幕間

幕間 透夏

 物心ついたときから、記憶の片隅に存在している景色がある。

 暖かい色。どこまでも優しい色。なのに、思い浮かべる度にどこか切なくて。

 それがどこなのか、いつ行ったのかはなにもわからないけれど、きっと大好きな母との大切な思い出なんだろうなと、信じて疑わなかった。

 だから知らないと言われたとき、とても悲しかったのを覚えている。


 母は、いつも優しかった。頭を撫でてくれた手の温かさが、大好きだった。

 毎日お仕事を頑張る母の手は自分にとって、世界一温かい手だった。

 そのぬくもりを感じられる機会が減ったのは、いつからだろう。以前は話しかける度に、疲れを感じさせない笑顔で振り向いてくれたのに。


「ママ、疲れてるから」

「忙しいから」


 いつしか、母の顔色をうかがうということを覚えた。まるで、見えないテープで口を塞がれているような感覚。

 息苦しさを感じながらも、それでも母に拒絶される苦しみを思うと我慢できた。




 そんなある日、母が久しぶりに、とても優しくなった。初夏の、自分の誕生日のことだった。


「透夏、保育園たのしい? ママにおはなし聞かせてほしいな」


 その日が平日だったかどうかは覚えていないのだが、仕事が休みだった母は柔らかい笑顔でそう言ってジュースを差し出しながら、お絵かきをしていた自分の前に腰をおろした。

 嬉しかった。


 お友達とかけっこしてね、わたし、いちばんにゴールできたんだよ。

 お給食をぜんぶ食べたらね、せんせいが、お皿きれいになったねって、ほめてくれたんだ。

 折り紙もやったよ。でもきれいに折れないの、むずかしいね。

 えっと、えっとね、あやとりもおしえてもらったの。でもね、やりかたわすれちゃったー。またおしえてもらうね、そしたらママにもおしえてあげる!

 あ! あとね、おうだんほどうでは、手をあげましょうって、せんせい言ってた。ママも言ってたよね、わたし、これはちゃんと覚えてるんだよ。


 ずっとずっと話したかったことがあふれて、透夏はジュースを飲むのも忘れ、いろんなことを母に話した。

 母は時折相槌をうちながら楽しそうに聞いてくれていたものだから、透夏は話し終えてからやっと話しつかれたことに気付く。思い出したようにジュースを一気飲みする透夏に、母はそろそろ夕飯の支度をしましょうね、と頭を撫でてくれた。


 透夏が好きなものばかりが並んだ晩ご飯を食べ終えたあとは、母と一緒に誕生日ケーキを作った。とは言っても家にお金はなかったし、まだ幼い透夏が手伝えることはたかが知れているので、お徳用のミニシュークリームをお皿に積み上げて、ホイップクリームやお菓子で飾り付けをした簡単なもの。でもそれはとても楽しくて、美味しかった。はじめてケーキを作ったんだということが誇らしくて、欲張って食べた。

 そして夜は、以前のように一定のリズムで頭を撫でてくれた母が、お話をしてくれた。


「透夏。あなたが生まれた日はね、夏の初めの風が心地良い、とても爽やかな晴れた朝だったの。空が澄んでて綺麗でね、そんな素敵な日にちなんで、透きとおった夏と書いて、透夏と名付けたのよ」


 当時の自分にはあまり理解ができなかったが、ゆっくりと紡がれる言葉と髪を梳く指の心地良さ、そして手のひらの温もりで、透夏は夢心地で聞いていた。

 母は優しく、とても優しく話してくれていたはずだったが、透夏の意識が夢へと旅立つ直前、ごめんねと泣いていた気がした。

 本当かどうかは、数年経った今もわからないのだけれど。




 翌日も、母の仕事は休みのようだった。お出かけしようと母が言って、とても喜んだのを覚えている。

 連れてこられたのは、見知らぬ建物だった。母は知らない人と、昨晩よりももっと難しい話をしていた。知らない言葉が沢山出てきて、何を言っているかはほとんど理解できなかった。ただ、知らない人も母も、ちらちらと自分を見るのが不思議だった。


「透夏。ママはこれから行くところがあるから、すこしここで遊んで待っていてね」


 知らない人との話が終わったあと、おもちゃが沢山ある部屋に連れていかれて、そこで母が言った。いってらっしゃいと手を振った自分に、母が背中を向けて――それが最後に見た母の姿だった。




 最初の頃は、毎晩泣いていた。大好きな母を憎むことはできなかった。そんなことは考えもしなかった。自分が悪い子で、母を疲れさせてしまったのだからと。毎晩心の中で謝りつづけ、泣いた。

 いつしか母の顔もおぼろげになった。なんとなく思い出せる程度で、霞がかっているようだった。それが、何よりも悲しかった。

 施設の人は親切であったが、昔の母のように自分だけを特別に扱ってくれるわけではなかった。他にも自分と似た境遇の子や、自分よりもつらい思いをしただろう子がいるのだから、それも当たり前のことであったが。


 いつしか、自分だけを見てくれる人が現れてくれたら。

 我儘を聞いてくれて、甘やかしてくれて、ほんのひとときだけでも、寂しさを忘れさせてくれる人に出会えたら。

 無理な願いだとわかっていても、期待するだけなら。夏休みに入ったのを利用して、あてのない何かを求めて、ただ自転車を走らせていた。


 そんなある日、公園でうずくまっている男性の側を通りかかった。

 木陰にあるベンチに座っていたので、暑さで気分が悪くなってしまったのだろうかと心配になり、そっと近寄る。そのとき自分の耳に届いた言葉に、なぜか惹きつけられた。


「……ごめん、真澄」


 両腕に顔を埋めている男性の表情はわからないが、どうしても気になってしまった。

 マスミさん。男性が言っていた名前を心の中でつぶやいてみると、なんだか胸がざわついた。男性は自分に気付いていないようで、彼のひとり言は続いてた。

 盗み聞きはよくないと思いながらも、足がその場を離れることはなかった。そのひとり言の全てが、透夏の興味をひいたからだ。


 生きることも、死ぬこともできない、ひと。命を投げ出したい、ひと。

 もしかしたら、この人なら。願いを叶えてくれるかもしれない。


 知らない人について行かないようにと、学校からも施設からもよく言い聞かされていた。

 もちろん躊躇はした。しかし、生きることも死ぬこともできない人が、他人の命に何かするとは思えなかった。誰かにこのことを話したりしたら、きっと危機感がないと怒られるのだろう。でも、大丈夫だと思えたのだ。ほとんど直感のようなものだった。


 ゆっくりと自転車から降りて、ベンチの端に座ってみる。そしてどう話しかけようか逡巡していると、唐突に自分の口から言葉が勝手に滑り出た。


「おにーさん、命を投げ出したいの?」


 とても驚いたのに、その感情が表情に出ることはなく、顔までも自分のものではないと思えるほど勝手に表情をつくる。意識ははっきりとあるのだが、まるで決まっているかのように口と体が動いて、妙な感覚だった。


「……おにーさんのその命、わたしに預けてみませんか?」


 そして気が付くと、男性は自分の口から出ていた提案に了承していた。




 その男性、ユウシさんと会って話すときは、自分の意思で話せることもあれば、たまに無意識に、しかし驚くほど自然と口から勝手に出た内容を離すこともあった。

 不思議だったけれど、ユウシさんが自分の我儘を聞いてくれて、自分の名前を呼んでくれる。それだけで幸せな気分になれた。

 だからきっと、彼は自分を真っ直ぐに見てくれているのだと、自分しか見る人がいないのだと――そう思っていたのに。




 マスミさん。

 その名前を聞いたのは、出会った日以来だった。そして、ユウシさんはずっと、自分のなかにマスミさんの面影を見ていただけなのだと知った。

 今となっては、面影どころか、自分のなかにいるかもしれないマスミさんしか見ていなかった。

 透夏を見てくれる人は、いなかったのだ。




 天使さまの泉に似た池へと祈るユウシさんの背中を呆然と眺める自分のなかで、なにかがざわりと動いた。

 視界が、薄い膜で覆われたように霞む。それでもなんとか目の前の景色を見ることはできていて、意識ははっきりとしていた。

 だから、自分の意思ではなく動いた口から発せられた言葉も、それに対するユウシさんの返答も、そのあと自分が前へと足を踏み出したことも、全てわかっていた。


 そして、その足がユウシさんを追い越して、池へと沈んだことも。

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