第十七話 約束を果たしましょう(後)
緑がかって不明瞭な視界のなかで、必死に目を凝らす。真澄はすぐに見つかった。彼女は水中でもなお、笑顔で自分を待ってくれていた。
後を追って飛び込んだ自分を、小さな体で優しく抱きしめてくれる。そっと抱き返して、すぐに浮かんでしまわないように、ゆっくりと肺の中の空気を抜いていく。
少しずつ、焦れそうになるほどの速度で遠ざかっていく水面を眺めて、自分の頬が自然と緩むのがわかった。
なんて幸せな最期だろうか。
この数日間、子供時代の続きを、駆け足で過ごしてきた。
真澄が全てで、真澄との約束が全てで、彼女がいる世界が全てで。
それ以外に、気にかけるものは何もない。
二度と果たせないと思った約束、二度と叶わないと思った願い。それが今、叶うのだ。果たすことができるのだ。
何も、思い残すことはない。
――本当に?
ふと、誰かに問いかけられた気がした。
その声に耳を傾けてみれば、問いかけたのは紛れもない自分自身だった。
――本当に、気にかけるものはないのか? 本当に、思い残すことはないのか?
『おはようございます、ユウシさん!』
頭の中で、すっかり聞き慣れた声が響く。
浮かぶのは、律儀に五分前に公園に来て無邪気に笑う少女だ。
『それで涼しくなったでしょ?』
『わたしとおそろいだね!』
『えー、しょうがないなー』
『今日はね、デートです!』
『もう、そういう意味じゃないのに!』
真澄が表に出ていないと思われるトウカの、歳相応な笑顔。
なぜか、そればかりが浮かぶ。
『あったりまえだよ、挨拶しないと怒られるからねー』
『みて、ピンク色の貝殻があったよ!』
『もー、ユウシさん変なのー』
『……ありがとう!』
そうだ、なぜ忘れていたのか。
昨晩の自分は、なにを思った?
誰のために、何をしようと考えた?
真澄への思いは変わらない。このまま沈んでいけたらどれだけ幸せだろうと思う。けれど。
腕のなかの、この小さな体の持ち主は。こんなところで死なせていいものなのだろうか?
――駄目に決まっているじゃないか。
真夏とはいえ山の中にある池の温度は低く、体温を容赦なく奪っていく。
水面が遠い。腕のなかの少女の体に力はなく、気ばかりが焦る。
それでも必死にもがいて水面を目指した。途中で大量の息を吐いてしまっても、水を飲みかけてしまっても、小さな体を抱える腕は絶対に離さなかった。
やっとの思いで水面から顔を出し、有史自身も咳き込みながら、渾身の力で彼女を引きずり上げた。
水中でぐったりとしていた彼女だったが、放るようにして引き上げたのが幸いしたらしい。仰向けに倒れ込んだ少女は、背中から地面に倒れた衝撃によって、飲み込んでいた水を吐き出して咳をした。
よかった、無事だった。
安堵が全身を支配して、半ば脱力しながら、有史も這うようにして池からあがった。そのまま少女の横に並ぶようにして、仰向けに転がる。
しばらくの間、互いの咳き込む音と荒い呼吸だけが聞こえていた。
木々に縁どられた空が悲しいほど青かった。それがあまりにも眩しくて、目に沁みる。有史はそれを遮るように、右腕で目を覆った。
「有史、なんで……」
「真澄……俺にとって、君が全てだった。それ以外はどうでもよかった」
「それなら……!」
「数日前までは、そう思っていたんだけどなぁ」
この数日間で、きっと自分は変わってしまった。
たとえ声をかけてくれたトウカの中身が真澄だったとしても。トウカ自身が自分と話をした時間も、確かにあったのだ。
「ごめん。トウカを犠牲には、できない」
関わってしまった以上は他人と言うことはできなくて、そんな少女を、自分たちと同じように孤独を恐れた少女を、孤独なまま犠牲にすることは有史にはできなかった。
「真澄とその他大勢に振り分けられていた俺の世界に、トウカという女の子が、ぽつりと現れたんだ」
そして有史は、期待をした。人生なにがあるかわからないということを、幼い少女によって初めて知らされた。
もしかしたらこの先、また自分の世界を変える人と出会うかもしれないということを。
他にも自分を必要としてくれる人と出会うかもしれないということを。
可能性を知り、期待をしてしまったのだ。
「それに昨日、気付いたんだ。本当に自覚したばかりでさ。もっと早く言ってくれたら、迷わず沈んだのにな」
「……そっか」
それきり口を噤んでしまった真澄を見ることもできず、有史はただ返事を待ち続ける。
どこまでも勝手な自分を許してほしいとは思わない。責め続けてくれて構わない。だからどうか、トウカを巻き込むことだけは。
「ねぇ、有史」
「ん?」
「私のこと、好きだった?」
しばらくして口を開いた真澄からの問いに、瞼に乗せた腕を動かしかけて、それでも半ば意地のように、視界を塞いだままにした。
「……ああ、もちろん」
こんなときにまで声が震えてしまう自分に呆れてしまう。
これはきっと、自分の弱さの表れなのだろう。
「好きだったよ。まだ小学生だったけど、あの気持ちに嘘はない」
秘密基地へ行くたびに、今日は来ているだろうかと期待をして。一緒に遊んでいるときに横顔を覗き見ては、胸を高鳴らせた。
幼いなりに、好きだった。大好きだった。
「そして、今も変わらずに好きだ。この気持ちにも、嘘はないって言える」
幼かったあの感情が恋だったのかは、わからない。恋というには、あまりにも未熟な感情だったのかもしれない。
ただ少なくとも、恋に限りなく近い愛が、確かにあった。
「それでも、一緒に死ぬことはできないんだね」
「……ごめん。トウカを連れていくわけには、いかないんだ」
視界を覆う腕をどけることはできない。約束を守ることができないという現実から、自分はいまだに逃げたがっているのだろう。
でも、先程のような過ちを繰り返してはいけない。自分はトウカを帰してやらなければならないのだ。
僅かな沈黙の間、柔らかい風が吹いていた。全身ずぶ濡れになった惨めな自分達を包み込むような、暖かい風だった。
「そっかぁ」溜息まじりの、しかし笑みを含んでいるような声が聞こえた。「ちょっと悔しいけど。それじゃあ、しょうがないかな」
風が、優しさを保ったまま勢いを強めていく。
「私は、命を預けませんかって言っただけだもんね。無理矢理貰うことまでは、できないね」
「それは……」
「昔も今も、私は有史に辛い思いをさせてばかりだね。本当にごめんなさい」
なにか言葉をかけてやりたいのに、こんな時に限って瞼を覆った腕は動かず、言葉は喉に引っかかったかのように出てこない。真澄を拒絶しておいて言えることではないのだろうが、それでも伝えたいことがたくさんある。話したいことがたくさんある。
「待っ……!」
「預かっていた命を、返します。有史、大好きだったよ」
――ありがとう。
刹那、木々に囲まれた場所とは思えないほど強い風が吹き抜ける。そのとき、有史は確かに懐かしい声を聞いた。トウカの体を使っていない、真澄本来の声を。
わかった。ありがとう、真澄。
声には出さなかったけれど、唇だけで言葉を紡いだ。
そして風が収まったかと思うと、次の瞬間には煩いほどの蝉の声が空間を満たしていた。
いつの間に蝉が戻ってきたのかはわからない。先程まで本当に静寂だったのかと疑問に思うほどだった。
真澄はいなくなった。奇跡は二度も起きないだろう。
彼女と会ことは、もう叶わない。今度こそ、永遠に。
腕を、これでもかというほど強く瞼に押し付ける。溢れ出そうになるものに、栓をするように。
行き場を失った熱は、胸の奥からせり上がる。ひくりと喉が震えた。
今なら構わないだろうか。蝉の大音声に隠れるように、静かに涙を流すくらいは許されるのではないか。
そんな有史の思考は、自分ではない他のしゃくりあげる声によって途切れた。
そっと、瞼から腕を離す。暗闇に慣れた目に、夏の日差しが刺さった。
それから目を逸らすように隣へと視線を向けると、少女が泣いていた。
じぶんと同じようにずぶ濡れで、肩を震わせて、顔を覆った両手から次々と涙を流しながら、トウカは泣いていた。
「――トウカ」
「……ゆ、ユウシさんの、ばかー……」
「そうだなぁ、ごめん」
「こわかった……死んじゃうかと、おもった」
「……うん」
有史は倦怠感が残る体に鞭を打って立ちあがり、地面を踏みしめる。そして濡れた前髪をかきあげて、緑と土の香りで満ちた空気を吸い込んだ。
生きている。
「このままじゃ風邪をひきそうだな。帰ろうか」
ここから先は絵本とは違い、知らないことばかりの世界だ。
天使の誘惑を断り、つらいことだらけの世界を生きることを選んだ旅人が、どう生きていくのか。それは誰も知らない。
この先起こることを、自分は知らない。
真澄が消える間際に教えてくれた、たった一つのことを除いては。
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