第三夜 虎の鳴く夜に―彼女の夢は終わらない―

 まだ、すべてがつまびららかになったわけではない。

 だがおおよそのルールは把握できた。夢魔が見せる夢は、決してただ無軌道なわけではなく、明確なルールがある。宿主の持つ欲求を叶え、そして次の欲求を抱かせるための、絶対の戒律が。夢の支配者たる夢魔と言えど、そのルールは絶対だ。


 登場人物たちが平和に仲良く、規律を守って正しく暮らしている世界。

 その中で、不自然に始まる登場人物同士の衝突。

 そして、それをいさめる宿主、沫倉綾見まつくらあやみ


 綾見がさとせば、登場人物たちは喧嘩けんかを止める。みなに不気味な笑顔が戻り、この違和感だらけの世界は、平和を保たれる。


 それこそが、夢魔が彼女に見せる夢の全貌だ。


「そんなのが沫倉ちゃんの望みだっていうのか? あの子がそんな夢を見るっていうのか?」


 まるでただの独裁者だ。夢魔が夢を暴走させると言っても、これはあまりにも異常だ。


「誰ひとり不平不満なく安穏を享受し、まれに発生する衝突にも、綾見さんを満足させる以上の意義はない。ディストピアですね」

「市民、あなたは幸せですかって奴だ。笑えねぇパラノイアだぜ」


 これがまるきり事実だとすれば、沫倉綾見は間違いなくただのサイコパスだ。だが、凌ノ井は現実の彼女と言葉を交わした。確かにつかみどころのない少女だったが、それでもこんなよどんだ願いを秘めていたとは、とても思えない。


「しかしマスター、今ここで起こったことは、すべて事実です」

「わかってるよ<悪食あくじき>。だから始末に負えないんだろうが」


 綾見がどのような欲望を抱いている少女なのか。そこは今は、主題ではない。

 学校の廊下には人があふれていた。その中に、沫倉綾見の姿がある。綾見はしばらくぼうっと立っていたが、少ししてから、こちらに気づいた様子だった。


「……ああ、凌ノ井しののいさん」

「よう」


 片手をあげて、自然体を装いながら挨拶する。

 本来であれば、学校に凌ノ井がいること自体が不自然なはずなのだが、夢の中ではよくあることだ。綾見は特別、不思議に思った様子がない。


「……その、横にいる女性は?」

「ん? ああ、こいつは、虎鳴とらなきっつってな。俺の同僚みたいなもんだ」

「虎鳴です。よろしくお願いいたします」


 ぺこり、と頭をさげて挨拶する<悪食>。そこで、綾見は首を傾げた。


「同僚……。凌ノ井さんの仕事って、なんだっけ? 確か、凌ノ井さんは私の病室に来て……」


 ちょうどその時だ。廊下の奥で、また喧騒が沸き起こった。争いが発生したのだ。

 綾見ははっと顔を上げて、そちらの方へ歩き始める。


 夢魔の狙いはわかっていた。綾見の意識を争いの方へ向け、こちらと話をさせない気なのだ。

 もし、こちらから綾見に対する説得が成功し、彼女が今この夢の源となっている欲望を手放すようなことがあれば、その時点で夢魔は綾見との繋がりをうしなう。この夢のルール自体が形骸化するのだ。そうなってしまえば、凌ノ井と<悪食>が夢魔を退治するのは実にたやすい。


「どうします、マスター。無理やりにでも引き留めて、説得しますか?」

「そうしたいんだが、俺、沫倉ちゃんがホントにサイコパスだった場合、ちょっと説得しきれる自信ないんだよな……」


 だが夢魔との繋がりが保たれる限り、夢魔は何度でも喧嘩イベントを発生させ、この校内にいるたくさんの登場人物の誰かにたやすくすり替わる。軽く見積もっても100人はいる、この学校の中の誰かに。


「方法はあります」


 スーツ姿の<悪食>は、凌ノ井の前に1本の人差し指を突き出した。

 対する凌ノ井は、いつになく剣呑な視線を<悪食>に向ける。


「登場人物を片っ端から虐殺するのは、ナシだ」

「さすがにわかりましたか」

「沫倉ちゃんの中にどれだけ爪痕が残ると思ってる。『今のところは』ナシだ」


 もし、綾見への説得が不可能であると見た場合は、そのような決断も採らざるを得ないだろう。

 夢魔は放置できない。綾見の為だけを思って言っているのではない。放置しすぎた夢魔がどのような被害をもたらすのか、凌ノ井は嫌と言うほど知っているのだ。


「方法ならもう1個ある」


 火のついていない煙草をくわえ、凌ノ井は<悪食>に1本の指を突き出した。

 <悪食>は、肉食獣めいた笑みを浮かべながら、凌ノ井を見た。


「その方法、夢魔を引き留めながら綾見さんを説得する方法であって、事態そのものを解決する方法ではありませんよね?」

「わかってんなら話は早ぇ。行くぞ」

「当然ですが、夢時計の針の進みは早くなりますよ。廃人にならないよう、気を付けてくださいね」

「おまえにしちゃ、ずいぶん殊勝なこと言うな」


 凌ノ井と<悪食>は互いに視線をくばせて、そのままゆっくりとした足取りで、綾見のあとを追った。

 懐中時計の残り時間は、6時間。体感時間にして60分だ。余裕があるわけでは、ない。




 2人がそこにたどり着いた時、喧嘩をしているのは、凌ノ井鷹哉たかやだった。

 彼と、もうひとり、見たことのない男子生徒が取っ組み合いをしている。さすがの凌ノ井も、ぽかんとして煙草たばこを取り落としてしまった。<悪食>は、隣にいる凌ノ井と、喧嘩をしている凌ノ井を、交互に見比べてこう呟く。


「綾見さんの中のマスターは、多少美化されているようです」

「やかましい。なんだあれは。いや、夢の登場人物なんだろうが」

「病室で、友達になる約束を交わしたからでは? 綾見さんの中では、マスターはすでに友達なので、この夢の登場人物たる資格があるのです」


 あの短いやりとりで、もう友達扱いなのか。やっぱり、沫倉綾見はちょっとおかしい。


 喧嘩の内容も、見るにえない稚拙なものだった。特に主張もなく、小学生のような罵倒で互いをののしり合い、取っ組み合いの大喧嘩。取っ組み合いといっても、ポカポカ殴り合っているだけで、鬼気迫るものが何もない。

 そして、そこにゆっくりと近づき、両手を広げる沫倉綾見。ぼんやりとした声で彼女は言った。


「やめよう。争いはよくない」


 すると、凌ノ井(夢)と男子生徒は、殴り合う手を止め、互いに視線を交わし合った。


「そうだな。確かに争いはよくない」

「やめよう」


 そしてニコニコ笑いながら会話を再開するのだから、凌ノ井(本物)は頭が痛くなった。<悪食>の方はクスクス笑っているのではないかと思ったが、さすがの彼女もこの光景にはドン引きしていたようで、露骨に顔をしかめながら言葉ひとつ漏らさない。

 この光景もたいそう不気味だが、沫倉綾見の表情が一切変わらないのも、やはり不気味だった。彼女は淡々と、仲裁ともいえぬ仲裁を作業のように続けるだけで、そこに感慨は浮かばない。望みを叶えているのに、その実感が見えてこないのだ。


 凌ノ井は、そんな宿主から目をそらして、相棒に尋ねる。


「<悪食>、あれはどっちが夢魔だ」


 争いが発生すれば、夢魔はそのどちらかと擦りかわる。それがこの夢のルールだ。


「あ、はい。ええと、マスターの姿をしている方です」

「そいつぁ良い。心が痛まなくて済む」


 凌ノ井は、懐から拳銃を取り出した。製造会社や型番は知らない。これは〝拳銃〟だ。

 にこやかな笑顔で男子生徒と仲直りをする〝凌ノ井鷹哉〟に銃口を向け、引き金を引く。ぱん、という軽い音がした。ぱっ、と赤い色が飛び散る。脚に力を込め、廊下を勢いよく蹴りたてる凌ノ井。彼の身体はふわりと浮かび上がって、並み居る生徒たちを飛び越し、肩口に傷を負った夢魔のもとへと降り立った。


「お、お前は……!」

「悪いな。ちょっと喧嘩に付き合ってもらうぜ」


 拳を握りしめ、夢魔の顔面を思い切り殴りつける。先ほどまでの、子供じみた殴り合いとはかけ離れた、本気の一撃。凌ノ井と同じ顔をした夢魔は、血を流す鼻を押さえて、綾見の方を見た。


「争いはよくない。やめて」


 綾見の、いまいち心がこもっているんだか、いないんだかわからないような声。意識がハックされたような感覚に陥ったが、それもほんの一瞬だ。ちらりと見えた懐中時計の盤面では、長針がいつもの数倍の速さで回り始めていた。


「そ、そうだ。争いはよくない。やめよう!」

「断る」


 薄気味悪いことを言う自分の顔面を殴りつけるのは、ことさらに薄気味悪い。


 喧嘩が仲裁されなければ、イベントの目的は昇華されない。新しい喧嘩のイベントを発生させて逃げることができない。そう踏んで、夢魔を思いっきりぶん殴りに来たのだが、どうやら解釈は正しかったようだ。

 むろん、夢のルールは絶対だ。綾見が喧嘩を止めようと言えば、意思に関わらず喧嘩を止めなければならない。今、夢時計の残り時間が大量に消耗されているのは、<悪食>がそのルールから凌ノ井の意識を保護しているからだ。


「し、凌ノ井さん。争いは、やめて……」


 綾見がもう一度言う。凌ノ井は、夢魔の胸倉をつかみ上げたまま、綾見の方を見た。


 周囲の登場人物たちは、これほどの争いが起きている中でも、にこやかに会話を続けている。彼らの中では、綾見が「争いをやめて」と言った時点で、争いは終わっているはずなのだ。だが、事実として彼女の目の前で、同じ顔をした人間が、争いを続けている。


「沫倉ちゃん、乱暴な方法とったのは悪かったと思ってるよ」


 そう言って、凌ノ井はもう一撃、夢魔の顔面を殴りつけた。


「事情を話す。こいつはな、夢なんだ沫倉ちゃん」


 綾見は怪訝けげんそうに顔をしかめる。


「俺の職業を思い出せないって言ってたな。もっと思い出してみろよ。俺と沫倉ちゃんは、病院で話をした。そのあと沫倉ちゃんは寝て、俺が施術に入るって言った。そうだろ? 学校に、俺がいるわけないし、そもそも沫倉ちゃんは、あれから目を覚ましたわけじゃない」

「凌ノ井さんは、私の夢の中に入ってきたの?」

「そうだ」

「変な事しちゃやだって言ったのに」

「それは悪いことをした」


 ようやく、夢魔が反撃に入ってきた。拳を握り、殴りつけてくる。やはり、稚拙ちせつな一撃だった。


「こいつは悪魔が見せている夢だ。望みを叶えるための都合のいい世界。聞かせてくれ沫倉ちゃん。こんな世界を、本当にあんたが望んだのか? みんな誰もがニコニコ笑っていて、喧嘩なんか一発で収まるような、そんな世界を?」


 ここまで、<悪食>は口をはさんでこない。彼女は凌ノ井を、夢の世界のルールから切り離すことに意識を集中させていた。

 綾見は、しばらくぼんやりした顔で黙り込んでいたが、やがてゆっくりと口を開く。


「……そんな世界があったら、幸せだな、とは思う」

「そうだな。でも、やっぱりこの世界はいびつだ。みんな笑ってるが、そこに気持ちはない。みんなが心の底から笑うから幸せなんだ。そうだろ?」


 我ながら、陳腐な説得だなとは思った。また、<悪食>に笑われるかもしれない。

 だが、凌ノ井は他にやり方をしらないのだ。これで綾見が考え方を変えないなら、強硬手段に出るしかない。登場人物の虐殺にだってMPは消費する。これ以上リソースを削られればジリ貧だ。


「この男の言葉に耳を傾けるな、綾見!」


 夢魔は、鼻を押さえながら叫び声をあげる。


「誰も傷つかない、幸せな世界が望みだったんだろう! これはお前の望んだままの世界じゃなかったのか!? みんな仲良く楽しく暮らしていけるんだぞ。それで良いじゃないか!」


 果たして、綾見の心はどちらに傾いているのだろう。ぼんやりとした顔は、感情を伺わせない。


「わかったよ、凌ノ井さん」


 それは、どちらの凌ノ井鷹哉に向けられた言葉か。2人の凌ノ井は一瞬、言葉を止め、彼女に耳を傾ける。


「この夢、終わらせちゃおうと思う」


 夢魔の表情が絶望に歪んだ。


「何を言ってるんだ綾見、考え直せ! いいか、お前の夢なんだ。お前の望みなんだぞ! みんな傷つかずに、友達同士で、正しく生きていけるんだぞ! こんな優しい世界を、お前が望んだんだろう!」

「ううん。私じゃないよ」


 綾見は、ぼんやりした顔で首を横に振った。


「そんな世界は素敵だなって思ったし、叶えてあげたいなって思うけど……。別に、私の望みじゃないんだ。ごめんね」


 彼女はそう言った瞬間、凌ノ井鷹哉は納得した。掛け違えていたボタンが、正しく揃った。ぬぐえなかったちぐはぐさが解消された。そういうことだったのか、と、そう思った。

 ガラスの砕け散るような音がした。学校の壁が、まるで舞台演劇のカキワリのようにパタンと倒れる。登場人物たちはいっせいに砕け散って、何もない、ふんわりした空間に、4人だけが放逐される。凌ノ井、<悪食>、夢魔、そして、沫倉綾見。凌ノ井は時計を見た。残り時間は2時間30分。つまり25分だ。ずいぶん減ったが、余裕はある。


「説得ご苦労様です。マスター」


 <悪食>が告げる。


「なかなか素敵な言葉でした。私が人間であれば、心を動かされております」

「薄気味悪いことを言うんじゃねぇよ」


 校内でないなら、もう煙草を吸っても構わないだろう。ライターで、口にくわえた1本に、念願の火をつける。


「ケリをつける。閉じろ、<悪食>」

「はい。それではマスター、びしっと決めてくださいな」

「おう。てめぇが大好きな、だっせェだっせェセリフでな」


 エクソシスト凌ノ井鷹哉は、紫煙をくゆらせながら笑う。


「――さぁ、」


 指の間に挟んだその煙草を、目の前の夢魔に突き付けた。


「夢からめる時間だ」


 瞬間、周囲の空間が焦げ付いた。まるで煙草を押し付けた紙のように、じりじりと煙をあげながら焼き付いていく。空間が塗り替わる。凌ノ井の内面に閉じ込めていた、彼自身の夢の世界が発現する。冷たく湿った石室の中に、4人は閉じ込められた。

 長針がぐるりと1回転する。精神力が削られる。だがもう、こちらのものだ。

 敵の夢魔は動けない。繋がりを絶ち切られ、ルールが分解され、力を失った哀れな存在だ。


「ちくしょう! ちくしょう……! 完全に憑く相手を間違えた! なんで、なんで俺が……!」

「誰に憑いても同じさ。運がなかったな」

「黙れ! ちくしょう……。許さねぇぞ、てめぇ! 俺のことを、散々……!」


 身動きを封じられたまま、夢魔は呪詛じゅその叫び声をあげる。すでに凌ノ井の姿ではなく、どろどろに溶けた、得体のしれない形状へと変わっていた。凌ノ井は、煙草をくわえたまま、夢魔に指鉄砲を向ける。


「バン。これで、ジ・エンドだ」


 断末魔をあげ、夢魔の身体が弾けるようにして消滅した。


「食って良いぞ、<悪食>」

「私、そんな悪趣味に見えますか?」

「自分の名前の由来をよく思い出してみるんだな」

「ではいただきます」


 弾けた光の粒子が、<悪食>の身体に吸い込まれていく。彼女はぺろりと舌なめずりをしてから、『言うほど肥えてもいませんね』と、可愛げのない感想を漏らした。


「さて、沫倉ちゃん」


 煙草をふかしながら、凌ノ井は沫倉綾見に振り返る。


「これで俺の仕事はおしまい。悪かったな、邪魔して」

「ううん。ありがとう」

「この夢、沫倉ちゃんの望んだ世界じゃなかったんだな」


 すべて、得心がいった。綾見自身の望みではなかったのだ。だから、不自然で不気味な世界になっていたし、イベントをこなした綾見も特別幸せそうな表情は見せていなかった。

 では誰の望みだったか。おそらくだが、凌ノ井にも心当たりはある。

 あの世界の登場人物すべてを見たわけではないが、ひとりだけ、あの夢の中で目撃できなかった人間がいる。友達になってからほんの数分しか経っていない凌ノ井ですら登場人物として採用されているのに、もっと近くにいるはずの〝友達〟を、彼は見つけられなかった。


「ユミは、すごく活発で友達思いだけど、争いごとが嫌いな性格だから」


 ユミというのは、あの病室で最後まで残っていた、綾見の友人である。

 彼女は夢の中にいなかった。綾見が、そのユミという少女の夢を、代行していたからだ。


「私の夢はね、友達の望みを叶える手伝いをすることなんだ。でも、ユミはみんなに喧嘩を止めてほしいってこと、なかなか言い出せないからね」


 それが、結果として夢魔に欲望を勘違いさせたということなのだろうか。

 本人が実感としてよくわからない望みを、額面上かなえようと言うから無茶が生じて、あんな気持ち悪い世界ができあがったのだと思えば、それはそれで納得ができる。

 沫倉綾見はサイコパスではなかった。サイコパスではなかったが、これはこれで、相当変わりものであるような気はする。


「……凌ノ井さんの願いとか、あるの?」

「あるにはあるが、まあ、沫倉ちゃんに話すようなことじゃない」

「それは寂しいな。友達じゃない」


 ぼんやりと湿っぽいことを言うのだから、調子が狂う。凌ノ井は煙を吐き出して、額を掻いた。


「まあ、今度映画でも見にいこうや。もっと仲良くなれば、話す気になるかもしれん」

「そっか。そうだね。じゃあ、約束だ」


 そこで初めて綾見がはっきりと微笑むが、それがかえって、凌ノ井にはつらかった。

 彼女には記憶処理が施される。目が覚めたとき、沫倉綾見はこの夢のことを覚えていない。

 経験は心に刻み込まれるから、すべてが無になるわけではない。きっと綾見は、この一件を経て成長するし、ユミという友人に対する付き合い方にも、少しだけ変化が訪れるだろう。だがそれでも、綾見は凌ノ井のことを、覚えていることはないのだ。


「じゃあ、また後でな。俺は先に目を覚ましとく」

「私はどうすれば良いの?」

「放っておけば起きる。ま、この部屋は俺の夢だから、俺が目を覚ましたら、沫倉ちゃんは沫倉ちゃんの夢の中に戻るだけだ」


 それが結局、最後の会話になった。もう二度と、彼女と言葉を交わすこともない。

 だが、特別感傷に浸ることでもない。凌ノ井は、今までもずっと、こうやって生きてきたのだ。




 病室で、凌ノ井鷹哉はゆっくりと目を覚ます。病室に充満していた香は、既に切れていた。

 看護師に扮したスタッフが、小声で『お疲れ様です』と呟く。


 ベッドの上には、沫倉綾見が寝ていた。口元に微笑を浮かべた、満足そうな寝顔だった。

凌ノ井はスタッフに、彼女が目を覚ます前に入念な記憶処理を済ませておくよう言づけてから、部屋を出た。







『ずいぶん、おセンチになられているのですね。マスター』


 脳内にキンキン響く<悪食>の声に、凌ノ井鷹哉はいささか辟易とした。


『昨日の一件が堪えているのですか?』

「冗談はよせよ。よくある話だろうが」


 短い間隔で2回も夢魔退治を行ったのだ。だいぶ、疲れているのはあるだろうが。

 あとまぁ、付け加えるならば、あの沫倉綾見という少女がずいぶん奇妙な性格をしていたのも、記憶に残る原因ではあった。夢も奇妙なものだったし、ずいぶん惑わされた。それでもキッチリ仕事は片付けたわけで、終わってみれば大したことの無い、よくある夢魔事件のひとつに過ぎない。


 で、今度こそ休日だ。さあどこに行こうかと思うも、特に行くあてはなく、結局渋谷に来てしまった。

 道玄坂の入り口に立ちながら、凌ノ井はスクランブル交差点を行き交う人々を眺めた。ここにいる何人が、今晩健全な夢を見られるのだろう、などと、また取り留めのないことを考える。


「そういや<悪食>、俺の沫倉ちゃんへの説得、どうだった?」

『良かったですよ。感動しました。ちゃんとそう言ったじゃないですか。ま、陳腐でしたけどね』


 ひとこと余計だよ、と悪態をつく。


『それでマスター。今日は渋谷しぶやに何の御用でしょう。またナンパですか?』

「他にやることがねーんだ」

『もう少し、実りのあることをされてはいかがですか……。女を誘惑するなら、スペースコブラくらいの貫禄は欲しいものですよ』

「つってもなぁ」


 凌ノ井はタバコに火をつけて、渋谷の空を覆う曇天に視線を移した。

 こうやって休日を無為に過ごすのもバカバカしい。バカバカしいが、結局同じことをしてしまっている。もっとどこか遠くへ脚を運べば、気分も落ち着くだろうか。旅行というのも、久しく行っていない。


――おお、凌ノ井。どうじゃ最近は。わしか? 儂は博多はかたで仕事を片付けたあと、九州きゅうしゅうを一周してから帰ってきたぞい。いやあ、ええとこじゃったわい。ホレ、これはおぬしへの土産じゃ。明太子とくまモンのぬいぐるみ、どっちがええかのう?


 不意に、同僚の鋸桐の暑苦しい笑顔が頭に浮かんだので、けっこうイラッとした。


「なんかナンパって気分でもなくなってきたな。カレー食って帰るか」

『今日は神南じんなんの気分ですね』

「おまえに食わねーくせに注文がうるせぇんだよ……」


 ため息に載って紫煙が流れた。

 そこで凌ノ井は視線に気づく。顔をあげれば、見知った少女が先ほどから、じっとこちらを眺めていた。


「………」


 凌ノ井は、少しだけ言葉を失った。ブレザー制服に身を包み、マフラーを巻いた少女だ。眺めているというよりは、下から覗き込んでくるような仕草だった。渋谷の街並みに似合うような、ちょっと軽薄そうな女の子だったが、本当はもっと思慮深く、友達思いな少女であることを、凌ノ井鷹哉はよく知っている。

 彼女の吸い込まれそうな目からは相変わらず目が離せなかった。


「ダメだよ路上喫煙は。ちゃんと喫煙所で吸わないと。他の人に迷惑かかっちゃうから」

「ん、ああ……」

「前も言ったよね。だらしない大人はカッコ悪いよ、凌ノ井さん」

「……は?」


 思わず尋ね返していた。


「ん」


 沫倉綾見は、いささかぶっきらぼうな、どことなく怒ったような雰囲気を纏いながら、コーヒー缶を突き出している。


『めちゃめちゃ覚えてますね』


 <悪食>が呟いた。


「あのやろう、ひょっとしてしくじったか?」

「なんの話?」


 綾見は、じろりと凌ノ井を正面から睨みつける。


「……沫倉ちゃん、ひょっとして、その、怒ってる?」

「挨拶もしないで勝手にいなくなって、連絡先も置いていかないんだから、怒るよね」


 そりゃあきみ、記憶処理を施すつもりだったからな、などとは口が裂けても言えない。


「約束だってしたのにさ」

「……そりゃあその、まあ、悪かったが」


 そこで携帯が鳴った。天の助けだと思って綾見に断りを入れ、ジャケットの内側から取り出してみれば、発信者の名は『棺木ひつぎ』とあったので、天への感謝は怒りへ変わった。


「おい棺木、どういうことだ」

『私もさきほど報告をいただきまして』


 電話口の向こうから聞こえる落ち着いた声から察するに、既に棺木はこの事態を耳にしているらしい。


『記憶処理を施した後、目が覚めた沫倉様は、近くのスタッフに凌ノ井様の居場所をお尋ねになったそうでございます。スタッフは再度隙を伺って沫倉様に記憶処理装置を使用しましたが、効果はなく。なんとか彼女を病院に拘束しようとしましたが、「私の中の夢魔は退治されたから、その必要はないのでは?」と言われてしまい、』

「外に出したのか。何考えてんだ」

『記憶処理装置に故障はございませんでした。ただ、沫倉様には通用しないのでございます』


 凌ノ井は、ちらりと綾見を見た。彼女はまだ不機嫌そうな顔で、街灯に背中を預けている。

 彼は声を潜めつつも、棺木に怒鳴どなった。


「通用しないってどういうことだよ。どうすりゃいいんだこれ」

『保護観察処分が妥当かと。なにぶん、〝特例〟でございます』

「誰が監視するって言うんだ。え?」


 なんだか、嫌な予感がした。

 あえてドスの効かせた声で棺木に脅しをかけてみるが、当然彼はどこ吹く風で、飄々と答える。


『凌ノ井様……。私、常々考えておりましたが、やはり凌ノ井様も、そろそろ後進の育成に努める頃合いではないかと』

「こっち側に引き込むのか。夢魔はもう憑いてないんだぞ」

『記憶が消せないのであれば、そうするしかございません』


 組織は徹底した秘密主義だ。外部の人間が、夢魔のこと、エクソシストエージェントのことを知っているのは、原則としてよしとしない。沫倉綾見には、どういうわけか記憶処理が効いていないのだ。理由はともかく、その彼女を野放しにするわけにはいかない。

 しかしそれは組織の勝手である。

 沫倉綾見は天涯孤独の身の上だ、彼女の学費や生活費などを援助できれば、それは綾見の為でもあるなどと言われて、納得する凌ノ井ではなかった。


 なかったが。


「……この件は、追って話す。あとでスリーピングシープにも連れて行くよ」

『かしこまりました。お待ちしております』


 電話を切って、ため息をつく。


「……終わった?」

「ああ。終わった。悪かったな、勝手にいなくなったりして」

「謝られたら引きずらないタイプなんだ。私」


 いつものぼんやりした声は、もう怒ってはいない。


「沫倉ちゃん、今日学校は?」

「午前で終わり」

「じゃ、これからカレーでも食いに行くか」


 凌ノ井の言葉を聞き、綾見はうんと頷いた。


「凌ノ井さん、映画は?」

「見たいのあったら言えよ。最後は喫茶店だ。俺の仕事について、ちょっと大事な話をする」


 顔をあげて、じっとこちらを見てくる綾見。ハイライトの薄い瞳は、見つめる相手を引きずり込んでしまいそうだ。彼女はしばらくそうして黙り込んでいたが、やがて、『うん』と答えた。

 彼女は妙な存在だ。それは事実である。

 なぜ、記憶処理が効かなかったのか。ひょっとしたら、凌ノ井は自分が思った以上に、厄介な案件を抱え込んでしまったのかもしれない。


 カレー屋に向かうため、文化村通りの方へと足を進めた。

 途中、<悪食>がナンパ成功ですねと言ってきたので、こういうタイプは好みじゃないんだと答えたら、綾見に聞かれて思い切りにらみつけられてしまった。

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