第十八話 代償と願い
アパートに着いてすぐ、有史は昨日と同じように、適当な服をトウカに渡して風呂に入らせた。互いに疲れ切ってふらふらだったが、池に落ちたのだ。雨に濡れたのとは訳がちがう。さすがに今回は服を乾燥させるだけではなく、洗濯をする必要があった。
トウカが風呂に入っている間、有史はベランダに出て新しいタバコを開ける。ポケットに入っていたものは当然のごとく池の水で濡れてしまったので、すぐに捨てた。少々もったいないことをした気がするが、しょうがない。
からっぽの心を煙で満たしては、全て吐き出す。残るものは何もなくて、そこに空腹が追い打ちをかけた。
部屋の中に戻ると、ちょうどトウカが風呂からあがったところだった。冷房で湯冷めしないよう、しっかりと髪を乾かすように言ってから、自分も手っ取り早くシャワーを済ませる。トウカのためにと浴槽に湯をはってはいたが、自分が浸かる気にはならなかった。ゆっくりと湯に浸かると、悪い方向に思考を働かせてしまいそうだったからだ。
「腹減っただろう。もう昼だし、飯にしようか。朝買ったやつが残ってるんだ」
浴室から戻り、ひとり座っていたトウカに声をかける。こちらを向いたトウカの表情をひと目見て、なにを考えているのかはすぐにわかった。しかし今は食事を優先することにして、玄関に置きっぱなしにしていたコンビニの袋をとりに行く。
今トウカが考えていることに関する答えは、もう少し休んでからにしたほうがいいだろう。
「ほら」
「あ、おにぎり。コロッケパン期待したのに」
「日本人だろう、米も食わないとな」
「コロッケパンがよかった……」
「……しょうがないな」
溜息をついて、有史はキッチンのそばにある戸棚を開ける。そこから今朝の朝食用にと昨晩買ってきてあったコロッケパンを取り出し、電子レンジで軽く温めた。
目を丸くするトウカの様子に、笑いがこみ上げる。
「ひとつしかないんだ、感謝しろよ」
「ユウシさん、そんなにコロッケパンが好きだったんだね」
「以前、誰かさんが横取りしてくれたおかげでな。ちょっとハマった」
「ご、ごめんなさい……?」
温まったコロッケパンを渡して自分はおにぎりの封をきりながら、数日前の出来事を思い返す。あのときは面倒だと思った些細な出来事が、こうして僅かながらも日常に影響されるのだ。
これほどまでに、トウカは周囲に影響を与えることができる。
だから、大丈夫だ。
自分がいなくても、彼女ならきっと、誰かに愛してもらえる。
「ユウシさんに連れて行ってもらった場所、絵日記に書けないのは残念だなぁ」
「宿題か?」
「うん。でも川も海も書けないから、朝顔の観察日記になってる」
「うわ懐かしい」
無意識に食事をゆっくりと進めている自分がいて、それに気づいているのかは分からないが、トウカもいつもよりゆっくりと食べているようだった。聡い子だから、なんとなく察しているのかもしれない。
それでも互いに食事を済ませて、有史がインスタントのコーヒーを、トウカが麦茶を飲み終えた頃に、乾燥まで終わらせた洗濯機の音が響いた。
まるで、時間切れだと告げるように。
「ねえ、ユウシさん。夏休みはまだあるし、また会いに来てもいいかな」
着替えたのち、小さな声でそう切り出したトウカに、有史はそっと微笑んだ。それをちらりと見たトウカの表情が明るくなる。
しかしその表情は、自分の返事によってすぐに崩れてしまった。
「……ごめん」
きっとトウカは、その胸の内に小さな期待を持っていたことだろう。真澄を切り捨て、自分と一緒に帰ってきた有史という存在に。
母親代わりとまではいかないものの、トウカの我儘を許してくれる存在として、今後もそう接してくれるはずだと。
だが、今後自分がそういった存在でいることはできない。
嫌という訳ではなく、無理なのだ。
なぜなら、最初に自分に声をかけたのは、真澄なのだから。
「きっと君は、俺のことを少しずつ忘れていく」
「……え?」
真澄が消える間際、吹き荒れる温かい風のなかで、有史は確かに真澄本人の声を聞いた。
彼女が教えてくれたのは、今後起こるひとつの事。
『透夏ちゃんも幸せになれるように、共有していた私の記憶は全部持っていくね。そしたらきっと、有史のことも忘れていくんだろうけど……でも、これで普通の子に戻れるはずだから』
有史に声をかけた真澄の記憶がなくなってしまえば、有史とトウカが知り合ったきっかけも当然、記憶から消えるのだ。
「すぐにという訳ではないだろうが、徐々に。順当に考えれば、まずはここまでの道のりからって感じにな」
「そんな……嫌だよ、わたし、ユウシさんのこと忘れたくない」
「……トウカ、小さい頃から記憶にあるっていう景色、いまでも思い出せるか?」
「……」
当たり前だと言いたげな顔をしていたトウカの表情は、すぐに愕然としたものに変わる。
以前聞いた話では、鮮明に覚えていると言っていた。トウカの様子から察するに、少なくともおぼろげにはなっているのだろう。
「や、やだよ……」
「いいんだ。それでいいんだよ」
小さく首を横に振るトウカをあやすように、有史はできる限りの優しい声で言葉を紡いだ。
「それが正しいんだ。トウカはこれで、普通の子になれる」
今後、トウカが記憶の混乱に苦しむことはない。これ以上ない結果だと言えるだろう。それに。
「君は良い子だ、俺が言うんだから間違いない。これから、君の我儘を聞いてくれる、君と向き合ってくれる人に出会えるはずだ」
「そんなのわからないよ。ユウシさんは……もう、わたしのことを見てくれないの?」
自分の言葉が足りなかったようで、トウカはいまにも泣き出しそうな顔をしていた。
間違っているわけではないが、違う。そうではない。
根本的なところで勘違いされては、困るのだ。
「生涯で自分を真っ直ぐに見て、愛してくれるのは、ひとりだけじゃないんだ」
有史のことを、真澄だけでなくトウカも慕ってくれたように。
それぞれ形は違えど、自分を受け入れてくれた。
「トウカ。君はこの先、たくさんの人と出会うだろう。その全員が君を好きになることはないと思う。だけど、好きになってくれる人は、必ずいるはずだ」
人の心を二言三言で表せるとは思わない。それでも、どうかわかってもらえるように。彼女の背中を押せるようにと、切に願う。
「それにトウカが俺を忘れても、俺はトウカのことをずっと覚えているから。出会った事実が消えることはない」
そう言うと、トウカは目尻に滲ませた涙を袖で拭いながら、困ったように笑った。
「それはそれで、ユウシさんに酷いことしてるみたい」
「その俺が望んでいることなんだ、気にしなくていいんだよ」
「そっかぁ……うん、わかったよ」
いくら有史が自信を持って言ったことだとしても、未来のことはひとつを除いて不確定でしかない。
確定しているのは、トウカがいずれ有史を忘れてしまうということだけだ。
それなら、信じていたい。彼女の未来が、幸せに溢れていることを。
そんな有史の思いを、トウカはなんとなく理解してくれたようだ。二度と会わないということをわかったうえで、彼女は頷いてくれた。
「そうだ、ユウシさん。最後に、もういっかいデートしよう?」
唐突に、トウカはいいことを思いついたと言わんばかりの笑顔で手を叩いた。
「忘れてしまうのに?」
「ユウシさんは覚えていてくれるんでしょ?」
「そうだな……よし、わかった。どこに行こうか」
苦笑しながら有史が頷くと、トウカは満面の笑みを浮かべて立ち上がる。
そんな彼女から提案されたものは、有史にとって予想外のものだった。
「ゆっくりと変化するもの。探しに行こ!」
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