第十五話 こわれたぼくらの、(後)

「ふざけんな!」


 何も考えられなくなって、有史はその男子を殴った。

 ここまで怒ったのは初めてだったかもしれない。手加減する余裕などなかった。自分の鼓動と荒い息が、やけにうるさく聞こえた。


「なにすんだよ!」


 その男子に加え、真澄のクラスメイトの男子達が自分に掴みかかった。

 たとえ自分の喧嘩が強かったとしても、年上の何人もの男子を相手にするのはさすがに厳しく、有史はすぐに殴り返され、弾き飛ばされる。

 しかし、敵わないとわかったところで、有史の怒りが収まることはなかった。すぐに立ち上がり、拳を握って地面を蹴る。

 その拳が相手に届くかというところで、突然、相手が消えた。不思議に思い視線をずらすと、泣きながら両腕を突き出した真澄が立っていた。彼女は、自分を殴り、自分が今から殴り返そうとした相手を突き飛ばしたのだ。


 そのことを嬉しく思った直後、周りが異様な静けさに包まれていることに気付く。

 そういえば、自分が殴ろうとした男子はどこに行ったのだろうか。

 真澄が手を突き出した方向を見る。階段と、下の階の廊下が見えて――そこに、その男子が倒れていた。


 一瞬の静寂の後、人混みのどこかから女子の悲鳴が聞こえた。つられるように、周りが騒ぎ出す。いつの間にか人だかりができていたようだ。

 騒ぎを聞きつけて、教師がやってきた。絵本を回していた男子のうちのひとりが、即座に真澄がいきなり突き飛ばしたのだと教師に告げた。名指しされた真澄はびくりと肩を震わせて後退る。


「……ちがう! 俺がやったんだ」

「有史!」

「真澄じゃない、俺がやった。でもいきなりなんかじゃない!」


 真澄を嘘つきだなどと、よく言えたものだ。再び湧き上がる怒りでその男子に掴みかかろうとしたが、教師に押さえつけられてしまい、叶わなかった。


「お前は、悪戯だけじゃ気が済まんのか! 突然殴りかかるなんて何を考えてるんだ!」

「……!」


 大人はやっぱり、矛盾だらけだ。

 大切な子を泣かされたのだ。

 真澄が大切にしていたものを、侮辱されたのだ。

 なんで周りの嘘を信じて、自分の言うことを信じてくれないのだろう。

 自分が――普段から悪戯ばかりしていた、自分が悪いのか。




 幸い、離れて見ていた生徒達からは真澄が突き飛ばしたから落ちたのか、有史が殴ったから落ちたのかは判断がつきにくく、真澄には本当のことを言わないようにと強く言っておいた。彼女は自分を守ろうとしてくれただけで、殴り合いを始めたのは自分なのだ。


 階段から落ちた男子は頭を強く打っていたが、奇跡的に命に別状はなかったそうだ。

 他の生徒の証言もあり、それぞれの親の話し合いの結果、有史の親が治療費と慰謝料を払うことで表面上は解決した。

 しかし、自分の普段の行いによって周囲の信頼など元々なかったところに事件が起きたため、小さなその町でそれ以上過ごすことはできなかった。世間の目を気にする母親なのだから、尚更だ。

 そして、今いる街へと引っ越してきた。二度と真澄に会えなくなるとは知らずに。





「真澄は、七年前に亡くなった。交通事故だったそうだ」


 トウカは俯いて聞いていた。自分の目線では、その表情を窺うことはできない。


「トウカ。君はデートの日、絵本の内容について、旅人が天使のおかげで旅を続けることができた話だと……そう言ったな」


 木々に遮られてはっきりと確認することはできないが、太陽はだいぶ高い位置まで昇っただろう。池の側は比較的涼しくなっているとはいえ、朝に比べれば気温が高くなっているのがよくわかる。

 たくさんの蝉が、自分達の心境など関係なしに喚き散らしていた。


「君は賢い子だから、同じ解釈をした可能性はある。でも、すぐにあの解釈い至るのは、君の年齢では難しいはずだ。何回も読む必要がある。さっきの話を聞く限り、久しぶりに読もうと絵本を探したのなら、頻繁に読んでいた訳ではないのだろう」

「……それは」

「君の話を聞いて、確信した。きっと、施設に絵本がなかったのは……からかわれたわけでもなく、失くしたのでもなく。本当に、なかったんだ。最初から」


 思いもしなかった。昔の自分と真澄の行動が、こんな出来事を引き起こすだなんて。

 きっと誰にも予想できなかっただろう。


「施設の子に、嘘つきと言われたのも。君が、施設の子を階段から突き落としてしまったのも。そんな事実は、なかったんだ。夜が明けないうちにそんな口論をしていること自体、あるはずがない」


 ふいに、周りの蝉が一斉に鳴き止んだ。耳が痛くなるほどの騒音が嘘のように、耳が痛くなるほどの静寂へと変わる。

 そんななか、自分の声がやけに大きく響いた。


「悪い夢だったとは言わない。トウカ、きっと君は、真澄の記憶を中途半端に持っている。結果、君はずっと前から……本当の母親と暮らしていた頃から、その記憶に混乱してきたんだ。夕焼けの景色も、恐らく俺と真澄が見たものだ」


 そして、その中途半端な記憶がよみがえる他、幼い心は悲鳴をあげた。

 何が現実か、何を信じればいいのか、わからなくなったのだろう。


「君の心は、壊れていたんだろうな……記憶の混乱のなかで苦しんで、狂ってしまったんだ。俺と真澄のせいで」


 どこかで、一匹の蝉がジジッと声をあげた。居心地が悪くて飛んで行ったのだろうか、それとも短い生涯を終える最後の一声か。


「……ユウシさん、わたしは、誰なんだろう」


 顔を上げたトウカの頬に、新しい涙が伝っている。そんなに泣いたら体の水分が足りなくなってしまうのではないかと心配になるが、それは口にしなかった。いま泣かせているのは自分なのだ。


「わたしは、どうしたらいいのかな」

「トウカ、ごめん」


 自分の喉も乾いており、掠れた声が出る。暑さのせいだけではないことは、わかりきっていた。


「この話をしたことで、君が追い詰められるだけなのはわかってる。でも……申し訳ないと思う反面、俺はいま、少し嬉しいんだ」


 大人になってもなお、自分は身勝手だ。

 当たり前だ。自分は自ら望んで、心をあの日に置き去りにしたままなのだから。


「トウカはトウカだ。それは変わらないと思う。ただ、これは俺の予想でしかないんだが……生まれ変わりというものを信じるのなら、こういう見方もできると思うんだ。『真澄は上手く生まれ変わることはできなかった』と」


 証拠なんて、何もない。ただ直感を信じたまでのことだ。


「トウカと真澄、ふたつの魂が別物で、それがトウカのひとつしかない体のなかで共存している状態だとしたら。だからこそ、記憶が中途半端にしかよみがえらないとしたら。そして、この仮定が合っているとしたら……俺は、真澄の魂に会えるかもしれない。そう思うんだよ」


 トウカの奥に見える池は、来たときから表情を変えずにそこにある。変わらず絵本に泉であるかのように錯覚させる、静かな池。


「……それなら、俺は天使の泉に願わずにはいられない。真澄に会わせてください、と」


 トウカが目を見開いた。心の中でもう一度謝罪をして、その横を通り抜ける。

 有史は池の淵まで足を進め、ジーンズが湿ることも厭わずに両膝を地面につけた。

 この思いは、なんと名付ければよいのか。目頭が熱くなり視界が揺れ、喉が燃えるように痛むが、深呼吸をしてこみ上げるものを必死に堪える。それでも目を閉じてから出した声は、みっともないくらいに震えていた。


「幻でもなんでも構わない。真澄に、会いたい――会わせて、ください」


 トウカは、こんな自分をどう見ているのだろうか。

 側にいるトウカを見ずに、本当に存在しているのかどうかもわからない、真澄を求める自分を。

 自らが何者なのかすらに疑問を持ち、不安定な地面に立っているトウカに対して、自分は追い打ちをかけている。

 わかっていながら、選択したことだった。


 軽蔑されてでも、それでも。

 有史は、願うことをやめられなかった。

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