第六話 かわらない自分を飲み干して

 一日二日で体力がつくこともなければ、慣れることもない。分かりきっていたことだが、帰宅して座椅子に腰をおろしてしまうと、もう一歩も動きたくないほどの倦怠感が体を支配した。


 それでも日が落ちる前にこれだけはと、カーテンを閉めるために立ち上がる。日没までにまだ余裕はあるが、この一ヶ月は夕日を見る気になれなかった。夕日を見る度に思い出す景色が、いまは辛かったのだ。

 有史は窓ガラス越しに聞こえる僅かな蝉の声さえも遮るかのように、素早くカーテンを閉めた。

 



 薄暗い部屋でひとり座りこむ有史は、それでも思考だけは動き続けていた。

 少しは、自分の選択に意味を見出せただろうか。

 少しは、真澄のために何かできるだろうか。

 そのためには、しっかり睡眠をとっておかないといつか倒れてしまいそうだ。夢のこともあって眠るのは怖いのだが、昨日のようにアルコールの力を借りればなんとかなるだろう。


 そこまで考えて、有史はやっと重い腰をあげて冷蔵庫からのろのろとビールを取り出した。

 座りなおして缶のプルタブに指をかけようとした瞬間、久しぶりに聞く、しかし馴染みのある電子音が耳をかすめる。スマートフォンの初期設定の着信音だ。

 ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出して、そこに表示されていた名前を見た途端、有史は着信拒否をしたい衝動に駆られた。

 面倒なやつから電話がきたものだ。


 目を閉じることでその衝動をなんとか我慢し、ついでに溜息をついてからそっと通話ボタンを押す。

 相手は、元同僚だった。


「……もしもし」

『おー、生きてたか。そりゃ残念』

「おかげさまで。元気そうだな、昭利あきとし


 残念といいながらも、声音に嬉しそうな響きをほんの僅かに含ませた彼は相変わらずだった。口調や声音に本音を潜ませる癖は健在のようで、その癖を知らない人からしたら口と脳みそが別の生き物なのではと思うだろう。


『まあ俺は元気だよ。なんだ、やけに疲れた声してるな』

「遠出してきたからな」

『まじか。辞める前は死にそうな顔してた奴が遠出とか、死に場所でも探してたのかよ』

「……まあ、そんな感じだな」

『へえ、いいねえ。それで、良い場所見つかった?』


 予想はしていたが、やはり彼はこういった世間的にくだらないものを楽しむ性質のようだ。

 そんな彼でも自分にとっては一応友人の部類に入っていて、常々よく関係を保っていられるものだと我ながら感心したりもするのだが、意外なことに彼を嫌っている人間をあまり見たことがない。生真面目な性格の人間は嫌うこともあるだろうが、大半の人間は彼といるときは特に気を遣う必要がないから楽だと受け入れているのだ。


 実際のところ、自分が彼と友人をやっていられたのもそんな理由があったのだろう。それ以外の理由を探すとするならば、同僚でなくなっても今日のように忘れた頃に連絡を寄越してくる、案外マメなところだろうか。


「見つからないな。それどころか、情けないことに生きる理由を見つけてしまったかもしれない」

『おい、がっかりさせるなよ』

「別に見つけたかったわけじゃないんだ」

『だろうな。で、なにがきっかけだったんだ?』

「きっかけ、か……」


 有史は少しだけ回答に詰まってしまった。本音を言うと全てを話してすっきりしたかったのだが、トウカとのことは「秘密」なのだ。秘密は必ず守るというような性格でもないのだが、この歳で他人である小学校低学年の女の子を連れまわしているとなると、世間的に非常によろしくない。


 たとえ本人の意思とはいえ保護者にあたる人間の許可がない状態では、世間がどう見るかは分かりきっていた。

 ここは大変不本意ではあるのだが、少女の言葉を使わせてもらうことにする。


「……命を預けたことかな」

『なんか一気に現実味なくなったな』

「たいしたことじゃない。ただ、大まかに言えばそうなるだけで」

『ふーん、面白そうなことしてるじゃないかと思ったが、そうでもなさそうだ』


 電話越しに缶をあける小気味の良い音が聞こえて、そういえば自分もビールを飲もうとしていたことを思い出す。スマートフォンを耳と肩で挟んでからプルタブを立てれば、缶の開く音が狭い部屋に響いた。

 ある種の爽快感があるこの音が、今の自分にあまりにも似合わない。しかしこの噛み合わない、僅かな違和感のなかにいると、なぜか安心するのだ。そこに酔いが加われば、そのときだけは心が休まるような気がした。


『お前も飲むとこだったのか。……よし、今度飲みに行こう』

「で、すべて話せって?」

『まあ、無理にとは言わないが、まさにその通りだ』

「正直だな」

『嘘ついたってしょうがねえだろ』

「そりゃそーだ。まあ、気が向いたら話してやる」


 あまり気が進むものではないが、二人の成人男性が電話をしながら缶ビールを飲むよりはマシだろう。


――数日前とは、大違いだ。

 そう思い、有史は苦笑する。この半月、買い出しや誰もいない時間帯の公園で時間を潰す以外は、ほとんど部屋に引きこもっていた自分が。

 きっと数日前の自分だったら、昭利の誘いを断っていただろうに。


「都合良い日があれば教えてくれ」

『そうだな、お前はいつでも大丈夫だろうし』

「その通りだな」


 それから二言三言の会話ののち、電話を終える。手に持ったままのビールはぬるくなっていた。それを一気に飲み干すと、缶ビール特有の金属のにおいが強くなっているように感じた。顔をしかめて、新しいビールを冷蔵庫から取り出す。つまみを用意することもなく、再び一気に飲み干す。こめかみにキンとした痛みが走る。

もっと飲みたい気分だったが、ビールはさっきのが最後の一本で、他の酒もいまは切らしていた。




 深く眠ってしまいたかった。夢を見なくて済むくらい、深く。

だから有史は、疲れた体に鞭を打って熱いシャワーを浴びる。日焼けした肌に湯が沁みたが、体が温まったことによって血流がよくなり、そのぶんアルコールがよくまわる。


 歯を磨くときには一本の糸でなんとか意識を繋いでいたが、その意識も布団に入るか入らないかのところでふつりと途絶えた。

 そのおかげか、それとも偶然か。その晩、有史は夢を見ないまま朝を迎えた。

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