布石 3

 それは奇妙な闇だった。真っ暗なわけではない。だが先ほどの薄暗い店内とは全く違う。ねっとりと重く、生ぬるく、けれども冷や汗が体を伝うような不気味な闇。


「――っ!?」


 あたりを恐る恐る見回し、思わず声をあげそうになった祥太郎しょうたろうだったが、かろうじて堪えた。

 店の奥、カウンターの隙間からぬうっと出た青白く細い手は、手招きをするように何度か揺れてから消える。


「ここで来よったか」

「……友里亜ゆりあさん、あ、あれ、何なんですか?」

「いろんな呼び名があるみたいやけどな、うちらは『隙間鬼すきまおに』て呼んどる。気ぃつけんと祥太郎ちゃんも引きずり込まれるで」

「引きずり込まれるって……ど、どこに?」

「『隙間』や」


 友里亜は店内全体に油断なく視線をめぐらせながら言う。


「この世でもあの世でもない、この世界でも異世界でもないとこ。引きずり込まれたが最後、出られへんようになるで」


 色気を感じさせる低くささやくようなその声も、今は背筋をぞっとさせるだけだった。


「ま、祥太郎ちゃんは転移能力者やから、ワンチャンあるかもしれんけどな。何にせよ、やられる前にやるだけや」


 脅かしてしまったことを詫びるように彼女は付け加える。


「ほんまは、ここで遭うはずじゃなかったんやけどな。出るはずのとこに出てけぇへんかったから、次の指示を待っとってて。うちの獲物やから、祥太郎ちゃんのことも巻き込んでしもうて悪かったわ」

「いえ、それは仕方ないですけど……僕たちも一旦ここから出て、対策を立て直すことって出来ないんでしょうか?」

「それは出来へん。そんなことしたら隙間鬼に逃げられてしまうからな。叩いとかんと人に悪さする」


 二人とも自らの『コンダクター』を確認する。通信を試しても、切れている状態だった。


「これ、邪魔されてるってことですよね……?」

「そやね。うかうかしとると逃げられるどころか、うちらが捕まってしまうかもな。店長とお客はん、さっさと逃がしといて良かったわ」


 友里亜は軽く笑い、バッグから煙草のようなものを取り出すと、素早く火をつけた。それから大きく煙を吸い込み、一気に吐き出す。煙はまるで何匹もの蛇のようにうごめき、うねりながら部屋へと拡散していった。


「これで隙間鬼をおびき出すから、あとは祥太郎ちゃんお願いな」

「……はい? 何をですか?」

「何をって、隙間鬼の退治」

「はぁ!? 僕がやるんですか!?」

「基本的にうちはサポート役やし」

「で、でも、退治って、どうしたら」


 やるしかないと分かっていても踏ん切りがつかない。そんな祥太郎の心を読んだかのように、友里亜は付け加えた。


「もし殺すのに抵抗があるとかやったら気にしなくてええで。隙間鬼、死なへんし」

「そうなんですか?」

「そうなんよ。うちらの力じゃ無理みたいでな、『隙間』に追い返すのが精いっぱいやねん。せやけど一回追い返せば、その個体はしばらくか、ずっとかは知らんけど、もう出てけぇへんようになる」

「な、なるほど……じゃあ、思い切りやればいいんですね!」

「そ。ま、でも今のうちに覚悟決めとくのもええ思うで。優しいのはええけど、この仕事で甘いこと言っとると死ぬし」

「はい、肝に銘じておきます……」


 とはいえ、気が楽になったのは確かだ。祥太郎はいつでも動けるように意識を集中した。

 薄闇の中を煙が覆い、視界がより悪くなっていく。そこへ、ゆらゆらと動く影が映った。――と思った直後。


「ギィィッ」


 すぐ目の前に、大きな赤い目と、裂ける口が現れた。


「わぁぁぁっっ!」


 思わず叫んだ。祥太郎は必死の形相で怪異を吹き飛ばす。それはくるりと空中で一回転をし、床へと着地した。


「ギィィッ」


 再び軋むような声を発する。祥太郎の持っている知識の中でその姿のイメージに一番近いのはゴブリンだ。小さく青白い体で、尖った耳。

 隙間鬼は二人を見ると嬉しそうに、その場で何度も跳ねる。


「これが隙間鬼……」

「祥太郎ちゃん、今のうちや! 何でもええからダメージ与え!」

「は、はいっ!」


 祥太郎はうなずき、近くにあったイスを弾丸のように飛ばした。


「ギィィッ!」


 しかし隙間鬼は軽やかに避ける。そのまま壁を蹴ったかと思うと――すぐ隣に出現した。


「わぁっ!」

「このっ!」


 友里亜がすぐさま蹴りを放つ。理沙ほどではないが、サマになった鋭い蹴りだった。しかし隙間鬼はそれも難なくかわして空中で何回転もし、華麗に着地をしてみせる。


「ギィッ! ギィッ! ギィッ!」

「スピードスターか……厄介やな」

「スピードスター?」

「素早さにステ全振りしたみたいな隙間鬼のこと。うちらのこと遅いて馬鹿にしとるで。憎たらし!」


 確かに隙間鬼はやけにご機嫌だ。先ほどまでは嬉しそうに跳ねていただけだったのが、だんだんとダンスのように激しい動きになってきている。

 その隙をつくつもりで弾き飛ばそうとしたり、食器などの小物で次々と攻めてみたりもしたが、とにかく隙間鬼は速かった。目がとらえたと思った次の瞬間にはもう別の場所に移動している。


「くっ、転移してるわけじゃないのにメチャクチャ速い……!」

「祥太郎ちゃん、まずいで。このままやと本戦に入る」

「本戦? ――って何ですか? ちょっと情報量が多すぎて頭が追いつかないんですけど」

「ギギギギギィィィィィィィィィィッ!」


 二人の会話をさえぎるように、隙間鬼が耳障りな声で叫んだ。


「時計……?」


 いつの間にか空中には、小さな半透明の時計が無数に浮かんでいる。ほとんどの文字盤は読めなかったが、その中には良く知るアラビア数字やローマ数字のものもあった。時間はどちらも12時ちょうどを示している。


「ギギィッ!」


 それから長針と短針がぐるぐると回り始めた。しばらくして、それがピタリと止まる。指し示すのは――11時30分。


「今回は30分か……その間に何とかするしかないな。本戦に入ったらもう隙間鬼の領域。時間内に倒されへんかったら、うちらの負けや」


 ◇


「……暇だねぇ」


 エレナがぽつりと言う。その声がくぐもって聞こえるのは、彼女が白い装甲に身を包んでいるからだ。


「暇なのではない。患者がいないのだ。それは素晴らしいことだぞ、燕尾服」


 同様にくぐもった声が聞こえる。ドクターだった。彼は茶とせんべいの乗ったお盆を片手で器用に運び、スチール製の事務机の上にそっと置くと、自らもイスへと腰掛ける。大して広くはない医務室の中、白いプレートアーマーのような装甲が二体並んでいるのは異様ともいえる光景だった。


「ドクター、妙なコードネームで呼ぶのは勘弁してくれたまえ。大体こんな甲冑を着こんでいたら、服なんて見えやしないじゃないか」

「甲冑ではない、白衣だ。今は休憩時間だ。ひとまず茶でも飲もう」


 言って脇腹部分にあるボタンを操作すると、機械音とともにヘルメットが開く。エレナも同じようにしてから長い息を吐いた。


「意外と中は快適だったが、やはり窮屈な気分にはなるな」

「この業務に携わる間だけだから我慢することだ。あの三人のように君も普段と違ったことに挑戦してみたいというから、白衣も急いで用意したんだぞ」

「それには感謝してるよ。ただ業務といってもさ、患者も来ないのにドクターは普段何をしてるんだい?」

「いまは、ボクの研究をしてることがおおいっピよ」


 棒人間が突然やってきて二人の間に割り込み、せんべいを一枚取ってポリポリと食べる。


「確かに君は謎だらけだからね、ボウニンゲンくん。それで研究の結果、何か分かったのかい?」

「全く何も分からん」

「……もしかしたらドクターの仕事内容に関してはあまり聞かない方が良かったかな。私は雇用者側でもないから、マスターや上が納得してるならそれで構わないしね」

「あーでもー、このまえドクターがつくったハクイが、たかーく売れたって言ってたっピよ?」

「それは素晴らしい! でもやっぱり深くは突っ込まないことにするよ。……ところでボウニンゲンくん、君は我が姫たちと一緒に行ったんじゃなかったかな?」

「いかないっピよ?」


 棒人間はまたせんべいをつかむと、輪っかになった顔へと放り込む。


「もうマリーちゃんさんと理沙ちゃんさんには、ボクが教えられるだけのことは教えたんだっピ。ふたりはもうリッパなアイドルだから、あとはヒトリダチ……フタリダチ? するんだっピ」

「なるほど。君も立派な先生ということだね。けれども二人の勇姿を見て褒めてあげるのも、先生の大事な役目なんじゃないかな?」

「うむむ……たしかにそうかもしれないっピ!」

「ということでドクター。私はボウニンゲンくんとともに二人のステージを見に行ってこようと思う。研究のための資料が必要なら、後でレポートでも提出するからさ。……ついでに、ショウタロウくんの様子も見てこようかな」


 言うが早いか、エレナは棒人間の手を取って姿を消す。

 残されたドクターは、エレナが入っていた『白衣』に向かって小さくうなずき、黙って茶をすすった。

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