第七話 積み重ねた無意識
猛暑のなか、長蛇の列。家を出る前に見たニュースでは午前中から海水浴場の人の多さについて放送されており、今日も多くの利用客で賑わうことでしょうだとか言っていたのだが。
この人の多さ、昨日海水浴場にいた人間が丸ごと移動してきたというと大袈裟かもしれないが、そう思ってしまうほどの賑わいだ。
有史とトウカは、水族館の入館チケット売り場に並んでいた。
「昨日海に行ったのに、今日水族館か」
「だって昨日は魚を見たわけじゃないもん、それにユウシさん、良いよって言ってくれた」
「いや、いいけどさ」
水族館に行きたいと言われたときに思ったことといえば、水が好きって言っているだけに「やっぱりな」という程度だった。本人は今までよりも金銭面で負担がかかることにためらいを感じていたようだが、それに関しては全く気にしていない。
「海に行ったら、どんな魚があのなかに住んでいるんだろうって、気になるでしょ?」
「あー……」
その心理が自分に当てはまるとはいえないが、なるほど。もしかしたら、いま周りにいる人間の大半は、本当に昨日海に行っていたのかもしれない。
そんな会話をしている間に進めるのはせいぜい数メートルほどのものだが、この暑さから気を紛らわすことができるのなら、なんでもよかった。
館内はきっと涼しいだろう、それまでは適当な会話をしながら耐えるしかない。
「ユウシさんは、どんな魚がすき?」
「美味いやつ」
「もう、そういう意味じゃないのに!」
いま自分たちは、周りから仲のいい親戚かなにかのように見えているのだろうか。気を紛らわすためだけの会話をしながら、有史は頭の片隅でそんなことを考えていた。
そう見えなければならないのだから、赤の他人同士だと思われても困るのだけれど。
チケットを購入してゲートを通ると、外に逃げようとする冷房のひんやりとした風とすれ違う。係員が自分たちの手の甲に透明のスタンプを押すと、インクが乾くまでの僅かな時間だけ心地よい冷たさを感じることができた。
「このスタンプ、見えないよ」
「ブラックライトで光るんだよ。ほら、こっち来てごらん」
通路の中央は普通の照明があるため分かりにくいが、一部ブラックライトを使われた場所もある。そこへトウカと共に移動した。
「あ、ほんとだ! 見えた!」
ぼんやりと手の甲で光るイルカのスタンプを見て喜ぶトウカに、今は洗ったら消えることは言わないほうがいいだろうと思いながら、有史は館内の案内図を広げる。時間は有限なのだ。
通るべきルートを頭の中で作成していると、ある文字に目がいった。
【大人気、イルカショー! その日のスケジュールは館内にある看板を見てください】
視線を巡らす。本日のイルカショーと書かれたその看板は、容易に見つけることができた。
「イルカショー見たい?」
「見たい!」
「じゃあ、午後最初のショーを見てから帰るようにしよう。時間ないから行くぞ」
館内はいくつかのエリアに分かれているようで、それぞれ日本の海や海外の海などテーマが決められていた。
各エリアを繋ぐ渡り廊下には世界中の漁の歴史について書かれたコーナーや浅瀬の生き物とのふれあいコーナーが設けられていて、ふれあいコーナーには子供がはしゃぎながら集まっている。トウカもそれに興味をひかれたらしく、毒を持たないイソギンチャクやヒトデをつついていた。
トウカは綺麗な色の魚や面白い顔の魚を見つける度に、水槽の横にある説明を食い入るように読んでは嬉しそうな笑顔を見せる。
しかし、館内一の大水槽の前を眺めているとき、その表情がふいに曇った。
「ねえ、ユウシさん。海って綺麗だね」
「そうだな」
「青くてなんだか落ち着くし、その青い海のなかにいろんな色の魚がいるのってすごいっておもう」
「人間は青を見ると落ち着くらしいな。命が誕生した場所だからっていう解釈は嫌いじゃない」
「こんな綺麗なとこで生活できたらすてきだとおもう。でも、でもね」
「ん?」
「海のなかからだと、空の色が変わる様子は見れないね」
有史は、トウカの言葉の意味を理解しきれず、首をかしげる。空の色が見れないということが、どうしたのだろうか。
「海の生き物たちは、夕焼けが見られないのかな」
夕焼け。その単語ひとつで、有史の心は容易く揺れた。
「なんで、夕焼けなんだ?」
「あのね、わたし……」
少しの間を置いて、トウカは首を横に振る。まるで、それを言うことは悪いことで、叱られる前に己を恥じるような。
「わたし、夕焼けも好きだからね! 見れないのは残念だなーって」
「……そうか」
なにも深く考える必要はない。子供はすきなもので溢れていて、きっとトウカも水や夕焼け以外に好きなものはたくさんあるはずで、数ある好きなもののなかから、一部を自分に教えてくれただけで。
きっと、海の中で好きなものが制限されることが残念だと言っているだけだ。
だって子供というのは、たくさんの「好き」を見つめて、その中に夢を描いて生きるものなのだから。
例外があること、自分がその例外だったことに気付かないまま、有史はそう思い込む。
トウカはすこし夢見がちな普通の女の子だと、なにも知らずに決めつけるだなんて、大人の愚かな考えでしかないというのに。
だから有史は気付かなかった。出会ったばかりで全てに気付くのは無理かもしれないが、それでも少しはトウカを知ろうとするべきだった。
水槽で揺らめく青い光に照らされた、その幼い表情が隠している彼女の心を。
しかし彼女が一瞬見せた憂いの表情は、数秒後には影すら見せなくなった。そのことに安堵してしまった有史は、そうして「知らないままでいる」という罪を無意識に重ねることとなった。
「ユウシさん、サメって下から見るとちょっと可愛いね」
「あっちに変な形のサメいるな」
「わ、なにあれ。えっと……アカシュモクザメ、だって」
「ハンマーヘッド・シャークとも呼ばれるって、そのまんまだな」
「名前ついてるみたいだね、カナヅチくん」
「魚にその名前ひでぇな……」
フードコートで昼食を済ませた有史たちがイルカショーの会場に着いたのは、ショーの開始時間ギリギリだった。
すでにほとんどの席は埋まっていて、空いているのはイルカプールから離れた席だけ。プールを挟んで反対側には大画面が設置されており、遠い席の客でもイルカの表情がわかるようになっているが、いまいち迫力に欠けるかもしれない。その大画面では、いまはイルカやシャチの生態についての映像が音声解説と共に流れていた。
屋外ではあるが、水の近くであることと屋根があるおかげで、暑さは気にならない。一度席を離れて飲み物を買って戻ったころに、ちょうどショーが始まった。
有史はほんの少しだけ、いいことを思いつく。それは先日までの自分なら思いついたとしても絶対に実行しないだろうことで、しかしその内容はごく簡単なものだった。
これは、そう、ちょっとしたお礼としよう。
ステージに現れたイルカ調教師が簡単な挨拶ののちに一礼し、素早く手を挙げる。途端にプールの中を複数の影が走った。
「トウカ、さっきの大水槽で君が言っていたことだけど」
離れた位置からでも、それはよく見えた。
イラストのイメージとは違って実際は筋肉質なイルカの体が、プール中央に吊り下げられたボールに向かって力強く飛び上がる。
客席全体が拍手と歓声に沸いた。
「海は夕焼けが見えないと言っていたけれど、イルカみたいに飛び上がることができる生き物なら、見ることができるな」
「……うん! 好きなこと独り占めできるイルカってすごいね!」
「本当だな」
できるだけトウカに振り回されないようにと考えていたはずの自分が、彼女を喜ばせようだなんて、自分でも驚いているのだけれど。
夢を見ずに済んで今朝の寝覚めがよかったのは、もしかしたら昨日の海で彼女に励まされたからかもしれない。もしそうなら、これはほんのお礼ということにしておこう。
次のジャンプを成功させたイルカへ大きな拍手をする彼女を横目に、有史は小さく笑みを浮かべた。
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