第三章
第十六話 約束を果たしましょう(前)
何かが欠落しているように見えた世界を補ってくれたのが真澄で、その彼女がいたからこそ、子供の頃の自分が見た景色は、あんなにも輝いていた。
こんなことを願う自分は、トウカの心が壊れているなどと言う資格がないほど、狂っているのだろうと思う。自宅で幻を見るくらいだ、それほど真澄の訃報は衝撃的だった。
ずっと待ち続けていた子に二度と会えないと知ったときの気持ちは、言葉にできないものだった。
だから、可能性があるのなら。夢の中ではなく、浮かんでは消える幻でもなく、魂の断片だけでも本当に会うことができるのなら。願ったって、いいじゃないか。
会いたかった。あのとき、指切りをした小指が、温もりが離れた瞬間から、ずっと。
ずっと、会いたかったのだ。
「――会わせて、ください」
絞り出した声は震えていて、ああ、みっともないなと内心苦笑した。
そうして願ってみたところで、どれだけ待っても絵本のように眼前の水面が光りだすということはない。わかってはいたものの、どこかで期待していた自分がいる。もう少し、もう少しと言い聞かせて待ちつづけるが、それでも変化はなかった。落胆が、溜息となって口から零れた。
トウカを裏切り、真澄にも会えず、自分は何をしているのか。今この情けない手で掴めるのは、力の入らない両膝だけだった。
今から自分は立ち上がって、後ろに立っているトウカと向き合わなければならない。
彼女は今、どんな顔をしているのだろう。愕然としているだろうか、泣いているだろうか。自分で招いた状況でありながら、トウカのそんな顔は見たくないと思ってしまう身勝手さに自嘲の笑みが浮かぶ。最低な人間になったものだ。それすらももう、今更なことではあるのだけれど。
もし、真澄の魂がトウカの中で共存しているということを思いつかなかったら、自分はこの水面に何を願っただろうか。その別の願いなら叶ったのだろうか。いまからでも別の願いをすれば、叶うのだろうか。例えば、真澄の居る場所へ行きたいとか。
そんなことばかりを考えたところでどうにもならず、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。立ち上がろうと、震える手を握りしめてなんとか膝に力を入れようとする。
変化があったのは、そのときだった。背中越しに、少女の声が響く。
「会いたかったよ、有史」
ざあ、と木々が風にざわめいた。先程から変わらず、蝉の声は聞こえない。
突然のことに息が詰まり、喉が震える。夢か、幻か、それでないのなら、何かと聞き間違えたのだろうか。
「そのまま振り返らないで」
思わず振り向いて確認しようとした瞬間、自分の胸の内を見透かされたかのように制されてしまった。心臓が煩く音をたてている。浅い呼吸を繰り返して、どうにかして落ち着こうと努めた。
「……なんで」
「体は透夏ちゃんのままだから。振り向かれちゃうと、ちょっとね」
今は風も収まり、ただ静寂のみが支配している空間。それが自分の鼓動だけで騒がしく感じてしまう。
ずっと待っていた。
焦がれていた。
会いたかった。
「覚えていてくれたんだね。私のことも、約束も」
「当たり前だろう……忘れたり、するもんか」
約束だけを胸に生きてきた。亡くなったと知る前も、知ったあとも、忘れたことなどない。
真澄との日々は、自分の全てだったのだから。
「…真澄」
「うん」
「真澄……!」
「……うん。つらい思いをさせてごめんね、有史」
「会いたかった……っ」
「私もだよ。最期までずっと、会いたかったよ」
たとえ振り向くことができなくても、真澄が同じ気持ちでいてくれたこと、そしてまた会えたという事実。それだけで、もう何もいらないくらいに幸せだと思えた。
それだけ真澄がいない月日は長く、想いはつのるばかりだったのだ。
「私の魂が透夏ちゃんのなかに宿ったのも、透夏ちゃんがあの日公園を通りかかったのも、偶然なんだろうけど……私の名前を呼ぶ有史を見つけて、なんとかしたくて」
背後で雑草を踏みしめる音が近づいてきて、それは有史の真後ろで止まった。
「気がついたら、私の意思で透夏ちゃんが動いてくれていたの。有史が呼んでくれたからだよ、ありがとう」
再び視界が揺れる。トウカの声で、それでも今、後ろにいるのは紛れもなく真澄だった。これは夢ではないのだ。ぼやける視界をそのままに、有史は俯く。格好悪いところを見せたくなくて、しゃくりあげるのだけはなんとか我慢した。
「ねえ、有史。私、体は違うけれど……有史と一緒にいろんな場所へ出かけることができて、有史と一緒に生きられたよね?」
「ああ」
「約束の半分は、守れたよね?」
「ああ……そうだな」
「それなら、私が今こうして出ていられるうちに……もう半分の約束を、果たそうよ」
静寂の空間で、鈴が転がるように綺麗な声が響く。まるで散歩に誘うかのような、楽しそうな声。
「あなたと一緒に、生きられた。だから――私と一緒に、死のう?」
その言葉と共に、背後から再び雑草を踏む音が聞こえて、その音がゆっくりと自分を追い抜いた。
小さな背中が見えたのは一瞬のことだった。けれども、まるでスローモーションのようにゆっくりと映る。
軽い足取りで地面を蹴った足。
重力に倣って落ちる体と、逆らってふわりと舞う黒髪。
そして、その全てが、輝く水飛沫の中へと消えていった。
一瞬遅れて届く、着水音。尾を引くように黒髪が沈んでいく。
それを見た自分に、迷いはなかった。ずっと望んでいたことだ。
絶たれたと思っていた約束を今、果たすことができる。迷う理由などなかった。
きっと、絵本の旅人もこうだったのだろう。真澄に導かれるように動いた自分の足は、驚くほど軽かった。
やっと、叶えることができる。
君のために生きて、死ぬことができたら、どんなにいいだろうかと。
数えきれないほど思った。数えきれないほど願った。
それが、今、やっと。
遺すものなど、なにもいらないだろう。それより早く後を追ってあげたい。
有史は心の底から幸せな気持ちで、水中へと身を預けた。
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