ヒュプノス
第四夜 ヒュプノス―ようこそスリーピングシープへ―
「あやみーん!!」
教室を出ようとした綾見の背中に、軽い衝撃がぶつかってくる。腰のあたりに手を回されて、身体をぴったりくっつけられた。綾見は振り返らず、自分より幾分か背の低い彼女の頭を撫でながら、いつものぼんやりした顔に、ほんの小さな笑みを浮かべた。
「動きにくいよ、ユミ」
「あやみん、これから一緒に帰んない? そんでさ、コスモスでお茶してこーよー」
「ごめんね、今日は用事があるんだ」
くっついてくる親友の身体を引き剥がしながら、その小さな肩に両手を置く。
同年代の女子に比べてやや背が高く、ミステリアスな雰囲気のある綾見は、このような仕草がたいへん映える。周りから見れば、すわ大輪の百合が咲いたかといった具合だ。
「あやみん、3日前もそう言ってたよね……。用事ってなに?」
「アルバイトみたいなものかな」
「えっ、どこ? どこどこ? どっかのお店? あたしも行って良い?」
「接客業とかじゃないんだ」
教室の出入り口を封鎖して、しばしば語らいは続く。じゃあせめて駅までは行こうよ、というユミを誤魔化すのに、綾見は少しばかり労力を要した。友人を騙すのは心が痛むが、この秘密は決して口外できるものではない。
結局、仲睦まじい2人の光景を遠巻きに眺めていた他の友人を巻き込んで、なんとかユミと別れることに成功した。この埋め合わせは必ずすると親友に伝え、綾見はやや小走りで昇降口を出る。
校庭を横切って校門を飛び出すと、見慣れない一台の車が停車していた。覗き込むと、運転席には見知った顔。彼はやや不機嫌そうな表情を崩さないまま、顔だけで乗るように促した。
「おじゃまします」
言葉だけは丁寧に。だがさほど遠慮もせず、綾見は助手席に滑り込む。
「おう」
「
「おう」
「同じヒュプノスのメンバーとして会うのは、2回目だね」
「おう」
「凌ノ井さん」
「おう」
「そんなに私が組織に入るの、嫌だったの」
秘密の共有者である凌ノ井
「こんな胡散臭くてロクでもないような組織に、入れてやりたいとは思わねぇよ」
それだけ言って、凌ノ井は車を発進させる。慣性にのっとった衝撃が、シートベルトで固定された綾見の身体をわずかに揺らした。
「でも凌ノ井さんは入ってるよ」
「そりゃあ、俺はロクデナシだからな」
「そうなんだ」
凌ノ井鷹哉が所属しているという組織に、先日、沫倉綾見は加入した。秘密主義を徹底したその組織は、何度かそれに関わる綾見の記憶を消そうと努力をしたが、どういうわけか上手くいかなかったので、綾見に直接、組織に入るよう要請してきたのだ。
綾見は、いつものぼんやりした顔と声で、『いいですよ』と言ったのだが、それが凌ノ井にとっては、ひどく不満であったらしい。
「でも、凌ノ井さんも、最初からロクデナシだったわけじゃないでしょ?」
「いや、俺は最初からロクデナシだったよ。いまだに、手癖は悪いからな」
そう言って、凌ノ井はコートの内側から1冊の手帳を取り出した。
「あ、それ。私の生徒手帳」
「最初に会った時にスッたまま、返すの忘れてた。悪いな」
ステアリングを片手に、凌ノ井はダッシュボードにぽんと生徒手帳を置く。
この手帳から、彼らは自分の個人情報を突き止めたらしい。普通なら薄気味悪く感じるところだが、綾見は、『なるほど、そんなもんか』と、妙に落ち着いた態度を見せていた。
凌ノ井鷹哉は、よれよれのシャツにジャケット。不精髭の目立つ、一見してだらしのない男だ。そして、よくコートを羽織っている。ヘビースモーカーで、口が悪い。当然ながら、綾見は彼のことを、それ以上にはよく知らない。
手帳をスッた、と凌ノ井は言っていた。最初からロクデナシだったとも。
どことなく、凌ノ井の過去を暗示させるような物言いだった。
「でも凌ノ井さん。私だって、ロクデナシかもしれないよ」
そう言うと、凌ノ井はとうとう困ったように、眉根を寄せた。
すると、頭の片隅というか、ちょうど頭の上あたりから、『くすくす』と笑うような声が聞こえてくる。
『綾見さん。マスターはね、綾見さんがあまり戦いに向いた性格ではないと言っているのですよ』
「あ、<
姿が見えずとも、頭の中に直接ささやきかけてくるような声。綾見はもう慣れていた。
『こんにちは、綾見さん。とにかく、マスターは綾見さんが組織に合わないタイプではないかと懸念しているのです。慣れない心配をするから、怒ったような顔になるのですよ。これ以上、いじめないであげてくださいませ』
「余計なこと言うんじゃねぇ。<悪食>」
ぶっきらぼうな声で呟く凌ノ井。
「私、そんな戦いに向いてないかな」
『ええ。綾見さんの夢の中では、罵り合いも殴り合いも、子供がやるような稚拙なものでした。主が闘争心のない性格であるから、夢の中の争いも迫力がなくなってしまうのです』
「なるほど。私は闘争心がないのか……」
夢魔の<悪食>は、凌ノ井の精神に寄生していると聞いていた。だが、彼女は周囲の人間の意識にも、このように干渉して会話をすることができる。綾見は、夢の中で見た、女豹のようなしなやかさを持つスーツ姿の女を思い出した。凌ノ井から虎鳴と説明された、あの女がつまり、<悪食>だ。
綾見は、<悪食>がくすくすと笑うたびに、夢の中の彼女を思い出す。
「ねえ、<悪食>さん」
『なんでしょう』
「凌ノ井さんは、なんで組織に入ったの?」
「………」
あえて、隣で運転する凌ノ井ではなく、彼の頭の中にいる夢魔に尋ねる。
凌ノ井鷹哉は何も言わなかった。だが、<悪食>もまた、しばしの沈黙の後にこう答えた。
『さあ……。私の口からは、なんとも』
「おまえ、口ないけどな」
『あらお酷い』
覇気のない声で使い魔を黙らせて、凌ノ井は小さくため息をつく。
「ま、いろいろあったんだよ」
「そうか。いろいろあったんだね」
綾見はぼんやりした顔で頷いた。
沫倉綾見には、ある秘密ができた。それは、世界の裏側で人知れず夢魔と戦う、ある組織に加入したことである。これは、どれだけ親しい友人であっても、打ち明けることはできないとされた。
組織の名はヒュプノスという。今、凌ノ井の運転する車は、そのヒュプノスの本部に向かっていた。
「お待ちいたしておりました。凌ノ井様、沫倉様、<悪食>様」
背の高い燕尾服の男が、慇懃な礼と共に出迎える。綾見も丁寧に頭を下げた。
「どうも、3日ぶりです。ヒツジさん」
「棺木でございます。沫倉様」
ぼんやりした声で間違える綾見の言葉を、やんわりした声で訂正する。
ここは、高級執事喫茶スリーピングシープ。目の前にいるのは、そこで働く
綾見は数日前、凌ノ井に連れられて、初めてここで棺木と会い、そこでヒュプノスという組織の存在を説明された。人の精神に寄生する悪魔、〝夢魔〟と戦う、公には存在しないはずの組織。秘密を徹底するため、綾見も組織に加入した。いろいろ、面倒くさい契約書にもサインした。
棺木は、ティーカップに紅茶を注ぎつつ、乱暴に着席した凌ノ井の方を見る。凌ノ井はまだ、不機嫌そうな顔を崩さないままだ。
「凌ノ井様、まだご納得いかれていないのですか?」
「いや、そういうわけじゃねぇんだが……」
凌ノ井は決まりの悪そうな顔をして、懐からタバコを取り出す。そしてそれを口にくわえたところで、綾見と棺木の声が重なった。
「禁煙」「でございます」
「……わーかってる! わーかってるよ、クソ! 口うるさいのが増えたみてぇだ!」
「私は他の人に迷惑がかからない場所なら注意しないよ。むしろ凌ノ井さんが自由に煙草を吸えないのを可哀想だとすら思う。私の横ならいくらでも吸って良いけど、でもここ禁煙だからね」
「わかった。わかりました」
煙草をテーブルにトントン叩きつけながら、凌ノ井鷹哉は頭を掻く。
「単純にだな。後進の育成つったって、どうすりゃいいのかわからないんだよ。だいたい沫倉ちゃんには夢魔も憑いてないんだ。どうしろって言うんだよ」
「今後、沫倉様がどのような方面に進まれるかは、沫倉様次第でございますが。ひとまず、エクソシストエージェントの仕事というものを、学んでいただければ良いのではないかと」
凌ノ井と棺木の会話を、綾見はぼんやりと眺めている。棺木の淹れた紅茶の味は絶品だった。だいたい、午後の紅茶かリプトンティーか、安いティーバッグのものしか知らなかった綾見にとっては、まさに無類の衝撃である。
「ねえ、<悪食>さん」
男2人の会話から蚊帳の外に弾かれて、綾見は話し相手に夢魔を求めた。
『なんですか?』
「後進の育成って、私のことだよね」
綾見は、今後の自身の処遇に纏わる会話として、この言葉を耳にするのは2度目だ。
最初は、凌ノ井に連れられて、初めてこの執事喫茶に訪れた時だった。その時は、このヒュプノスという組織は、ひょっとして人手不足なのではないか、と思った。
『綾見さんは、組織のことを何も知りませんからね。新人はだいたい、先輩のエクソシストエージェントに師事して、仕事のやり方を学びます』
「じゃあ、凌ノ井さんにもそういう時代はあったんだ」
なんだか想像がつかないね、と言うと、当時のマスターは可愛いものでしたよ、と<悪食>が言う。会話の途中だというのに、凌ノ井は思いっきりこちらを睨んできた。
「ヒュプノスメンバーの仕事は、多岐にわたるものでございます」
睨みつける凌ノ井とは対照的に、棺木が穏やかな笑顔を浮かべて言う。
「ですが、その仕事をする上で、エクソシストエージェントの職務を理解することは不可欠。そこで、多くの場合、新人の方はベテランエクソシストの助手として働いてもらうのでございます」
「こうは言ってるが、実際は体の良い助手だ」
手を振りながら、棺木の言葉を継ぐ凌ノ井。
「俺たちの仕事は、安全と安定のために現実世界からのバックアップサポートが必要でな。先輩についた助手は、最初そういうことをやる」
「そうなんだ」
綾見は、半分ほど飲み終えたティーカップを眺めながら、先日の病室での自分を思い出した。
あの時、怪しげな機械を弄っていた看護師。あれが、凌ノ井の言うバックアップ要員なのだろう。そういったバックアップ要員のことを、サポートと呼ぶらしい。
「先に申し上げておきますと、エクソシストエージェントの方は、シフト制の出勤体制となっております。出勤日は、月に7日から8日程度です」
「思っていたよりホワイト企業なんだね」
「人類の天敵を退治していただくのですから、これくらいはさせていただきませんと」
棺木はそう言うが、凌ノ井が彼を見る視線は冷ややかだった。割と、無茶なことを任されることも、多いのかもしれない。
出勤形態は2種類。夢魔の動向を調査し、直接現場に赴いて退治を行う『メイン』と、メインのサポートや、突発的な夢魔事件に対応するため、本部で待機を続ける『サブ』だ。通常、サポートはサブ出勤のエクソシストが行うことになっていて、本部からサポート要員が派遣されることは稀だそうだ。もちろん、助手がついている場合は、サポートは助手が行う。
1日に出勤するのは、メインが1人、サブが2人。棺木が管理しているエクソシストエージェントは、全員で12人だという。棺木の管轄エリアを、この12人で回すのが、彼の主な仕事だそうだ。
「凌ノ井さんは、今日はどっちなの?」
「メインだ。以前、沫倉ちゃんを助けた時は、サブだった」
『あの時は、いろいろ事情が特殊でしたからねぇ』
しみじみと呟く<悪食>の声が、頭の中に響いた。
「それで、凌ノ井さんは」
綾見は空になったティーカップをソーサーに戻す。いつものぼんやりとした、抑揚のない声で続けた。
「私を助手にするのは嫌なの? やり方がわからない? 面倒くさいかな」
特に他意はない。他意がないので感情を込める必要もなかったが、それがかえって、凌ノ井をたじろがせた。
「私、迷惑がかかるなら別に他の人の助手をやっても良いんだけど」
「そ、そいつはだな……」
「私と凌ノ井さんは友達。私は友達の嫌がることはしない。友達の望みを叶えてあげたい」
一瞬だけ、凌ノ井の表情は複雑な歪み方をする。彼の顔に差したには別の感情だったが、それはすぐに立ち消えた。
「……いや、これも何かの縁だ」
凌ノ井は根負けしたようにため息をついて、すっかりぬるくなった紅茶に手を付ける。
「よろしく頼むよ。沫倉ちゃん」
「うん。よろしく。凌ノ井さん」
凌ノ井が紅茶を飲み干し、ティーカップが総て空になる。その時点で、棺木はにこやかな笑みを張り付けた顔で、満足そうに頷いた。
「結構でございます。それでは、これから本部に向かいましょう」
「これから? 時間ないんじゃないですか?」
「そう言えば、沫倉様がいらっしゃるのは初めてでしたね」
棺木は、そのまま壁に備えられた燭台型の電灯を掴み、手前側に引き倒した。燭台がレバーのように倒れ、直後、周囲で大きな機械が蠢くような重音が響く。綾見はぎょっとしたが、凌ノ井は落ち着いた様子だった。
彼らのいる部屋が、ゆっくりと下降していく。
完全個室制の執事喫茶スリーピングシープの一室は、それそのものが巨大なエレベーターだったのである。このヒュプノスという組織は、こんなところにどれだけカネをつぎ込んでるんだろう、と、綾見は正直な感想を抱いた。
ヒュプノスという組織は世界中に拠点を持つが、その中でも、日本を管轄しているのが、ここスリーピングシープ地下に存在する極東本部であるらしい。そして、棺木はここのトップだ。結構偉い人であった。
シックでクラシカルな執事喫茶の一室を出ると、そこは病院や研究施設を思わせる、白く無機質な廊下が伸びている。
「凌ノ井様、先ほど調査した案件について結果が出ましたので、第一ブリーフィングルームまでお越しいただいてよろしいですか?」
「ん、ああ、わかった。沫倉ちゃんも連れて行くか?」
どうやら綾見を迎えに行く前から、凌ノ井は本部で仕事をしていたらしい。当然と言えば当然だ。
「いえ、沫倉様には後で別途ご報告しようと思います。助手として凌ノ井様についていただくとはいえ、まずは施設の案内と、基礎知識の教授をしておかねばなりません」
「……まあ、いまブリーフィングに混ぜても理解できねーか」
凌ノ井は頭を掻いて、綾見へと向き直る。
「つーわけで、沫倉ちゃん。悪いが、話すのはまた後でになりそうだ。先にお勉強だとさ」
「うん。わかった。勉強はそんなに好きじゃないけど、頑張るね」
「本当は俺が教えてやりたいところだが、仕方ないな。仕事だからな」
「よく言うよ……」
あからさまに苦手な仕事を手放せたことを、喜んでいるように見える。まあ、凌ノ井が物事を教えるのが下手だというのは、綾見にも容易に想像ができた。
「じゃあね、凌ノ井さん。<悪食>さん」
『はい。綾見さん、また後でお話ししましょう』
姿かたちは見えなくとも、<悪食>がにっこりほほ笑むビジョンが、綾見には見える気がした。
棺木によって凌ノ井が連れていかれ、綾見は別の職員によって施設を案内されることになった。
このスリーピングシープ地下にある本部施設では、夢魔による諸症状を発症している患者や、夢魔によって引き起こされたと思われる事件の情報を集めたり、エクソシストエージェントの助けになる様々な装置の開発を行っているという。
職員の人に、あなたも夢魔に憑かれたことがあるんですかと尋ねたら、苦笑しながら無いと言われた。夢魔に憑かれたが、記憶処理が上手くいかず、なし崩しで組織に入ることになったのは、綾見以外に聞いたことがないという。
エクソシストエージェントにおいてもそうだ。彼らは夢魔に憑かれ、そして夢魔の見せる夢を自身の精神力で克服した者である。そうして自発的に『夢魔使い』となったものを、組織がスカウトし、エクソシストに育てる。
だからやはり、綾見のようなパターンは例外なのだ。
「本日、サブで出勤された方が、沫倉さんに夢魔に関する基礎知識を教えてくれるそうです」
「あ、そうなんですか」
「凌ノ井さんよりは教え上手でしょうから、ご安心を」
やっぱり、職員の間でも彼はそんな評価なのだな、と、綾見は少しだけ可笑しくなった。
ま、今後彼の助手としてやっていくなら、その教え下手にも慣れねばならないのだろうが。まず最初の土台くらいはしっかり教わりたいものだ。
綾見は、小さめのブリーフィングルームに案内される。扉が開くと、その奥に人影が見える。
人影は、綾見を見るなり顔を綻ばせた。
「おっ、来たなー!」
元気に聞こえてくる声は、女性のものだった。かけていたサングラスを外し、にやりと笑う。室内だと言うのにチェスターコートを羽織っており、そのコーディネートはどことなく凌ノ井を彷彿とさせる。ひょっとして、エクソシストエージェントのファッションセンスとはみんな似たり寄ったりなのか? と、綾見はしばし戦慄した。
とはいえ服のシワはきっちり伸ばされているし、彼のようなだらしなさは、目の前の女性にはない。
隣の職員を見たが、どうやら彼女が、当のサブ出勤された方で間違いなさそうだ。
「ようこそヒュプノスへ! ようこそスリーピングシープ地下本部へ! 棺木くんから話は聞いてるわよー。私は、ヒュプノスのエクソシストエージェント、
「あ、はい。よろしくお願いします」
両手を広げ、歯切れのいい挨拶を飛ばしてくる目の前の女性が、どれくらいの年齢であるのか。綾見にはちょっとわからない。たぶん、自分より10は年上だろうか。凌ノ井よりは、下に見える。
そうだ。彼女もエクソシストエージェントということは、夢魔が憑いているはずだ。その夢魔にも挨拶をしなければ、と思い、綾見は周囲をきょろきょろと見回した。
「ん、どったの?」
「倉狩さんの夢魔にも挨拶しようかと思って」
「おっ、礼儀正しい子だねー。お姉さん好きよそういう子は」
そう言って、倉狩はコートの内側に手を突っ込むと、一台のスマートフォンを取り出した。
スマホの画面には、コウモリの翼を生やした大きな蛇のような怪物が映り込んでいる。舌をチロチロと出し、ぎょろりとした大きな目がせわしなく動いていた。
「あの、これは……?」
「ん? あーそっか。そうだよね。鷹哉と<悪食>ちゃんしか会ったことがないもんね。これはね、ヒュプノスが開発したアプリケーションソフトよ。私の意識と連動して、夢魔の姿を映し出すの。この子は、私の<丸呑みオロチ丸>。ま、ソフト自体は夢魔がマスター以外の人間とコミュニケーションを取るためのツールね」
スマホの画面に映る<丸呑みオロチ丸>は、綾見のことを認識したのか、鎌首をもたげてぺこりと下げた。だが、綾見はかえって、倉狩の言葉に混乱を深める。
「でも、<悪食>さんは、私に直接話しかけてきたけど……」
「うん。あの子はね。ちょっと特別なのよ。ま、追い追い話すことにはなるだろうけど」
ふつう、夢魔は宿主以外の人間と直接会話することなんてできないわ、と、倉狩は言った。
「とりあえず座っちゃって。これから、夢魔やエクソシストについて簡単なレクチャーをするわ。筆記用具は持ってきてる? あ、その鞄、学校のよね。じゃあ大丈夫かしら。でもノートはある? ない? 学校用のノート使うわけにはいかないわよね? ルーズリーフ使ってるの? じゃあ平気ね。良かったわ!」
こちらが返事をするのも待たず、倉狩は一方的にぺらぺら喋りながら、勝手に納得していった。これが本当に、凌ノ井よりも教え上手なのだろうか。綾見はちょっぴり不安になって、職員の方を見やったが、彼はすでにそこにいなかった。
育ちの良い沫倉綾見は、人を恨むことなどないので、『この野郎』とまでは思わなかったが、あの職員にとっても、倉狩鍔芽が相当面倒くさい人なのだろうな、ということは、まあ察せた。
「えっと。じゃあ、よろしくお願いします」
「うん。よろしくね。えーっと、沫倉ちゃんはどこまで聞いているかしら?」
「実はほとんど何も知りません」
夢魔がいて、人間に夢を見せて、それを放っておいたら良くないことがある。
だから、ヒュプノスという組織があって、夢魔を狩っている。それしか知らない。
「うん。そうよね! 組織のことは良いとして、じゃあ夢魔のことをさらっと教えるわね!」
「お願いします」
倉狩は立ち上がって、コートの裾を大げさに翻すと、黒マーカーでホワイトボードに図を書き始めた。文字がでかく、絵はへたくそだった。
「夢魔は、人間の精神、心に寄生する生き物よ! 私たちの暮らす物質世界とは断層を隔てたところに、精神世界が存在するんだけど、それも説明がめんどいから端折るわね! 夢魔は人間の心が発する欲望のエネルギーに惹かれて、その精神に巣を作り、欲望を餌にして成長するの!」
ホワイトボードには、人間らしき絵と、そこに向けて引かれる矢印のようなものがある。へたくそな絵図なりに、わかりやすさはあった。
「これがレベル1、私達がリリスと呼んでいる段階よ! でも、この段階の夢魔を見つけるのはかなり難しいの。この段階だと、宿主には何の被害も出ないのよ。そこでレベル2。キューブスと呼ばれる段階になると、彼らは宿主の見る夢に干渉をし始めるの。欲望をより強く絞り出して、それを餌にするためよ!」
これが、以前自分にも憑いていた夢魔だ。綾見はすぐに理解できた。
自分についていた夢魔は、まあその欲望を取り違えていたわけで、そういった意味では間抜けだったのかもしれないが。
「レベル2になると、徐々に夢への依存が生じて、現実世界での生活にも支障をきたすようになるわ! 組織では、こういう人たちをマークして、夢魔の陽性反応が出れば、メインのエクソシストエージェントに出動を要請するというわけ! ま、だいたいはレベル2で見つけて、ちゃちゃっと片付けておしまいよ」
次に、と倉狩が説明を続けようとしていたが、綾見には少し、気になることがあった。
「夢魔が欲望に反応してとりつくってことは」
「ん?」
「エクソシストエージェントには、夢魔にとりつかれるだけの欲望があったってことですよね」
マーカーを動かす倉狩の手が、ぴたりと止まった。彼女はコートを翻しながら振り返り、笑う。
「そ。まあそういうことなの。そして、夢と欲望を制御することで、夢魔の手綱を握るわけ」
制御には莫大な精神力を必要とする。夢の中で夢魔の力を借りるとなればなおさらだ。だから、エクソシストは長時間、夢の中での活動ができない。だからこそ、事前の情報収集で夢の手がかりを少しでも得ておくことが大事なのだ、と、倉狩は続ける。
だが、やはり綾見が気にしているのは、そこではない。
今日、凌ノ井鷹哉がいくらか見せた表情を、綾見は思い出していた。
昔からロクデナシだったと言いつつ、スリ特有の手癖の悪さを見せた時の横顔。
どうして組織に入ったのかと<悪食>に尋ねた時の、苦虫を噛み潰したような顔。
自分と凌ノ井は友達で、自分は友達の望みを叶えるものだと告げた時の、一瞬の変化。
沫倉綾見は、自身の持つ欲望が特殊であるという自覚があった。つまり、友人の望みを積極的にかなえてあげたいというものだ。だから、一番新しい友人であるところの凌ノ井の欲望がどんなものか、ずっと気になっていた。
「<悪食>さんが凌ノ井さんにとり憑いたときの夢って、なんだったんでしょうか」
綾見が尋ねると、そこで初めて、倉狩の顔から笑みが消える。
「それは、本人から直接聞くしかないわね」
「ですよね」
「でも、これは私の想像だけどね、たぶん敵討ちじゃないかしら」
予想だにしない言葉が倉狩から発せられ、綾見は驚いた。
倉狩鍔芽の表情には、すぐに笑みが戻る。だが、それは先ほどのものに比べて、いくらか寂し気なものだった。
「鷹哉はね、恋人を夢魔に殺されているのよ」
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