第二夜 虎の鳴く夜に―沫倉綾見という少女―
「……どういうことだろう。これ」
病院のベッドに寝かされたまま、
今朝がた登校した綾見の前に、健康診断の紙を手にした担任が血相変えて走ってきて、その後校庭に救急車が乗り入れて、あれよあれよという間に入院手続きまで済まされてしまった。ここは
生まれてこの方健康優良児。大病も患わず元気に過ごしてきた綾見だ。一体全体なにがどうなってこんなことになっているのか、さっぱりわからない。
「(ひょっとして、私死ぬのかな? 不治の病にかかってるとか?)」
それは
昨日は生徒手帳も紛失するし、実に踏んだり蹴ったりだ。
ぼんやりした顔つきの沫倉綾見は、
綾見は友達が多いので、彼らがあまり悲しまないように最大限の配慮をしておきたい。あと、お墓は母親と同じところが良い。そのふたつを最優先として、できることならば、今いくつか抱えている望みを叶えてしまいたい。しかしこれは、かなり手間のかかる問題だ。
ぼーっとしながら外を眺めていると、やおら廊下が騒がしくなった。
ちょっと、ここは病院です、走らないでください。という看護師の声が聞こえ、その後病室の扉が勢いよく開かれる。
「あやみーん!」
「沫倉ァ! 無事かァ!」
「見舞いにきたぞー!」
クラスメイトの中でも特に元気な連中が、口々に叫びながら顔を覗かせる。綾見はいつものような、ぼーっとした顔で彼らの顔を見回し、そしてこう言った。
「うん。ありがとう。でも、廊下は走らないでね」
他の人に迷惑かかるからね、と付け加える。
一体なんの病気なの? とクラスメイトが聞いてくるが、綾見もわからないと正直に答えるしかない。友人たちは、思い思いの見舞いの品を、次々と置いていく。果物や花などより、缶詰がやたら多かった。
「退院した後も食えるものを持ってきたのだ」
ひときわ大柄なクラスメイトが、そう言って胸を張る。
「沫倉は一人暮らしで大変だろうからな」
彼のその言葉を、周囲の友人たちは無神経だと
綾見に家族はいない。児童養護施設で育てられた。隠し立てもしていないので、多くの友人が知るところだ。ちょっとだけ空気が悪くなるのを感じて、綾見は、いつものようにぼーっとした表情で、なるべく柔らかく答えた。
「気にしてないよ。ありがとう」
大柄なクラスメイトは、真っ赤になって頭を
そう、実のところ、家族がいないことはそんなに気にしていない。母親がどんな人だったのだろうと思うこともあるが、それは、自分を産んでから死ぬまでのわずかな間に遺した言葉で、綾見にも想像することができた。綾見の母は、娘の健やかな成長と幸せを願う、心優しい母親だった。
今のところ、綾見としてはそれで充分だと思っている。
それからばらくして、友人たちは帰った。一人だけ、そこに残った。
綾見が子供のころから仲良くしている、一番付き合いの長い友人だ。
「あやみん、思ったより元気そうだね。入院したって聞いたときはびっくりした」
「一番びっくりしたのは私」
大真面目な顔でそう答える。友人はくすっと笑った。
友人は活発な性格で常にクラスの中心にいる。綾見も友達は多いが、彼女はそれ以上だ。和を重んじる性格で、争いごとを嫌う。常々、『どうしてみんなもっと仲良くできないのかな』などと漏らしている。先ほど、大柄なクラスメイトが失言(綾見はそう思っていないが)し、ちょっとだけ空気が悪くなりかけた時、一番過敏な反応を見せたのが彼女だった。
自分が死ぬと一番哀しみそうなのも彼女だ。彼女が泣くのは、綾見としてもちょっと困る。
早く先生が来て病状を教えて欲しいのだが。と、思った矢先、がちゃりと扉が開いた。
「はーい、診察でーす」
そう言って入ってきた男に、綾見は見覚えがあった。
沫倉綾見、17歳。見たところ、心身ともに健康そのものだ。夢魔に身体が蝕まれているなど、
早いとこ片付けちまおう、と、
病室には、沫倉綾見のほかにもう一人、少女の姿がある。あれは、
「あの、あやみん……沫倉さんは、どんな病気なんですか?」
「ん?」
その少女にいきなり声をかけられ、凌ノ井は頭を掻く。
「んー。そうねぇ。まだ病気ははっきりしてないんですよ。ただ、あの、検査結果がね。ちょっと気になるところがあったんで、検査入院ってことで。1日で退院できますよ」
頭の中で、くすくすと<悪食>の笑う声がした。
『マスター……。説明、ガバガバです……。白衣も似合ってないし……』
やかましい。と、頭の中で精いっぱい怒鳴り返しておいた。
凌ノ井は、組織の用意した架空の身分証で病院に潜り込んでいる。他のスタッフにも、いくらか組織の関係者がいて、凌ノ井が入ってからこの部屋には誰も入れないように手配を済ませておいた。夢魔を退治するのに、邪魔があってはならないのだ。
「お友達としてご心配なのもわかりますが、これから検査を行いますので……」
作り笑顔を浮かべ、少女に対しそのように告げた。頭の中で<悪食>が噴き出した。
看護師に扮した組織のスタッフが、病室に機器を運び込む。少女は、まだいくらか心配そうな顔をしていたが、綾見に視線を向け、小さく礼をしてから病室を出る。凌ノ井は、ふうと息をついてから、椅子に腰かけた。
「えー、それでは、沫倉さん」
「……あなた、医者じゃないよね」
見破られていた。沫倉綾見は、じっとこちらの顔を覗き込んでいる。
「昨日、
「そこまでバレてんのか。じゃあ、まあ良いや。どうして医者じゃないとわかった」
何も書かれていないカルテを、その辺に放る。綾見は大真面目な顔で答えた。
「だって、説明、ガバガバだったし……」
<悪食>と看護師が同時に噴き出した。凌ノ井はちょっと傷ついた。
背もたれに思いっきり寄りかかり、ベッドの上に行儀悪く足を乗せる。それから大仰に両手を開いて、凌ノ井は開き直った。綾見は別段嫌な顔もせず、じっとこちらを見つめたままだ。
「良いんだよ。人払いができりゃあそれで。そう、俺は医者じゃないし、あんたが検査入院だっていうのも嘘っぱちだ。沫倉ちゃん」
「じゃあ、私は死なないんだ」
「そうだ、死なない。正確には、これから死なないように、処置をしなきゃならん」
手癖の悪い凌ノ井だが、正直なところ、嘘はそんなに得意ではない。早い段階で見破られれば、さっさと事情を話してしまうのが、彼のやり方だった。
「やっぱり、私は病気ということ?」
「そんなようなものだ。で、これから処置をするにあたり、いくらか確認したいことがある」
「うん、いいよ」
「えらく物わかりが良いな」
上手くこちらのペースに引き込むつもりが、なんだか翻弄されているような気分だ。
見たところ、頭の回りそうな性格に見える沫倉綾見だが、同時に何も考えていないような真っ黒な目をしている。街角で出会った時はそうも思わなかったのだが、表情はどことなく眠たげで、いつも半分くらい夢の世界に片足を突っ込んでいるのではと思うほどだ。
ひょっとして、実は夢魔による病状は思ったよりも深刻で意識を半分乗っ取られている状態なのではないか、と寒気がした。
『その心配はありません、マスター』
よぎった考えを、<悪食>が否定する。
『覚醒状態の人間の意識を操れるのは、レベル4以上の段階に到達した夢魔だけです。ご存知でしょう? そんな夢魔であれば、被害はこの程度にとどまっていませんよ』
「(……だったな)」
凌ノ井は考えを振り払って、改めて綾見に向き直る。
「
「ああ、うん。そう、聞きたいことな」
煙草の人というのが自分を指している言葉だと気づくのに、しばらくかかった。
「最近、沫倉ちゃんはどんな夢を見るんだ?」
「夢……?」
何を考えているのか、よくわからない表情で、綾見は首を傾げた。
そう、夢だ。これは最終確認のようなものだった。綾見がどのような夢を見ているのか。
ほとんどの夢魔は、夢の中で登場人物の姿に擬態する。初期段階であれば、宿主の見る夢は当初持っていた欲望から推測しやすいもので、その分、擬態した夢魔も見つけやすくなる。どのような夢を見ているのか、本人から聞くことができれば、さらに仕事を片付けやすくなる。
先日の
綾見はすぐに答えた。
「最近は、家でお母さんと一緒にいる夢をよく見るかな」
「そうか……」
ほぼビンゴだ。凌ノ井は懐からタバコを取り出し、口にくわえた。
「煙草の人、病室は禁煙だから」
「あっ、ハイ」
そのまま静かに懐に戻した。
「……一緒にいる夢って言っても、私、写真でしかお母さんの顔知らないけど」
「ああ、知ってる」
「そこまで調べてるんだ。病室に私を押し込めるんだから、普通の人じゃないよね。煙草の人も」
「その、煙草の人、っていうのやめてくれ」
手持無沙汰にライターの蓋をカチカチしながら、凌ノ井は言う。
「俺は凌ノ井鷹哉だ。立派な名前がある」
「ふうん」
綾見の反応は薄い。
「本名?」
「まあな」
そのまま彼女は、こちらをじっと眺めてきた。ハイライトの極端に薄い瞳は、宵闇のように真っ暗だ。
「私と友達になってって言ったら、なってくれる?」
「は?」
「友達は、なるべく多めに持っておけって、お母さんの遺言だったみたいだから」
凌ノ井は、そのままちらりと後ろを見た。看護師は、黙って運び込んだ機材のチェックをしている。
彼が仕事を終えれば、看護師は綾見に対して記憶処理を施すはずだ。夢の中で見たこと、凌ノ井に会ったこと、それを彼女は忘れてしまう。その事実を脳内に深く刻み込んだ上で、彼は答えた。
「ああ、わかったよ」
「じゃあ、なって」
「おう、なったなった」
これで彼女が大人しくなってくれるなら、安いものだ。
「じゃあ、これから施術に入る。目を閉じてじっとしてろ」
「変なことしちゃやだよ」
「こんな手の込んだことやっといて、そんなこたしねーよ」
綾見はそこで初めて、口元をわずかに緩めた。静かに目を閉じベッドの上に横になる。
凌ノ井は看護師に視線を向けた。看護師がうなずき、機材の操作を行う。すると、締め切られた病室の中に、不思議な香りが充満していった。凌ノ井は鼻と口元を押さえる。看護師は専用のマスクをしていた。
特殊な香だ。常習性はないのだが、言ってしまえばドラッグに近い。人間をトランス状態に陥らせるものと、催眠状態に陥らせるものの二種類がある。組織ができる遥か以前から、夢魔を狩るエクソシスト達が使っていた原始的な手法である。やがて綾見は、そのまま眠りに落ちた。
「夢は、母親の夢でほぼ決まりだな」
『はい』
「どうした。気になることでもあるのか?」
『いえ……。変わった少女だな、と思っただけです』
凌ノ井は小さく笑った。
「珍しく意見があったな。俺もそう思う」
これから、彼女の夢の中に侵入する。もっと具体的な手段を言えば、凌ノ井の夢と彼女の夢を接合する。そのために必要なのは、凌ノ井が一種のトランス状態に入ることと、夢魔である<悪食>の力だ。
凌ノ井は椅子の上に改めて座りなおし、綾見を見る。そして目を閉じて、大きく息を吸い込んだ。
心を落ち着かせて、雑念を遠ざける。しばらくもしないうちに、凌ノ井の意識は現実を離れ、ゆっくりとうつろな世界を漂い始めた。
凌ノ井鷹哉の見る夢は、いつも同じだ。いつも同じ、暗く湿った石室。硬いベッド。そして、中央に置かれた大きな時計。ここで彼は、いつも同じ悪夢を見ていた。ベッドわきの小物入れには、彼の好む銘柄の煙草がぎっしりと詰まっている。
凌ノ井は、1本口にくわえ、そして火をつけた。煙を吐き出して、天井を睨む。
「お待ちしておりました。マスター」
しなやかな身体を持つ、白い雌虎が、のっそりと部屋へ入ってくる。
「<悪食>、たまにはもっとこう、色気のある姿はできねぇのか」
「失礼な。この姿も最高に色っぽいとは思いませんか?」
「そりゃあ、そういうのが好きな一部の人間には溜まらんだろうが」
虎の足は意外と太い。身体も大柄だ。豹などとは違って、力強さにあふれている。
凌ノ井がうっかり、犬と猫だったら猫の方が好きだと口を滑らせてから、<悪食>の姿はいつもこれだ。しかも、それは猫じゃなくて虎だと指摘したら、『同じネコ目だし良いじゃありませんか』などとのたまう。冗談ではない。それを言ったら犬だってネコ目だ。
「とにかく、たまには人間の姿になって俺を楽しませろ」
「ケモノだったキャラクターがいきなり人間の姿になっては、視聴者ががっかりするのでは?」
「いねーよ視聴者なんか! おまえを見てるのは俺だけだ! 俺を楽しませろ!」
<悪食>はしばらく考え込んでいたが、すぐに答えた。
「わかりました」
「えっ」
白い虎の姿がどろりと
猫のような切れ長の瞳を持った、やはりしなやかな身体を持つ人間の女である。メリハリの効いた体型を、スーツ姿で覆っていた。髪型がちょっと、猫の耳を思わせる。
凌ノ井は、喜ぶより先に
「ずいぶん物わかりが良いな。沫倉ちゃんの真似か?」
「いえ、こうした方が良いと判断したのです。実は、状況が妙でして」
<悪食>はそのまま歩いていき、そっと壁に手を当てる。滴を落とした水面のように波紋が広がって、外――すなわち、沫倉綾見の夢の世界を映しだした。
本来であれば、家で母親と一緒に
「なんだこれ……。学校か?」
「はい。棺木さんの資料にもありましたが、綾見さんの通う学校です」
大きな校舎と、さほど広くない校庭。渋谷区の真ん中にたてられた、都会らしい高校だ。
確かに綾見は、最近見ている夢について『家で母親と過ごしている』と答えた。それなのに、学校とは。一体どういうことだろうか。
「夢魔の侵食が進行してる……わけじゃないよな」
「はい。綾見さんは健康そのものでした」
「つまり、俺たちのリサーチミスか……。いや、でも、そんなことあるか?」
彼女から、はっきりと『見ている夢』について聞いておきながら?
何かが妙だ。凌ノ井は煙草をくわえたまま、顔をしかめる。
「リサーチミスは間違いないでしょう。私たちは、彼女の欲望を見誤りました」
「……そうだな。『家で母親と過ごす夢』とこの『学校を舞台にした夢』は、同じ欲望に根差している夢だ。今わかるのは、それくらいか」
「彼女の夢にコンタクトを取ります。マスター、準備はどうしますか?」
紫煙をくゆらせつつ、凌ノ井は天井を見やる。
「ひとまずいつもみたく拳銃を出しといてくれ。あとそうだな。高くジャンプできるようにスペックを弄っといて欲しい。足も速くだ」
「わかりました。言葉のセンスはどうしますか?」
「そのままでいい。俺はな。おまえがダサいって言う俺のセンスを気に入ってんの」
「でしょうね」
夢の中であれば、自身の身体能力すら自由自在に操れる。<悪食>が夢のルールを操作し、凌ノ井の望むままに彼の身体を作り変えるたび、部屋の中央に置かれた大きな時計盤の長針が、勢いよく動いた。
あれは夢時計だ。凌ノ井の持つ精神力の象徴でもある。エクソシストによって、発現の仕方は異なるが、彼の場合はクラシックな時計盤だった。
夢魔に命令を下すたび、あるいは、他人の夢の中で行動するたび、精神力はすり減っていく。あの時計の短針が、再び12を指す時が、凌ノ井のリミットだ。簡単に言えば、精神を使い切って凌ノ井の心は死ぬ。廃人になる。宿主を失った<悪食>はどこかへ行く。
精神力の消費量は、現実世界からどれほどかけ離れた改変を引き起こすか、あるいは夢魔にどれだけ気乗りしない行動をさせるかによっても大きく変化する。このリソース管理こそが、エクソシストの活動のキモだ。
「ところで<悪食>、おまえが人間になった途端、ずいぶんと俺のMPが削れたんだが」
精神力リソースのことを、凌ノ井はわかりやすくMPと呼ぶ。マジックポイントかメンタルポイントかは、彼の中でも決まっていない。
白い目で見つめられても、<悪食>の態度は
「私もかなりの抵抗がありましたからね。これでも最大限の譲歩はしたのです」
「おまえこれでMP切れて廃人になったら、化けて出てやるからな」
「廃人になっても化けて出ることってできるんでしょうかね」
緊張感のないやり取りをしながら、<悪食>は再度壁に手をかける。掌から波紋が広がる。
同時に、凌ノ井の持った煙草の火が、空間を焦がすように周囲を塗り替えていった。ふたつの夢は完全に接続され、凌ノ井鷹哉は、沫倉綾見の夢の中へと入り込む。今、凌ノ井の夢は、凌ノ井自身の中に内包されている状態だ。
学校。学校だ。高校なんて何年ぶりだ、と凌ノ井は思った。
校庭にはまばらな人影。いずれも凌ノ井の知らない顔だった。
「ひょっとして、マスター」
「ん?」
「綾見さんの望みとは、母親の遺言を叶えることなのでは?」
なるほど。<悪食>の言葉に、凌ノ井は頷く。
母親の遺言とはつまり、友達をたくさん増やせということだ。それを思えば、学校というシチュエーションも、人がたくさんいるという状況も、まあ頷ける。他人の言いつけや願いを、そのまま自分の望みにしてしまうのは珍しいが、それだけ母親への未練があるということか。
「だとすると、この夢の中にも母親がいて、そいつが夢魔の可能性が高いな」
「はい。綾見さんの母親の顔は覚えていますか?」
「覚えてる。写真のままの恰好でいるだろうな」
校庭にいる生徒たちは、互いにニコニコしながら言葉を交わし合っている。凌ノ井は、なんとなく違和感を覚えながら、後者の中に素早く足を踏み込んだ。
中にはやはり、たくさんの生徒の影がある。これがみんな、綾見の『友達』なのだろうか。みんな、互いにニコニコ顔だ。仲が良さそう、と言えば聞こえは良いのだが。妙だった。
「少し気味が悪いですね」
<悪食>がきっぱりと言う。
「今日はよく意見が合うな」
「それも気味が悪いですね」
「おい」
スーツ姿の<悪食>は、周囲をきょろきょろと見回しながら歩く。いつもは虎の姿を取る彼女が、こんな色香を振りまく姿に変わってしまったので、凌ノ井としてはちょっぴり妙な気分だ。精神力を無駄に消耗するハメになったのは、いただけないが。
リサーチミスによって、夢のルールを把握し切れていない。これ以上無駄な消耗は避けたかった。
「ピンポイントで母親の居場所を検索できるか?」
「大雑把にやるのと、気づかれずにやるの、どちらが良いですか?」
「そりゃあ、気づかれずにだろう」
「では、ごっそり2時間分いただきます」
懐中時計を開くと、長針がぐるっと2回転する。これで残り8時間。体感で10秒ごとに長針が1分ずれるので、実質的には80分だ。2時間=20分のロスで夢魔の居場所を探れるなら、それに越したことはない。何より、学校という舞台は広すぎる。
<悪食>は目を瞑り、片手を掲げていた。掌が触れた空間に波紋が広がっていく。周囲の生徒たち、登場人物たちは、それを気にする様子もなく、仲良さげに会話を続けていた。
「見つかりました。行きましょう」
廊下を駆けだそうとする<悪食>。すると、それまで仲良く会話していた登場人物たちが、すぐさま彼女に声をかけた。
「廊下は走っちゃいけないよ」
「他の人にぶつかると危ないからね」
「あ、はい。すいません」
立ち止まり、ぺこりと頭を下げる<悪食>。凌ノ井はニヤニヤしながらそれを眺めた。
「……なんですか?」
「やーい、怒られてやんの」
「……子供じゃないんですから」
さらりと受け流す<悪食>だが、口調にはどこか拗ねたような色が滲んでいる。
しかし、いきなり注意をしてくるとは思わなかった。この世界ではみんな、規則を守って正しく生きているということか。争いがなく、決まり事を守って過ごす、平和な世界。薄気味の悪さの原因は、そこにあるのかもしれない。
「……ただ、友達を増やす、って夢じゃねぇな」
「はい。友達に、規則を守らせる夢……? でしょうか」
「だとしたら沫倉ちゃん、あの大人しい顔で相当サイコなところがあるな」
まだ解せない。モヤモヤする。凌ノ井は頭を掻きながら、<悪食>のガイドに従って廊下を歩いた。
沫倉綾見は良い子だった。それは間違いない。それに、彼女は現実世界でも、ちゃんと凌ノ井に対して注意をした。ここは禁煙だから、煙草を吸ってはいけないと。それを現実でしっかり言える子が、果たしてこんな欲望を抱くだろうか。
どこかちぐはぐなのだ。単なるリサーチミスではない、ボタンの掛け違いのような気持ち悪さを感じる。
「見つかりました、マスター。沫倉綾見の母親です」
<悪食>の声で、思考から意識を戻す。ひとつの教室の中に、ターゲットはいた。綾見本人の姿は、その周囲には見当たらない。写真で見たまま、綾見によく似た、だが彼女よりは柔らかい雰囲気の女性。しかしあれは夢魔だ。
「ええ、夢魔です。マスター。間違いありません」
ここに綾見がいないのは、むしろ好都合だ。特に邪魔もされずに、仕事を完遂できる。
「しかしマスター、この夢の中のルールを完全に把握し切れていないのが気になります」
「そりゃあそうだが……。かと言って、沫倉ちゃんが出てきたらそれこそ面倒だろ」
ちぐはぐさは感じている。だがそれは、目の前の夢魔を見逃す理由にはならない。
「接触したらすぐに仕掛ける。教室を〝閉じる〟準備をしておけ」
「はい、マスター」
凌ノ井は、引き戸を大きく開けて、部屋の中に入り込む。ターゲットは、怪訝そうな顔をした。
同時に、他の登場人物たちも一斉にこちらを向く。綾見の、仲の良い友人たちのようだった。大柄な少年や、眼鏡をかけたすらりとした少女など、見舞いに来ていた影もある。だが、ターゲットを除く全員が、ニコニコとした笑顔を浮かべていた。
「……さて、夢から
「誰に言ってるんですか」
「言わなきゃ締まらねぇんだ」
言っても締まりませんけどね、と余計な言葉で<悪食>が打ち切る。ゆっくりと近づいていくにつれて、ターゲットは、沫倉綾見の母親は、驚いたように目を見開いた。
「……まさか、ヒュプノスの……!」
「ご名答だ。悪いが沫倉ちゃんが来る前に、あんたを始末させてもらう」
火をつけない煙草を指の間に挟んで、ターゲットに向ける。
ターゲットの表情が、大きくゆがんだ。先ほどまで浮かべていた優しげな笑みが、一瞬で消え去る。
直後、廊下の方から窓ガラスの割れるような音が聞こえた。耳障りな喧噪が湧きだしてくる。凌ノ井は動じなかった。夢魔が注意をそらそうとしているだけだ。言い争うような声が聞こえてくるが、凌ノ井は気にせず、ターゲットに駆け寄った。
<悪食>の力で強化した脚力。おおよそ、通常の人間では反応しえない速度だ。ターゲットの腕をつかみ上げ、<悪食>に次の命令を下そうとした瞬間、先に彼女が声をあげた。
「マスター、その方は夢魔ではありません!」
「なに!?」
「たった今、夢魔ではなくなりました。攻撃を控えてください」
「どういうことだ!」
「夢魔が移動したのです。他の登場人物とすり替わりました」
「あるのかそんなこと!」
「レアケースですが、あります。ひとつの欲望を叶えるために、複数の登場人物が必要になる場合です。おそらく今、夢魔は自分が逃れるために、望みを叶えるためのイベントを発生させました」
夢のルールを利用されたのだ。欲望を叶えるための、イベントの中心人物に姿を変えたのだ。
凌ノ井は廊下の方を見た。先ほど割れたガラスの音、言い争う声。あちらがそのイベントであるのは、間違いない。凌ノ井は、跳ねるように廊下の方へ駆けだした。
「あっ、沫倉さん! いきなり乱暴なことして悪かったな! 娘さんのことは任せとけ、じゃあな!」
「えっ? あ、は、はい……」
困惑した様子で、首を傾げる綾見の母。
「マスター、相手は夢の登場人物ですよ」
「だがまあ、言っといた方が後腐れもないだろうよ」
廊下へと飛び出す、凌ノ井と<悪食>。そこには、言い争う二人の少年の姿があった。
みんなが不気味なほどにニコニコと笑う世界の中で、不思議な光景だ。あのどちらかが夢魔か。隣に視線を送ると、<悪食>が頷いた。
「マスター、この〝イベント〟。綾見さんの望みは、おそらく……」
「ああ、わかってる」
廊下の奥から、一人の少女が姿を見せる。それは2人の予想通り、沫倉綾見だった。
ハイライトの薄い、暗闇のような目。ぼんやりした表情のまま、彼女は争う男子に声をかける。
「2人とも、喧嘩はよくない。やめよう」
その瞬間、男子生徒たちは喧嘩をやめた。割れた窓ガラスが一瞬で修復され、すべての生徒たちににこやかな笑顔が戻った。
「やっぱりサイコじゃないですか」
ぼそっと<悪食>が言った。凌ノ井は額を押さえながら頷いた。
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