。先日、いなくなった凌ノ井を探そうとする綾見に対して、職員が執拗に突き付けてきた謎の棒だ。先端から光を放つような仕組みになっている。思いっきり、メン・イン・ブラックで見た奴だ。
「あとはまー、そうね。本当は、このアプリとかを使って夢に潜ったエクソシストと通信できたりするんだけど」
倉狩の手には彼女のスマートフォンがある。中では<丸呑みオロチ丸>が鎌首をもたげている。
「凌ノ井さんはこれ使ってないんですか?」
「使ってないの。<悪食>ちゃんはね、ちょっと特殊な夢魔なのよ」
以前も聞いたセリフで、お茶を濁してくる倉狩。どう特殊なのか、綾見は特に聞こうとも思わなかった。とりたてて必要な情報ではないように思えたのだ。倉狩が言わないということは、そういうことだし、<悪食>がどう特殊であろうと、綾見にとってあの夢魔は友達である。
凌ノ井の方を見れば、こちらが(声を抑えつつ)騒いでいるというのに、一向に動じる気配がなかった。椅子に腰かけ、腕と足を組んで、静かに目を閉じている。まるで瞑想でもしているかのようだ。当たらずとも遠からずだろう。
倉狩が、ガスマスクのようなものをこちらに手渡してきた。これから室内に薬品を散布するので、謝って吸引しないようにということらしい。換気扇を切り、空調を止め、窓と扉を完全に密閉する。この病院は組織の手が入っているので、壁に仕掛けられたボタンひとつで、それが完了するようになっている。
装置の上部にあるスロットに、倉狩は試験管のようなものを突き立てた。中には液体が入っている。これが件の薬品だろう。綾見はその動作をじっと眺め、メモを取る。倉狩がボタンを押すというので、渡されたマスクを装着した。
「倉狩さん」
装置から薄い煙が吐き出される。それを眺めながら、綾見は言った。
「夢魔に憑かれた人の夢を、叶えてあげることって、できないのかな」
「難しいわね。夢魔に憑かれた時点で、夢や欲望はどんどん膨らんでいくものだから」
せめて、話を聞いて、気持ちを和らげてあげることくらいはできないのだろうか。綾見は考える。夢魔に憑かれた人間とは、そこまで孤独になってしまうのだろうか。何もできないというのは、実にもどかしい。
「気持ちを和らげる……かぁ。まあ、それも難しいわね」
倉狩の声音は優しいが、言葉は厳しいものだった。
「あなたみたいな子はわからないのだろうけど、欲望は人を頑固にするわ。凝り固まると始末に負えないのよね」
「人を頑固に」
「そう。頑固に。だから、話を聞いてあげようとしても、そもそも教えてくれなかったりするのよね。だから、その欲望を叶えてあげることでしか解決できないし、その欲望も、現実世界ではなかなか叶えられないものなのよ」
「凌ノ井さんも、そうなのかな」
綾見は、椅子に腰かけたままの、友人の背中を見つめた。彼の意識はいま、夢の中へと潜り込んでいることだろう。
夢が無いと言い、だが望みはあると言った彼。どんな望みを抱いているのだろう。そしてそれは、おそらく<悪食>によって目をつけられた欲望でもあるはずなのだ。凌ノ井鷹哉は、いったい何を求めて、夢魔にとり憑かれたのだろうか。
「私、友達の願いを叶えてあげたい。今までも、いろんなことをやってきたつもりなんだ」
「あら、そうなの?」
「うん。だから、凌ノ井さんの望みも、叶えてあげたいんだけど、」
そう言いかけて、倉狩から聞いた言葉を思い出す。
「……でも、さすがに、かたき討ちはやったことがない」
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